第23号 2014年12月 71-85頁。
に分解できる 3 。ここから理解できるのは、
3.2 外部の諸機関における巡回展示 1921年頃からソシエテ・アノニムは外部の
機関に進出し、展覧会を多数開催している。
1924年に私設ギャラリーが閉鎖されるまで、
外部の施設での活動はこのギャラリーと並行 して進められた。ここでは主に、私設ギャラ リーとの並存期間である、1921年から1924年 の約五年間に行われた活動に着目する。
ソシエテ・アノニムが外部の機関において 関わった展示には、次の二種類がある。一つ には、展覧会の企画などの準備段階からドラ イヤーを中心とするソシエテ・アノニムの会 員が関わったもの。つまり、展覧会の外部委 託の発注をソシエテ・アノニムが受けた形態 である。二つ目は、ソシエテ・アノニムおよ びドライヤーが所有する作品を外部の美術館 などで行われる展覧会に貸し出したものであ る。
ソシエテ・アノニムが外部の機関で展覧会 を開催することになった直接的な理由として は、1921年にドライヤーの資金が底をついた ことが指摘できる。
1920年にソシエテ・アノニムの私設ギャラ リーで続けざまに行われていた展覧会は、ほ ぼ全てドライヤー自身が購入した作品をソシ エテ・アノニムのコレクションとして展示し ていたものだった。そのため、彼女の資金難 を受けて、ソシエテ・アノニムは私設ギャラ リーでの継続的な活動が困難になった。そこ で、1921年から外部の教育機関やクラブ、既 存の美術館やギャラリーへコレクションを運 び展覧会を行うようになる。そこには、ソシ エテ・アノニムの私設ギャラリーよりも大き な展示会場を使用できるという利点があった。
[図版3]
ソシエテ・アノニムが外部で初めて展覧会 を催したのは、1921年の1月15日および29日 に 行 わ れ た マ ン ハ ッ タ ン 女 子 職 業 学 校
(ManhattanTradeSchoolforGirls)にお いてであった。同年2月24日にミス・ウィアー・
デザイン学校(MissWeir'sSchoolofDesi gn)、その後も1920年代に限れば1923年の4 月4日から5月12日にかけてのニューヨーク 州ダッチェス郡ポキプシーに所在するヴァッ サー大学(1923年当時は女子大学)、1925年 には11月20日にワシントン D. C .のマウント・
ヴァーノン神学校で展覧会を開催している。
ヴァッサー大学での39日間に及ぶ展覧会の 他は、いずれも一日限りの展示であったが、
マンハッタン女子職業学校では1月15日に15 作品、同月29日には20作品の展示、ウィアー・
デザイン学校では16作品、ヴァッサー大学で の24作品、マウント・ヴァーノンでも12作品 と、当時ソシエテ・アノニムの私設ギャラリー での展覧会と同程度の作品数の展示を行って いたことが分かる。また、マンハッタン女子 職業学校とマウント・ヴァーノンでは、講演 会もセットで行っており、キャサリン・ドラ イヤーがマルセル・デュシャンとジョセフ・
ステラを助手として引き連れた「3つの講演
(ThreeL ectures) 」やドライヤーの単独講演 が行われたことが分かる。
特に興味深いのは、教育機関と言えど美術 学校に限らず、女子職業学校や女子のみのリ ベラル・アーツ・カレッジで展覧会と講演会 を行ったということだろう。ここから、ソシ エテ・アノニムの目指す「教育的」であるこ とという組織の目的が、作り手だけでなく美 術を見る側に対する教育へ比重をおいていた ことは明白である。
また、同様の形態における展覧会は、学校 をはじめとする教育機関だけではなく、上流 階級への教養講座の形をとって、当時存在し た「クラブ」においても行われた。
1921年の1月18日には、マンハッタンの女 子職業学校の二回に及ぶ展覧会の間を縫うよ
慶野 結香 ソシエテ・アノニムにおける「近代美術館」
うにコロニー・クラブ(ColonyClub)にお いて、30点もの絵画を取り扱った展覧会と講 演会、同年2月17日にはシビック・クラブ
(CivicClub)における20点もの絵画による 展覧会と講演会、続いて2月21日から3月5 日までヘテロドクシー・クラブ(Heterodoxy Club)における20点もの絵画による展覧会と 講演会が行われた。また1922年には、4月24 日から5月8日にかけてマックダウエル・ク ラブ(McDowellClub)において31点もの作 品を集めた展覧会が行われた。(この展覧会 は、直前に行われ本章で詳細に分析するウー スター美術館における展覧会とほぼ同様であっ たことが推測される。)
また、1923年には5月20日にユダヤ・コミュ ニティ・センター(JewishCommunityCenter)
の文学フォーラム(LiteraryForum)におい て12点の絵画による展覧会と講演会を開いた。
(個展ばかりを開催していた時期だったため、
直前の展覧会に出品した作品を用いるよりは、
数年前に展示を行ったものを取り上げたもの と思われる。)以上の活動から見ると、当時 の上流階級における教養のありかとして、絵 画をはじめとする「モダン・アート」が重要 視されていたことは想像に難くない。また、
ソシエテ・アノニムの「クラブ」における活 動は、ドライヤーと社交界のつながりによる ものであり、ソシエテ・アノニムの初期の会 員で、委員会などを担っていた人々の人脈を 利用したものであったことが予想される。
自らの私設ギャラリーのみの活動が困難に なったというネガティブな理由から始まった 外部の機関における展覧会活動ではあったも のの、1921年から1924年にかけては私設ギャ ラリーでの活動と並行するかたちで、ソシエ テ・アノニムの「教育的」であることという 目標は実現されていた。加えて、一般的な鑑 賞者が足を運びにくかった私設ギャラリーで の活動から外に出ることで、この団体の知名 度は上昇したと考えられる。また、既存の美 術館において展覧会の企画を行うことにより、
小規模な私設ギャラリーでは実現できなかっ た数十点規模の展覧会の開催が可能になった ことは注目に値する。特にこの活動形態では、
運搬のしやすい絵画という媒体が選ばれてい たことも特筆すべき点である。
外部の機関と関わることによって、ソシエ テ・アノニムは自らの私設ギャラリーという 場所= 「近代美術館」だけでなく、ソシエテ・
アノニムという主体を明確にして展覧会の企 画を行い、自らの同時代美術の教育的普及と いう目的を果たすようになったといえよう。
3. 3 『国際モダン・アート』展
1924年にソシエテ・アノニムは私設ギャラ リーを閉鎖することになり、自らの展示会場 を失った。しかしながらこの団体は、「美術 館」と呼ぶべき場所を失っても「近代美術館」
という肩書きをはずすことなく、既存の美術 館やギャラリー、教育機関など外部の施設で の展覧会活動を継続し、1926年にこの団体最 大規模の展覧会、 『国際 モダン・アート展
(I nternationalE xhibitiono fModernA rt、
以下一部で『ブルックリン展』と記載) 』を ニューヨーク市のブルックリン・ミュージア ムで開催した。 [図版4]
これは、1913年に行われた『アーモリー・
ショウ』以来の「国際モダン・アート展」と 銘打った展覧会であり、 その後のモダン・アー トの動向をいち早く取り上げた内容であった。
また、「ホワイト・キューブ」と室内装飾が 統合された展示形式の実践、特別カタログ
『モダン・アート』の発行など、特筆すべき 点が多い。
私設ギャラリー閉鎖後、上記した同団体最 大規模の展覧会の他にも、ソシエテ・アノニ ムは外部の機関での展覧会や講演会活動を継 続し、1925年からは普及活動へより力を注ぐ ことになる。従来は自らのギャラリーにおい て、ソシエテ・アノニムの会員を中心とした 作家の個展や、アメリカで未だ展観されたこ
秋田公立美術大学研究紀要 第2号 平成27年3月 研究論文
とのないアーティストを盛り込んだグループ 展を開催すると共に、外部の施設では持ち運 びしやすい絵画作品に限って、多数の作家を 集めた展覧会を行っていた。この時点では、
私設ギャラリーとほぼ同じ内容の作品を展観 したものと思われるが、自らの「美術館」と 呼べる場所を失ったことによって、1925年か らは外部の施設でも特定の作家に焦点を当て た「個展」も行うようになる。
ソシエテ・アノニムは、「近代美術館」と いう名称を保ったまま、これまで私設ギャラ リーと外部の施設で内容を分けていた展示会 場の枠組みを取り払い、外部のギャラリーで も個展を行うようになり、さらに国際的で大 規模な展覧会を手がけるようになった。
そしてそれは、まだ同時代美術がミュージ アムに収蔵されていなかったこの時代におい て、一般市民へモダン・アートを展観し普及 する恰好の機会を提供していた。
私設ギャラリーを失ったからこそ、既存の 美術館における会期が限られた展覧会という メディアでの普及経験を通じて、ソシエテ・
アノニムは自分たちの「美術館」という枠組 みを、単なる作品を展示する場所としてでは なく、同時代美術の最新動向を伝える主体と しての「近代美術館」として利用したといえ るだろう。また、『アーモリー・ショウ』と は違い展示作品の売却を行うのではなく、ソ シエテ・アノニムがセレクションを行い、コ レクションした作品として、同時代美術の鑑 賞へと観客を誘った。
またギャラリーという場所から離れること で、ソシエテ・アノニムの活動は、さらにイ ンターナショナルな性格を帯びた。外部の施 設での活動を通じ、私設ギャラリーよりも多 くの鑑賞者の目に展覧会が触れることにより、
「ソシエテ・アノニム」という団体は人口に 膾炙し、さらにその主体を強化したといえよ う。
4 おわりに
これまで1920年代のソシエテ・アノニムが 自らの「美術館」と呼ぶべき私設ギャラリー を閉鎖してからも「近代美術館」を一貫して 名乗り続けたことに着目し、彼らの「近代美 術館」という概念について、同時代美術の普 及活動の変遷を追いながら考察してきた。
1920年に「近代美術館」が登場する以前の アメリカにおける「美術館」は、19世紀後半 にアメリカでミュージアムが誕生した時より、
この国では場所の確保とその教育的役割が重 視されてきた。加えてその施設は、建物や収 集作品もヨーロッパ の影響が色濃いものであっ た。
しかしソシエテ・アノニムは、当初こそ図 書館を有した複合施設としての私設ギャラリー という場所を「美術館」と見なしていたもの と考えられるが、資金繰りの悪化などの影響 も受け、次第に普及活動を展開する主体を包 括するものとして、「近代美術館」という概 念を用いて、ソシエテ・アノニムという主体 を強化したと言える。展観する場所としての ミュージアムがなくても、ソシエテ・アノニ ムは更に広い範囲の資料としての前衛美術作 品の収集、その整理保管、調査研究、展覧会 はもちろんのこと講演会等を通した教育普及 など、今日におけるミュージアムの機能すべ てを有した活動を展開したのだった
9。
ソシエテ・アノニムの「近代美術館」にお いて、アメリカは19世紀的なヨーロッパの模 倣と距離を取り、独自に他者をまなざすよう になった。そして「美術館」の枠組みは単な る場所を指すものではなく、収集された作品 や教育普及などコンテンツや機能への転回を 見せ、戦後アメリカのモダン・アートの発展 を準備する素地を築いたと結論づけられるだ ろう。
慶野 結香 ソシエテ・アノニムにおける「近代美術館」
ドキュメント内
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