第 3 章 利子率の影響を考慮した経常収支の現在価値モデル
3.3. 実証分析結果
3.2小節で説明したデータを用いて,本小節では経常収支の現在割引価値 モデル(3-10式)を実証分析する.ここでは,(3-10)式を以下3つのモデルで検 証する.第1番目のモデルを「単純モデル」とし,このモデルで世界利子率の 変化は無視される.つまり, (3-10)式でγ =0の制約が課された「単純モデル」
は,従来の現在割引価値モデルと考えることができよう(e.g., Sheffrin and Woo,
1990; Otto, 1992; Ghosh, 1995).第2番目のモデルを「短期金融市場モデル」と
し,このモデルでは(3-10)式の利子率がG7の短期金融市場金利から計算された 世界利子率で置き換えられる.3番目のモデルは「株式市場モデル」であり,代 表的個人の資本貸借は世界株式市場を通じて行われると考える.「株式市場モ デル」では,(3-10)式の金利としてG7のデータから計算される株価収益率を考 えている.短期金融市場モデルでは,比較的低リスクで低リターンが期待され る資産市場で,代表的個人が資本貸借を行うことが想定される.一方の株式市 場モデルでは,比較的高リスク高リターンである株式市場を介して,代表的個 人は資本貸借を行うと考えられる.「短期金融市場モデル」と「株式市場モデ ル」の双方を実証することで,代表的個人の資産市場に対する選好の違いを考 慮する.例えば,株式市場モデルの説明力が相対的に高ければ,そのことは,
高リスク高リターンな資産に対する,代表的個人の選好を示唆すると考えられ
る.尚,株式収益率rsの平均は3.77パーセントで,標準偏差は22.47である.
それに対して,短期金利rmの平均は2.06パーセント,その標準偏差は2.07であ る.このことより,本章の分析サンプル内では,短期金融市場に比べて,株式 市場は高リスク高リターンな市場であると考えられる.
また,短期金融市場の利子率と株式市場の収益率を比較検証することで,
それらの情報としての性質の違いにも注目できる.すなわち,それら金利,収 益率が,代表的個人の恒常所得に関する情報を含むものであれば,それらは代 表的個人の消費行動と密接な関係があると考えられる.したがって,それらを 異時点間モデルに導入した場合,そのモデルの予測力は向上することが期待さ れる.仮に, Hall(1978)が指摘したように,株価収益率が,恒常所得の情報変数 であるならば,それを,代表的個人の消費の予測変数としてモデルに導入する ことで,異時点間モデルの予測力向上が期待される.
(3-10)式を実証するには,「単純モデル」では∆ ,no ca∗の2変数VARモデ
ルを推定し,3カ国それぞれの係数行列Aを得る必要がある.これと同様に,「短 期金融市場モデル」で∆ ,no ca r∗, m,そして「株式市場モデル」では∆ ,no ca r∗, sの 3変数VARを推定する必要がある.ここで,情報基準統計量(SIC)に基づき VAR モデルのラグの長さは,全てのケースでラグ1と決定される.VARの推定結果 は表3-3である.
*****表3-3*****
次に,VARの推定係数行列を用いて,各現在割引価値モデルが予測する 経常収支を計算する.各現在割引価値モデルの実証結果は,表3-4に要約される.
*****表3-4*****
表3-4の3列目には,経常収支の実現値(ca*)の分散に対する各モデル予
測値(caˆ*)の分散比が報告されている.分散比は,現実の経常収支の変動を,ど
の程度モデル予測値が説明するかを判断する指標である.そして,その比が1 であるモデルは,現実の経常収支の変動を完全に説明していると考えられる.
「株式市場モデル」以外の全てのモデルで,表3-4での分散比は1を超えるかそ れ以下である.分散比が1を超えた場合(英国,日本の単純/短期金融市場モ デル),モデルの予測する経常収支が現実のものよりもボラタイルであること を意味する.この場合,モデルが予測する代表的個人の最適化行動を達成する 程には現実の経常収支は変化していない.つまりは,分散比が1より大きいと き,国際間の資本移動規制など,最適化行動を阻害する何らかの要因が存在し,
それらが,異時点間での最適な消費配分を妨げていることが示唆される.一方 で,分散比が1以下である場合(カナダの単純/短期金融市場モデル),モデ ルが予測する最適な水準よりも大きく現実の経常収支が変動している.すなわ ち,代表的個人の最適化行動を達成させる以上の水準で,現実の経常収支は変 動する.この事実と同様の実証結果を得たGhosh(1995)では,外国為替市場での 投機の存在によって,短期的な経常収支がボラタイルなものとなる可能性が指 摘されている.
以上で説明したように,単純/短期金融市場モデルの分散比は,それぞ れのケースで統一的でなく,それらモデルに画一的な評価を下すものではない.
それに対して,「株式市場モデル」では,分散比は1であるとする帰無仮説が 全ての国のケースで棄却されない.分散比に限れば,「株式市場モデル」は,
現実の経常収支の変動を完全に説明しているといえよう.このことから,他の
2モデルに比べた場合の「株式市場モデル」の当てはまりの良さが強調される.
表3-4の4列目は,それぞれの現在割引価値モデルの成立を帰無仮説とし たワルド(Wald)統計量である.日本のケースで「単純モデル」ならびに「短期金 融市場モデル」はそれぞれ1%,5%有意水準にて棄却され,それら2モデル は統計的に支持されない.その一方で,「株式モデル」は,3カ国全てのケース で棄却されない.このことは,分散比の場合と同様に,「株式モデル」の説明 力の高さを支持するものである.
そして,表3-4の5列目は,パラメータγ の値である.(3-4)式より,
パラメータγ は,利子率の変化に対する消費の異時点間代替の弾力性と解釈され る.一般的には,パラメータγの値として正の値が事前に想定される(e.g., Hall, 1988).即ち,利子率の上昇による貯蓄の魅力上昇が,現在の消費の一部を貯 蓄へと振り替える動機となる.この結果として,利子率の上昇によって現在の 消費は一時的に減少すると考えられる.しかしながら,「株式モデル」のカナ ダを除く全てのケースで,パラメータγ がマイナスの値となっている.Hall (1988)が行った消費の異時点間代替弾力性に関する実証研究でも,多くのケース で,消費の異時点間代替弾力性の値はゼロもしくはマイナスの値になることが 報告されている.
現在の利子率(収益率)は,現在の消費を諦めることで将来の消費をど れだけ得られるかを計るものであるから,現在消費と将来消費の相対価格と看 做すことができる.すなわち,現在利子率(収益率)が高いほど,将来の利子 収入を放棄して現在の消費を行うことは,より高価なことと考えられるから,
現在利子率(収益率)の上昇は,将来消費に対する現在消費の相対価格を上昇
させる.ここで,現在の消費をC0,将来のそれをC1とする.∆ =C C1 −C0とすれ ば,消費の異時点間弾力性がマイナスである場合,現在の利子率(収益率)の 上昇∆ >R 0に対して,以下の関係が成立する.
/ 0 0
C R C
∆ ∆ < ⇔ ∆ <
ここで,∆ < ⇔C 0 C0 >C1であるから,現在利子率(収益率)の上昇は,現在消 費を増加させるか,もしくは,将来消費を減少させるかである.
前者の現在消費が増加する場合,現在利子率(収益率)は将来消費に対 する現在消費の相対価格であるから,現在消費は,現在の利子率(収益率)で 表される現在消費の価格上昇に対して消費量が増加するギッフェン財であると 考えることができよう.このように現在の消費がギッフェン財となることは,
以下のように解釈される.すなわち,後で説明するように利子率(収益率)が 恒常所得に関する情報を含む情報変数であるとすれば,代表的個人は利子率(収 益率)の上昇から恒常所得の上昇を予測する.その予測値が実際の恒常所得よ りも過大である場合,その過大に予測された恒常所得によって決定される現在 の消費 C0は,一時的に恒常的な水準を上回ると考えられる.そして,将来的に は恒常所得の過大予測は修正され,実際の恒常所得に基づいた消費水準 C1が実 現する.その結果,利子率(収益率)の上昇に対して,現在消費 C0と将来消費 C1との間に,C0>C1の関係が成立する.つまりは,利子率(収益率)の上昇によ って,代表的個人が恒常所得の増加を一時的に過大予測することで,その過大 に予測された恒常所得に基づく現在消費は,一時的に恒常的な水準を上回ると 考えられる.
また,後者の将来消費が減少する理由としては, Summers (1981)によっ
て指摘された人的資本効果(human wealth effect)が考えられる.人的資本効果 では,実質利子率の上昇が現在価値での恒常所得を減少させることに注目する.
そして人的資本効果では,その恒常所得の減少を補うように貯蓄がなされると 考えられる.ここで,その人的資本効果が,複数期にわたって継続するもので あるとしよう.その継続的な人的資本効果によって,実質利子率の上昇は,複 数の期間で貯蓄の増加をもたらす.そして,現在と将来の所得が等しいとして,
現在の貯蓄よりも将来の貯蓄の方が多ければ,将来の消費C1は現在の消費C0
よりも少なくなると考えられる.その結果,消費の異時点間代替の弾力性は負 になる可能性がある.59
最後に,3つのモデルの説明力を視覚的に検証する.図3-1は英国,図 3-2はカナダ,そして図3-3は日本で,3つのモデルの予測値と現実の経常収支 をそれぞれ比較したものである.同一国内の図において,3つのモデルを同じ基 準で比較するために,縦軸の長さは一定値に固定されている.例えば,図3-1 の英国で,(a)から(c)で示される3つのモデルの予測値をプロットした図の縦軸 は,いずれも同じ尺度に固定されている.表3-4での考察結果と同様,いずれの 国でも「株式市場モデル」の当てはまりのよさが際立っている.特に,日本の ケースでは,「単純モデル」「短期金融市場モデル」に比べた,「株式市場モ デル」の当てはまりの良さは際立ったものである.
59 本章で実証分析に用いる効用関数では,相対的危険回避度が消費の異時点間代替の
弾力性( )γ の逆数となる.これに対する解決策としては,異時点間代替の弾力性と相対 的危険回避度を別々に推定可能なKreps-Porteus型の効用関数を用いたモデルへの発 展などが考えられる.これによりパラメータに関するより適切な推定値が得られ,経済 理論と整合的な実証結果が得られると期待される.この点については,今後の課題とし たい.