• 検索結果がありません。

第七章 「信託業法」の立法経緯の考察

一 日本「信託業法」の制定の事情

(一)日本「信託業法」制定前の信託業の状況

「日本の信託業は1922(大正11)年の「信託法」、「信託業法」成立をもって本格的活 動期にはいったとみられ、近代的金融機関としての信託会社の成立発展はそれ以後のこと といって過言ではない212」。しかし、信託会社と称する最初の会社は、明治 39 年に設立 された「東京信託株式会社」と言われている。これをきっかけに信託会社が相次いで設立 された。「信託業法」成立前の信託業、いわゆる「黎明期」における信託会社の状況はい

209 中国信託業協会のレポートである「信託業法是信託法的重要補充」を参照。

http://www.xtxh.net/xtxh/discuss/20484.htm(2016520日最終閲覧)

210 席月民「『信託業法』:信托業乱象終結者」経済参考報2014610A08版。

211 山田②96頁。

212 麻島①77頁。

かがであろう。

加藤俊彦教授は、農村における信託会社は、「要するに『信託』の名を冠した高利貸資 本のおくれた農民への吸着であるに過ぎ」ないこと、また都市における信託会社は、「多 分に高利貸銀行の名をもって呼ばれていたのであり、それ自身高利貸資本に他ならなかっ た213」と推定している。それに対して、麻島昭一教授の研究は、信託会社の業務を上述 の「高利貸」に基づいて拡大したとする。同教授は、第一次大戦終了までの大信託会社に ついては、「貸金業者としての性格のほかに不動産業者的性格も併せ考慮すべきではある まいか。第一次大戦前の信託会社は不動産業務と密着していた214」こと、また「第一次 大戦後においては信託会社の頭部は変質を示し始め、金銭信託に重点を置く金融機関とし ての信託会社がその形態を整えるにいたった。少なくとも頭部の大信託では信託業務への 依存度は高まりつつあったといってよい215」と主張している。つまり、当時企業金融の 一翼を担っており、金融機関としての地位におく大信託会社と、都市・農村に多くみられ る高利貸的な弱小信託という「分解現象」216が窺える。

斯くして、信託にかかる法制度が整備されていない時代には、「信託」は曖昧な意味で 使われており、当時の信託会社は本来の信託業とはいい難い217と思われる。当時として は信託会社の上位にあるこれら大信託会社でさえ、信託業務への依存度は小さく、収益面 ではまだ信託業務だけで自立するに至らず、なおも自己資金の運用益や他業の手数料収入 でカバーせざるをえなかった。信託会社は不動産業者的、あるいは金融ブローカー的、あ るいは地方小銀行と大差のない貸金業者的性格を兼ねていたから、「いわゆる信託会社の

213 加藤俊彦「日本における信託業の発生と発展」経済学論集23(4) 19551016頁。

214 麻島①107頁。

215 第一次大戦後の特色としては、運用資本の中で信託財産のウェイトが大きくなったこと、信託財産の 内訳では信託金ないし信託預金が多いこと、すなわち、のちの金銭信託に相当するものが中心となった こと、不動産売買益、不動産手数料が相対的に重要性を失っていくことが指摘することができる。さら に、資金運用面でも不動産抵当貸付から財団抵当貸付、証券担保貸付、手形貸付などへの移行、不動産 投資から有価証券投資への移行が見られる。このことは、第一次大戦終了までの信託会社が不動産と密 着していたのに対し、戦後は不動産から次第に離れ、有価証券投資がクローズアップされる(麻島①108 頁)

216 麻島②27 頁。

217 栗栖赳夫『信託及附随業務の研究』(文雅堂、1924年)に掲載されている「全国主要会社内容及業績 表」によると、当時の全国主要会社240社は、次の通りである。

①単純に固有名詞を冠したもの:127社。

②営業上の特徴を表す名称を含むもの:102社。うち商事36、証券22、不動産17、倉庫5、物産3、保

2、精米穀物2、木材2、商工2、汽船2、その他9。

③興業、実業、勧業を名乗るもの:11社。

上記②の営業上の特徴を表す名称を含むグループには、商事会社、証券会社、不動産会社の性格を強 くもった信託会社がかなりあることを示している。興業、実業、勧業を名乗るものの中にも商事会社的 なものもあったであろうし、単純に固有名詞を冠したもののうちにも商事、証券、不動産業務を営むも のが相当あったと思われる。かかる推測は、「東京信託」「神戸信託」「織田信託」など当時著名の大信 託会社においてすら固有信託業務の比重が小さく、雑多な業務を営んでいたことに鑑みれば、「失当では ない(麻島①106頁)」という麻島教授の見解が当を得ていると思う。

名に値したかどうか疑問を抱くのは当然であろう218」。

そこに信託会社の未成熟さが窺われ、「中産階級以下特に都市細民の要求に応え得る金 融機関がまだ存在していなかったという『我国金融系統ノ不備』に基因するものであった

219」。すなわち、当時の日本は「社会の進歩、文化の程度まだ遠く米国に及」んでいなか ったという社会経済基盤の未成熟さや、「信託事業に付特別の法制を

ママ

存ぜざる為同業者財 産管理の重責を全うせざる」法制上の不備によるものではあったが、財産管理業務の収益 性が低い反面で、「信託なる流行的名詞を冠」して行う銀行類似業務ないしは無尽業務の 収益性が高いこと、「金融系統ノ不備」によりこれらの高利貸的業者に依存する資金需要 が存していたことによるものでもあった220。また、「金融系統ノ不備」に乗じて、「信託 会社の名に於て暴欲と高利貸は横行しつつあるという状況は社会問題を激化させる一つ の有力な要因」221とされる。

(二)日本「信託業法」の制定及びその首尾

当時の信託業務の営業内容は、現在の信託業務のそれとは趣を異にしていた。しかも、

一部不健全な業者が存在したため、法整備による正常化の気運222が生じ、大正11年に「信 託法」とともに「信託業法」が制定された。

「信託業法」の制定が、真正なる信託業務の発展を望み、「社会奉仕的な財産管理運用 機関として信用強固な大資本によって営まれることを期待し、当時存在した不健全な銀行 類似会社の一掃を狙った以上、業法に盛られた諸規定は相当に厳しい制約を信託業に課し た223」。投機性、危険性のある業務、例えば、土地、有価証券、動産の売買・仲介や、事 業経営の引受、その他多くの附随業務が禁止された。

「信託業法」施行を境として日本信託業は、その体質を一変した。その影響は、以下

218 麻島①106頁。

219 山田①5 頁。そのうち、「我国金融系統ノ不備」は、山田教授が「共済銀行法案・信託業法案 大綱 ノ説明」(大正元年1021日)「藤田家文書」第64冊で引用したものである。

220 山田①5頁。

221 山田①5頁。

222 成案として最初のものである大正 3 年の信託業法案は、信託業法制定の必要性について、以下の 3 点を挙げている(山田①12頁)。

第一は、薄資で基礎薄弱なる当業者及び類似業者の取締りである。

第二は、信託の実体法が不備な現状において、信託受益者の保護のために、信託会社に対する監督が 必要であり、そのため信託業法の制定を要するという、いわば私法上の不備を営業法規によって補完し てゆこうとする考えである。

第三は、最も緊要な課題として、立案趣旨書がかなりの部分を割いて力説する「銀行業務との競合」、

金融行政上のバランスの問題である。

223 麻島②24 頁。具体的な厳しい制約は、信託会社の概念、資本金、信託目的、付随業務、固有資金の 運用、供託金などについての規定である。投機性、危険性をおびて信託会社の信用が害されることを防 ぎ、信託会社の銀行類似業務を除去する意向であった。

の通りである。

1.既存信託会社の転業・廃業

既存の信託会社の多くは「『信託』という名称をはずし、従来から営業の中心としてい た業務に専念することになった224」。その「営業の中心としていた業務」の多くは、商業、

証券、不動産業務であった。かかる色彩を帯びた信託会社は、「信託業法」施行後に、証 券業や不動産業に転身したと思われる。また、社名から信託の名を外した会社が、その高 利貸的な資金融通業務から銀行業に転身することもあったようである。斯くして、「信託 業法により大多数の信託会社は淘汰されたが、それは信託業から他業に転換あるいは廃業 するというよりは、その会社の主業に専念し自称信託業務を切り捨てて社名を変更すると いう形の脱落であった225」。

このような淘汰によって、厳しい規制下での存続を決意した比較的大規模な優良信託 会社だけが残り、新設信託会社とともにその後の信託業を担うことになった。

2.営業状況

麻島教授の「信託業法」施行後の営業状況(大正末年まで)の分析226によると、存続 信託会社のうち、「信託業法」に対応できず、自己資金運用への依存度が依然として高く、

信託財産は、減少ないし停滞し、その反射として収入源を圧倒的に利息収入に依存する業 者は、信託業務にかかる業績不振を余儀なくされ、まもなく脱落せざるをえなくなった。

他方で、業法に適応している業者は、自己資金に数倍する信託財産を受託して、払込資本 利益率も高く好配当を可能としており、拡大発展を遂げた。新設信託会社も同様に信託財 産を順調に増加させて、自己資金に対する倍率が大きい傾向も見られた。それでも、収入 源としての信託報酬は、利息収入(貸付金・預金の利息)、有価証券収入(配当、利息、

売買益、手数料等)には及んでいなかったが、上述の傾向は、「信託業法」施行後の信託 会社の発展方向を示すものであった。

大正11年の「信託法」と「信託業法」の制定により、今日の意味での信託制度及び信 託業務の概念が成立したのである。「政府の立法精神はみごとに達成されて、金融機構の 整備は、完成に向い一歩近づいたように見えた。確かに不良信託の一掃という狙いは成功 し、その後の信託会社には、世の非難を浴びる不信行為は無くなった。この功績は大きい

224 麻島③25頁。転業した信託会社の多くは、商号を変え埋没してしまった。実例としては、「帝国信託」

は、「日本土地信託」、「市岡沿岸土地建物」などと合併して「関西土地」と改称、信託業を廃止した。そ の他の信託会社は、「信託」の名を棄てて、信託業を廃業した。実例としては、「大阪証券信託」は「大 阪証券商事」と改称した。(同26頁)

225 麻島③42頁。

226 麻島③32-43、47-52頁。