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校歌をめぐる表象文化研究

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平成 25 年度 学位請求論文

校歌をめぐる表象文化研究

~近代国家成立における校歌の制定過程と現代の諸状況をてがかりに~

日本大学大学院芸術学研究科 博士後期課程芸術専攻

髙嶋有里子

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目次

凡例 ・・・・・p.6 はじめに ・・・・・p.7 本研究の動機

本研究の意義 本論文の構成

第1章 日本における校歌の成立と歴史 ・・・・・p.11 第1節 校歌の発生起源

1-1-1)東京女子師範学校“みがかずば”

1-1-2)儀式用唱歌 1-1-3)唱歌 1-1-4)軍歌 1-1-5)まとめ

第2節 「校歌」の始まり -辞典・書物・新聞記事- ・・・・・p.22 1-2-1)「校歌」の始まり -辞典-

1-2-2)「校歌」の始まり -書物-

1-2-3)「校歌」の始まり -新聞記事-

第3節 校歌調とはなにか ・・・・・p.24 1-3-1)校歌の価値観の変容

1-3-2)作詞者・作曲者の思い

第2章 時代ごとの校歌・教育概観 ・・・・・p.28 第1節 明治期 近代教育の成立と校歌

2-1-1)時代背景

2-1-2)明治期の音楽教育

2-1-3)明治期における校歌の歴史 2-1-4)明治期のまとめ

第2節 大正期 自由主義教育と校歌 ・・・・・p.30 2-2-1)時代背景

2-2-2)大正期の音楽教育

2-2-3)大正期における校歌の歴史 2-2-4)大正期のまとめ

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第3節 昭和前期 皇国主義体制と校歌 ・・・・・p.34 2-3-1)時代背景

2-3-2)昭和前期の音楽教育

2-3-3)昭和前期における校歌の歴史 2-3-4)昭和前期のまとめ

第4節 昭和後期 民主主義と校歌 ・・・・・p.38 2-4-1)時代背景

2-4-2)昭和後期の音楽教育

2-4-3)昭和後期における校歌の歴史 2-4-3-①)様々な校歌の取り組み 2-4-3-②)新たな校歌

2-4-4)昭和後期のまとめ

第5節 まとめ ・・・・・p.45

第3章 女子中等教育の校歌の成立と変遷 ・・・・・p.47 第1節 調査・分析方法

3-1-1)調査対象校の選定について 3-1-2)分析方法について

第2節 明治期 ・・・・・p.48 3-2-1)明治期における女子中等学校の教育環境

3-2-2)明治期キリスト教主義女学校の校歌分析 ・・・・・p.51 3-2-2-①)共立女学校(現 横浜共立学園)

3-2-2-②)捜真女学院 3-2-2-③)雙葉学園 3-2-2-④)女子学院

3-2-2-⑤)青山女学院(現 青山学院)

3-2-2-⑥)立教女学院

3-2-3)明治期における女学校の校歌分析 ・・・・・p.63 3-2-3-①)跡見女学校(現 跡見学園)

3-2-3-②)三輪田学園

3-2-4)明治期における府立の女学校の校歌分析 ・・・・・p.69 3-2-4-①)東京府立第二高等女学校(東京都立竹早高等学校)

3-2-4-②)東京府立第三高等女学校(東京都立駒場高校)

3-2-5)まとめ ・・・・・p.77 第3節 大正期 ・・・・・p.80 3-3-1)大正期における女子中等学校の教育環境

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3-3-2)大正期キリスト教主義女学校の校歌分析 ・・・・・p.83 3-3-2-①)頌栄女学校 (現 頌栄女子学院)

3-3-2-②)横浜英和女学校 (現 横浜英和学院)

3-3-3)大正期における女学校の校歌分析 ・・・・・p.89 3-3-3-①)上野高等女学校(現 上野学園)

3-3-3-②)東京家政女学校 (現 豊島岡女子学園)

3-3-3-③)文華高等女学校(現 十文字学院)

3-3-4)大正期における都立高等女学校の校歌分析 ・・・・・p.94 3-3-4-①)東京府立第六高等女学校(現 東京都立三田高等学校)

3-3-5)まとめ ・・・・・p.96 第4節 昭和前期 ・・・・・p.97 3-4-1)昭和前期における女子中等学校の教育環境

3-4-2)昭和前期のキリスト教主義女学校の校歌分析 ・・・・・p.98 3-4-2-①)東洋英和女学校(現 東洋英和女学院)

3-4-2-②)恵泉女学園

3-4-3)昭和前期の高等女学校の校歌分析 ・・・・・p.103 3-4-3-①)青蘭高等女学校(現 青稜中学・高等学校)

3-4-3-②)立川女学校(現 立川女子高等学校)

3-4-4)昭和前期における府立・市立の高等女学校の校歌分析 ・・・・・p.107 3-4-4-①)東京府立第四高等女学校(現 東京都立南多摩高等学校)

3-4-4-②)東京市立目黒高等女学校(現 都立目黒高等学校)

3-4-4-③)東京府立第十高等女学校(現 東京都立豊島高等学校)

3-4-5)まとめ ・・・・・p.114 第5節 昭和後期 ・・・・・p.117 3-5-1)昭和後期における女子中等学校の教育環境

3-5-2)昭和後期のキリスト教女子中等教育の校歌分析 ・・・・・p.118 3-5-2-①)カリタス学園

3-5-2-②)光塩女子学園

3-5-3)昭和後期の女子学校の校歌分析 ・・・・・p.121 3-5-3-①)青蘭学院中学校・高等学校(現 青稜中学校・高等学校)

3-5-3-②)中延学園(現 朋優学院高等学校)

3-5-4)昭和後期における県立の女学校の校歌分析 ・・・・・p.125 3-5-4-①)栃木県立宇都宮松原高等学校(現 栃木県立宇都宮中央女子高等学校)

3-5-4-②)埼玉県立松山女子高等学校

3-5-5)まとめ ・・・・・p.129

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第4章 教材としての校歌

-東京都私立和洋九段女子中学校・高等学校を例として- ・・・・・p.130 第1節 はじめに

第2節 研究対象校(和洋九段校)について 第3節 校歌について

第4節 ある日の授業

4-4-1)2012年6月27日 4-4-2)2012年12月6日 4-4-3)2012年12月8日 第5節 校歌に含まれる音楽用語 第6節 おわりに

第5章 校歌の制定背景

-東京都練馬区光が丘地区小学校統合における校歌制定までの流れ- ・・p.142 第1節 問題の所在

第2節 研究の目的と方法 第3節 校歌の予算 第4節 校歌制定の流れ 第5節 結果

第6節 まとめ

第6章 復興と再生 -東日本大震災における校歌の役割- ・・・・・p.152 第1節 はじめに

第2節 東日本大震災の被害状況 第3節 震災直後

第4節 震災以後 第5節 校歌の持つ力

6-5-1)陸前高田市立高田東中学校 6-5-2)東松島市立鳴瀬桜華小学校 6-5-3)鳴瀬未来中学校

第6節 おわりに

結論 ・・・・・p.166 第1節 日本における校歌の成立と歴史

第2節 時代ごとの教育概観

第3節 女子中等教育の校歌の成立と変遷

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5 第4節 教材としての校歌

第5節 校歌の制定背景 第6節 復興と再生 第7節 まとめ

付論 下總皖一の校歌-資料の統計分析による下總皖一校歌研究- ・・・・・p.172 第1章 作曲家「下總皖一」と校歌

第1節 下總皖一の生涯

第2節 下總皖一作曲の校歌について 第2章 下總皖一の校歌について

第1節 調査方法 第2節 分析結果 2-2-1) 学校 2-2-2) 調子 2-2-3) 拍子 2-2-4) 小節数

2-2-5) 曲態 2-2-6) 音域

2-2-7) 前奏の小節数 第3節 結論

第3章 下總皖一略年譜

練馬区光が丘地区統合準備会で話し合われた校歌の要点記録 ・・・・・p.195 参考文献・資料・新聞・サイト ・・・・・p.227

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≪凡例≫

・発令された法規名は〈 〉で示す。

・図書名は『 』で示す。

・曲名は《 》で示す。

・儀式・式典で校歌を歌うことを指示するとき、「校歌斉唱」と言う場合が多い。『現代教 養百科事典11』(暁教育図書 1968(昭和43)年1月)では、

「斉唱」…「一つの旋律を同じ高さ、ないしはオクターブ上または下で、多人数が歌 唱する形態。ハーモニーのないユニゾンである点で、厳密には合唱と区別している。た だし、合唱曲の一部分がユニゾン(斉唱)になることは往々にしてあり、独特の効果を あげることができる(略)」であり、それに対する言葉で「合唱」がある。

「合唱」…「多人数でうたわれる演奏形態の総称である。普通、二つ以上の声部を、

それぞれ複数(普通、四人以上)の歌唱者によって演奏する場合をいい、多人数であっ ても単旋律をユニゾンでうたう斉唱とは区別している。(略)」と表記している。

多くの学校では斉唱(単旋律、ユニゾン)で歌うことが慣例になっていると思われる が、実際の楽譜には合唱(複旋律、ハーモニー)で書かれていることがある。今回の研 究は明治期から現代までの校歌の歴史的変遷をまとめる。校歌が合唱譜であった場合、

実際に合唱で歌われているのか、また、斉唱で歌われているのか確認をとることが時代 を遡ることほど困難になる。旋律分析の共通性を律するために合唱譜であっても主旋律 を斉唱と考え言葉・分析の統一に用いる。

・キリスト教はカトリック、プロテスタント、その他細部に分かれるので、総称して「キ リスト教主義」と統一し、用いる。

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はじめに

本研究の動機

日本の国公私立に所属する多くの人々(園児・児童・生徒・教職員)が、入学式、始業 式、運動会などの各式典で“校歌斉唱”の号令のもとに歌っている。その歌詞は学校周辺 の自然環境であったり、建学の精神であったり、旋律の形式に於いては、4 分の 4 拍子で 16 小節、付点四分音符+八分音符+四分音符+四分音符が多いのではないだろうか。あり きたりな歌詞や旋律であることから“単調でつまらない”と批評されがちである。

しかし、校歌は校旗・校章と同じ、学校を象徴するものである。とりわけ校歌は学校を 卒業しても、同窓会や校歌祭(例 東京校歌祭、かながわ校歌祭)で愛唱する機会はある し、そのような機会がなくとも何気なく口ずさむこともあるのではないだろうか。このよ うに、校歌は各学校に制定されていて、私たちの記憶に刻まれていて当たり前の状況に疑 問がわいてきた。

校歌は明治30年頃から多くの学校で制定されはじめた。おそらく明治期には明治期、大 正期には大正期の旋律・歌詞内容であったのではないか、その時代の価値観を校歌から読 み解くことで、見えてくるものがあるのではないだとうかと思ったのが本論文を書こうと 思った動機である。

本研究の意義

本研究は明治期から現代にかけての女子中等学校の校歌に焦点を当てた歴史研究と現代 の校歌状況の調査(事例研究)を行う。前者において、女子教育は明治期後期(明治30年代) ごろから確立・各学校で制定されてきた。常に男子優位の環境の中で女子教育は蔑にされ がちであった。そのような中でも、キリスト教主義の女学校や私立女学校の教育は明治期 前半から開設され、その学校独自の建学の精神に基づき教育を行った。良妻賢母の風潮の 中、多くの私学の女学校が一人の女性としての自立を促すことを掲げた。

女子教育が整備され始めた頃、1899(明治32)年に〈高等女学校令〉、〈訓令12号〉が施行 され、女子教育の確立と宗教教育の排除が行われた。第一次大戦後、高等女学校の生徒数 は増大し、1920(大正9)年に〈高等女学校令〉が改正された。昭和に入ると 1943(昭和18) 年に〈中学校令〉が公布され高等女学校は中学校の一部となる。しかし、戦争の影響下の 中、女子は勤労動員として軍事施設での作業に従事するため学校教育はほぼ行われること はなかった。戦後、新たな教育体制と民主国家の形成のため〈教育基本法〉、〈学校教育法〉

が新たに施行され、1948(昭和23)年から6・3制教育が始まった。戦後の著しい経済成長の 中、上級学校への進学率の上昇、詰込み型学習からの脱却、ゆとり教育、少子化など社会 背景・問題に対応しながら変化していった。

これらの学校教育・社会の変化の様子はとりわけ校歌の歌詞から読み取れるのではない

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かと思った。また旋律は、明治期以降、西洋音楽の流入により日本人の音楽の価値観も変 化した。学校を象徴する校歌からその時代ゝゝを読み解けるのではないかと考える。そし て、女子教育に限定することで、明治期から現代にかけての日本の女子に対する価値観の 変容が解るのではないかと考えた。

後者では、現代の校歌事情について調査を行った。”少子化”、”大学全入時代”、”ゆとり教 育”など、学校を取り巻く環境は依然として厳しい。とりわけ少子化による学校の統廃合や 新設校の設置、時代の流れの中で新たな学校方針に転換していく学校がある。そのような 中で校歌も新たに制定しようとする学校がある。また、2011 年3月11日に起こった東日 本大震災おいては、津波被害だけでなく、その後の福島第一原発の影響により多くの人々 が避難生活を強いられている。その結果、学校の原状回復が望めなかったり、流出してし まった児童・生徒数の影響により学校の閉校・統合が行われた。

このような状況下において制定された校歌とはどのようなものか、前者の歴史研究で得 られた校歌との違いはあるのか、実地調査・研究を行った。

本論文の構成

本論文では、具体的に 6 章に分けて校歌について論じると共に、付論として個人の作 曲家下總皖一に焦点をあてた。

第1章「日本における校歌の成立と歴史」では、どのような流れの中で校歌が誕生した のか歴史資料・先行研究を基に論じる。校歌は明治30年代ごろから多くの学校で制定され 始めた。校歌の発生には明治期に生まれた①お茶の水女子大学の校歌《みがかずば》、②祝 祭日に歌われるようになった儀式用唱歌、③唱歌、④軍歌が考えられる。これらの歌がど のように校歌と重なり合ってゆくのかの仮説の下、参考文献・資料を基に調査を行った。

そうすることにより、校歌の特徴が明らかになると共に、いつ頃から多くの学校で歌われ 始めたのかを明らかにすることができると考える。そして学校外でいつ頃から校歌が市民 に認知され始めたのか、辞書・書籍・新聞等の資料を基に特定を試みた。さらに、校歌は 単調な旋律、自然・建学の精神を入れた歌詞など、他の学校と曲調が似ている部分が多い と言われている。校歌を制作する側の心情・制作過程を知ることで、学校と作詞者・作曲 者との総合的な制定背景を知ることができるのではないかと考えた。学校が創立すると校 歌も制定されるという状況は、諸外国では非常に稀な現象である。この日本独自とも考え られる校歌成立の背景を探る。

第2章「時代ごとの教育概観」では、校歌分析を行うにあたり、時代背景・教育状況を 明らかにする。明治期から現代にかけての校歌の歴史を探ると共に、そこから見えてくる 校歌と学校のかかわり、歴史背景を明らかにするものである。具体的には、①明治期から 現代にかけての時代背景・教育環境を明らかにする、②校歌の歴史を整理すると共に、当 時出版されていた学校管理書や出版物に記されている校歌の有り様についても明らかにす る、③校歌は小学校教育と深い関わりがあったので、小学校の音楽教育の歴史と校歌の関

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9 係性を明らかにする。

第3章「女子中等教育の校歌の成立と変遷」では、フィールドワークに適した首都圏に しぼり、女学校の校歌の採集を国立国会図書館、東京都立中央図書館、野間教育研究所、

当該高等学校を中心に行なう。採集を行う際、私立の女学校にしぼり、さらにキリスト教 主義女学校、私立女学校、府立・県立の女学校と三つのカテゴリーに分けた。分析方法と しては、学校の沿革、歌詞の意味内容の考察、旋律の分析を行う。これらを分析すること により、歌詞から、その時代が求めていた人間像を明らかにし、旋律からは、それらの歌 詞がどのように形成しているか、校歌の作曲構造について分析を行なう。また、3つの学校 種に分けることにより各学校の特徴も明らかになると考える。そうした総合的な視点から、

近代国家成立における校歌の思想を明らかにしようと思う。

第4章「教材としての校歌 -東京都私立和洋九段女子中学校・高等学校-」では、東 京都千代田区にある私立和洋九段女子中学校・高等学校(以下 和洋九段校)の校歌につい てまとめた。和洋九段校は 1997(平成 9)年に創立 100 周年を記念して新しく校歌を制定 し直した。その校歌は 4 つの曲から成り立つ賛歌(=校歌)である。4 曲それぞれタイトルを 持ち(《Ⅰ.わたしたちの学舎》《Ⅱ.ベルが鳴る》《Ⅲ.ほかならぬ私の花を》《Ⅳ.海のかな たへ》)近代組曲のような編成になっている。各校歌は入学式や始業式など、行事開催時に 歌われる。さらにこの校歌は 4 曲あるだけでなく、音楽教材として使われることを見越し て作られたというのも特徴である。どのように教材として扱われているのかを論じるため、

校歌に関する音楽の授業を実際にリサーチし、校歌に記されている音楽用語と中学校学習 指導要領音楽第 3 の 2 の(8)と小学校学習指導要領第 2 章 6 節音楽第 3 の 2 の(6)の比較を 行った。

第5章「校歌の制定背景 -東京都練馬区光が丘地区小学校統合における校歌制定まで の流れ−」では、平成22年3月31日をもって光が丘地区にある光が丘第一小学校、光が丘 第二小学校、光が丘第三小学校、光が丘第四小学校、光が丘第五小学校、光が丘第六小学 校、光が丘第七小学校、田柄第三小学校が閉校した。そして、その翌日の 4月 1日から光 が丘四季の香小学校、光が丘春の風小学校、光が丘夏の雲小学校、光が丘秋の陽小学校が 新たに開校した。新たに開校した 4 校は、開校に合わせ校歌を新しく制作していた。その 制作は、“統合準備会”という組織の中で行われた。この準備会でどのような話し合いがも たれ校歌が作られていったのか、その制定過程を調査した。

第6章「復興と再生 -東日本大震災における校歌の役割−」では、2011年3月11日に 発生した東日本大震災とその地の校歌の関連性について論じる。とりわけ東北地方の被害 は甚大で多くの死者・行方不明者を出した。さらに東京電力福島第一原発で起こった原発 事故は今もなお収束が付かない状態である。多くの人々は様々な事情で避難所や別の地域 での生活を余儀なくされている。東北地方の人口減少は留まることがなく、児童・生徒の 減少は一途をたどっている。結果的には学校が閉校・統廃合が行われる状況になった。震 災後、校歌の価値を見直すような新聞記事等が出た。それらの記事はどのようなものであ

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ったか明らかにするとともに、東北地方で新たなに開校した学校の校歌はどのようなもの であるか明らかにする。

「結論」では、第 1章から第 3章までを総合的に論じると共に校歌の歴史的変遷をまと める。また、第4章から第6章までの事例研究から現在の校歌の有り様についてもふれる。

付論「下總皖一の校歌-統計分析による校歌研究-」では、本論において学校の校歌の分 析を行ったが、ここでは一人の作曲家の校歌について統計的にまとめた。具体的には下總 の直筆の楽譜492曲と清書された楽譜3曲、合計495曲の分析を行う。曲数が膨大かつほ とんどが原譜なので文字、旋律の解読が困難なものは除外した。また、目視で曲が重複し ていると確認できるものも除外した。調査方法は、ヤン・ラルーの分析方法を基にし、さ らに論者自身が調査項目を加え集計した。具体的には「Ⅰ調について」、「Ⅱ拍子について」、

「Ⅲ小節数について」、「Ⅳ曲態について」、「Ⅴ音域について」を利用した。論者自身で加 えた項目は、「Ⅵ前奏の小節数」、「Ⅶ学校」である。「Ⅵ前奏の小節数」については小節数 をそのまま数値化したので、「Ⅲ小節数について」の調査方法と同じである。「Ⅶ学校」は

①幼稚園、②小学校、③中学校、④高等学校、⑤大学、⑥国民学校、⑦高等小学校、⑧高 等女学校、⑨尋常小学校、⑩不明の10種に論者が分け論じる。

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第 1 章 日本における校歌の成立と歴史

校歌は明治30年代ごろから多くの学校で制定され始めた。校歌の発生には明治期に生ま れた①お茶の水女子大学の校歌“みがかずば”、②祝祭日に歌われるようになった儀式用唱 歌、③唱歌、④軍歌が考えられる。これらの歌がどのように校歌と重なり合ってゆくのか 明らかにする。そうすることにより、校歌の特徴が明らかになると共に、いつ頃から多く の学校で歌われ始めたのかを明らかにすることができると考える。そして学校外でいつ頃 から校歌が市民に認知され始めたのか、辞書・書籍・新聞等の列挙をする。さらに、校歌 は単調な旋律、自然・建学の精神を入れた歌詞など、他の学校と似ている部分が多いと言 われている。校歌を制作する側の心情・制作過程を知ることで、学校と作詞者・作曲者と の総合的な制定背景を知ることができるのではないかと考えた。学校が創立すると校歌も 制定されるという状況は、諸外国では非常に稀な現象である。この日本独自とも考えられ る校歌成立の背景を探る。

第1節 校歌の発生起源

1-1-1) お茶の水女子大学《みがかずば》

校歌の先行研究の多くは、日本における最初の校歌は東京女子師範学校(現 お茶の水 女子大学)の《みがかずば》であると述べている。この校歌は皇后(後の昭憲皇太后)が下賜 された和歌に東儀季すえひろ(1832~1914)が作曲したもので、同大学のホームページにも「お茶 の水女子大学の前身である東京女子師範学校の開校にあたり、皇后(昭憲皇太后)から、 明 治 8(1875)年 12 月に下賜された御製歌です。明治 11 年に宮内省雅楽課の東儀季熙により この歌に譜をつけたものが本学の校歌となり、わが国最初の校歌として現在まで歌い継が れています。」とある。1876(明治 9)年に 昭しょうけん皇太后が下賜された和歌に、式部寮雅楽課 の東儀李熙が1878(明治11)年に作曲したものである。その校歌そのものについて丹念に研 究した論文がある。同大学大学院に在籍していた久保島文子の修士論文「校歌の特性につ いて」(1998)である。それによると、「日本最古の校歌とされているものは、保育唱歌中の

“学びの道”を指しているといえるであろう。」と記述している。保育唱歌とは、東京女 子師範学校付属幼稚園の教材で使用された総称である。当時、幼児に教授する適切な唱歌 教材がなかったため、東京女子師範学校は唱歌教育の重要性を「緊要ノ公務ニ関スル意見 書」に記し、文部省に提出した。文部省の許諾が降りると、唱歌制作を 1877(明治10)年9

月から1880(明治13)年6月まで行った。それらの唱歌の一端を東京女子師範学校師範科に

お茶の水女子大学デジタルアーカイブズhttp://archives.cf.ocha.ac.jp/migakazuba.html

(2013年6月23日最終アクセス)

久保島文子(1998), 「校歌の特性について」,お茶の水女子大学大学院人間文化研究科人 文学専攻修士論文,p.6

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在籍していた清水たづが採譜した『保育唱歌』(明治 16 年)で現在もみることができ、この 教本の中に皇太后の歌に東儀李熙が作曲したものが掲載されている。

譜例1 《学びの道》『保育唱歌』

譜例2《学びの道》墨譜を五線譜におこしたもの

清水たづ(1883),『保育唱歌』,ページ記載なし(お茶の水女子大学 教育・研究成果コ レクションTea Potで閲覧可能http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/handle/10083/31220)

芝祐泰(1956)『保育唱歌 五線譜 巻一』,ページ不明 (お茶の水女子大学所蔵)

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13 譜例3 お茶の水女子大学の校歌《みがかずば》

現在のお茶の水女子大学の校歌と《学びの道》を比べてみると旋律が大きく異なってい るということがわかる。《学びの道》は律旋法を用い、非常に間延びした曲調になっている。

また、「保育唱歌は、同付属幼稚園のみならず、他地域の幼稚園の一部、東京女子師範学校 等の教育機関でも用いられた。たとえば、同付属幼稚園に続いて、2番目に設立された公立 幼稚園である鹿児島女子幼稚園でも保育唱歌を用いた教育が行われたとの記録がある。」 ということから幾つかの幼稚園では歌われていたとういうことが明らかである。また、《学 びの道》は『淑女の修養』(1909)という一般書籍にも掲載されている。

「此御歌、嘗て、皇后陛下の御詠遊ばされ給ひしを、宮内省雅楽局に於て、雅楽上の 曲譜を附し、過る明治四十年五月、芝離宮に於て、雅楽会開催の際、陛下の御前に於て、

華族中の雅楽家、及び雅楽局の楽師が、奏唱し奉りければ、御感斜ならざりし事を拝聴 し、当日奏唱し奉るの栄を辱ふせし、子爵藤井行徳氏に就て、親しく朗詠法を習得し、

苦心の結果、右の如く楽譜を調製し、是を生徒に教授せしに、楽曲、高尚優雅にして奏 唱中、知らず識らずの問に、御詠の有り難さ、御恩召の程を窺ひ得て、精神教上、多大 の稗益あるを信するものなり。著者謹誌」

とあり、幼稚園児以外の学生にも歌われていたということは明らかである。

お茶の水女子大学デジタルアーカイブズ

(http://archives.cf.ocha.ac.jp/migakazuba.html)では校歌を視聴することが可能。また、

携帯の着信メロディーにダウンロードすることも可能である。(2013年2月19日最終ア クセス)

東元りか(2009)「保育唱歌および雅楽に関する楽書資料の収集および研究調査(学生海外 調査研究)」,大学院教育改革支援プログラム「日本文化研究の国際的情報伝達スキルの 育成」活動報告書,海外教育派遣事業編,p.68,(お茶の水女子大学教育・研究成果コレ クションTea Pot http://hdl.handle.net/10083/49257)

田島敎惠(1909)『淑女の修養』,寳文館,pp.84~85

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さらに、タイトルが《みがかずば》ではあるが、同大学の校歌とは異なる旋律を持つ歌 がある。この唱歌は『尋常小学唱歌 五学年用』で使用された。文部省唱歌の作詞者、作 曲者は明らかになっていない部分が多い。この唱歌集の作曲委員らが湯原元一(委員長)、上 眞行、小山作之助、島崎赤太郎、楠美恩三郎、田村虎蔵、岡野眞一、南能衛であったこと からこの委員の誰かが作曲に携わったと考えることができる。

譜例4『尋常小学唱歌 第五学年用』に掲載されている《みがかずば》

この『尋常小学唱歌 第五学年用』を教員の為に解説した書物がある。東京府青山師範 学校教諭森山保が書いた『文部省編 尋常小学唱歌教材解説 第五学年用』(1913)に《みが かずば》の解説がある。

要旨 尋常小学修身書巻五、第二課「皇太后陛下」の條に、嘗て東京女子師範学校に下し 給はりたる御歌を載せてある。即ちこれがその御歌である。今之を教材として選擇 し、日夕兒童をして愛誦せしめ、陛下の有難き御思召を感佩して、好學の情操を養 はしむるが本課の目的である。

歌詞 所謂我が三十一文字の國風である。題目は最初の句をとりたるものである。今謹み て其の大體の意味を述ぶれば左の如し。

玉も鏡も磨き上げてこそ、種々の用にも立つのであるが、若しみがかなければ何の 用にもたゝない。學問もその通りで、研究し研鑽して初めて役に立つものであるか ら、學生たるものは怠らず撓まず努力せねばならぬぞ、よとの有難い御言葉の意で ある。

曲節 (ハ)調4/4拍子の、十二小節の長さの曲節で、音域はホ―ハ迄十音間可なりに廣く、

音程は四度迄で左したる困難なる所はないが、少し歌ひにくい曲節である。視唱法

文部省(1913)『尋常小学唱歌 第五学年用』,p.2

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15 にて試みるべし。

(以下省略)

これらのことから今、現在歌われている、お茶の水女子大学の校歌の歌詞が、古くは、

学外の多くの児童・生徒らに歌われていたということがわかる。10そして、今現在、私た ちが考える校歌という概念とはかけ離れたものであるということもわかる。皇族の御言葉 がいかに垣根を越えて使用されているかという事がわかる。

では、保育唱歌として出発した《学びの道》がいつごろから現在歌われている同大学の 校歌となったのかというと、久保島は「作曲は東儀季熙としているが、この旋律がいつ誰 によって作曲されたのか明らかにしている文献は見つかっていない」11と結論付けている。

このことを、同大学の図書・情報チーム情報基盤係に問い合わせたところ、「校歌の作曲に ついて示すような資料は現在のところ見つかりませんでした。本学は大正12年の関東大震 災で多くの資料を失っておりますので、明治10年頃の資料はほとんど所蔵していないのが 現状です」12と返答をいただいた。

これらのことから、日本で最初に制定されていたと言われているお茶の水女子大学の校 歌は、最初は教材用として生まれ、さらに、現在の校歌とは旋律が異なるものであった。

後に校歌として作曲・制定・認識されることになったと考えられる。

このように校歌は必ずしも校歌として存在していたのではなく、形を変え学校外の人間 でも歌えるような状況であった。そして、校歌と云う概念を持っていたかというのは不明 である。しかし、これは皇族という特別な存在の歌であることが要因ともいえよう。一般

森山保(1913)『文部省編 尋常小学唱歌教材解説 第五学年用』,廣文堂書店,pp.12~

13

10皇族が下賜した歌が唱歌として採用されている状況は華族女学院(現 学習院女子大学)

にもみられる。昭憲皇太后が下賜した《金剛石もみがかずば》も尋常小学唱歌第五学年 用に採用されている。群立足利高等女学校では、「校歌が制定される以前においては、一 体何が校歌の代わりとして歌われていたのであろうか。それは「玉琢かざれば」で有名 な昭憲皇太后(明治天皇の皇后)の御歌「金剛石」であった。校歌の代りというよりは 校歌同様のものであったといってよい。」(八十年誌編集員会(1989)『八十年史』,栃木 県立足利女子高等学校,p.95)と記されている。ただ、学習院の歌詞は校歌として認知さ れることはなかった。「華族女学校・女子学習院ともに校歌・院歌がなく、式日等に斉唱 したのは明治二十年三月十八日昭憲皇太后から下賜された御歌「金剛石」「水は器」(奥 好義作曲)と、大正十二年六月十九日皇后陛下(貞明皇后)より下賜された御歌「花す みれ」(信時潔作曲)である。」(学習院百年史編纂委員会(1988)『学習院百年史 第三 編』,学習院,p.113)現在は、1951(昭和26)年に制定された院歌(作詞安部能成 作曲信 時潔)を歌っている。

11久保島文子(1998)「校歌の特性について」,お茶の水女子大学大学院人間文化研究科修 士論文,p.10

12 2013年6月18日に返答をいただいた。

(17)

16

的な学校では明治後半になって校歌と云うものが制定され始めてきている。

では、次に多くの先行研究で綴られている儀式用唱歌との関係性について述べる。

1-1-2) 儀式用唱歌

儀式用唱歌と校歌の関係性を述べた研究は、すでに入江(1994)、杉沢(2010)の研究がある。

これらの研究から、校歌が成立していく流れを展望しようと思う。初代文相森有礼は、

「國風ノ教育ヲ盛ニスへシ國風ノ教育トハ、國体ヲ彰明ニシ、日本國民ノ保持スベキ 品位資質ヲ辨ヘシメ、自然ニ忠愛慎重ノ念ヲ生セシムヘキヲ謂フナリ、一二其方法ヲ 擧クレバ、學校平常ノ談話ニ於テ、歴史上ヨリ本邦建國ノ萬國ニ秀テタルコト及ビ列 朝ノ聖天子撫育ノ厚キコト等ヲ説述シ、之ヲ生徒ノ脳裏ニ印銘セシメ、又紀元節天長 節ノ大祝日ニ當リテハ、祝賀ノ式ヲ擧ゲ、崇敬歓戴ノ意ヲ表セシメ、継キテ之ヲ一般 ノ父兄ニモ及ホス等ノ事ハ就中要用ナル條件ルベシ」13

と主張していた。

入江氏の論考によると、

「この方針を受けて文部省は1888(明21)年に、紀元節14・天長節15に学校儀式を実施 するように内命した。この時すでに、儀式に際して歌うべき唱歌として「紀元節」歌 を作成、配布した。また「天長節」歌も、その後天長節の時期に合わせて配布された。

ここで文部省の発した内命そのものの記述内容は不明であるが、これを受けて出され た府県の訓令には「祝賀式ハ専ラ唱歌ニ由ラシムヘシ」などとあり、ここから文部省 の発した内命が儀式唱歌を重視したものであったと推察できる」16

実際、文部省に残る明治24年の通達の中で、6月17日に出された文部省令第4号〈小 學校祝日大祭日儀式規定〉では、

第1条「紀元節、天長節、元始祭17、神嘗祭18及新嘗祭19ノ日ニ於テハ學校長、教員

13 大久保利謙(1972)『森有禮全集 第三巻』,宣文堂書店,p.80

14 神武天皇即位日で2月11日

15 天皇誕生日で11月3日

16 入江直樹(1994)「儀式用唱歌の法制化過程 -1894年『訓令第7号』が学校内唱歌に残 したもの-」,『教育学雑誌第28号』,日本大学教育学会,p.210

17 天皇の位の元始を祝う日で1月3日

18 天皇が伊勢神宮に新穀を奉納する日で10月17日

19 天皇が新穀を神々に供え、自身もそれを食し、収穫を感謝する日で11月23日

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17

及生徒同一式場ニ参集シテ左ノ儀式ヲ行フヘシ」20

と定めている。

この「左ノ儀式ヲ行フヘシ」の中に

「四 學校長、教員及生徒、其祝日大祭日ニ相應スル唱歌ヲ合唱ス」

とある。

また、同年10月8日には文部省令第2号で、

「小學校ニ於テ祝日大祭日ノ儀式ヲ行フノ際唱歌用ニ供スル歌詞樂譜ハ特ニ其採用ヲ 慎ムヘキナルヲ以テ北海道廰長官府縣知事ニ於テ豫メ本大臣ノ認可ヲ經ヘシ但文部省 ノ撰定ニ係ルモノ及他ノ地方長官ニ於テ一旦本大臣ノ認可ヲ經タルモノハ此限ニ在ラ ス」21

と定めた。

さらに、明治26年、文部省告示第3号〈小學校祝日大祭日儀式唱歌用歌詞及樂譜選定〉

を告示した。「君が代」、「勅語奉答」、「一月一日」、「元始祭」、「紀元節」、「神嘗祭」、「天長 節」、「新嘗祭」これら8曲は学校の祝祭日で歌うようにと定めた。

翌年の明治27年12月28日には、文部省訓令第7号

「小學校ニ於テ唱歌用ニ供スル歌詞及樂譜ハ本大臣ノ檢定ヲ經タル小學校敎科用圖書 中ニ在ルモノ又ハ文部省ノ撰定ニ係ルモノ及地方長官ニ於テ本大臣ノ認可ヲ受ケタル モノヽ外ハ採用セシムルヘカラス但地方長官ニ於テ一旦本大臣ノ認可ヲ經タルモノハ 此限ニ在ラス」22

と定めた。

昭和6年 9月10 日に〈訓令第7 号〉が廃止されると、同年同日〈小学校令施行規則第 53条第2項〉で、

「唱歌用ニ供スル歌詞及樂譜ハ文部省ノ撰定ニ係ルモノ、前条ニ依リ府縣知事ノ採定シ タル小學校敎科用圖書中ニ在ルモノ及其ノ採用小學校ニ特ニ關係アルモノニシテ府縣知事

20 教育史編纂会(1938)『明治以降教育制度発達史 第3巻』,教育資料調査会,p.88

21 教育史編纂会(1938)『明治以降教育制度発達史 第3巻』,教育資料調査会,p.89

22 教育史編纂会(1938)『明治以降教育制度発達史 第3巻』,教育資料調査会,p.145

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ニ於テ文部大臣ノ認可ヲ受ケタルモノノ外採用スルコトヲ得ス」23

「其ノ採用小學校ニ特ニ關系アルモノ」という文言を設け、さらに規制を強くしていった。

現にこの頃の小学校における校歌認可数は急増している。24

昭和16年3月1日に国民学校令が施行され、同月14日文部省令第四号で国民学校令が 改訂された。

「第36条 歌詞樂譜ハ敎科用圖書中ニ掲グルモノノ外ハ文部大臣ノ撰定シタルモノ若ハ 其ノ圖書ニ檢定シタルモノ又ハ當該學校ニ特ニ關係アルモノニシテ地方長官ニ於テ 文部大臣ノ認可ヲ受ケタルモノタルベシ

第47条 紀元節、天長節、明治節及一月一日ニ於テハ職員及児童學校ニ参集シテ左ノ 式ヲ行フヘシ

一 職員及児童「君が代」ヲ合唱ス

ニ 職員及児童ハ 天皇陛下 皇后陛下ノ御影ニ封シ奉リ最敬禮ヲ行フ 三 學校長ハ教育ニ関スル勅語ヲ奉讀ス

四 學校長ハ教育ニ関スル勅語ニ基キ聖旨ノ在ル所ヲ告ス

五 職員及児童ハ其ノ祝日ニ相當スル歌唱ヲ合唱ス 御影ヲ拝戴セザル學校及特ニ 地方長官ノ認可ヲ受ケ複冩シタル御影若ハ地方長官ニ於テ適當ト認メタル御影 ヲ奉藏セザル學校ニ於テハ前項第二號ヲ欠く」25

〈小学校令施行規則第53条第2項〉とほぼ変わらぬ内容ではあるが、戦時色が色濃くなっ てゆくことから、国の統一を正すために改めて規制をかけたと考えられる。

これらの訓令をみると祝日大祭日においての唱歌の規定はあるが、校歌の法的根拠につ いてはどこにも記載されていない。このようなことから各学校が、校歌を作る義務はなか ったということである。入江氏は結論として、「学校歌は(略)儀式用唱歌との分かち難い関 係下に置かれ、またこの一部として発展してしまった。そのことが、今日に通じる一般的 な学校歌のスタイルである、修身的な内容の歌詞を主体とし儀式用唱歌に適当とされるよ うな厳かで単調なリズムを持つという特徴を形成した主因となっている」26と結論付けて

23 教育史編纂会(1938)『明治以降教育制度発達史 第7巻』,教育資料調査会,p.95

24 校歌の認可状況は杉沢盛二(2010)『戦前の歌曲認可制度に関する研究-認可記録収集と 法令の検討を通して-(第十一訂版)』(私家版)の「全国校歌認可状況調(都道府県別)」 で見ることができる。

25 官報,1941年3月14日,第4254号,金曜日,pp.482~483

26 入江直樹(1994)「儀式用唱歌の法制化過程 -1894年『訓令第7号』が学校内唱歌に残 したもの-」,『教育学雑誌第28号』,日本大学教育学会,p.215(入江は「学校歌」とい

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いる。いざ校歌を制作した場合、この明治27年の文部省訓令第7号があることから、各小 学校は校歌の認可を求めなければならない風潮だったとも言える。実際、最初に認可され た校歌は、忍岡小学校(東京)で明治26(1893)年5月のことであり、忍岡小学校は明治24年 から申請をしていた。

では、上級学校ではどのような状況だったのだろうか。多くの上級学校は小学校同様に 校歌を所有していた。しかしながら、学校内で歌われる歌に関しての規制は昭和14年8月 24日文部省令49号が施行されるまで何もなかった。

「師範学校中学校高等女学校実業学校並青年学校ニ於テ唱歌用ニ供スル歌詞・楽曲ハ文 部省ノ撰定又ハ制定ニ係ルモノ文部大臣ノ検定シタル教科用図書中ニアルモノ及其ノ採 用学校ニ特ニ関係アルモノニシテ地方長官ニ於テ文部大臣ノ認可ヲ経タルモノタルヘ シ」

校歌の認可状況も小学校とは異なり、周知徹底していなかったようである。そのことに 関し杉沢(2010)は「①文部省令第49号施行日以前に制定された校歌等の歌曲は、改めて認 可を受ける必要が無く、施行日以後に制定された校歌等は認可を受ける必要がある。②時 局の推移や文部行政への思惑、府県学務部の指示等から認可を受ける必要を感じた 431 校 は認可申請を行った。」27と結論付けている。このことから、小学校よりも中等学校の校歌 は文部省の認可制度に左右されることなく、歌詞や旋律に小学校の校歌とは異なる特徴を 見出せるのではないかと考えられる。

1-1-3) 唱歌

儀式用唱歌と校歌との関係性は小学校於いて強い結びつきを示していた。さらに、関連 性があるものとして唱歌が挙げられる。

1872(明治5)年、学制が公布し、小学校に「唱歌」、中学校には「奏楽」を規定したが、こ

れからの日本の音楽について、どのように進めていくかという指針がなかった。さらに、

音楽の教員がいなかったこと、教科書、指導法、楽器がなかったこと、様々な理由により、

「当分之ヲ欠ク」とされた。制度的唱歌の義務化ではないが、実際に唱歌の現場指導が始 まったのは 1874(明治7)年の愛知師範学校であった。1877(明治 10)年には東京女子師範 学校(現在のお茶の水女子大学)付属幼稚園でも始まった。しかし、これらの唱歌教育は、

わらべうたや雅楽をベースにしたものであり、特に雅楽のメロディーについては、一般の 市民の子弟等には十分に歌いこなすには難しいものであったようだ。制度としては確立し

う言葉を使用しているが、この言葉には校歌も含まれている。)

27杉沢盛二(2010)『戦前の歌曲認可制度に関する研究-認可記録収集と法令の検討を通し て-(第十一訂版)』,私家版,p.85

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たのは、1926(大正 15)年の小学校令改正により正式に「唱歌」の必修科目が小学校で行な われることとなった。

西洋音楽で唱歌を教え始めたのは、1879(明治 12)年、文部省が音楽教育の実施のために 開設した「音楽取調掛」であった。この音楽取調掛は、文部省管轄の日本最初の音楽教育 機関であり、後の東京音楽学校(現在 東京芸術大学音楽学部)の前身にあたる機関である。

音楽取調掛では①東西二洋の音楽を折衷して新曲を作ること、②将来国楽を興すべき人物 を養成する事、③諸学校に音楽を実施する事、等々であった。これらの目標を達成するた めの一つとして、1882(明治 15)年、アメリカに留学していた伊澤修二がボストンの音楽教 育家メーソンを中心に『小学唱歌集』を刊行した。この唱歌集には現在でも歌い継がれて いる歌がいくつか存在する(《蛍の光》、《むすんでひらいて》等)。1883(明治 16)年に第二

編を、1884(明治17)年には第三編を刊行した。音楽取調掛はその後、1887(明治20)年『幼

稚園唱歌集』、1889(明治22)年『中学唱歌集』、1901(明治24)年、1909(明治32)年に『中 学唱歌』などを出版した。

これらの多くの唱歌は「唱歌調」と呼ばれる「基本拍内同音反復」で形成されていると、

嶋田(2009)は述べている。この「基本拍内同音反復」は俗に「ぴょんこ節」と呼ばれる「付 点八分音符+付点十六分音符」のリズムから成り立っているものではあるが、「唱歌調」に はさらに教育的内容を含んだものであると論じている。そして、この「唱歌調」は七五調 の如何なる音数の形にも使用できることを証明している。そのような状況になった理由と して、「「唱歌調」唱歌は、明治期後半特有の教育用の歌の作り方によるものであった。そ れは、もともとあった徳育的な基盤の上に、〈教育勅語〉によって一層、教育全体が拘束さ れる中で集大成された「必然」の産物でもあった。そしてこの「唱歌調」の生成と隆盛こ そが、皮肉にも唱歌教育を促進させる原動力となっていたのである。」28と歌と徳目との関 係性が「唱歌調」スタイルを生み出したと述べている。

1-1-4) 軍歌

幕末期、英・仏・露の開国を迫る圧力は幕府、薩摩、長州等の軍事力強化へと繋がって いった。とりわけ、西洋式の軍隊の編成を取り入れることは、従来の鼓笛隊の編成よりも 軍の規律や志気を高めるものになるであろうと感じた。一般的に軍歌が広まったのは、

1868(明治元)年の《宮さん宮さん》であり、この歌は、慶応 4 年東征大総監有栖川宮熾仁 親王の指揮下の下に薩摩・長州・土佐・肥後の兵士等が歌ったものである。

軍歌調の特徴は 2 拍子系のものが多く、リズムも「付点八分音符+付点十六分音符」の ぴょんこ節であったり、「四分音符+四分音符」のような、行進曲風のものであることが多

28 嶋田由美「明治期半期「唱歌調」とは何か -その構造的特殊性と生成に至る教育的背 景-」,第39巻第1号,日本音楽教育学会,2009,p.11

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い。そしてその曲調は唱歌にも多く採用されていることが明らかになっている。

集団統制の一つとして利用された軍歌が校歌にも取り入れられているのは事実である。

軍国調はとりわけ男子学校によくみられる。中高一貫校である海城学園は、「第一校歌とい うのは最も古いもので、明治、大正を通じて歌われたもの、何年頃制定になったか、又作 詞者、作曲者が誰かもずべて不明である。十節から成っているが、餘りにも超國家主義的 であり、餘りにも軍國調であるので、こゝには(二)、(三)、(四)、(五)、(九)の五節のみ を掲げる。」29もちろん現在は歌われていないが、勇ましい歌詞と軍歌調のリズムが校歌と して歌われていたことがわかる。

二 春爛漫の花の色 水も隅田の川の面に ヘビーの聲も勇しく 櫂先競ふ八丁艫

三 雪と見粉ふ白ジャケツ 七ツボタンの燦爛と 御濱御殿の深綠 スタイル寫す水鏡

四 帆綱に叫ぶ雪嵐 激浪怒濠の其の中を 木の葉の如く漂ひつ 今や行くらん遠き海

五 秋肅條の海の色 潮に暮れ行く品海に 艫拍子高く歸り行く 海城健兒の雄々しさよ

九 春秋茲に三十年 植ゑし心の櫻花 色麗しく海の上に また陸の上を競ふ

29 海城六十年史編纂委員會(1951)『海城六十年史』,海城学園,p.67

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22 譜例5 海城学園

1-1-5) まとめ

このように校歌は、①お茶の水女子大学の校歌“みがかずば”、②祝祭日に歌われるよう になった儀式用唱歌、③唱歌、④軍歌の複数の伏線から生まれたのではないかと考えられ る。校歌が多く制定され始めた時期は明治30年代である。この頃は忠君愛国の思想が一層 徹底してきた時期でもある。そのような状況下において校歌に課せられた役割は非常に大 きなものではなかったのではないだろうか。〈文部省訓令第7号〉の法の下、多くの学校は、

初めて歌われたとされる《みがかずば》、学校で歌われる唱歌、祝祭日に歌われる儀式用唱 歌に合わせ、または参考に、学校の集団の中に帰属意識を持たせようと校歌を制定した。

これが今日の校歌の一般的概念を生み出す結果になったわけではあるが、校歌という新し い音楽ジャンルが確立されたのではないだろうか。

第2節「校歌」の始まり -辞典・書物・新聞記事-

1-2-1)「校歌」の始まり -辞典-

辞典で「校歌」という言葉を定めている調査を行ったのは牧(2006)である。牧は「校歌」

がどのように表記されるのか複数の音楽系統の辞典を調査した。30その結果『日本歌謡辞

30 『音楽事典(平凡社)』(1966)、『新訂標準音楽辞典(音楽之友社)』(1992)、『新音楽辞典楽 語(音楽之友社)』(1977)、『音楽中辞典(音楽之友社)』(1979)、『音楽大事典(平凡社)』(1982)、

『邦楽百科辞典(音楽之友社)』(1992)、『日本歌謡辞典(桜楓社)』(1985)、『日本音楽大事

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典(桜楓社)』のみの記載であったと報告している。また、宮島(2009)は音楽辞典に校歌の項 目がなぜないのか音楽之友社に電話で問い合わせを行っている。その結果「①音楽辞典は 監修者の意見もあるが、外国の音楽辞典を参照して作成していて、外国の音楽辞典には「校 歌」という言葉がない。②「校歌」という音楽ジャンルはない。自由でどのような曲調に してもよく、どのような傾向の歌か決められない。③「校歌」の歴史が考えられず「校歌」

自体は説明を要するものではない。」31という回答を記している。これらのことから、多く の辞典で校歌の記載がないという理由が、海外の辞典を参考にしているからであり、校歌 そのものをみても、歴史・音楽の確立がなされていないということから辞典に表記するこ とが憚られるということである。

では、一般的な辞典に「校歌」という言葉が常用的であると初めて定めた辞典はいつ頃 に出版されたのか。それは、1915(大正4)年『大日本国語辞典』である。「かう-か 校歌(名) 其の學校の校風又は特徴などを擧げたる歌」32とある。現在でも校歌と引くと「その学校 の理想、特徴、精神などをもり込んで作詞、作曲され、学生、生徒、児童にうたわせる歌。」

33と記されていることから1世紀近く経とうとしている現在も校歌の概念は変らないとい うことであろう。

1-2-2)「校歌」-書物-

校歌に関して特化した書物が出版されたのは、1916(大正 5)年であった。『校歌ロオマン ス』34と題された本は、いくつかの学校の校歌や寮歌などを紹介し、その学校背景や歴史 について述べている。その後この本の続編として、同 8 年に『續校歌ローマンス』が出版 されている。嶋田(1981)によると、「大正期には教育関係の雑誌等に、小学校に於ける校歌 の意義について述べ、唱歌教育の中でも効果的にこれを扱うべき旨の論説が掲載され始め た。そして実際にこの頃、各地の小学校主催の唱歌演奏会でも児童が校歌を斉唱するケー スが多く見られた」35と記述している。これらを踏まえて検討すると、校歌は大正期にな

典(平凡社)』(1985)、『ラルース世界音楽事典(福武書店)』(1989)、『図解音楽事典(白水社)』

(1989)、『カタカナ引き音楽辞典(春秋社)』(1993)、『ニューグローヴ世界音楽大事典(講談

社)』(1994)、『音楽英和事典(リットーミュージック)』(1997)、『最新音楽用語事典(リッ トーミュージック)』(2003)、『定番実用音楽辞典(ドレミ楽譜出版社)』(2001)、『新編音楽 中辞典(音楽之友社)』(2002)、『日本音楽教育事典(音楽之友社)』(2004)、『新編音楽小事 典(音楽之友社)』(2004)、計18冊を調査した。牧具己(2006)「校歌の音楽文化的視点か らのアプローチ」,大阪芸術大学博士論文,p.6

31 宮島幸子(2009)「校歌の文化的役割」,『京都文教短期大学研究紀要第47集』,京都文教 短期大学,p.90

32 上田万年・松井筒治(1915)『大日本国語辞典 第1巻』,金港堂書店p.700

33 日本大辞典刊行会(1974),『大日本国語大辞典 第七巻』,小学館,p428

34 出口競(1916)『校歌ロオマンス』,實業之日本社

35 嶋田由美(1981)『小学校唱歌教育と校歌』,『日本音楽教育学会 第12回総会・研究発 表会』(要旨),p.10

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ると広く人々に認知され、学校外の人々がその学校の校歌を知ること・聞くことができる 状況になってきたということである。

1-2-3)「校歌」-新聞紙面-

次に日本で初めて「校歌」という文字が世間に登場した新聞記事・文献について述べて みる。2013年現在、インターネット上で検索ができる新聞記事は朝日新聞「聞蔵Ⅱ」、読売 新聞「ヨミダス歴史館」、神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ「新聞記事文庫」がある。

これらの検索に「校歌」という言葉を入力検索してみると、1903(明治 36)年の読売新聞の 朝刊の教育面が最も古い検索結果となった。「大日本膨張の歌と群馬懸農業學校校歌」36と いう見出しは、読売新聞が募集した「大日本膨張の歌」を群馬県農業学校が校歌として用 いるという内容である。これ以後「校歌」という言葉は同新聞にたびたび紙面に登場して いる。いくつか列挙すると、1906(明治39)年「教育界雑事/早稲田大學校歌募集」37、1907(明

治 40)年「歌曲採用認可/東京府より東京市南山尋常高等小學校歌(東久世通禧作歌 小山

作之助作曲)を同校唱歌用として採用方文部省へ伺出でしによりえを認可したり」38と続い ている。

第3節 校歌調とはなにか

明治30年代に多くの学校で制定された校歌は、お茶の水女子大学の校歌《みがかずば》、 儀式用唱歌、唱歌、軍歌との関係性から成り立っていると考えられる。様々な伏線から成 り立つ校歌ではあるが、校歌に対する一般的な考えは単調である。ここでは校歌に対する 一般概念を紹介するとともに、校歌を制作する側である、作詞者・作曲者の考えを紹介し、

その差異を考察する。

1-3-1) 校歌の価値観の変容

児童・生徒の内面の思想統制は校歌によっても行なわれた。これを別の視点で考えてみ ると、子供たちの心を大人達の手によって、その学校の校風、その他に、都合よく色を付 けてしまうという意味でもある。また、そのことに関して岩城元氏は、「(略)大体において 校歌は、山は青く、水は清く、母校は高くそびえ、児童、生徒は希望に燃え、理想高く、

勉学にいそしんでいるのである」39と述べている点からも分かる。同特集の取材に応じた

36 読売新聞,朝刊1面,1903年11月17日,読売新聞社

37 読売新聞,朝刊2面,1906年9月14日,読売新聞社

38 読売新聞,朝刊2面,1907年2月22日,読売新聞社

39 岩城元(1985)「シリーズ・日常からの疑問43 こんなものいらない!?」,『朝日ジャー ナル』,pp.92~93

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東京都千代田区神田小学校の米沢純夫教諭も、「校歌は、子供にとっていい音楽を、という 発想から作るのではなく、親、教師など管理する者の願いを伝えようというのが大部分だ。

しかも、それを歌わされる場所が式とかで、子供にとっては苦痛な音楽になっている」40 と述べている。さらに、詩人であり法大教授宇左近氏も同特集で「(略)校歌ではなく、徳目 が曲を持ったものにすぎない」41と手厳しい意見を述べている。即ち、岩城氏は大人の郷 愁として学校や自分の育った環境、その学校の建学の精神を校歌の歌詞に歌い込んでいる と指摘している。

同様の意見は朝日新聞“今日の問題”でも

「終戦という文化や風俗の大変革、学制改革などを経てなお、という感じである。第 一、山は青く、水は清くと歌詞の上では学校の所在地をたたえても、その青い山が付 近の住宅の屋根にかくれてみえなくなっていたり、水はきたなくなってしまったりし た学校も多いはずである。それに固有名詞を変えればどの学校にも通じそうである。

どんな若者を育てたい、どんな人間になりたいという理想がよみこまれているような 校歌にもあまりお目にかからない」42

と歌詞と異なる、変わりゆく学校周辺の環境と類似した歌詞の校歌の多さが校歌の個性 を無くす原因であると批判している。また、校歌の旋律に関しても、

「曲も何となく古くさい。戦前派、戦中派がこれだけは文句なしに戦後派にかぶとを 脱ぐのは音楽に対する感覚である、その若者たちは日ごろ、自分たちの校歌をどう考 えているのだろうか」43

と校歌の歌詞、メロディーに関して批判している。同新聞「ことばと暮らす」ではお茶 の水女子大学教授外山滋比古氏が

「(略)「偉そうな」校歌が世の中にいかにたくさんあるか、甲子園の高校野球でよく わかる。試合が終わる。勝ったチームの校旗掲揚にあわせて校歌が流れる。その校歌 がいかにもむずかしい。どうせ聞いているだけではわかるまい、というのでテレビは 字幕を出す。漢文調、文語体でごつごつしていかめしい。なかばお経のように、意味 を考えないで歌われているのかもしれない。それにしても、もうすこしわかりやすい 歌詞にならないものか、といつもながら感じる」44

40 同上

41 同上

42 『朝日新聞 夕刊 2面 1979年8月20日』,朝日新聞社

43 同上

44 『朝日新聞 朝刊 18面 1987年8月6日』 朝日新聞社

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と歌詞の文体批判をしている。校歌の歌詞と周辺環境のギャップについて述べている記 事もある。

「小・中学校の校歌といえば、地元の名勝や海や山をはじめ、豊かな自然と環境を歌 いこんだものというのが通り相場だったが、ご存知公害はそれすらもストップをかけ るご時勢になった。とくに代表的な名勝は日本一の山――富士にとどめを刺すが、東 京都内ではこの春、小・中学校あわせて二十四校が新設され、このうち半分はすでに 校歌が作られたが、「富士」を歌いこんだのはわずか一校だけで、これから作詞する学 校も半数は使わない予定であるという」45

理由は大気汚染により東京都心から富士山を望めなくなってしまったということ、では、

校歌はどうあるべきものなのか。長谷川良夫氏は、

「(略)校歌は慣用的であると共に藝術的でなければならぬと言う原則がここに確認さ れる。そして、校歌も校舎も個々の學校特有のもので、同じ環境の中で心身を育てて行 く一種の小さい運命共同體をなす學校にとつては、母校への尊敬と愛情のシンボルでな ければならないだろう(略)校歌の場合、そのような校歌にとつての最も望ましい性格 のためには、藝術性と言うことを殊に重視する必要がある。妙なことにこれが不思議と 忘れられがちなものなのであるが46

と述べている。

校歌の出発点が儀式用唱歌であったためか、固定観念にとらわれすぎ(校歌の歴史につ いては第2章で述べる)、教育的なことが第一義とされ、子供達が好んで歌うことの配慮が 欠けていた。このことは大正期に起こった赤い鳥童謡運動と類似した部分ではないだろう か。そのことに気づいたのか、戦後制定された校歌には、個性や校風が表された校歌が登 場してきたのではないだろうか。

1-3-2)作詞者・作曲者の思い

ありきたりで単調と言われている校歌だが、作詞者・作曲家自身も悩んではいる。作曲・

編曲家でありピアニストでもある谷川賢作氏は、

「僕自身が悩むのは実際的な部分。どこに“おいしい音域”を持っていくのか。小学

45 「教育ニュース 時代の転変 校歌と公害」 『教育手帳』 1970年11月

46 長谷川良夫(1951),「校歌論-團體歌に於ける諸問題 體驗を中心に-」,『教育音楽』, 第6巻,第9号,p.19

参照

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