第1節 順調期
1.第1回太平洋会議への出席
鶴見が1920年代から1930年代にかけて行った広報外交(宣伝活動)の2本柱の1つが、
前章で論じた6度にわたるアメリカ講演旅行であり、もう1つが太平洋会議への出席と同会 議を舞台とした活動であった。鶴見はウィリアムス・タウンを契機として始まった第1回ア メリカ講演旅行(1924(大正13)年7月〜1925(大正14)年11月)の途中の1925年7月に、
アメリカ本土からハワイのホノルルに赴いて第1回太平洋会議に出席した。
1924年7月17日にフランク・C・アサートン(Frank C. Atherton:1877‐1945)が、渋沢 に私信を送って、第1回太平洋会議への日本代表団出席を要請したが652、その次の段階とし て、鶴見は日本太平洋問題調査会(以下、日本IPRという。他国の太平洋問題調査会につい ての表記もこれに倣う)からの依頼を受けて、1924年11月にニューヨークにおけるアメリ カIPR準備会に出席する運びとなった。653 アメリカ IPR から日本 IPRへの正式な要請は 1925年3月であるので654、鶴見は日本がハワイのIPR本部から正式な出席の招待を受ける前 に、ニューヨークでの準備会に招聘されていたことを意味する。
鶴見は、第1回太平洋会議の本番には、日米両方のIPRからの推薦を受けて、第1回アメ リカ講演旅行中の滞在先のニューヨークから参加した。655 鶴見が推薦を受け、日本IPR代 表の1名として太平洋会議に出席した理由としては、①アメリカIPR会員がウィリアムス・
タウンの国際政治学会の会員と重複していたので、彼らの間で鶴見の知名度が高かったこと、
②アメリカにおける講演活動がすでに評価を得ていたこと、③また海外出張や国際会議出席 の経験が豊富であったことが挙げられる。
鶴見は参加前、太平洋会議に期待を寄せていなかったが、第1回会議に出席するためにサ ンフランシスコからハワイに向かう船上で、前年にウィリアムス・タウンの国際政治学協会 で知り合ったアメリカIPR会員たちが、太平洋会議に対して非常に期待を寄せていることを 知って考えを改めた。656 このように彼は、会議以前に個人レベルの交流によって情報を収 集した。
第1回太平洋会議において、鶴見が行った英語講演「十字街頭に立てる日本」657の中で、
鶴見は列国に対して、日本の対中政策は日中協調路線を選んでいることを強調した。さらに、
日本が国際協調路線で進めるかどうかは列国の政策次第であるのでぜひ日本を支援してほし い、つまり日本の対中政策を容認してほしいと訴え掛けた。日本の対中政策の容認という、
鶴見の戦間期の広報外交における大きな主題が、この時点ですでに提示されていることに注 目したい。
事実を積み重ねて説明することによって、相手に結論を委ねるという講演の手法は、鶴見 の講演の特徴である。アメリカ人が他人からの指図を嫌い、自己判断したがるという特徴を
理解した上での手法であった。658
また、講演の内容に狩野派の絵師の話や日本の庭園の話を具体的なエピソードとして用い たり、パリ平和会議の場面を麻雀に例えてユーモラスに語ったりという工夫を加えて、聴衆 の興味をそそるように話を展開した。
以上の講演は一般公開講演会として開催され、聴衆には太平洋会議出席者以外にハワイ市 民も含んでいた。この講演は、他国の参加者の間で大変な好評を博し、以後、分科会や食事 の際に他国の参加者たちが鶴見に次々と話し掛けてくるほどの人気を得た。659
しかし、講演が非常に好評を博し、また多くの円卓会議において発言するという奮闘をし たものの、第1回太平洋会議の結果は、総合的にみて鶴見を満足させるものではなかった。
鶴見はホノルルを去る時に、「この会合に出席した人々の、あまりに善男善女式国際平和論に 満ちてゐたことである。ことに生活に苦労なき人々が多数集会して国際友情を披瀝し合ふこ とは、悪いことではないけれども、之だけでは、幾万幾億の民衆の生活苦の集積である国際 軋轢を緩和することは出来ない」660という不満を漏らした。それというのも、日本 IPR は、
排日移民法について欧米各国との差別的待遇の改善を要求したが、会議では具体的な議論に は至らなかったからである。この結果に鶴見は失望を覚え、「ある1つの国が狭隘なる領土に 人口密集して生活困難を感じて居るに反し、他の一国が茫漠たる無人の原野を擁して、他国 人の入国を拒絶してゐる場合には、百の感情的平和論も、遂に国家間の軋轢を防止すること は出来ない。我々の人生に対する必要なる態度は、事実を正面から凝視することである。(中 略)この事実正視といふこと、即ち真理探究といふことが、近代を中世と区別する科学的精 神である」661という感想を抱いた。662
第1回太平洋会議において日本が最も訴え掛けたかった移民問題については、この会議が 決議を下さずに意見交換だけを行うという性格の会議であったために、特段の決議や結論が 導き出されることはなかった。
しかし、日本IPRがこの会議に臨んだ意図は、多少なりとも達成されたという見方も可能 である。それは例えば、カリフォルニア州労働組合長のポール・シャレンバーグ(Paul Scharrenberg:1893‐1960)がこれ以降排日的態度を緩和させたり、チェスター・H・ローウ ェル(Chester H. Rowell:1887‐1946)とパーカー・マダックス(Parker Maddux:1880‐1953)
が、白人種が有色人種に対する障壁を設けている点を自国で指摘したりといった形で、彼ら がこの会議後に具体的な行動に及ぶという成果があったからである。663 この意味で鶴見ら 日本IPR会員の発信は、アメリカIPR会員を動かしたといえる。
鶴見は、1925年7月の第1回太平洋会議を終えた後に再びアメリカに戻り、同年11月に 帰国した。この年、鶴見は、国際連盟事務局次長を務めていた新渡戸から同ポストの後任者 として推薦されたが、これを受諾しなかった。664 その理由は、翌1926年から日本国内にお ける政治活動を展開することを念頭においていたからであったと思われる。鶴見は、海外活 動家としての道よりも、日本国内の政治家としての道を選択した。また、鶴見が事務局次長 を引き受けなかった別の理由としては、彼は国際連盟の条項の中の、平和的な手段によって
領土の変更を認めるという条項が実行されなかったことに不満を感じていたからであった。
665 さらに、国際連盟の事務次長は、日本の立場ではなく、国際的な立場に基づいて務める 必要があったために、日本の国益を重視する傾向が新渡戸よりも強かった鶴見は引き受けな かったという見方も可能であろう。
鶴見は日本国内での政治活動を展開すべく、1926(大正15、昭和元)年に、普通選挙のた めに後藤に同行して日本全国を遊説して回った。この 1 年間の彼の活動は、「講演 260 回 講演 約390時間 旅程 約34, 366哩」666という過密なものであった。同年、岡山第7区衆 議院補欠選挙に推薦されて出たが、216 票差での惜敗という結果に終わった。これは、鶴見 にとって2度目の落選である。667
2.第2回太平洋会議
1927年6月初旬に中国旅行から帰国した鶴見は、来日した北極探検家のロアール・E・G・
アムンセン(Roald E. G. Amundsen:1872‐1928)の通訳として日本各地を回り、同年6月末 には第2回太平洋会議出席のためにハワイのホノルルに向かった。668 第1回目の成果から 推測して、第2回目もまた実社会に対して実効力のない会議に終わるのではないか、移民問 題について具体的な進展がないままに会議が終了するのではないかという危惧を抱きつつ参 加した。669 第2回太平洋会議における鶴見の発信の主なものは、①移民問題についての発 信、②日中・日露・日米・日英の関係についての発信、③閉会演説の3つであった。
(1)移民問題
移民問題総会において、アメリカIPRのジェームズ・D・ドール(James D. Dole:1877‐
1958)は、「移民問題は米国に取つては過去の問題である」670と排日移民法過去説を述べ、さ
らに、シャレンバーグは、「若し日本が今更ら移民法を改正して日本移民入国許可の運動を起 さんとせば、余は、我が全身全力を挙げてこれに反対する大運動を開始せんとするものなる ことを断言す」671と念押しの発言をした。これに対して鶴見が、「日米間の移民問題は、経済 問題でも法律問題でもない。それは国際信義の問題である。日米間に17年間有在した紳士協 約と称する両国政府間の取り定めを、一国の自由意志で改廃することの可否の問題である。
我々日本人が了解したる米国国民とは、人道と信義とを尊重する国民であつた。その日本国 民の期待を裏切つたものが、1924年の排日移民法である。殊に法律そのものよりも、法律制 定の際の米国上下両院の態度である。日本国民は自尊心の強き国民である。この強烈なる日 本国民の自尊心が、この一撃によつて深刻に傷つけられたることを、私は太平洋上の恒久平 和の祈願者として痛嘆する。(中略)我々は大国民たる威厳と、静かなる忍耐力とを以って、
米国国民の伝統的精神たるフェアー・プレーと荘厳なる正義心との表明せらるるの日を待つ てゐる」672と反論した。この場面について、赤木英道(1892‐1943)は、「最後に鶴見祐輔氏 立つて、日本の真の要求は石井代表の述べた通りて(ママ)ある事を述べ、更に数名の意見 に対して簡単に批評論駁を試みた上、先年米国遊説当時の経験を語りつゝ日本の赤誠を披瀝 し、米国が必ず日本の誠意を認めて日本に満足なる解決を与へて呉れる事を硬く信じて疑は