骨髄移植ドナー体験記
骨髄移植は、大量の抗癌剤や放射線により白血病細胞を骨髄とともに完全に破壊し、
健康な他人の骨髄に入れ替えてしまうもので、移植が成功し、3年間再発しなければ、
白血病は完治したといえる現状では最も強力な治療法である。ただし、骨髄移植を成 功させるには、父とドナー(提供者)のHLA(Human Leukocyte Antigen人白血 球抗原)のうちA座、B座、DR座ができるだけ一致していることが必要である。H LAはそれぞれ対になって両親から半分ずつもらって出来上がっており、兄弟間では 最大4つの組み合わせができるので、4人の兄弟のうち1人の確率でHLAが一致す るが、HLAは、それぞれが数十種類あり、その組み合わせは数万通りになるため、
他人ではなかなか一致しない。これらが異なると、ドナーの骨髄が死滅する拒絶や患 者の体が攻撃を受ける移植片対宿主病GVHD(Graft VS Host Disease)が起こっ てしまい、移植は失敗となる。しかし、日本人は人種的にHLAの型が似ている人が 多いため、まれに親子間でも、一致するケースがあるとのことだった。
翌々日、私と弟はHLAの検査を受け、しばらく結果を待つ日々が続くことになっ た。1座不一致であっても移植は可能らしかったが、私は、この期間は、冷たい現実 からの一時逃避という感じが強かった。正月を迎えたが、医師からの話はなく、冷た い現実を知るのは、正月ではなく後がよいと思っていた。
翌年の1月13日、医師に呼ばれ、一緒に検査を受けた弟と2人で結果を聞いた。
私と父のHLAは、DR座の1座不一致で十分移植可能だった。実は、父と母のHL Aの片方がA座、B座ともに遺伝子レベルで一致していた。私のHLAは、半分は父 と全く同じ、もう半分は、A座、B座は父と遺伝子レベルで一致、DR座のみ不一致 という母のもので出来ていた。医師によると、数百人に1人くらいの極めて稀なケー スとのことだった。
喜んでいる私と弟に、医師は父の場合は、抗癌剤が効かない状態であり(見かけの 上で白血病細胞が消えている状態(寛解)ではなく非寛解という状態)成功率が低い こと。また、高齢のため、移植前に大量の抗癌剤を投与し骨髄を破壊すること(前処 置)やその後の感染症に耐えられず関連死の可能性も高いとの説明を受けた。さらに、
ドナーである私自身にもリスクがあるとの説明を受けた。平成4年に国内でドナーの 死亡事故があったことは私も知っていた。また、今まで骨髄移植のドナーの死亡例は 世界で4件あるとので、ドナーになることは、絶対に安全なこととは言い切れないと のことだった。しかし、このまま何もしなければ、きっと後悔することになると思い、
私は自分の骨髄を父に移植することを決めた。
移植するには、父の同意が必要であるし、また、移植治療について十分理解し、無
菌室で1ヶ月程度生活してもらう必要があった。父から本音を聞き出すため、医師か
ら説明してもらう前に、私と弟だけで父に話すことにした。1 父の病気は何もしなけ れば2〜3ヶ月で命が危ない病気であること。化学療法が効かず、このままでは死2
を待つしかなく、その時期はそれほど先のことではないこと。3 骨髄移植という治療 法があるが、無菌室内で1ヶ月近く生活する必要があり、また、必ず治るわけではな く、リスクもあること。以上を説明した後、父は私に「やってみて駄目だったら、7 0歳近く生きて来たのであきらめもつく。何もしないわけにはいかんだろう。母さん にもそう伝えてくれ。」と言った。数日前、同じ病気で父と知人になった人が移植治 療を受けることになっていたことも、父のやる気を引き出したようだった。
1月24日、ドナーとなるため、私は健康診断を受けた。エイズの検査もあり、感 染はありえないと確信していたが、結果を聞くと安心した。ただし、血圧が高く、心 臓が肥大気味であり、体重を1kgでも2kgでもよいので落として下さいと注意を 受けた。また、麻酔医との面談では、全身麻酔の場合、3万件に1回は死亡事故があ ることの説明を受けた。
2月20日と27日の2度、骨髄採取後に私の体に戻すための自己血を採取し貯血 した。貯血の量は一度に400mlだったが、貧血状態となり、回復のため鉄剤を飲み 続けることとなるが、医師の言うとおり胃腸の調子がおかしくなった。移植手術や長 期に会社を休むことへのストレスだったのかもしれない。
移植の日は3月13日と決まり、私は前日に入院した。父はすでに無菌室で前処置 を受けていた。病室では眠れないだろうと医師が睡眠薬をくれたので、それを飲んで 熟睡した。翌朝、緊張感からか、便が出ず、全身麻酔時に緩んで出てしまっては、医 師の皆さんに迷惑をかけ、そちらのほうが恥ずかしいため、浣腸してもらった。術衣 に着替えて待機していたが、術後に尿道に突っ込まれるカテーテルのことが気になっ ていた。移植に際しインターネットで骨髄移植ドナー体験記を読みあさったが、どの 体験記にもカテーテルはとっても痛いと書かれていた。
時間が来ると、私はベットに横になったまま手術室へ運ばれた。手術室に着くと、
よけいな不安を抱かせないためか、あっという間に体を固定され、麻酔薬を打たれた。
体が温かくなる感じがした。夢は見ないと聞いていたが、覚えてないが、何かの夢を 見たようだ。気がつくと手術は終わっており、病室に戻ると吐き気がして、何度か戻 した。すでに昼過ぎとなっていたようだ。しばらく意識がもうろうとしていたが、次 第にはっきりしてくるとカテーテルが気になってきた。体を動かす度に痛いが、だん だんその痛みが増してきたため、医師にはずしてくれるようお願いした。医師は「わ かりました。」と言ったが、すぐに部屋を出てしまい、戻ってきたのは若い看護婦さ んだった。彼女はかつて外科勤務していたとのことで、カテーテルに繋がっている私 を見て懐かしいと言っていた。
「取りますよ。」と言う合図のもと、ゆっくりと引き抜かれたが、あまりの激痛に つい声を出してしまった。看護婦さんから「きゃ。赤くなった。」とからかわれた。
抜かれたものを見ると、20cm以上体の中に入っていたようだ。その後、3日間は
用を足す度に激痛が走ることとなる。
骨髄採取のため、腰に針を刺されていたのでベットから出してもらえなかったが、
次第に尿意が増して来た。医師にトイレに行く許可を求めたが、尿瓶を使いなさいと 許可が出なかった。何度かトライしたが、尿瓶ではどうしても用を足すことができな かった。地獄の苦しみが続いた後、深夜になって看護婦さんの付き添いを条件に、ト イレ使用の許可が出た。そのため、美人の看護婦さんを横にトイレで用を足すことに なる。これまた大変困った状況であった。
3月16日、私は予定どおり退院でき、手術の時とても心配していたとのことで、
妻にも医師から特別に花束のプレゼントをもらった。移植後の父の状況は順調で、教 科書どおり18日目に正常な白血球が立ちあがり、一時は医師を含めて、皆で本当に 喜んだ。しかし、私の骨髄の成育は悪く、数ヵ月後、再移植が必要な状況となった。
11月になり、もう一度移植を行うか、移植は避け、弱い治療により白血病細胞を 抑えて行くかの選択をしなければならなくなった。一度移植を経験した父は、10歳 は老けたように見え、前回以上に移植関連死の心配があった。また、骨髄は、一座不 一致の私から提供を受けるしかなく、再度移植を試みても、また同じ結果となる可能 性もあった。しかし、少しでも可能性がある治療法があるのに避けてしまい、父の命 が救えなかったら、私自身、今後の人生の苦難を乗り越えることが出来ないと思うこ とを医師に訴えた。移植時には70歳になる父に対し、高リスクの移植手術を了解し、
大学病院の審議機関で決議してくれた医師に本当に感謝した。
今回の移植は、前回と同様では、また同じ結果となる可能性が高いため、前処置に 放射線照射を加えることとし、骨髄を移植する方法としては、末梢血幹細胞移植を行 うこととなった。この方法は、ドナーである私に、白血球を増殖させる薬(G−CS F)を投与し、白血球の数を4万/μlまで増やすことで、骨髄から血液中に出てきた 血球の元(幹細胞)を成分献血の要領で採取し、父に輸入するもので、骨髄移植が幹 細胞の卵を移植するのに比べて少し孵化したものを輸入する方法であり、移植後の白 血球や血小板の回復が骨髄移植と比較して早い方法である。ところが、健康人にG−
CSFを投与するにあたり、その長期的な安全性が解明されてないため、現在では家 族間でしか行われてなく、しかも、ちょうどタイミング運悪く、平成15年2月10 日に、末梢血幹細胞移植のドナー自身が、約1年後に白血病にかかってしまい、死亡 した事件が新聞で取り上げられた。私自身、あまりよい気はしなかったが、妻が不安 に思っているのがよくわかった。
今度は末梢血幹細胞移植のドナーになるため、1年振りに健康診断を受けた。結果 は、仕事のストレスからか、血圧が異常に高く、心臓が心肥大と診断されるまでに肥 大していた。また、脾臓が人の倍の大きさあり、白血球増殖により破裂の可能性があ るとのことだった。自分の心臓の大きさを見てビックリし、また、インターネット等