• 検索結果がありません。

子どもたちの楽観性が伸びていくために

 本章は次のような内容で構成されている。

 (1)楽観性理論についての説明、(2)学習性無力感の理論によれば、

自分の行動と結果との非随伴性の認知が、無力感に陥らせるという。そこで 随伴経験と楽観性との関係について考える。さらに、(3)原因帰属に関わ る研究をもとに「達成動機づけ」「帰属スタイルへの働きかけ」「努力帰属」

という観点から教育における働きかけの有効性について示す。

 後半では、第2章の調査によって楽観性との関連が示された受容について 考える。まず、(4)自己受容は単に現状を受け容れるというよりは、より 積極的な生き方を示しているという点に焦点を当て、他の研究をもとに考え

る。また、(5)子どもたちがより他者受容感を実感することができるため にはどのようなかかわりができるのかについて考えるために、 待つ こと の教育における意義について取り上げる。

 (1)オプティミストとペシミスト

 子どもたちは様々な出来事に出くわしながら日々を過ごしている。そして、

意識せずにその出来事が起きた原因は何かを探り、自分にそれを説明する。

この自分への説明の仕方には2通りあり、それは楽観的な説明ヌタイルと悲 観的な説明スタイルであることは先述した通りである。

 (悲観的な説明スタイルを繰り返す)ペシミスト(悲観主義者)の特徴は、

悪い事態は長く続き、自分は何をやってもうまくいかないだろうし、それは 自分が悪いからだと思い込むことであるとされている。逆に、(楽観的な説 明スタイルを繰り返す)オプティミスト(楽観主義者)は同じような不運に 見舞われても、正反対の見方をする。敗北は一時的なもので、その原因もこ の場合にのみ限られていると考える。そして、挫折は自分のせいではなく、

その時の状況とか、不運とか、他の人々がもたらしたものだと信じる。この ような人々は敗北にもめげない。これは試練だと考えて、もろと努力する

 このような原因帰属の説明スタイルの傾向をもって、子どもたちは自分の 出くわした出来事について説明し続けるわけであるから、オプティミストは より楽観的な傾向を、 ペシミストはより悲観的な傾向を強化しなから毎日を 送り、その傾向を自らの信念として出来事を説明していくようになっていっ てしまう。オプティミストに関しては、少々ネガティブな出来事についても 楽観的に捉えて挑んでいけるので、それが多少過度であってもとかく問題は ない。強いて言えば、慎重さに欠けるともいえるので、その点に気を付ける よう心がけることが必要と思われる。さて、問題はペシミストである。少し の悲観性は先のように慎重さとも取れるので必要なことであるが、これが過 度になっていくと何事にも悲観的な説明を繰り返し、そこからは良好な結果 が期待されないことから、物事に向き合っていこうとする意欲を持つことが 難しくなっていってしまう。それをくり返すうち、成功体験も乏しくなって いってしまう。自分の周りに巻き起こる現実を悲観的なものとしてとらえ始 めると、毎日の生活は、思うようにならない生きにくいものとなっていって

しまう。

(2)学習性無気力感(Learned Helplessness;以下、 LHとする)と随伴経験  また、悲観主義現象の核には別の現象がある一無力な状態である。無力と

は、自分がどんな選択をしょうと、これから起こることに影響を与えること はないという状態である(Seligman,1991)。つまり、自分の周pで起こる出 来事に対して、それは統制不可能なものであると捉えていることになる。人 は、統制不可能な事態を経験し、何をやρても対処することができないこと を学習した結果、将来における統制不可能性の予測が形成され、新たな課題 における統制可能性の学習が困難になり、動機づけ・認知・情動に障害が生 じ、抑うつ状態に至る。この状態を学習性無力感(LH)という(Abramson・

Seligman&Teasdale,1978)。

 周りの出来事を統制不可能であると捉えることは、「自分の行為と結果が

行い、中学生の無気力感は非随伴性の経験の多さよりも随伴経験の少なさに 起因する可能性があることを示している。ここでは、随伴経験については「困 っているときに友人に助けを求めたら、カになってくれた」や「友人の悩み を聞いてあげたら、感謝された」などの項目からなっており、非随伴経験に ついては「友達のためを思ってしたことが、逆に誤解された」や「親切に接 していたのに、いじわるなことをされた」などの項目からなっていう。他の 項目においても、日常経験しやすい場面が挙げられている。これらの項目か

らは、自分の行動の源となっている思いを相手に受け取ってもらえているか どうかが随伴性一非随伴性を分け早いると考えられる。ここでいう 思い とは、子どもたち(人)の内側で見たことや知ったこと、考えたり、感じた り、思っ左りしているものなどを広く捉えて指している。

 さて、、では、学校の日常生活の中で、子どもたちはどれほど随伴経験を得 られているのであろうか。つまり、どれほど自分の行動の源となっている思 いを受け止めてもらっているのであろちか。同じ行動であったとしてもその 源にある思いは違っている場合がある。

 例えば、テストが終わって教師のもとへAさんがやってきて、一言。「先 生、今のテストできなかった。」と言う。このとき、Aさんはどんな思いを

もっているのだろうか。もしも、頑張ってできなかったのだとすれば、先生 からの「頑張ってやったことは知っているよ。」という言葉があれば、先生 に自分の思いが伝わっていることを感じ、そこで随伴性を感じて随伴経験を 得ることになる。しかし、もしAさんが頑張っていなかったのに同じ言葉

をかければ、Aさんは先生に自分の思いが伝わっていないことを感じ、非随 伴性経験を得ることとなる。このような場面は学校生活の中に数え切れない ほどあり、その中で子どもたちは随伴経験や非随伴経験を重ねながら毎日を 送ることになる。

 もちろん、教師といえども子どもたちの思いのすべてが手に取るようにわ かるわけではないであろう。しかし、だからこそ、それを丁寧にみようとし なければ、その思いをより確かに受け取ることは難しいのである。慌しい学 校のスケジュールの中で、少なからず子どもたちの思いは受け止められない

かして伝えたい、受け取ってほしい思いに気づき、それに応じていくことに よって、自分の思いを受け止められ応じられた子どもは、自分の行動と結果 との随伴性を感じられるのだろうと考えられる。そういった目々の関わりの 積み重ねの中で、自分を取り巻く環境や状況に対して自分が持つ(非)随伴 性についての信念を作り上げていっているのではないだろうか。子どもたち が、日々の生活の中で随伴性経験をより多くつかむために、教師は子どもの 行動の奥にある思いを敏感に感じ止めることに努めていくのが大切である。

 また、Seligman(1975)は、自分が欲するものは何でも、いわばころが りこんでくるように、簡単に手に入れることができた少女が無気力に陥った 例、何の不自由もないような学生が、無気力や抑うっに陥るといった現実な

どを列挙しながら、「反応と独立に生起する外傷経験だけではなく、非随伴 的な正の事寒も無力感や抑うっを引き起こしうる」と主張している。つまり、

非随伴的な経験は、負の事象にのみ起こるものではないというのである。こ の点についても考慮していく必要性を感じる。これは、子どもたちが随伴性 の認知を獲得していくには、単にポジティブな経験を得ることが必要なので はなく、やはり子どもの思いに見合った反応や結果が得られる必要があるこ とを示唆していると考えられる。学校場面に則して言えば、頑張ったと自分 が感じている分だけ誉められること、悪いことをしたと感じている分だけ叱 られるとい、うようなことなどが挙げられる。ここにズレがあり、頑張ったの にその分誉められなかろたり、悪いことをしたのにその分叱ってもらえない とき、子どもたちは、先生は自分をわかってくれていない、自分の思いは伝 わらない、という非随伴性を感じさせてしまうことになってしまうのである。

このことからも、子どもの思いを丁寧に捉えながらかかわりを深めていくこ との重要性が感じられる。

 子どもたちは自分の行動と結果との間に随伴性を感じられていることに よって、何らかの困難と思える状況に出くわした時にも、自分が何らかの行 動を起こすことによってこの困難さは変えられるという希望を抱くことが

関連したドキュメント