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広報外交の再開期:第 2 次世界大戦後の活動

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戦後の1945年11月16日に、鶴見は日本進歩党を結成して幹事長に就任し、松村謙三(1883

‐1971)農相を支える形で農地改革を促進しようとした。1063  しかし終戦の年が明けた1946

(昭和21)年1月4日に、東条内閣による翼賛選挙における立候補(1942年)と、翼賛政治 会と大日本政治会の役員就任(1944年、1945年)を理由に公職追放令の指令を受けた。1064  そ れを受けて、鶴見は公職追放の解除を求める訴願申請書を書き、その中で、「小生は、従来、

文章と言論と政治活動とにより、国際協調を主張し、自由主義を宣伝して来たものであり、

殊に日米問題の平和的解決のためには30余年の人生を捧げ来った者であります」と訴えたが、

戦時中に彼が翼賛政治会に属し、戦争遂行内閣の内務政務次官を務めたことは紛れもない事 実であった。1950年10月13日に公職追放解除となるまでの約4年9ヵ月の間、鶴見は活動 を封じ込められた形で苦難の時代を過ごした。鶴見が広報外交を再開するのは、公職追放解 除以降である。

第1節  再軍備反対の提唱

  追放解除後の1951年1月17日に、鶴見は国土防衛民主主義連盟を結成して、国土防衛を 唱え、国民運動を展開した。1065  これは、日本の再軍備反対を訴え掛けるものであった。1066   鶴見が再軍備に反対した理由は、2つあった。1つ目については、彼は次のように述べてい る。1067

私は再軍備といふことには、今日直ちに賛成し兼ねる。私の国土防衛運動は、再軍備 運動ではないのである。再軍備といふ文字は、戦前のような軍備を再びつくる、といふ 意味を持ってゐる。それは決して日本のために望ましいことではない。(中略)日本が若 し英米仏のごとく民主主義が確立した国ならば、どのやうな大軍を作つても、軍人が政 治に関与する心配はない。しかし終戦後5年の民主主義訓練では日本の民主主義はまだ 本当に強固なものにはなりきつてゐない。故に今日昔のままの上級将校に統率せらるる 大軍を再製することは、危険であると私は思ふ。

以上のように鶴見は、民主主義が定着していない日本が軍隊を持つことに対して批判的で あった。彼は、もし日本が再軍備するのであれば、「今度出来る軍備は民主的な本当の軍備で なければならない」1068と考えた。彼は、民主主義が完成した後の、世界平和に基づいた軍備 でなければならないと考えたのである。

再軍備反対の理由の2つ目は、「再軍備ということは大変金がかゝります。再軍備にかゝる 金は2千億というが5千億かゝる。そうなると増税が今よりもつとひどくなるとすると日本

の生活標準は切り下げられる。日本の経済力がこれに堪え得るか」1069と述べている通り、再 軍備には経費がかかり、日本の経済状態がそれを許さない状況であったからである。

  以上が、鶴見が再軍備反対を唱えた理由であるが、それでは鶴見が主張した国土防衛とは どのようなものであるのか。当時、世界はソ連の陣営とアメリカを中心とする自由国家群の 陣営に分かれて対立していたが、鶴見はアメリカがヨーロッパ第一主義を取ることで、日本 は捨て子のように共産主義陣営の中に捨てられるのではないかという危惧を抱いた。万が一 アメリカが日本を見捨てる方向に動いた場合に、日本が共産圏の国の陣営に入るのを安閑と して座視しているのではなく、積極的にこれを防ぐべきであると彼は考えた。1070  しかし、

その際に日本は以前のように「再び膨大なる軍備をつくるのではない」1071が、「世界第3次 大戦乱を避け」1072、経済的・政治的に完全な自主独立の国となるために、「完全自由な国民 となって、心を協せてこの国土を守るという精神」1073で、自分で自分の国を守らねばならな いというのが鶴見の主張であった。1074  彼は、次のように述べている。1075

私の考へてゐる国土防衛は、外敵が上陸して国内にゲリラを行ひ、乃至は村々で暴動 を起すやうな場合に、村の人々が自ら守ることのできるやうな防衛態勢を作らんとする ものである。そして国際戦争は国連の安全保障に依存せんとするものである。であるか ら私は『炉辺を守れ』といふことを標語としてゐるのである。

  鶴見は日本の最軍備には反対であるが、国土防衛については、「一たび動員令がでれば即ち に 90 万の軍隊がアルプスによれるからドイツは攻められない  だから中立条約によつて守 られているのではなくて武力によつて守られているので、だから中立であつても軍備せねば ならん。私は決して単純な平和論者ではない」1076と述べているように、国民皆兵の国である スイスを想定し、日本もそのようにあるべきであると考えた。

第2節  世界平和への貢献提唱

  鶴見は、公職追放解除後に出版した『新英雄待望論』1077の中で、「私は講和条約が成立し て、日本民族が誰に強制されず、何物にも拘束されない自由独立の立場を回復した時に、そ の自由なる日本を代表する政府の名において、日本の過去の非行をはつきりと世界に向つて 謝すべきだと思ふ」と述べ、日本は「原子爆弾の惨劇と日本民族の受けたる精神的衝撃とを、

大胆に開陳」1078して、「原子爆弾戦阻止の大運動の提唱者と為り、更には世界恒久平和樹立 の貢献者となることを、その新しい民族目標として把握する」1079べきであるという自分のス タンスを示した。また、「日本の偉大さはその武力にあらずして、文化にあり、芸術にあり、

文化と芸術とを日常生活に実践する日本生活にあることを再確認して、日本文化を世界文化 の殿堂に捧ぐべき」1080であるとした。

  鶴見の平和への貢献や「日本の偉大さはその武力にあらず」1081という姿勢は、その後どの

ように進展したのか。1953年10月9日に、鶴見は、衆議院議長の清瀬一郎(1884‐1967)、 元毎日新聞特派員の楠山義太郎らとともに起草委員となって、改進党「自衛軍基本法要綱案」

を作成した。1082

  さらに、鶴見は1954年5月2日には第19回国会参議院本会議において、各派共同提案の 代表として「自衛隊の海外出動をなさざることに関する決議案」の主旨説明を行った。1083  彼 は、憲法改正には反対であり、たとえ憲法が改正されなくても、第9条の解釈次第によって 自衛隊が海外で戦うようになることを危惧した。鶴見は「日本の自衛隊は、如何なる場合に も海外には出さないのだ、と世界に声明した」1084のが、この海外派兵禁止動議であると説明 した。この海外派兵禁止動議は、1954年6月に参議院本会議に提出されて可決された。以上 の一連の提唱や行動は、鶴見の戦時下における戦争協力の態度に対する自省の表れの1つで あったと思われる。1085

これにともなって、鶴見の広報外交は、戦前と戦後で大きな変化を見せた。鶴見は、1952

(昭和27)3月から7月にかけて、アメリカとブラジルを旅行した。1086  これは、彼にとっ て14年ぶりの訪米で、公職追放が解除された2年後であった。この渡米時の1952年4月25 日に、鶴見はシカゴ大学において1万8,000人という大聴衆を前に、「日本国内政策の国際的 な影響(アジアにおける日本の新しい役割:日本とその問題)」1087という演題の英語講演を 行った。1088  彼がシカゴ大学で講演を行うのは、1930年のハリス講座以来22年ぶりであり、

国際情勢も日本の国際的な位置も激変していた。また彼自身、最近まで公職追放にあったの で、この講演は公的に見解を述べる戦後初の機会であった。1089  鶴見がこの講演において、

サンフランシスコ平和条約の影響下での日本の現状や将来的な展望について語った趣旨は、

次の通りである。

日本は戦争の痛手から抜け出せずに未だ貧困状態にあって、回復への過渡期にある。戦後 日本の状況を、①社会・思想、②軍事、③経済の3つの側面から捉えると、第1に、社会・

思想については、日本の社会はまだ不安定で国民が希望を持ち得ないでいる状況である。戦 前の日本の社会的秩序の主軸は、天皇崇拝と家族継続の原理の2つであった。しかし、敗戦 を経て、アメリカの占領で誕生した新憲法とアメリカの指令によって天皇崇拝と家族継続の 原理の2つが突然タブーとなり、完全に社会的混乱状態に陥った。この事態は、降伏と新た なる覚醒によって引き起こされた一状況に過ぎない。占領下の日本に民主主義や自由主義が 根付くにはまだ時間がかかる。

第2に、軍事については、日本は戦後完全に武装解除し非軍事化した。この軍事力の真空 状況において、ソ連や中国からの攻撃を防御するという面では、心理的にも物質的にも無力 の状態である。日本は、国家存亡のために平和を切望する。

  第3に、経済については、日本はアメリカの経済的植民地になるかもしれないという不安 感を抱いている。サンフランシスコ平和条約締結後の日本の経済的独立は、中国大陸の資源 とアジア市場から分離しては不可能であり、日本は中国との貿易を切望している。日本が戦 争から学んだことは、近隣諸国と平和的・協力的に共存することなしに、日本が生存してい

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