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女子中等教育の校歌の成立と変遷

ドキュメント内 校歌をめぐる表象文化研究 (ページ 48-131)

ここでは女子中等教育で制定された校歌を、①キリスト教、②私学、③都立・公立の 3 つのカテゴリーに分け論じることにする。3つの学校種別に分けることにより、そこから読 み取れる歌詞・旋律の類似性・相違性を明らかにできるのではないかと考える。また、時 代ごとにみていくことで、その時代背景が校歌からも読み取れるのではないかと考えた。

第 1 節 調査・分析方法

3-1-1)調査対象学校の選定について

校歌採集にあたりフィールドワークに適した場所であること、歌詞を分析するにあたり 地理的条件がそろっていることを念頭に首都圏に限定した。校歌資料の採集は国立国会図 書館、東京都立中央図書館、野間教育研究所を中心に行なった。高等学校は直接訪問、ま たは校歌資料を提供してもらえないかと一校々々手紙を書き送付した。なお、横浜共立学 園は論者が資料室を訪問し、資料提供していただいた。

校歌採集を行う際、歌詞と楽譜がそろっている状態が分析対象になりうると考えていた が、採集を通して必ずしも歌詞、楽譜の両方が揃うという状況になるわけではなかった。

理由として多くの学校は研究調査に協力的ではあったが、そうではない学校もあったとい うことが挙げられる。それにより著作権の問題が発生し、資料の取得や本論文で掲載が不 可能になってしまった校歌があるのは残念である。また現在歌われていない校歌(旧校歌)

の歌詞は現存するが、楽譜までは所有していていない学校もあった。

明治27年以降は文部省に小学校で歌う全ての歌は認可が必要な時期であったが、全ての学 校が徹底していたわけではなかったし、その他の上級学校で求められていたわけでもない。

今回は法的な認可を得ているか否かは関係なく、学校側が校歌として制定していたという 事実を優先した。

3-1-2)分析方法について

まず、学校の沿革を調べた。次に歌詞の意味内容について考察した。歌詞内容を明らか にすることは、学校側が学生に対し意図する教育思想を明らかにすることでもあるからで ある。また、可能な限り作詞者、作曲者も調査した。校歌を作った人物を知ることも学校 の教育思想を知る手がかりとなるかもしれないからである。メロディーに関しては、旋律、

伴奏譜や他のパートが記譜されている場合には和声、終止感などの特徴を挙げる。これら の特徴を挙げることにより、当時の日本の音楽の水準や単調といわれている校歌のパター ンを明らかにすることができるのではないかと考えるからである。また、歌詞とメロディ ーとの関係を明らかにすることは、メロディーラインと言葉の響き、言葉の組み合わせに となるリズムや意味内容との調和が取れているのか、歌詞の意味内容が強調されている部 分とメロディーの強調部分は等しい関係性にあるのか分析をする。

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これらを分析することにより、歌詞から、この時代が求めていた人間像を明らかにし、

それらの歌詞がどのように旋律と合わさっているのか、校歌の作曲構造について分析を行 なう。そうした総合的な視点から、明治期の校歌の思想、音楽を明らかにしようと思う。

第2節 明治期

3-2-1)明治期における女子中等学校の教育環境

明治期におけるキリスト教主義女学校の教育は、1899(明治32)年8月3日〈私立学校令〉

が公布されるまで「各種学校」という範疇に属していた。この「各種学校」は現在でも存 在するが、92比較的職業に直結する学校が各種学校と名乗っている。しかし、明治期にお いては、

また明治初期では、近世の漢学塾の流れを汲む学校が各種学校であったし、明治中期 まではほとんどの女学校が各種学校であった。不就学の女児のための子守学校も各種学 校であった。また明治中期の小学校に附設された女子の裁縫学校としても存在した。あ るいは、一八九九(明治三二)年「私立学校令」以後は、中学校、高等女学校同様の教育内 容の学校が、宗教教育を行なうが故に各種学校となる場合があった。93

と、非常に多様さを示している。このような状況下になった理由としては、1879(明治 12) 年の〈教育令〉の中の第二条「学校ハ小学校中学校大学校師範学校専門学校其各種ノ学校 トス」と定めているからである。

キリスト教主義女学校においても多くの学校が〈私立学校令〉が公布されるまで各種学 校であり宗教教育を行っていた。そしてさらに、同年同日〈文部省訓令12号〉が公布され ると、「一般ノ教育ヲシテ宗教ノ外二特立セシムルハ学制上最必要トス依テ官立公立学校及 学科課程二関シ法令ノ規定アル学校二於テハ課程外タリトモ宗教上ノ教育ヲ施シ又ハ宗教 上ノ儀式ヲ行フコトヲ許ササルヘシ」と宗教学校でありながら宗教教育を禁止され、キリ スト教主義学校含め、多くの宗教学校では建学の精神を揺るがす問題となった。しかしな がら、キリスト教主義女学校の多くは「各種学校」に留まり宗教教育を固持する学校が多 かった。結果的に改めて〈私立学校令〉に基づき学校設置願いを提出し、承認してもらい 高等女学校に準拠する形となった。

キリスト教主義女学校は、従来から礼拝の時間や音楽の授業で讃美歌を歌っており、他 の女学校とは異なり、音楽に関する西洋的な知識とそれを応用した音楽表現能力を有して いると考えられる。当時のこのような音楽に関する西洋的な知識とそれを応用した表現能 力の高さについては 1882(明治 15)年にカールスが「日本語賛美歌のための音楽」で、「疑

92 簿記、看護師、調理、受験予備校など。

93 土方苑子(2008)『各種学校の歴史的研究 明治東京・私立学校の原風景』,東京大学出 版会,p.2

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いもなく、キリスト教主義女学校では欧米の、あるいは日本の伝統音楽ではない音楽を教 えることができる」94と指摘している。また、1900(明治33)年には、ジョージ・オロチン が「日本における讃美歌-その過去の歴史、及び統合讃美歌集が実現する可能性について

-」にも、同じく、「日清戦争中の一八九五(明治二八)年三月に五人の従軍牧師が、戦闘 中の日本陸軍の伝道と慰問のために戦地に送られた。その中の一人に、宮川師がいた。「輸 送船で広島から出航する前に送別会が開かれ、宣教師や牧師が多数出席した。私にとって 非常に感動的だったのは、メゾジストの女学校の生徒たちが歌った《God be with you》を 聞いた時だった。ちょうどその前の晩私は大阪をたったのだが、同じ讃美歌を梅花女学校 の学生がそこでもうたったのを聞いたのである。二晩連続で二つの学校の女学生が歌った この讃美歌の歌声の響きは、私に大きな感銘を与えた」95と記している。カールスが「日 本語賛美歌のための音楽」を書いた1882(明治15)年、日本の音楽教育界では1881(明治14) 年『小学唱歌集(初編)』が刊行された年であり、伊澤修二等が音楽教育からも日本を西洋化 しようと乗り出した時期でもある。しかし、その頃よりも、さらに以前から、キリスト教 主義女学校では西洋音楽に慣れ親しみ、讃美歌を愛唱していたことを考えると、キリスト 教主義女学校へ通う生徒の音楽に関する知識や表現力に関する理解が高かったと言えるの かもしれない。

さらに、当時のキリスト教主義女学校の音楽教育に関する報告が『近代日本音楽教育史』

に記されている。その中の「ミッションスクールにおける音楽教育」の項96で、1887(明治

20)年前後のフェリス英和学校、神戸和英女学校、活水女学校、東京一致英和学校、97東京

英和学校98の音楽の授業時間は学科により音楽の授業時間は異なるが、どの学校も数時間 の音楽教育を課していたということが分かる。「その創立の時から英語とならんで音楽が重 視され、キリスト教以外の学校よりも高度な音楽教育が課せられていたのであった」99と 記述されていることから、ミッションスクールに通う生徒らの音楽の習熟度の高さがうか がえるのではないだろうか。

その一方で、音楽教育の困難さもうかがい知ることができる。嶋田・小川・安田(2005)

00は日本人の歌声の変化の調査研究を行っている。明治期における宣教師の布教活動やキ リスト教主義女学校においての歌唱指導で「口をあける」とうい概念が希薄であり、また、

人前での開口は女性のたしなみとしてはありえないことであったという。さらに、1908(明 治41)年7月8日に神戸の松陰女子学院に勤めるグレグソン女史がマッケンジー女史に綴っ

94 手代木俊一(1999)『讃美歌・聖歌と日本の近代』,音楽之友社,p.262

95 同上 p.349

96 田甫桂三(1981)『近代日本音楽教育史』,学文社,p.293

97 後の明治学院

98 後の青山学院

99 田甫桂三(1981)『近代日本音楽教育史』,学文社,p.303

100 嶋田由美 小川容子 安田寛(2005)「洋楽導入による異文化適応としての日本人の歌 声の変化」『和歌山大学教育学部紀要 人文科学』,第56集,pp.17~23

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