第 2 章 研究課題
2.2. 実行機能モデルの転換
第二に,抑制のメカニズムに関する最大の問題は,実行機能としての 抑制という位置づけが崩れたことである。これは実行機能に含まれる機 能が,認知神経科学的な研究と心理学的な研究の双方において捉え直さ れたことによる。これまでの理論では,実行機能,つまり前頭葉が目標 に応じた処理を制御する主体と考えられてきた。このように考えると,
この主体がどのように目標を認識し,処理を選択するのかという問題が 生じる。つまり,どのように処理が制御されるのかについての議論が棚 上げされてしまう。この問題はホムンクルス問題(Hazy, Frank, O’Reilly, 2006)と呼ばれる。
認知神経科学の領域から,Hazy et al.(2003)は,前頭葉の働きが,処 理の制御ではなく,目標情報の維持であることを主張している。前頭葉 を含む脳は,ニューロン間のシナプス結合により情報伝達をおこなって
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おり,結合は可塑性を持っている。前頭葉の機能は目標や文脈に関連す る情報(abstract information)を維持するような働きであり,維持された 目標との結合が強い領域に対して興奮性の投射がおこなわれる。これに より処理が実行される。つまり,前頭葉は何らかの処理を実行しようと するのではなく,目標を維持することで目標に関連する処理を担う脳領 域を賦活させていることが明らかとなった。
これに基づき Munakata,Herd,Chatham,Depue,Banich,& O'Reilly
(2011)は,脳神経系における抑制の新しいフレームワークを提示した。
彼女らによると,神経系では二つの作用によって抑制がおこなわれてい る。一つは,前頭葉が“反応しない”という目標を維持した時におこな われる働きで,前頭葉によりその反応に該当する処理系全体の活動が低 下される(global shutdown)。もう一つは,ニューロン間の競合に対する 作用で,前頭葉の維持した目標に合致する領域に興奮性の投射がおこな われたときに,ターゲットとするニューロン群以外のニューロンの活動 を抑える働きである(competitive inhibition)。競合するニューロンの抑制 は,前頭葉の機能によって実行されるのではなく,ニューロンの構造上 の性質による。前頭葉からの投射によりターゲット領域が賦活されると,
それらのニューロンの賦活をトリガーに,抑制性の介在ニューロンを通 じ周辺のニューロンの活動を低下させる。この二つの働きにより神経系 の抑制が働いていると考えている。
記憶の想起に関しては,このうち競合抑制の働きが指摘されている。
例えば,Munakata et al.(2011)は,読書中の多義語の意味の選択といっ た意味記憶の選択的想起において競合抑制の関与を認めている。記憶想 起時の抑制が競合抑制であるとすれば,実行機能,すなわち前頭葉の直
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接的な機能として抑制を捉えてきた従来の抑制モデルと異なるものであ る。
神経系のモデルを認知モデルに安易に流用すべきでないことが指摘さ れているが(McLeod, 2007),Munakata et al.(2011)に先行して心理学 的研究からも同じ指摘がされている。これまで,心理学的な実行機能の モデルでは,実行機能は抑制,更新,転換の3つの機能によって構成さ れていると考えられてきた(Miyake et al., 2000)。Miyake & Friedman(2012)
はMiyake et al.(2000)のモデルを修正し,実行機能に固有な機能は更新
と転換であり,抑制はこれらに媒介される働きであると結論づけている。
このようなフレームワークの転換は抑制のメカニズムにとって重要な 意味を持つ。抑制を実行機能として捉えることは,抑制の働きには実行 機能と同じメカニズムを適用することができた。つまり,不要であると いう目標に基づいて能動的におこなわれる処理と考えることができた。
実際のデータも,ワーキングメモリ容量との相関や二重課題における課 題成績の低下を示し,実行機能に必要な処理資源を抑制が消費している ことを支持するものであった。そのため,抑制のメカニズムに関する研 究では,資源依存的な処理という枠組みを前提として実験結果が解釈さ れてきた。
例 え ば , 実 行 機 能 に よ る 競 合 低 減 の 考 え は Roman, Soriano, Gomez-Ariza, & Bajo(2009)が検索経験パラダイムを用い実験的に検討 している。彼らの実験では,検索フェーズ時に二重課題法を実施すると いうものであった。二重課題法では単一の課題を実施する統制条件と同 時に二つの課題をおこなう実験条件の差を比較する。実行機能は処理資 源を消費するために,実験条件では二つの課題に資源が配分される。一 方,統制条件は一つの課題が資源を占めることができる。そのため,抑
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制が実行機能であり資源を消費する処理であれば,実験条件の成績は統 制条件を下回る。Roman et al.(2009)の実験では,通常の検索経験パラ ダイムを実施した統制条件と検索フェーズに二重課題を課した実験条件 の検索誘導性忘却を比較したものであった。抑制が競合低減を目的とし た実行機能であれば,二重課題時には抑制,つまり検索誘導性忘却が消 失するという仮説であった。実験の結果,二重課題条件では検索誘導性 忘却が示されず,彼らは,抑制が競合低減を目標とした実行機能によっ て働いている考えを支持する結果と結論している。
しかし,この結論には議論の余地が残されている。抑制理論では手が かり再生の遂行に抑制が必須と考えている。抑制が二重課題により阻害 されれば,検索フェーズでの手がかり再生は失敗することが予測される。
このため,実行機能によって抑制が制御されているのであれば,二重課 題条件では手がかり再生率が低下するはずである。しかし,彼らの実験 において検索フェーズの手がかり再生率は二重課題条件と統制条件の間 に差が認められていない。つまり,実験の結果は両条件とも抑制が働い ていることを示しており,抑制が実行機能ではないことを示唆している と解釈できる。したがって,Roman et al.(2009)の結果は,Munakata et al.(2011)やMiyake & Freidman(2012)の抑制が実行機能の直接的な機 能ではないという知見を実験的に支持したものと考えられる。
これらのことから,抑制のメカニズムを検討するためには,抑制が実 行機能であると仮定することで生じる前提を除いて検討する必要がある と考えられる。