7.1. 要 約
序論において,不要な記憶を脱活性化するという抑制の定義を踏襲し たうえで,近年の議論を参考に記憶検索時の抑制処理のメカニズムに関 する仮説を提示し,これを検証した。これまでは記憶検索と抑制は長期 記憶とワーキングメモリの領域それぞれ扱われてきたが,本論文では
Three-Embedded-Components model に基づくことで共通の枠組みから論
じた。すなわち,長期記憶検索はワーキングメモリに記憶を維持するこ とであり,ワーキングメモリ及び短期記憶検索はワーキングメモリ内の 情報に選択的にアクセスすることと捉えた。このように考えると,ワー キングメモリの抑制も長期記憶の抑制も,ワーキングメモリに記憶を維 持するときに必要な働きと考えることができる。
この枠組みから,抑制メカニズムの仮説を構築するにあたりこれまで の抑制の理論が扱ってこなかった二つの理論的問題の解消を試みた。一 つは,どのように抑制の対象となる記憶を同定しているのかという問題 である。本論文では,不要な記憶が選択されて抑制されるのではなく,
必要な記憶を選択した結果その他の記憶に対して抑制処理が働くと考え この問題を解消した。すなわち,記憶検索には必要な記憶を選択するこ とで達成されており,抑制は選択の副作用として捉えた。この仮説につ いて第5章で実証研究をおこなった。
二つめの問題は,実験手続きが仮定している抑制の効果が持続すると いう定義との矛盾の問題である。記憶の脱活性化という定義には,その 効果が持続することは含まれていない。しかし実験手続きの多くは持続
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を仮定しており,実際に効果は持続していると考えられる。よって,抑 制メカニズムは,一時的な記憶の脱活性化が長期的な効果をもたらすの かを説明する必要がある。この問題について,検索誘導性忘却の先行研 究を手がかりに,持続性を記憶構造の変化として説明できることを論じ た。そして,記憶構造が生じる条件が,結合している記憶の一方が選択 され他方が抑制されることであるという仮説を立てた。この仮説につい て第6章にて実験的に検討をおこなった。
序論の最後には,これらのメカニズムを備えるためには抑制を機能的 なものではなく,記憶構造の性質と捉える必要があることを論じた。記 憶は,選択されると他の記憶を抑制する性質を持つものとして考える必 要がある。このような考えは側抑制と呼ばれるものであり,記憶に関す る認知神経科学の研究(Munakata et al., 2011)や計算論モデル(Norman et al., 2007)の枠組みと一致するものである。
本論では仮説を実験的に検証するために,一連の実験をおこなった。
実験的検証にあたっては,抑制の効果をワーキングメモリから不要な記 憶 が 排 除 さ れ て い く 過 程 を 通 じ て 検 討 す る こ と が で き る Modified Sternberg taskを用いた。第4章では,Modified Sternberg taskの再現性を 確認するとともに,仮説検証に有効なタイムコースを推定した。加えて 説明仮説の妥当性を検証した。研究の結果,抑制の検討に有用であるこ とが示された。また,仮説の基盤となる Three-Embedded-Components
model ではワーキングメモリ内容が記憶間の結合と捉えるが,この考え
を支持する結果が得られた。
これ以降の実証研究では仮説の根幹となる,抑制の作動条件と事後効 果の原因について検討した。序論において提案した抑制の作動条件は,
必要な記憶の選択であった。この仮説は,抑制に選択して必要な記憶の
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選択がおこなわれると考えることを意味している。第5章の研究の結果,
必要な記憶を選択する過程が遅延すると損分だけ排除が完了するまでに 時間を要することが示され,仮説は支持された。続く第6章では,記憶 構造の変化は,選択された記憶と抑制された記憶の結合の強度の低下に よっておこるという仮説を検証した。研究の結果,記憶間の結合の強度 の低下を観察することに成功した。加えて,結合の強度の低下は,排除 の完了にかかわらず生じることから,結合を形成する一対の記憶間で処 理が異なることこそが結合の強度の低下の原因であることが推察された。
7.2. 学術的意義
本論文から,抑制の作動条件が明らかとなった。抑制の作動条件は必 要な記憶を選択することであり,必要な記憶の選択に先行して抑制が働 くというこれまでの仮定を覆すものであった。必要な記憶の選択に先行 して抑制が働くという仮定はどのように抑制対象を決定しているのかが 説明できないという問題を解消できると考えられる。
また,抑制の事後効果がなぜ生じるのかが明らかとなった。これまで の研究では,抑制を活性化を低下する働きと定義しながら,抑制された 記憶は後に活性化されづらいという仮定のもと,長期的な効果から抑制 のメカニズムを推測してきた。しかし,研究6と研究7の結果は,抑制 が働くことによって記憶構造が変化したことを示している。よって,持 続する抑制の効果というのは,抑制の定義に一致する活性化の低下では なく,その結果もたらされる記憶構造の変化である可能性を指摘できる。
これらの知見をまとめると,抑制は選択によって作動し,一方が選択 されることで他方が抑制され,その結果記憶間の結合が低下することに なる。これは検索誘導性忘却のニューラルネットワークモデルと同じ図
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式であり(Norman et al., 2006),同時に認知神経科学における抑制のフレ ームワーク(Munakata et al., 2011)とも一致するものである。したがっ て,本論文は,行動的に観察される記憶の働きが,神経系における抑制 や記憶の計算モデルの一つである競合学習と共通の振る舞いを見せるこ とを実験的に示したものと考えられる。
また,この知見は伝統的な長期記憶の検索理論と対立するものではな い。長期記憶の検索理論では,再生確率は手がかりと記憶間の連合強度 によって規定される。この連合強度はレシオ・ルールと呼ばれる比によ って表される。すなわち,手がかりとターゲットの記憶の連合強度は,
手がかりと連合する全ての競合記憶の連合強度の総和に対する比によっ て規定される。つまり,手がかりとターゲットの連合強度が強まれば,
相対的に手がかりと競合記憶の連合強度は低下する。このように,伝統 的な連合理論においても選択される記憶間の強化と選択されなかった記 憶と選択された記憶間の相対的な連合強度の低下を想定している。本論 文における結合の強度の低下は,長期記憶理論における相対的な連合強 度の低下を,抑制を想定することで絶対的な強度の低下として表現して いるに過ぎない。よって,長期記憶の検索理論とも多くの部分において 共通すると考えられる。ただし,絶対的な強度の低下を想定することで,
忘却の原因を干渉だけではなく,記憶の消失という観点も含め多面的に 検討できるようになると考えられる。
7.3. 展 望
最後に今後の課題を挙げる。第一に,本論文で示した抑制のメカニズ ムを,刺激が提示され続けている場合にも適用できるのかを検討する必 要がある。本論文で扱った抑制メカニズムは記憶に関するものであった。