第五章 「即如」の理念
4 宗教的否定
論文「種々なる宗敎的否定」において柳は,東洋思想に特有の「否定道」の 立場によりながら,キリスト教の思想を解明しようとする。柳によれば,否定 はすべてを無にして神をありのままに受け入れることであり,神と不二であろ うとする要求である。
「基教に於ても回数に於ても凡ての深い宗教家は所謂
Via Negativa
によつ て神を語つてゐる。冥想に富む思索者は神に関する最後の思想に於ていつも否 定の神秘に帰ってゐる。……余は人々が殆ど忘却した基教の否定道に就て埋もれた多くの真理を発かうと思ふ。是等の真理は却て東洋の地に温い理解を受け るであらう。西欧の宗教に現はれた種々なる宗教的否定を叙述するのが此篇の 目的である。54)」
この論文にはアウグスティヌス55),エックハルト56),ディオニシウス57), エリウゲナ58),タウレル59),ゾイゼ(ズーゾー)60),ロイスブルーク61),ベ ーメ62),フランシスコ63)等,多くの思想家の言説が援用されている。しかし ここではその個々についての検討ではなく,柳自身の説くところを追うことと する。
柳はいう。
「凡ては神から流れ出るが,凡ては神に復帰るのである。神に休らう時が最 後の帰趣である。運命の祝福は此休止の内に横へられる。此時神と余との区分 すらないであらう。之が純な「一」の経験である。純に一つなる故に名づけ得 る何ものもない。一切は無である。否定とは実に神との直接な交合と云ふ意で ある。静慮は此の法悦である。此時実に余が在るのではない。神が在るのでも ない。二者不二であつて云ひ得る言葉を持たぬ。宗教的経験は未分の経験であ る。否定の体認である。64)」
約言すれば「否定に於て人と神とは一つに交はる65)」のであり,「未だ「造 らず造られない」神性に於て有と無とは同一である。善と悪とは不二であ る。66)」
「余が無為である時神の為が現ずるのである。余が余を忘れる時余は神を覚 えるであらう。余は余に死なねばならぬ。此死こそは神に於ての生である。余 及び余のものがある時,余は神を失ふのである。余が静なる時,神は余の内に 忙しいのである。余を空しくする時神は余を充たすのである。余が凡てを離れ る時神が余に近づくのである。67)」
同様の趣旨のことは次のようにも説かれる。
「何物かを余が所有する時,何事かを余が思弁する時,神は去つて余を離れ るのである。一切は彼の前に否定され,只彼のみが赤裸々にあらねばならぬ。
凡てが忘れられるその刹那が神を迎へる刹那である。68)」
すなわちすべてを忘れ神をも忘れるとき,人と神とは不二のものとなる。
また柳は次のようにも説く。
「何ものも所有せず,唯一の所有が神である時之が聖貧である。何ものも彼 の手に無い故の貧である。しかし彼の所有する凡てが神である故に聖貧である。
貧に於て凡ての私は忘れられる。只神のみがあるからである。自然を見て美し と感じる刹那,人は自己をさへ忘れるであらう。之が美である。神に凡てを忘 れるのが貧の密意である。69)」
「此世に貧であるとは神に於て豊であるとの意である。聖貧とは富有であ る。此矛盾の真理に凡ての密意は包まれてゐる。貧なれよとの声は神に於て富 めよとの声である。私欲の富こそ神の眼には恐るべき貧しさであらう。……私 の所有を貪るものは神の所有を すのである。余が何ものをも求めない時,神 は余の為に凡てを求めてゐるのである。余は貧しきまゝにして富有である。70)」 そしてこの論文の末尾に近い部分には「即如」の語が次のように使われてい る。
「人は彼の思想に於て即如を画いてはならぬ。それに加へられる凡ての証明 は残りなく無益である。即如は真に「離言自証」である。証明を要するものは 宗教的真理とはならぬ。証明せらるゝ真理は相対に過ぎぬ。理知は即如の前に 盲目である。ここでは思想の尽きる所が真理の確立である。即如は理知の対象 とはならぬ。即如は凡ての疑ひを許さぬ。71)」
「科学は対象に活きるが宗教は相即に活きる。沈黙に於て即如と余とは未分 である。72)」
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「即如の種々なる理解道」
この論文は論理道(序)にはじまり,否定道,矛盾道,逆理道,未生道,象 徴道,沈黙道の全
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節から成っている。序の「論理道」において柳は,「論証によつて始めて知解し得る真理に私は最 後の愛を贈ることは出来ぬ。否,証明し得るが如き真理がこゝにあるなら,私 はそれを宗教的真理とは認めまい73)」とし,「宗教的真理とは自明なる真理と の意である。之は証明を許さぬ真理である。74)」とする。すなわち柳によれば 解明の必要な真理,あるいは分明にすることのできる真理は宗教的真理とはな らない。
「人はニュートンの法則を信ずると云ふが如き「信」を以て神を信じてはな らぬ。宗教の真と科学の真とは全然別義である。75)」
この意味で即如は知の対象とはなりえない。知が即如を省みるとき,すでに 即如ではないものを想いつつある。
「即如に加へる分別は二を与へるのみである。私は分明な真理にも私の信仰 を托す事は出来ぬ。私の霊は「一」を要求する。76)」
「論理は彼を与へ是を与へる。然し彼もなく是もなき時のみ真理はひとり絶 対である。77)」
「分明にせられた内容とは只相対義に過ぎぬ。彼是を択ぶ知の解明は信にと つては却て暗黒である。論理の取捨揀択は自明なものを閉ざすに過ぎぬ。78)」 このように柳は「論理道」を退けた上で,上述の
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個の道を提起する。「論理 道」を「彼か是か」として示すなら,「否定道」は「彼に非ず是に非ず」であり,「矛盾道」は「彼にして且つ是」である。また「逆理道」は「是なくしてある 彼」「彼なき是」であり,「未生道」は「彼是未生」である。そして「象徴道」
は「彼の如く又是の如し」であり,「沈黙道」は「彼も是も黙する」となる。79)
以下これらについて順次見ていくこととしたい。なおこの論文においても前 節の「種々なる宗教的否定」と同様,多数の思想家の言説あるいは文献が援用 されている。前節にあげたものに加えて,東洋のものとして,リグ・ヴェー ダ80),ヤージュニャヴァルキャ81),楞伽経,維摩経,大乗起信論82),竜樹83), 吉蔵84),ジャーミー85),カビール86)等がある。
○ 否定道(Negative way)
「一もなく二もなき境こそ絶対の「一」の住所である。87)」
すなわち区別でき,分析できる内容は即如の理解にはならない。即如の「一」
は分けられずに理解されねばならない。「あれ」でもなく「これ」でもない世界 が即如の世界である。否定が「一」である。
「「彼是」は二であるが「非彼非是」が「一」への道である。即如の神秘を味 う者が順礼に旅立つ時,通り過ぎるのはいつも此否定道である。宗教が深い思 索に現はれる時,それは基教であると回教であると仏教であるとを問はず,凡 て否定の道を選ぶのである。88)」
即如はどのような言葉にも映らない。言葉の否定にこそ彼は映る。
○ 矛盾道(Contradictory way)
「否定道は両極倶絶に一を捕へたが,矛盾道は両極相即に一を求めるのであ る。89)」
「あれ」でもなく「これ」でもないものは,「あれ」であってそのまま「これ」
である。即如においては拒ける矛盾も排すべき中間もない。どこにも争うべき 二つはなく,すべては結ばれて一つとなる。
「論理は矛盾を厭ふが,宗教は矛盾を容れる。分別が求める「彼」は「是」
への対辞である。然し信仰は「彼」と「是」とを一つに流れしめる。論理が矛 盾と見做すものこそ直ちに和合である。人々が呼んで矛盾道と云ふものこそ温 かい神秘道である。吾々は即如に於て排斥すべき矛盾を持たぬ。否,矛盾の内 裏にこそ却てその面目を鮮かに見るのである。90)」
「凡ての区分は人為である,反省の所産である。先験の世界に於ては凡てが 愛である。数なき「一」があるのみである。91)」
どのような理由が善と悪,右と左,汝と私を分けるのだろうか。あるがまま の自然に,このような区別は存在しない。矛盾は二ではなく一であり,「一」は 思惟されることなく解されねばならない。矛盾は知にとっては単に暗黒に過ぎ ない。しかし知見を越えるなら,矛盾は光明に輝く。
「私が黙する時神は凡てを語るのである。真の言は不言の言である。私が口 を塞ぐのと神が答へるのとは同じ意である。即如を説かんとなれば,不言のまゝ に説かねばならぬ。分別は僅かな説明に過ぎぬ。沈黙がより確実な解答である。
私が黙し余が静であるとは,神が語り神が動くとの意である。92)」 「私が自らに休むとは神をして凡てを働かしめる意である。93)」 「私が為すなきとは神をして凡てを為さしめる意である。94)」
○ 逆理道(Paradoxical way)
「絶対を求めんとすれば「彼に対する是」はいつか「彼なくしてあり得る是」
に転ぜねばならぬ。自律する「是」を求めるものが歩むその道を,私は逆理道 と呼ぶのである。