• 検索結果がありません。

広報外交の困難期:日中戦争から日米開戦まで

ドキュメント内 untitled (ページ 130-159)

第1節  イギリス要人との接触

第6回太平洋会議終了後の1936年8月から11月にかけて、鶴見はアメリカ、フランス、

ドイツ、イタリアの各都市を回って歌舞伎欧米公演のコーディネートを行った。これは、外 務省が国際文化振興会を通じて鶴見に委嘱した業務であり809、「芸術を通じ国民と国民が接 触し、真の日本文化を理解せしむるのが目的で」810あった。鶴見は、欧米各都市の興行師に 興業を委託せずに、自分自身が動き回ってコーディネートした。811  「表面の用件は菊五郎 の洋行の交渉に有之候得共、実は小生の此の渡米の目標は外交上の工作を致す件に有之」812と 述べている通り、彼は歌舞伎公演のコーディネートをしながら、各国政府の要人や現地駐在 の日本人政府関係者と接触した。813  とりわけ鶴見が熱心であったのは、「私の今度の旅行の 目的は実は太平洋会議よりは寧ろ英吉利に参りまして、色々な人に会つて見たい」814と述べ ている通り、イギリスの主要人物との面談であった。彼は第6回太平洋会議が終了した1936 年8月に、ヨセミテから歌舞伎公演の打ち合せのためニューヨークに向かい、そこから海路 ロンドンに渡った。815  鶴見は、従来の会議出席時の個人的接触ではなく、①個人的にイギ リス政府要人に面談して彼らの考えを聴取、②同時に相手を説得、③それに基づいて帰国後 に日本政府に提言を行った。

鶴見が以上のような行動を取ったのは、「小生は只今の日本の国際的情勢をかげ乍ら心痛 致居候一人に有之、何とかして世界列強の日本に対する態度を多少なりとも変化せしめる必 要を痛感致居候。殊に最近は米国等に於てすら英米露連合の上日本に当るべしとの議論すら 生じ居候。斯の如きは日本を尤も危険なる位置に陥るるものと存候。然も日本の努力如何に 依りては斯の如き情勢には相成らぬものと存ぜられ候。此れに就ては日本の向ふ目標を国是 として決定する必要あるかと愚考仕候。此の点に関し米国並に英国の中心人物の意向を打診 致度所存に有之候」816と述べている通り、戦争に突き進んでいく中で、日本の孤立化を何と かして阻止したいという切迫した思いからであった。

最初に鶴見が個人的に面談したのは、ウイグラムであった。太平洋会議終了後の1936年8 月に、鶴見がヨセミテからニューヨークに向かう車中にウイグラムが乗り合わせていたため に、再度話し合う機会を得た。ウイグラムは、鶴見に日本の北支進出の中止を要請し、その 代わりとして、イギリスが日本の満州国建設を承認し、列国との仲介役を務めることによっ て、国際連盟を脱退した日本は列国との意思疎通が図れるという提案をした。しかし日本が この提案を拒否した場合は、日本は最終的に世界から包囲される可能性があると示唆した。817  また、ウイグラムは、日本、アメリカ、イギリス、中国、ソ連の5ヵ国による新たな太平洋 協定の締結を提案した。818

鶴見は、列国が国際連盟や九ヵ国条約で現状維持のままの平和維持を取り決めておきなが

ら、その一方で、日本人移民排斥、高関税による通商の拒絶、原料資源の採取困難、領土不 拡張といった不公平な待遇によって日本を拒否していることを指摘し、①日本人移民の自由、

②通商の自由、③原料獲得の自由、④領土の平和的変更、委任統治、買収、譲歩のいずれか の方法によって列国が日本の開発・発展を許可しなければ、日本としては現状のままの平和 機構を承服し兼ねると主張した。鶴見の意見に、ウイグラムは同意した。819  以上は、イギ リスの中心的人物との意見交換であった。

また、鶴見は、1936年10月26日ロンドンで、イギリスの国策に影響力のある経済学者で あり、財政顧問であるフレデリック・W・リース・ロス(Frederic W. Leith Ross:1887‐1968)

と面談した。ロスは、「経済的観点から見た場合に日中の利害は一致していて、中国政府が安 定し発展すれば日本の経済的利益にもつながるが、日本の軍部はそういう考えを持っていな いように思える。北支で日本が発展することに異存はないが、北支よりも南京で日本に協力 的な政府を維持することこそが日本の利益につながるのではないか。日本が北支において他 国を排除しないような関税を設定するのならば、イギリスとしては日本の北支での経済発展 に意義はない」820という見解を述べた。ロスは、対中問題については互譲的な態度であった。

しかし一方で、通商問題については、「英国は、単に其の領土内のみならず、世界の全面に於 て日本品進出の割合を制限せんとの強き主張を持つて居」821て、第三国においても市場を協 定しようという非常に強硬な態度であった。これに対して鶴見が反対意見を述べたところ、

ロスは、「日本の綿糸・綿布事業の進出によってイギリスのランカシャー地方の事業が大打撃 を蒙ったので、その失業者救済のためには第三国まで協定する必要があり、それができない 場合は日英協定の締結は不可能である」822と主張した。

  ロスとの面談の結果、鶴見が直面したことは、日英協調は抽象論としては進めるべきであ るが、具体的には日英の利害は必ずしも一致しておらず、通商貿易や移民といった分野にお いて日本はイギリス領内から排斥されているという現実であった。具体的には、日本製品(特 に綿糸、綿布、人絹、雑貨)の輸入量は、英領内で激減という目に遭っていた。鶴見は、こ のイギリスの代表的な人物であるロスの考えを佐藤尚武(1882‐1971)外務大臣に直接伝え、

日本の海外輸出貿易の前途に危惧を示した。823  以上のように、鶴見は、日本側の意見を海 外の政府要人に直接伝えたり、また、海外政府要人の意見を日本の政府要人に伝えたりとい う双方向の橋渡し役を務めた。

以上のイギリス要人との面会を受けて、鶴見は、日英親善の方策として、中国との関係を 見据えながら、佐藤外務大臣に以下の通り、提案した。

世界中で日英の貿易が衝突している原因の1つは、排日貨と高率関税によって日本の対支 貿易が減退し、また1929年のアメリカ株式大暴落によって日本の対米輸出生糸の需要が暴落 したために、日本の貿易が1932年以降急激に全世界に進出したからである。もし日英親善を 具体化するのならば、まず中国において日英協調を早急に始める必要がある。824  イギリス 側から考えた場合に、揚子江沿岸において日本と協力して、日本の対支貿易を回復させるこ とは、日本のイギリス市場に対する競争を緩和する一助となるため、イギリスにとっても利

益につながる。825

  また、満州と北支の問題については日本だけで解決できるが、中支と南支の問題について はイギリスを無視して解決することは困難であり、日英で協調する必要がある。その理由は、

1936年12月の西安事件以降の情勢は、中国自身が変化しただけでなく、第三国であるイギ リスが本腰で中国援助に進出した後であり、1936年春の日支交渉(日支和平交渉・松井試案)

の時とは相当変化したことから、以前と同様の項目で再び折衝することは日本にとってかな り困難な状況となっているからである。826

一方、イギリス側にとっても、日本を無視して単独で揚子江沿岸の問題を解決することは 困難である。イギリスが、日本に協力する形で揚子江沿岸地域において日本の対支貿易を回 復させることは、日本のイギリス市場に対する競争を緩和する一助となる。827

対中支援については、中国の政治的統一や経済的復興は日本としても共感できるし、それ に対して日本政府は列国に立ち遅れないように技術援助や日中経済提携を資金面から実質的 に行うべきである。その理由としては、①鶴見がロンドンで面談したイギリスの銀行家が、

ドイツとベルギーが四川省の鉄道に投資しつつある現状を鑑みて、イギリスも揚子江沿岸の 鉄道に投資せざるを得ないとして日本の協力を打診してきたこと、②イギリス政府海外貿易 局から、イギリスの貿易業者に資金の保証をするために、保守党の政治家であるカーク・パ トリック(Kirk Patrick)が中国に視察に赴いていたこと、③彼らが鶴見に語ったところによ ると、イギリスは10年後に海運業、陸上交通業、鉱山事業といった中国における有望な事業 に対して投資するために、この時点で資金を準備していたこと、といった背景があったから である。828

  以上のように、鶴見は佐藤外務大臣に提案した。

  鶴見は、今回の訪英で政治家や識者らに面談した際に、イギリスで軍備拡張熱がかなり盛 んであることを痛感した。保守党はもとより、長年軍備縮小のため闘っていた労働党までも、

熱心な軍備拡張を支持する意見に変っていた。戦争勃発の危険を感じる人が多数となり、彼 らは年来の軍縮支持の立場を捨てて熱心な軍備拡張論者となっていた。鶴見は、日本として はヨーロッパの戦争に巻き込まれないことと、日本が東洋平和の維持を根本方針とすべきこ とを痛感し、帰国後に議会で提言したのである。829

第2節  日本国内での活動

  1937(昭和12)年1月25日に、鶴見は宇垣う が き一成かずなり(1868‐1956)内閣に参画した。鶴見が 宇垣を擁立しようとした理由は、議院内閣制という民主主義政治体制を取る国でないと欧米 に認められないと考えていたからである。そのために、宇垣を政友会と民政党の2大政党の 上に頂き、「2大政党を一丸とし徹底的政治を実行」830することによって軍部を抑制し831、議 会政治を機能させ、英米との関係を改善し、「今日の日本の国際的信用失墜を救ふ」832という 狙いがあった。しかし、陸軍の反対によって宇垣内閣は成立することはなく、1937年2月に

ドキュメント内 untitled (ページ 130-159)

関連したドキュメント