像
鎌 倉 時 代
・鶴 林 寺
︵兵 庫
︶
聖 徳 太 子 摂 政 坐 像
鎌 倉 時 代
・達 磨 寺
︵奈 良
︶
聖 徳 太 子 父 母 三 尊 像
江 戸 時 代 前 期
・斑 鳩 寺 兵︵ 庫
︶
聖 徳 太 子 馬 上 像
江 戸 時 代
・松 韻 寺
︵愛 知
︶
静 岡 市 美 術 館 HP「法 隆 寺 展 ―聖 徳 太 子 と平 和 へ の 祈 リ ー」 の 案 内 http:〃www.shizubi.jpノ press/2014/よ り申転写 。
。「聖 徳 太 子 摂 政 坐像 」:武 田佐 知 子『 信 仰 の 王 権 聖 徳 太 子
太 子 像 を よみ と く』,中公 新 書
,1993年
p.65よ り転 写 。。「聖 徳 太 子 父 母 三 尊 像 」:太子 町 立 歴 史 資 料 館『 太 子 町 の 聖 徳 太 子 』
,2013年 ,p9
よ り転 写 。
。「聖 徳 太 子 馬 上 像 」:安城 市
HP広
報 あ ん じ ょ う2005年 10月 1日 「あ ん じ ょ うみ て あ る き 」 https:〃www.city.anjo.aichi.jp/shisei/koho/20051001/index.htlllllよ り転 写 。・ 太 子 に関す る主 な書物一 覧
『 聖徳太子伝暦』 『 上宮太子伝』 『 上官厩戸豊聡耳太子伝』
『 聖徳太子伝私記』 『 上 官 太 子 菩 薩 伝』
『 上宮聖徳太子伝補閲記』
『 四天 王 寺御 手 印縁 起』
『 上官太子御記』 『 上官聖徳法王帝説』
『 四天 王寺聖徳 王伝 』
『太子伝玉林抄』
資 料
18
太 子 講 の 紹 介○ 鎌 倉 市 (神奈 川 県
)宝
戒 寺 で 行 わ れ る 現 在 の 太 子 講 の 様 子護 摩 焚 き 供 養 「木 遣 唄 の 奉 納 」
太 子 講 は ,日 本 最 初 の 本 格 的 な建 築 物 で あ る法 隆寺 や 四天 王 寺 は聖 徳 太 子 の 発 願 に よ って建 て られ た こ とか ら,建築 に携 わ る職 人 達 は聖 徳 太 子 を,「 職 の祖 神
Jと
祀 る 団体 で あ る。室 町 時 代 に は,職
人 の 家 が 交 代 に宿 元 とな り,大阪 四天 王 寺 で 購 入 した 曲 尺 を手 に した 聖 徳 太 子 画 像 や 浄 土 真 宗 寺 院 に あ る聖 徳 太 子 十 六 才 孝 養 図 を安 置 して 講 を営 ん で いた 。師 匠 寺 住 職 に よ る読 経,法
話 の あ と会 食 を し,仕
事 始 め に あた つて1年
間 の 申 し合 わ せ や 賃 金 な ど を太 子 の前 で 決 め て いた 。現 代 で は太 子 信 仰 を通 じて職 人 稼 業 と安 全 と発 展 を願 い,職人 の 仲 間 同 士 で の親 睦 を図 つて い る。1月 3日 や 太 子 の 忌 日に行 わ れ る こ とが 多出所
)写
真 :行政 書 士 岡 戸 事 務 所HP>鎌
倉 手 帳>鎌倉 の行 事 ・ 祭>1月 >1月
22日 「太 子 講 」 http:〃www8.plala.or.jp/bOsatsu/gyoji‐maturi/taisiko‐hokaiji.htmよ り申云写。太子 講 :『石 川 県 大 百科 事 典
上 巻』 の西 山郷 史 に よ る解 説
http:/ノimage01w.seesaawiki.jp/i/i/iidamati/890d7177cf5b5 1fa.pdf#search=1%E5%
AE%9D%E6%B3%89%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%AA%E5%AD%90%E8%A
C%9B',
:筒 井 正,籠幾 緒 「社 会 科 (歴 史 的 分 野)にお け る 人 物 学 習 に つ い て 一 「聖 徳 太 子 」 を め ぐ つ て 一」,浜松 学 院 大 学 研 究 論 集(9),2013年 pp.86‐87を参 考 に 作 成 。
資 料 19 第 期 と第
2期
国 定 歴 史 教 科 書 の 聖 徳 太 子 に 関 す る記 述出所)海後 宗 臣編『 日本 教 科 書 大 系 よ り転 写。
近 代 編
第 一 九 巻 歴 史(二)』,講談社
,1963年
,p.446,p.502資 料
20
明 治 政 府 の 政 策 の 一 覧第 二 期 国 定 歴 史 教 科 書 『 尋 常 小 學 日本 歴 史 巻 ― 』
第 二 期 目 だ 工 史教 rl書
鬱
太子の種萌
太子の饉政 露―翔 ■定
=彙漱 書
撃 :
メ
は古 より 我が 日の あり とて 剛藤 せり こ︒ れ
より爾察のTは金らはげしくなりぬ︒ 綺日の子=子︑え輿の子守Rまた力の卜の共 の父の志をつぎて=Tひしが︑川子は違に守 円を攻減せり︒これより後︑暉繊氏ひとり政 治にあづかり︑
′ しままのに分をふるへり︒
第七 聖篠太子
寂饉太子は鉱明天■の御係なり︒いとりなき 聴より才行人にすぐれ︑長するに及びては︑ 一時によく十人のメい^セ用分け綸ひtと云 ふ︒又凛く學間を=め綸ひ.廊が天出の御代
に奎り鵬太子となり総へり.
推古天■は女帝にてましませしかば︑政治を 所をとりて我が日の都織をはかり︑新に精籠
の湾服をも定め総へり︒中にも十七僚の蜜留 は最も名高きものなり︒ 太子は又文都へ住を組はし︑学生をも熾り 綸ひき︒これより後文邦との交地やうやくし げく︑これまでは三輸をて我が関に驚り東 りし学問︒世饉年も︑比の御代より陸︒た だちに共の本田なる女椰より側はり︑我が日 は之がために雀・進歩せ︐ ︒ 太子は凛く佛政をして多くの寺を建て︐佛 像を饉り綸へり︒寺の中にて最も有名なるも のを膨″の四天王寺︑大和の選辮ザとなす︒ これより佛教大いにひろまり︑建冬・彫幻・ 納談等の技術も之にともなひて大いに地みた
第八 天智天豊と藤原鮨足
畔我氏ひとり朝廷に立つこととなるに及びて
は︑もはや像にはばかる所なく事綺なる行薔 だ多くなりぬ︒=子の人鹿の如きは︑元
郷文 と の 摩 佛繊
のほ 嘔
嗜太子に
まかせ給
ひき︒さ
・ 子 い︼﹂
鶴 費氏の 事
実 撃 の長
︐の 文 の 量7 r つぎ てヽ は げ し く
︑ 戦 が き
︒ か く て︑ 属 子 は
︑ つ ひ に︑ 守 用 を せ め 殺 し て
︑ 物 郎 氏 を 亡 し︑ こ れ よ り︑ 畔 我 氏
︑ ひ と り
. 蜂 にな れ り
︒
第七 群 観ガ 刊
数饉太子は用明天出0御子なり︒助時より才 悧すぐれたまひしが︐長するに従ひて︑亭間 も︑大いに︑地み︑椰古天機の代に︑血大
子となりて.ナベての政賄をと︐ 行ひたまヘ 太子は︑いろいろ︑新しき政治をなして︑大
いに︑わが日の響aを︐ こした■へり︒■ た︑佛秋を信じて︑大
I L辞とと︐攻屁子もに これをひろむることに︑つとめたまひ.多く の寺をたて︑像をもつくりたまへ︐ ︒その 中にも︑Fのんョギ︑大和の出
饉 ⁝
ヴなど
は︐わけて︑名高きものなり︒これより︐佛 教は︐ますます︒をになれ︐. 太子は︑まヽ十七僚の製を定め︐麟■の よるべtところを示したまひき︒明治二十六 年は︐この時より︑一千三百年田にあたれ
つい
︐で 太子 は︑ はじ めて
︐雌″ 女部 につ か はじ
鵬・ 叫蠣 もr おく りた まへ り︒ これ よ
り︑ 文 移 と の
■ じ は り
︐ しげ く な り
︐て
● 問ヽ そ ほの か︒ いろ い ろ の手 集 も
︑ 多 く
︒ わ が口 に つた は
︐ た り
. かく︑六子は︑力を政治につくしたまひし が︑いまだ︑位に日■えまはざる前に︐ウ せたまへり︒この時︑天下の民は.■を穴ヘ
六 子 新 し き 雄 繊 な し 太 子 教 そ ひ ら む る こ と に つと め た
︐ ふ
纂
太子壺性を定めたまふ
六子セタ
椰 に つか は した
︐
■
量ぅせた
政 権 が 天 皇 に 戻 り天 皇 中 心 国 家 が 再 興 す る 。 ま た 開 国 に よ り
,日
本 は 国 際 社 会 に 参 加 し,外
国 と も 交 流 して い く時 代 で あ る 。 ま た 人 々 の 間 に 西 洋 の 考 え 方 が 広 ま り,西
洋 の 制 度 や 技 術 も導 入 され る よ う に な っ た た め,日
本 の 文 化 を 軽 くみ る 風 潮 も 生 ま れ た 時 代 。 海 外 で は,近
代化 して い な い 国 は
,欧
米 諸 国 に植 民 地 化 され て い る時 代 で あ る。近 代 化 に遅 れ た 国 が 植 民 地 化 され る 国 際 社 会 の 中 で
,日
本 は 近 代 化 し た 欧 米 諸 国 に追 い つ くた め,経
済 力 と軍 事 力 の 強 化 を行 い,欧
米 に 負けな い 国 づ く りをす る 。
・ 天 皇 を 中 心 とす る政 治 体 制 … 廃 藩 置 県
,国
会 開 設 大 日本 国 憲 法 制 定 等・ 新 しい 身 分 制 度
・ 義 務 教 育 の 制 度 … 学 制
等
・ 富 国 強 兵 に よ る 産 業 と軍 隊 の 整 備 … 殖 産 興 業
,徴
兵 令 等・ 国 の 収 入 を 安 定 させ る … 地 租 改 正
等 近 代 的 な 政 治 制 度 や 工 業 を 取 り入 れ る た め に
,使
節 団 と し て 欧 米 の 国 々 を 視 察 す る 。出所)石毛直道他『 社会6』 光村 図書
,2015年
pp.106 107を参 考 に 作 成 。資 料
21
明 治 政 府 の 国 づ く り と聖 徳 太 子 の 国 づ く りの 比 較 表資 料
22
聖 徳 太 子 の 壱 万 円 札出 所 )11:田 H IIIりj他 『 社 会 科
中 学 校 の 歴 史 』,帝国 書 院
,2014年 ,p3よ
り転 写 。聖億太子の国づ くり 明治政府 の 国づ くり
時 代 背 景
豪 族 が 互 い に 争 つ て い た 時 代 で,中 で も蘇 我 氏 が 特 に 強 い 力 を 持 つ て い た 。 天 皇 は,豪族 た ち を 従 え る の に 苦 労 し て い た 。ま た 第 一 回 遣 隋 使 派 遣 に お い て
,中
国 (隋)と
国 交 を 結 び,国
際 社 会 の 仲 間 入 り を は た し,日本 に 進 ん だ 文 化 を 取 り入 れ る 予 定 が,「 日 本 の 政 治 を 改 め る よ う に と」国 交 を 結 ん で もら え な か つ た と され る 。
政 権 が 天 皇 に 戻 り天 皇 中 心 国 家 が 再 興 す る 。 ま た 開 国 に よ り
,日
本 は 国 際 社 会 に 参 加 し,外
国 と も 交 流 して い く時 代 で あ る 。 ま た 人 々 の 間 に 西 洋 の 考 え 方 が 広 ま り,西
洋 の 制 度 や 技 術 も 導 入 され る よ う に な つ た た め, 日本 の 文 化 を 軽 くみ る 風 潮 も 生 ま れ た 時 代 。海 外 で は
,近
代 化 して い な い 国 は, 欧 米 諸 国 に 植 民 地 化 さ れ て い る 時 代 で あ る 。思 い
国 際 社 会 に 見 合 つ た 新 し い 国 家 づ く り (天 皇 中 心 の 国 家 を 目指 し
,仏
の 力 で 平 和 な 国)を
しな けれ ば な ら な い 。近 代 化 に 遅 れ た 国 が 植 民 地 化 され る 国 際 社 会 の 中 で, 日本 は 近 代 化 した 欧 米 諸 国 に 追 い つ くた め,経済 力 と軍 事 力 の 強 化 を 行 い, 欧 米 に 負 け な い 国 づ く りを す る 。
政 策 等
・能 力 に よ る 役 人 の 採 用 … 冠 位 十 二 階
・ 役 人 の 心 構 え … 十 七 条 の 憲 法
・ 仏 教 の 教 え を 広 め る … 法 隆 寺 等 を つ くる 。
・ 国 づ く りの た め に 新 しい制 度 や 文 化
,学
問 を 取 り入 れ る… 遣 隋 使 を送 る 等
天 皇 を 中 心 とす る 政 治 体 制
… 廃 藩 置 県
,国
会 開 設,大
日本 国 憲 法 制 定 等新 し い 身 分 制 度
義 務 教 育 の 制 度 … 学 制
等
富 国 強 兵 に よ る 産 業 と軍 隊 の 整 備
… 殖 産 興 業
,徴
兵 令 等 国 の 収 入 を 安 定 させ る … 地 租 改 正等 モ デ ル
当 時 大 国 の 隋 (中 国
)の
制 度 や 文 化, 学 問 を 手 本 に 国 の し くみ を 整 え る 基 礎 づ く りの た め に,使
者 を送 る 。近 代 的 な 政 治 制 度 や 工 業 を 取 り入 れ る た め に
,使
節 団 と して 欧 米 の 国 々 を視 察 す る 。 出 所)聖徳 太 子 の 国 づ く り :北俊 夫 他 『 新 し い 社 会 6上』 東 京 書 籍,2015年 p28を
参 考 に 作 成 。資 料
23
聖 徳 太 子 の7枚
の お 札 (時系 列)(戦前
)1930年
(昭 和5年 )発
行 開始‑1944年
(昭 和19年 )発
行 開 始「乙 百 円 券 」 「い 百 円 券 」
(戦後
)1945年
(昭 和20年 )発
行 開始‑1946年
(昭 和21年 )発
行 開 始「ろ 百 円 券 」 「
A百
円 券 」076,33
1950年
(昭 和25年 )発
行 開 始 ―一 一 →1957年
(昭 不□32年 )発
行 開 始「
C五
千 I 券 円.「