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因幡の源左

ドキュメント内 柳 宗悦の民芸論(Ⅶ) (ページ 75-87)

第四章  「妙好品」について

5   因幡の源左

 昭和

23

年,柳は鳥取を訪れた際,源左63)という妙好人の存在を知った。そ こで翌年再び鳥取へ赴き,源左についての資料収集を行なった。これには縁故 者からの聞き取りも含まれている。この成果として出版されたのが『妙好人因 幡の源左』である。この中には例えば次のような箇条がある。

 「六 大豆畑

 或日源左が家路を急いで帰って来ると,知らぬ馬子が源左の大豆畑に馬を入 れて食はせてゐる。源左,「馬子さんやあ,その辺は赤くやけてゐるだで,先の 方のもっとええのを食はせてやんなはれ」。馬子は逃げるやうに,いんで了 った。64)」

 「三三 可愛げがない

 光輪寺の奥さんを,人が可愛げがないと云ふのを聞いて源左,「可愛げがない 可愛げがないって,ある方が出しやええがなあ」。

 三四 風呂

 風呂加減が少し熱い時,源左,「しっかりしてええがのう」。ぬるい時,「ぼん やりしてええがなあ」。飯が堅くたけた時,「おらあ,おこわが好きでやあ」。じ るい時,「おらあ,お粥がええ」。醤油がからい時,「塩の多いのは体にええ」。

醤油が足りぬ時,「余計食べられて,ええでのう」。

  (「じるい」,どろどろする。)

 三五 飯と餅

 「お爺さん,飯だで」と云ふと源左,「あゝあゝ,飯よりうまいものがあるか いや」。「お爺さん,餅だで」と云へば,源左,「あゝあゝ,餅よりうまいものは あるかいや」。65)」

 「六四 荷物持

 源左は山越しなどする時,よく人の荷物を持ちたがった。「その荷物,ちっく り持たしてごしなはれなあ。」

 彼はよくかう云った。「山越の時,人の荷物持をすると,源左は盗まにやええ がと思ってついて来るで,お慈悲の話が出来てのう。」

  (「ちっくり」,一寸。)

 六五 山越

 或日,源左が山越に我家に帰る時,子を負ひ,両手に荷を持った女が通りか かった。「あねさんや,その荷物おらあに持たしてごしなはれ。」女は気味悪く 思ったが,お念仏の声に安心して,促されるままに荷物を渡した。「あねさんや,

是を持たせてもろうた代りに,有難い話を聞いてつかんせえ」。さういって法話 をしいしい峠を降りた。分れる時,「ようこそ持たせて下さんした。有難うござ んす,ようこそようこそ,なんまんだぶなんまんだぶ」。66)」

 同書の内「源左の一生」の中で柳はいう。

 「吾々は自分に執着する。執着すればこそ凡夫だとも言へる。併し凡夫が凡 夫を脱れ得ないほど凡夫だと分る時,執着する必要のないほどの醜い自分を見 出すであらう。かうなると場面が変る。言ひ張ったり欲を出したり怒ったり争 ったりするのは,自分の方が上だと考えた昔のことになる。自分の愚かさ弱さ が分ると,出す自分の姿がなくなる。凡てのものは自分の上にある。凡夫は慚 愧と謙虚とに下る。ここで世界が転倒する。自分が受けるどんな苦痛も,当然 受くべき苛責である。怨みも怒も消えてゆく。それが現れたのは,自分が他人 より上だと考えてゐた時の出来事に過ぎない。堪忍の徳など持ち得ないほどの 凡夫だと分ると,自分が他人に堪忍して貰ってのみゐる自分を見出す。凡夫に とっては何もかも恵みに変る。凡夫の自覚と感謝の生活とが一つになる。67)」  「凡夫を弥陀は招く。誰よりも招く。その凡夫は源左である。それ故に誰よ りも源左を招く。源左に残るものは弥陀へ自らを仕せることである。弥陀に帰 命することである。南無阿弥陀仏の六字だけが残る所以である。南無は帰命の 心,阿弥陀仏は大悲,之が結ばれるのが六字。だから六字以外に信心の生活は ない。六字以上には何も要らなくなる。之が「たった一つ」源左に与へられた 持物である。行住座臥「南無阿弥陀仏」。之が源左の一生であった。68)」  さらに柳は才市と源左を比較する。

「共に山陰の生れであり,殆ど同時代の人であり,何れも西本願寺の門徒で あった。だが才市の性質は静的であった。昼は下駄作りにいそしみ,夜は「口 あひ」(歌)を記すのに時を忘れた。この単調な暮しを二十年も続けた。温泉津 の人ですら彼が何をしてゐるかを気付く者は稀であった。彼が行く所は寺以外 には余りなかった。彼は独り弥陀と日々を暮し,南無阿弥陀仏の中にのみ浸っ

てゐた。彼は彼の心の生活を只彼の歌に示した。それも見せるための作ではな かった。誰かが彼を伝へない限り,誰も彼を知る由がなかったであらう。だが 彼は彼の足らざる言葉の中に,無量の思想と自由な表現とを托した。……だが 彼が活きてゐる間,彼は殆ど世間とは没交渉であった。ほんの僅かの人が彼に 妙好人の姿を見た。否,彼には彼を人々に見せる気持はなかった。只々,夜な 夜な記す「口あい」にのみ彼は彼を語り,又彼を相手に語り合った。只ここで のみ彼は彼を十二分に現はした。源左とどんなに違ってゐることか。69)」  「源左は対蹠的であった。彼は才市が書いたやうな仮名すら書けなかった。

かくして文字の道を通して思索する機縁を持たずに終った。だが彼は動的であ った。知的ではなかったが行的であった。彼の信心は直ちに行ひそのものに深 まって行った。彼は絶えず聞法を怠らなかったが,同時に得たものを進んで人々 に届けた。彼が人に接することを好んだのは,之によって法話が出来るからで ある。才市が常に自らと会話し,自問自答してゐたのに対し,源左は好んで他 の人々と語らひ合った。彼を知らぬ者はその村には一人もゐなかった。否,彼 のゐた山根のみではなく,彼の足跡は遠くにも及んだ。彼は同行として著しい 存在であった。彼との縁にあづかることを人々は心待ちに待った。彼は寺から も大家からも百姓家からも招かれる身であった。彼は人々を仏縁に繋ぐことを 常に努めた。才市にはさういうことは殆どなかった。隣りの人ですら才市が何 をしてゐるかをよく知る由がなかった。彼は極めて静かであった。之に比べる と源左は常に動いた。

 だから源左は還相に自らを活かした典型的な妙好人であった。彼の法話は簡 単であって,彼の思想から別に新しい教学を汲みとることは出来まい。彼は只 純正な正常な真宗の教へをまともに受継いだ。只彼の偉さはそれを思想に培っ たのではなく,日常の行ひに深めて行った。それ故教へを行ひで理解したと云 ってもよい。この具体的な平凡な日々の行事の中に,残りなく教へを活かすと いふことは大変なことである。之に比べるなら学僧が学問で受取る如き,どん なに容易なことであらう。70)」

 源左については,『妙好人因幡の源左』の他に,昭和

25

年に鳥取民芸協会か ら発行された小冊子『因幡の源左』71)がある。これは昭和

24

年に柳が

NHK

鳥取放送局で行なった放送講演の原稿を印刷したものである。この中で柳は

いう。

 「源左が信じた他力宗とは何を指すのでありませうか。小さな舟で大海原を よぎる時,自らの力で櫓を漕ぐ者もありませう。併しその力がない者は,自然 と吹く風に帆を孕ませて進むより道がないでありませう。自らの小ささ,弱さ,

汚なさを気付く時,即ち自らの力で自らを救ひ得ないことに気付く時,即ちや くざな自分を捨て切る時,自らを超えた力に包まれているのを気付きます。凡 夫はかゝる慈悲に身を打ちまかすより道はありませぬ。この道を教えるのが念 仏宗で,この大悲を阿弥陀如来と申します。南無阿弥陀仏とは,その阿弥陀に 帰依し奉るの意であります。南無阿弥陀仏を名号と申します。それ故念仏即ち 称名となります。源左の一生はかくして南無阿弥陀仏の六字の中に包まれて了 ひました。源左があって活きているのではなく,南無阿弥陀仏があって源左が 在るのであります。ここで暮しが何もかも一変して了ひました。

 普通は人間が主人なのが,今度は如来がいつも主人となります。そのため普 通の人の暮しには現れない行ひや言葉が現れて来ます。72)」

 「源左の信仰は二つのことから成ります。一つは自身よりつまらぬ人間はな いといふ切々たる実感,一つはかゝる自分を目あてに慈悲をふり注ぐ如来の行 ひ。それ故救ひは自分の側にあるのでなく偏へに如来の計らひであるとの信仰,

それで凡ての出来事が,もはや自分の力に依るのではなくなります。どんなこ とも如来の光で肯定されて来ます。73)」

6 他力美の世界

 柳の遺稿のうち,「不二美」74)と題する文章の中に次のような一節がある。

 「非個人的な他力の道は,最もよく妙好人で代表される。彼等は罪業感を発 足とする。禅者が二元観から出発するのと似てゐる。妙好人は多くは無学な田 舎の百姓に多い。無学といふ事は,一種の負け目ではあるが,逆に云へばなま じ智恵(二元の分別)に囚はれる負け目から解放されてゐるとも云へる。それ で端的に信が得られる。素直な受取り方をする。之が救ひの始めである。分別 の拘束がない。禅者は覚者であるが,妙好人は「信者」である。「覚」は自力的 自覚の道を通り,「信」は他力的信頼の道を通る。妙好人の特色は絶対信がある

ドキュメント内 柳 宗悦の民芸論(Ⅶ) (ページ 75-87)