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復興と再生 -東日本大震災の例を中心に-

ドキュメント内 校歌をめぐる表象文化研究 (ページ 153-200)

第1節 はじめに

2011年3月11日14時46分に東北地方を震源としたマグニチュード9.0の大地震が発 生した。地震直後、最大潮位21.1メートルという巨大津波は太平洋沿岸地域の建物や人々 に甚大な被害をもたらした。その津波の影響は福島県にある東京電力福島第一原子力発電 所にも多大な影響を与え、今もなお多くの人々が避難生活を余儀なくされている。この日 を境に私たちの価値観は変化した。煌々としていた街の明かりは無くなり、各自各々の生 活様式を見直し、人と人とのつながりを見直した人々は多いのではないだろうか。夏期に は電力の消費状況が電光掲示板に表示されるようになった。個人から集団へ帰属意識の変 化の一端は学校で歌われる校歌からも読み解くことができる。

本章では震災直後から現在までおよそ 2 年半、主に東北地方を中心とする児童・生徒等 の被害状況、校歌が私達日本人に与える精神的影響について考察してみたい。

第2節 震災が与えた児童・生徒等の被害状況

地震による死亡者はおよそ 2 万人であり、多くの人々は津波による被害者であった。そ のうち園児・児童・生徒・学生の死亡者数が 621 人で中でも宮城県の石巻市立大川小学校 では全校生徒108人の内、74人が津波の被害で死亡または現在も行方不明となっている。

園児 児童 生徒 学生 教職員 計

岩手県 10 17 63 11 9 110 23

宮城県 70 167 158 41 24 460 41

福島県 4 24 50 6 3 87 10

東京都 0 0 0 0 2 2 0

計 84 208 271 58 38 659 74

行方不明

都県 死亡

表15 東日本大震災による死者・行方不明社数(文部科学省,「東日本大震災による被害情報 について(第208報)」,平成24年9月14日,p.4に基づき論者作成)

また震災以後、東北地方の児童数は減少傾向にある。津波による家屋・学校の倒壊、原 発による放射能汚染等、様々な理由で以前通っていた学校で学んでいない子供たちがいる のである。以下に読売新聞が行った調査「県内沿岸12市町村の園児児童生徒在籍数の推移」

215のデータに基づき論者作成したデータを記す。

215 読売新聞,2013年3月17日,朝刊35面

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読売新聞の発表によると、2010年から2012年にかけて全体で3203人(8.66%)の園児・

児童・生徒が減少したということである。これから先も児童・生徒数の増加は見込めない という考えから学校の統廃合も進んでいるということである。216

第3節 震災直後に歌われた校歌

216 沿岸部の統廃合の状況は、朝日新聞,2013年3月20日,朝刊29面に詳しく記され ている。それらによると、宮古市では愛宕小学校が2012年4月から宮古小学校と鍬 ケ崎小学校に分割、田老第一中学校と田老第二中学校は2011年4月から田老第一中 学校に統合された。

大槌町は大槌小学校と大槌北小学校と安渡小学校と赤浜小学校が2013年4月から大 槌小学校に統合された。

大船渡市では越喜来小学校と崎浜小学校と甫嶺小学校が2012年4月から越喜来小学

校に統合された。

陸前高田市は気仙小学校と長部小学校が2013年4月から気仙小学校に統合、広田中

学校と小友中学校と米崎中学校は2013年4月から高田東中学校に新設、矢作中学校 と第一中学校は2011年4月から第一中学校に統合、矢作小学校と下矢作中学校と生 出小学校は2011年4月から統合されたということである。

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このような甚大な被害をもたらした地震の直後、全ての交通・公共手段が途絶えた暗闇 の中で校歌を口ずさんでいた児童らがいた。茨城大学教育学部付属小学校ではその悲惨な 状況を、「普通教室十三室、図工室などの特別教室四室を建物の外壁だけを残して、天井を ふくむ内装等、そして教室にあるものすべてを無残な状況にしました。」217と記している。

その寄稿に掲載されている地震直後の写真は、教室の原形を留めない状況が写されている。

教室から避難した子どもたちは運動場にあつまり、地震への恐怖と寒さにふるえ ていました。そんななか、じわじわ広がっていったのが子どもたちの歌声の輪でし た。だれともなしに「水戸の城あと 風清く」という歌詞ではじまる校歌がうたわ れると、泣きながらも歌に加わる子どもたち。うたい終わってもまた繰り返す全員。

「次は何を歌おうか」という言葉がやりとりされ、〈小ぎつね〉〈かたつむり〉〈ふる さと〉など、子どもたちがうたう歌声が、暗くなるまで校庭で響きました。(略) 今 この寄稿を書きながら思い出すことは、リズムの激しい、いわゆる「はやりの商業 音楽」がうたわれた記憶がないことです。やはりあの状況では、そういった歌は心 を慰めないのでしょうか。興味深い問題として、研究する価値がありそうです。218 小さな子供たちが生死も危うい極限状況の中、肩を寄せ合って校歌や唱歌を歌う。寒空 の校庭で保護者との再会も思うようにいかない、寒さや寂しさを紛らわすかのように歌い 続ける様子が思い出される。そのような状況の中で、子供たちは普段から慣れ親しんでい る流行歌よりも入学した時から授業で歌ってきた、校歌や唱歌を歌い続けていた。219以下 にその歌詞を記す。

茨城大学教育学部付属小学校 1 みとのしろあと かぜきよく ことりのもりは たのしいな ひかりあふれる きょうしつで きょうもげんきで まなぼうよ かおりゆたかな ばらのはな ばらのしるしに あつまった

217 田中健次(2011)「再考「歌」のもつ力、そしてその歌をうたいつぐために-だれも がうたった「校歌」を例に-」,『わらべ館 童謡・唱歌研究情報誌「音夢」』,第6号,

鳥取童謡・おもちゃ館,p2

218 同上,p4

219 朝日新聞,朝刊,38面,2013年5月23日「竜巻の恐怖、歌で耐えた」と題された記 事によると、2013年20日午後にオクラホマシティーで発生した竜巻は約2,400戸を 破壊する天災となった。竜巻が襲ってくる中、ブライアーウッド小学校の児童らは教 師らと歌を歌いながら過ぎ去るのを待っていた。「怖かったけど、先生がみんなに歌 を歌わせて、気持ちを紛らわせてくれた」と児童がコメントしている。災害時の不安 定な精神状況の中で歌を歌うということは安定をもたらすということで、これは筑波 大学教育学部付属小学校の事例と同じである。

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みんなのいばらぎふぞくしょう

2 なかのながれは ゆったりと かがやくくもを うつしてる こころとからだ たくましく まことのみちを すすもうよ かおりゆたかな ばらのはな ばらのしるしに あつまった みんなのいばらぎふぞくしょう

3 うんどうじょうの おおいちょう はるにはみどり あきはきに こせいをのばし たすけあい みなはらからだ なかよしだ かおりゆたかな ばらのはな ばらのしるしに あつまった みんなのいばらぎふぞくしょう

作詞 石森延男 作曲 入野義朗

第4節 震災以後の校歌 -田老第一中学校の例を中心に-

震災以降、校歌に関する記事がいくつかある。朝日新聞2011年5月18日の朝刊に「学 びと震災」のコーナーで「生きる力 試練からつかむ 岩手・宮古市の小中 新たな挑戦」

220という記事で震災をどのように教育に取り入れているか取材している。その中で、

宮古市市内でも被害が大きかった田老地区。明治、昭和と何度も大津波に襲われ、

高さ 10 メートルの防波堤も造られた。田老第一中学校の校歌にはこんな一節がある。

「防波堤を 仰ぎみよ 試練の津波 幾たびぞ 乗り越えたてし わが郷土 父祖の 偉業や 跡つがん」校舎は1階が浸水し、使えない。近くの田老第一小の3階と2階 の一部を使い、新学期が始まった。(略)在校生代表の村井旬さんは「普通のことが普 通でなくなり、普通でないことが普通になりました。津波を忘れてもいけないし、ひ きずってもいけない。校歌には私たちの進むべき道が示されている」と新入生に語り かけた。221

220 朝日新聞,朝刊,33面,2011年5月18日,朝日新聞社

221 同上

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田老地区は明治29年6月15日に「明治三陸地震」、昭和8年3月3日にも「昭和三陸地 震」がありそれ高い津波に襲われ多くの人々が命を落とした。これらの地震を教訓に防波 堤も増設されていった。222

以下に歌詞の引用と楽譜を添付する。

宮古市立田老第一中学校 一 かもめ 群れ泣き 清新の 波の音すみて 朝明くる 田老の湾の 輝けば 学びの窓よ 色映ゆる

二 山王岩の そのごとく ゆるがぬ理想 厳として えぞ浜ゆりの 美しく 徳光花と 咲きぬべし

三 防波堤を 仰ぎみよ 試練の津波 幾たびぞ 乗り越えたてし わが郷土 祖父の偉業や 跡つがん

四 学びの庭は 天恵の 太平洋を まのあたり うしろに高き 山の幸 見よ文化の 基なる 田老第一中学校

作詞 駒井雅二 作曲 千葉了道

222 第一防波堤 長さ→1,350m 工期→昭和9年~32年度 第二防波堤 長さ→582m 工期→昭和37年~40年度

第三防波堤 長さ→501m 工期→昭和48年~53年度

ドキュメント内 校歌をめぐる表象文化研究 (ページ 153-200)

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