第1節 広報外交の現場に触れる新渡戸稲造との訪米
鶴見は、1910(明治43)年6月に東京帝国大学の卒業試験を終えて、翌7月に東京帝国大 学を卒業、11月には高等文官試験に合格して、拓務属官として内閣拓殖局朝鮮課に勤務した。
228 この後、1924(大正13)年に退官するまでの14年間を官界において過ごした。その間 に、新渡戸を通じて後藤の女婿となった。そのことが、鶴見の国際的な体験を可能にし、彼 の広報外交の下地を形成した。その代表的な経験としては、①新渡戸のアメリカ講演旅行へ の随行、②鉄道省の英文案内作成のための南洋取材旅行、③第1次世界大戦直後の欧米視察、
④中国視察旅行の4つが挙げられるが、それらのいずれもが後藤という後ろ盾を得たことに よって実現したものである。
新渡戸との師弟関係が深まった1910年8月に、鶴見は前田と鉄道院の上司である長尾半平
(1865‐1936)を介して、新渡戸から縁談を持ち掛けられた。229 見合いの相手は、後藤の 長女・愛子であった。
新渡戸の取り計らいによって、鶴見の縁談は急速に進展し、見合いを経て、結婚の意を固 めた。230 新渡戸は、鶴見自身にとっても政治について学べるのでよい縁談であると考えて いたし、鶴見が後藤の女婿となることで、後藤の政治力の一助となることを念頭に置いてい た。また、新渡戸はこの縁談を取りまとめることで、鶴見を自分の広報外交の後継者として 育成しよういう意図を持っていた。231
1911(明治44)年8月から翌年9月まで新渡戸に随行したアメリカ・ヨーロッパ出張から
鶴見が、帰国した後の1912(明治45)年11月に、内務省から結婚許可が下り、翌1913(大
正2)年に鶴見は愛子と結婚した。232
鶴見がこの結婚によって得た後藤という後ろ盾は、度々海外出張の機会を得ることができ たという意味で、鶴見の在官中にはかなり有効であった。また鶴見は、新渡戸に託された通 り、世間から後藤の懐刀と呼ばれるほどに補佐した。233
鶴見はその後、1911(明治44)年8月9日に鉄道院に鉄道院書記として転勤となり234、在
官14年後の1924(大正13)年1月4日に退官の意を上司に伝え、同年2月5日に鉄道省監
察官を休職した。それは休職とはいうものの、実際上の退職であり、その2年後の1926(大 正15)年2月に休職満期退官となった。その後、1927(昭和2)年9月から1928(昭和3)
年2月までと、1931(昭和6)年12月から1934(昭和9)年10月までの2度、鉄道省嘱託 を務めた。235 以上から、鶴見は官界時代のほぼ全時期にわたって後藤の影響下にあり、出 張や配属については後藤の息のかかる位置にいたことが分かる。鶴見は、後藤の命を受けて 度々の海外出張を経験し、その体験が彼の広報外交の下地となった。従って、鶴見に広報外 交の基礎的経験の機会を与えたという意味において、新渡戸と後藤の両名の存在は非常に大
きいものであった。
鶴見と愛子との縁談が決まった翌年には、後藤という後ろ盾の威力が早々に発揮された。
1911(明治44)年3月に、鶴見は伝染病研究所長の北里柴三郎(1853‐1931)に随行して、
満州奉天におけるペスト疫病研究会議に出席した。236 鶴見が随行した理由は、後藤と北里 との間に親交があったからである。237
鶴見は、鉄道院に転勤になった1911年8月から、翌1912(明治45=大正元)年9月にか けてアメリカ出張を命じられた。238 彼は、日米交換教授として招聘された新渡戸に随行す る形で、アメリカに1911年(明治44年)8月から1912年7月までの1年間にわたって滞在 し239、その後、ヨーロッパを旅行して同年9月に帰国した。
当時の日米関係は、1906年から1907年にかけてアメリカ西部で激化した日本人移民問題 が、日米両政府間の数次にわたる紳士協定の締結(1907年2月、1908年6月)によって一旦 は収まり、表面的には沈静した状態であった。さらに日本政府は、1911年2月の新日米通商 航海条約の締結に当たって、「合衆国行労働者の制限及び締結に関する宣言」を発し、先の紳 士協定を遵守する決意を表明した。
対日感情については、中国問題に起因する反日感情はあまりなかったが、カリフォルニア の日本人移民に関する問題が深刻化しつつある時期であった。カリフォルニアの日本人移民 問題に限らず、日米関係全般に共通する問題の最大の核は、アメリカが日本の実情を知らな いことであり、「その『無知』と闘い、いかにしてこれを啓蒙すべきや」240が、この招聘にお ける新渡戸の最大の使命であった。この頃すでにジョン・アトキンソン・ホブソン(John Atkinson Hobson:1858‐1940)が排日論を唱えたり、ホーマー・リー(Homer Lea:1876‐
1912)が日禍論に関する著書である『日米戦争』(The Valor of Ignorance , 1909)を出版したり
していたが、広く読まれてはいなかった。
鶴見は、新渡戸とともに1911(明治44)年9月にカリフォルニアに上陸し、約2週間にわ たり農園を視察した。その間に、新渡戸がスタンフォード大学で講演を行った。その趣旨は、
慢性的労働力不足の状況にあるカリフォルニア州に対して、日本は労働力を供給でき、逆に はカリフォルニア州は雇用の場を提供できることから、両国間には利害の調和があり、両国 が相互に譲歩すれば、障害を乗り越えることが可能であるといった、友好関係の平和的継続 を祈願するものであった。241 鶴見は新渡戸がアメリカの大衆に日本の意見を発信する現場 に初めて立ち合い、「はじめて米国の大学を見るのであり、又はじめて先生の英語演説を伺ふ ので、随分緊張した気持で拝聴し」242て、大講堂に満ちたアメリカの学生と市民を眺め渡し ただけで、胸が一杯になった。さらに、「先生のお話しが済んで、どっと急霰のような拍手が 起こったときに、私は感激のため思はず暗涙を催した」243と印象を語っている。この経験は、
海外における講演活動の現場の空気に直に触れて、広報外交が大衆を感動させる威力やその 重要性を実感したという意味で、その後の鶴見の活動に大きな影響を与えた。
その後、鶴見は新渡戸に 随したがって東海岸に移動した。新渡戸はフィラデルフィア郊外のアイ ドル・ワイルドで原稿の作成に没頭し、同年10月にはロード・アイランド州のプロヴィデン
スに移って、ブラウン大学で講演を行った。244 プロヴィデンスには、新渡戸が慕っていた クエーカー信者のチェース家があった。新渡戸の妻・メアリー・P・エルキントン(Mary P.
Elkington:1857‐1938)の同窓生のアンナ・チェース(Anna Chace)が当主であった。アン ナの父・ジョナサン・チェース(Jonathan Chace:1829‐1917)は、同市でも有名な実業家で あり、長く上院議員と下院議員を務めた人物であった。245 この時に、鶴見がチェースの知 遇を得たことは、後年、鶴見が広報外交を行う際の大きな助力となるという意味で貴重な資 産となった。
プロヴィデンスからさらに南下して、鶴見は新渡戸のニューヨークのコロンビア大学にお ける6回の講演を実見した。新渡戸は、同様に講演に来ていた著述家・宗教家のヒュー・ブ ラック(Hugh Black:1868‐1953)と会見した。246
続いて、ニューヨークからシカゴに移動して、鶴見は新渡戸のシカゴ大学の卒業式におけ る講演を傍聴した。この時に、中国で辛亥革命が勃発し、アメリカの新聞を賑わせていたが、
新渡戸は、週刊誌『カリアーズ・マガジン』(Careers Magazine)の依頼により、同誌に中国 論を執筆した。袁世凱の心境を論じて、「彼が将来帝位を望まざるべしと、誰か果たして保証 し得べき」247と述べたことを、鶴見は新渡戸らしい卓見であると思った。この時の新渡戸の 予想は、後年現実のものとなった。248
翌1912(明治45)年1月に、鶴見は、新渡戸が学生時代を過ごしたボルチモアのジョンズ・
ホプキンス大学における講演を聴き、同市の人々と交流を図りながら約1ヵ月を過ごした。
また鶴見は、新渡戸がワシントンに度々赴いて数々の会議へ出席した際や、大統領のウィリ アム・タフト(William Taft:1857‐1930)をはじめとする有力者との会談を行った際には、
必ず同行した。249
新渡戸のボルチモアにおける講演活動が同年2月に終了すると、鶴見は、新渡戸とともに ニューヨークからドイツ船のケーニーギン・ヴィクトリア・ルイーゼ号で西インド諸島から パナマ運河の視察に向かった。西インド諸島を遊覧しながら、南洋を約4週間航行した。250 キューバでは、新渡戸は大統領と会見して台湾統治について談話した。開鏨中のパナマ運河 を汽車で視察し、コローンを経てヴェネズエラに寄航し、鉄道で首都カラカスに赴いて、そ の後、船でニューヨークに戻った。251 1912(明治45)年3月には、鶴見は、ヴァージニア 州のシャーロッツ・ヴィルに赴いて、新渡戸のヴァージニア大学における講演を傍聴した。
この旅行における講演先の6大学の中で、この大学だけが南部にあった。新渡戸は、同大学 で学んだエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe:1809‐1849)の作品を東洋人の観点か ら論じた。同市の大衆と学生との合同講演会は好評であった。新渡戸は、南部の情緒に深く 心を捉えられて、第3代大統領のジェファーソンの隠棲地モンティテロを訪問した後、レキ シントンのワシントン・リー大学252、続いてイリノイ州のアーバーナの州立大学で講演し、
スプリングフィールドにあるエイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln:1809‐1865)の 墓参りをした。さらに、同年5月初旬にはミネソタのミネアポリスに移動し、新渡戸のミネ ソタ州立大学における講演を傍聴した後に、東海岸に戻った。6 月初旬に、新渡戸はブラウ