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広報外交の展開期:アメリカ講演活動

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第1節  広報外交の始動

1.背景としての国際情勢

鶴見は、1924(大正13)年5月に岡山県第7区(真庭郡、久米郡)から衆議院議員選挙に 出馬したが、落選した。423  こうして「政治生活の第一歩に於て蹉跌した」424鶴見が、翌 6 月、「日本政界の情偽表裏と云ふものを身にしみじみと味つてゐた時」425に、早々に別の面か ら1つの好機が巡ってきた。それは、アメリカの正式な場において講演するという、広報外 交の大きな機会であった。

  まず当時の状況をみると、明治から昭和にかけての日本は、国内人口の急増問題を抱えて いた。1868(明治元)年に約3,200万人であった日本の人口は、1928(昭和3)年には2倍の

約6,400万人に増加し、日本人の海外移民も急増した。この潮流にともなって、ハワイやア

メリカ西海岸における東洋人移民の排斥運動が活発化した。その解決のために、1907年から 1908 年にかけて日米両政府間で数回にわたる交渉が行われ、紳士協定(Gentleman’s

Agreement)が成立した。さらに、1911 年には新日米通商航海条約を結ぶことによって、日

本は紳士協定を遵守する決意を表明した。しかし、その後も西海岸では日本人移民排斥運動 が続いた。

1922(大正11)年11月に、アメリカの最高裁判所は、日本人に帰化権がないという判決

を下し、さらに1923(大正12)年12月には、新移民法案が提出された。これは明示こそし ていないが、法律的語法によって日本人排斥を粉飾したものであった。1924年4月に、駐米 大使の埴原正直(1876‐1934)は、国務長官チャールズ・E・ヒューズ(Charles E. Hughes:

1862‐1948)に書簡を送り、その文中で移民に差別的な立法が行われれば「重大なる結果

(grave consequence)」を招くであろうと述べた。これに対してアメリカ議会は、戦争を示唆 するごとき「覆面の威嚇(veiled threat)」であるとして硬化し、同法案は上院下院を通過して、

同年7月から施行される結果となった。この排日移民法の成立によって、日本からの移民は 一切不可能となった。426

排日移民法の成立が余りにも意図的に反日的であったので、日本の世論は激昂し、当時ベ ルサイユ体制下で力を持ちつつあった日本の国際協調主義者や親米派に大打撃を与えた。427 対外強硬論者が騒ぎ立てただけでなく、見識のある世論指導者も激しい言葉を発した。ハ ーヴァード大学の卒業生で、名誉法学博士号を授与された金子は、「40年にわたり日本と第2 の故郷アメリカの友好のために尽くしてきた自分の生涯の希望がうちこわされた」428と述べ て、日米協会会長を辞任した。財界の大御所として日米間の国民外交を進めてきた渋沢栄一

(1840‐1931)は、排日移民法の「問題の解決を見ざる間は瞑目し兼ぬるがごとき感じ」429で あると悲憤を露わにした。その中でも自由主義者たちの失意と挫折感は大きく、例えば、英

文著書『武士道』430の著者としてアメリカでも知られていた新渡戸は、「実にけしからん。ア メリカのために惜しむ。僕はこの法律が撤回されないかぎり、断じてアメリカの土は踏まな い」431と憤慨した。432

新渡戸が渡米して日本人として公の場で意見を述べないと宣言したことで、弟子の鶴見に 機会が巡ってきたという見方も可能であるし、新渡戸が意図的に退くことで鶴見に広報外交 の初の大きな機会を与えたという見方も可能である。新渡戸(当時62歳)以外で公の場で発 信できそうな候補者を考えた場合、渋沢は当時85歳という高齢であり、英語も堪能でなかっ た。433  明治30年代に広報外交の旗手といわれた末松謙澄(1855‐1920)はすでに鬼籍の人 であったし、同じく広報外交の先達・金子は71歳で、片道約2週間を経て憤怒を公の場で訴 え掛けるために渡米するには高齢であった。この時、鶴見は39歳で、年齢から考えても適任 者であった。

2.人口問題と排日移民法についての鶴見の認識

  排日移民法成立以前の根本的な問題として、日本国内の人口増加問題があったが、その解 決策について鶴見はどのように考えたのであろうか。

鶴見は、当時の日本の人口問題434に対して5つの解決策を検討した。第1は、新領土の獲 得である。しかしパリ平和会議以後に、世界は領土的現状維持の原則を確立したので、日本 が新領土を獲得することは不可能となった。435

第2は、移民による解決であるが、少数の南米諸国を除いて全世界の国々はことごとく日 本人移民を禁止しているのが現状であった。しかしアメリカの排日移民法が、日本に対して ヨーロッパと同程度に移民の受け入れ数を許可するものであったとしても、とうてい日本の 人口問題を解決できる数値ではなかった。従って鶴見は、日本の人口問題を海外移民によっ て解決することは不可能であると考えた。436

第3は、海外貿易である。しかし日本は製造のための原料が国内に乏しく、さらに海外市 場としてのアメリカは、高い保護関税を課して日本商品の輸入を拒絶していた。437

第4は、国内における立法によって貧富の格差を緩和することである。しかし工業の進歩 は、資本家と政党との結託という結果を招いたために、議会政治によって急激な社会的立法 を実施することは困難となった。そのために政党政治に対する反感ひいては軍人に対する共 感が国民の間で高まった。満州問題については、国民の共感が軍部の背後にあって、それは 軍部と文官との闘争ではなく、大衆と大資本家との闘争であると鶴見は捉えた。438

第5の解決策は、産児制限である。欧米各国は、日本に対して産児制限による人口調節を 提案した。しかし、欧米諸国内には宗教的観点から産児制限に反対する意見が存在し、また 法律的にも産児制限禁止の事項があるにもかかわらず、日本に対して産児制限を提案するの は矛盾していると鶴見は不満を覚えた。さらに根本的に有効でないのは、産児出産の減少と 同時に、医学・衛生学の発達によって死亡率も減少したので、産児制限は人口問題の即時解 決策とはならなかった。従って、5 策とも人口問題の解決方法としては不適切であった。439 

以上のように模索した結果、彼は次の結論に至った。440

  日本の人口問題の第1の解決策は、もとより日本の工業振興策によるより外はない。

しかし、その時に直ちに起る問題は、原料獲得の方法と、製品市場如何といふことであ る。それは2つながら、外国に関係する。して見れば、原料所有国の国策と、市場たる べき購買国の政策とが、日本の人口問題の死命を制することになる。之れ等の外国が幸 にして、国際協調の精神をもつて、日本に対し寛宏にして、同情ある政策を取ればよし、

然らざる限りは、日本の工業立国策は、忽ち破綻せざるを得ない。その時に我々は、戦 争するか、自滅するかの2策中の1を撰まなければならない。かゝる明白なる行末を前 にして、我々は、外交に立脚せざる一切の人口問題解決策は、無意味であると思ふ。国 内において、社会問題の根底が、社会的正義に求めらるゝやうに、世界において、国際 問題の根本は、国際的正義の要求に、これを求めなければならぬ。ゆえに自分は、世界 の人口問題の解決策は、世界の利益を壟断しつゝある白色人種の反省にこれを求めなけ ればならぬと思つてゐる。

  鶴見が解決策として挙げるのは、第1に、日本国内において工業化を推進することや、そ の製品を売るための海外市場を獲得することであり、第2としては、日本国内における社会 立法によって分配を可能な限り公平に実施することであった。441  明治維新以降に日本が経 済的に発展した大きな理由は、①日本が比較的国内に原料を有し、②労働賃金が安く、③近 隣の開発途上国に市場を持っていたことによっていた。しかし排日移民法の成立当時は原料 不足に陥っていたため、それを海外に求める必要があった。442  この状況に対して鶴見は、

農業はできる限り現状を維持しながら、工業化を推進することでしか日本の活路は拓けない と考えた。そのためには、原材料の供給地や市場として満州や揚子江周辺の権益を維持して、

ドイツと同様の方法で列国と協調しながら、大陸国家としての活路をみいだすしかないと考 えた。443  鶴見は日本の大陸政策を列国が容認することが、国際的正義に適ったことであり 国際協調であると考えて、アメリカの理解を促そうとした。

  また鶴見は、「日本の人口増加問題は、単に人間の頭数がふへたから起つたのではない。日 本において、教育が普及した結果、各個人が人間らしき生活をしやうといふ要求が起つた為 めである。而して、個人としては、白色人種に較べて、少しも劣らない我我日本人が、白色 人よりも低い生活に満足すべき道理はない、といふ日本人の自覚から生じたのである。(中 略)おしつめて考へれば、世界のある国の住民が、安楽高等な生活をしてゐる限り、いつま でも日本人の不満は除かれないのである。ゆゑに人口問題解決の根本策は、全世界の国々の、

国際協調の精神に、これを求めなければならぬ。ある国々が武力をもつて征服したる不当に 広き領土を、自分一国だけの便宜に専用せんとする偏狭なる精神を抱いてゐる以上は、人口 問題は世界的動乱の最大原因となる確実性をもつてゐる」444と述べている。この発言の根底 にあるものは、日本人が列国に劣らないほど優秀であるのにもかかわらず、列国から非常に

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