0. 序論
0.1 問題の所在
1.1.3 勝義・智慧と修行道(kk.6-10)
MSA-VI kk.6-10
は,瑜伽行派の修道論,五道が説かれることで知られる149.既に述べたように
MSA-VI
に関する従来の研究は,この五道に関する ものが中心であり,諸注釈をふまえた多くの勝れた諸研究がある.そもそも五道とは,資糧道・加行道(順決択分)・見道・修道・究竟道から なる瑜伽行派独自の菩薩道であり,これが
MSA-VI kk.6-10
において説かれ る.ただし,kk.6-10
は五道を説く箇所とされるが,その配当に諸注釈によ って異同があり,早島理[1973a]
,Hayashima[1983a]
,兵藤[2010]
はその異同 を次の様に整理する150.149 岩本[1996], [1997]は,MSAが説く修行道をSAVBhに基づき「五道」と理解することを 批判的に考察する.岩本氏はその理由としてSAVBhの配当が便宜的なものに過ぎない 点を挙げる.つまり,MSABh が「五道」を配当して注釈しておらず,そして SAVBh の配当には問題があると指摘する.岩本氏は,MSAの本来の意図に反して,「MSAの 修行道=五道」と解釈されたと結論づけ,MSAは「五道」を知っていたが,自らの修 行道の独自性を表明するために,あえて「五道」を用いなかった可能性は捨てきれな いと指摘する.
早島理[1973b],兵藤[2010]が指摘するようにMSA-VI kk.6-10と五道との対応関係の理 解について諸注釈には異同があり,岩本氏が指摘するようにSAVBhの五道の配当に問 題があることは留意せねばならない.だが,SAVBhがMSA-VI kk.6-10を「五道」とし て理解したことは軽んじるべきではなく,不完全であるとはいえkk.6-10とが五道と対 応関係にあることは事実である.岩本氏の「MSAの成立期には五道は存在したが,あ えて五道を用いなかった」と指摘するが,本稿はMSA-VI kk.6-10が後に「五道」と呼 ばれることを重視し,従来の研究通りに五道として理解する.
150 早島理[1973a]pp. 82-83, Hayashima[1983a], 兵藤[2010]pp. 102-103, n.48.
なお,MSA-VI kk.6-10はMSg-III. 18に引用されており,その世親釈(MSgBh),無性
釈(MSgU)でも配当の異同が確認される.Cf. Hayashima[1983a]p. 41.
MSgBh MSgU MSgU玄奘訳
資糧道 k.6 k.6 k.6?
加行道 k.7ab k.7 k.7ab
見道 k.7cd, k.8 k.8 k.7cd, k.8
修道 k.9 k.9 k.9
究竟道 k.10 k.10 k.10
MSABh MSAṬ SAVBh k.6abc
資糧道 資糧道 資糧道
k.6d 加行道(煖位) 加行道(煖位)
k.7a
加行道 加行道(頂位) 加行道(頂位)
k.7b 加行道(忍位) 加行道(忍位)
k.7cd 見道 見道 見道
k.8 見 道 体 得 の 原 因 と方法
加行道
(世第一法位)
見道体得の直接 の 原因 と 方法である,加行道(世第 一法位)
k.9 修道 修道 修道
k.10 究竟道 究竟道 究竟道
このように,諸注釈によって五道の配当に多少の異同があることを考慮 し留意しなければならない.なお,諸注釈は
kk.6-9
とk.10
を分けて注釈し ており,MSABh はkk.6-9
の導入部において「顛倒を非難しおえて,その(顛倒の)対治である勝義的智(pāramārthikajñāna)に悟入することに関し て四偈がある.」と説き151,
kk.6-9
を勝義的智への悟入を説く偈頌と注釈す る.これに対して,MSAṬ
,SAVBh
は次のようにkk.6-9
を位置づける.MSAṬ
152「勝義的智に悟入することに関して四偈がある.」というのは,無分 別智への悟入という不共を主題としているのである.菩薩がどのよう に法無我を理解するようになるのか,それを主題として偈がある.先 には人無我を説いた.ここからは,法無我〔を説く〕.
151 MSABh-VI, Lévi ed. p. 23.
viparyāsaparibhāṣāṃ kṛtvā tatpratipakṣapāramārthikajñānapraveśe catvāraḥ ślokāḥ /
152 MSAṬ-VI, Hayashima ed. p. 61.
dom dam pa'i ye shes la 'jug pa'i tshigs su bcad pa bzhi ste / zhes bya ba ni rnam par mi rtog pa'i ye shes laa 'jug pa thun mong ma yin pa'i dbang du byas pa ste / byang chub sems dpa' rnams kyis ji ltar chos la bdag med par rtogs par 'gyur ba de'i dbang du byas nas tshigs su bcad pa yin no // sngar ni gang zag la bdag med par bshad pa yin no // da ni chos la bdag med pa'o //
(a P omit la.)
SAVBh
153さて,これ以下は菩薩にとってのd-1)不共涅槃は,どのように体得すべ きかの方法を説く.
「顛倒を非難しおえて,その対治である勝義的智へ悟入するために四 偈がある.」といううちで,a)二種類の勝義のうち,以上において真如 としての勝義を説いたので,ここからは,無分別智を特徴とする勝義
を示す. c)以前に〔
kk.3-4
において〕,「衆生が迷乱に住して,苦によって染汚の状態となり,顛倒に打ち負けて迷乱し,そして,苦をまっ たく理解していない」と顛倒を非難した.今度は,その対治である不 共の無分別智を主題とするのである.
b)この無分別智によって,菩薩たちがどのように法無我を理解して,
仏地を証得するかを示すために,四偈を〔説き〕始める,という意味 である.
これ以下五つの偈がでてくるうちで,d-2)四偈によって資糧道,加行道,
見道,修道を説き,五番目の偈は究竟道を説く.
両釈ともに,大乗・小乗の共・不共の観点から
kk.6-9[10]
を注釈する.kk.2-5
に お い て 問 題 と さ れ た 人 無 我 ・ 法 無 我 , そ し て 修 道 論 の 区 別 を 以 てkk.6-9[10]
が説かれるのである.特にSAVBh
の注釈は,次のようなkk.1-5
との対応関係を示唆するものと考えられる.
153 SAVBh-VI, Hayashima ed. p. 61.
daa 'di man chad ni thun mong ma yin pa byang chub sems dpa' rnams kyis mya ngan las 'das pa ji ltar thob par bya ba'i thabs bstan to //
phyin ci log las smad pa byas nas de'i gnyen po don dam pa'i ye shes la 'jug pa'i phyir tshigs su bcad pa bzhi'ob zhes bya ba la don dam pa rnam pa gnyis las 'di manc chad du de kho na nyid kyi don dam pa bstan nas / da ni rnam par mi rtog pa'i ye shes kyi mtshan nyid kyi don dam pa ston te / gong du sems can 'khrul pa la gnas pa dang / sdug bsngal bas nyon mongs par gyur kyang phyin ci log gis non pas 'khrul pa dangd sdug bsngal bar khong du ma chud kyang zhes phyin ci log la smad nas da de'i gnyen por thun mong ma yin pa'i rnam par mi rtog pa'i ye shes kyi dbang du bya ste / rnam par mi rtog pa'i ye shes des byang chub sems dpa' rnams ji ltar chos la bdag med par rtogs nas sangs rgyas kyi sa thob par bstan pa'i phyir tshigs su bcad pa bzhi rtsom moe zhe bya ba'i don do //
'di man chad tshigs su bcad pa lnga zhig 'byung ba la tshigs su bcad pa bzhis ni thsogs kyi lam dang / sbyor ba'i lam dang / mthong ba'i lam dang / bsgom pa'i lam ston to // tshigs su bcad pa lnga pas ni mthar thug pa'i lam ston to //
(a P omit da, b H: /, P insert //, c D: yan, d D insert /, e P omit mo.)
kk.1-5 kk.6-9[10]
a)二種の勝義 勝義 k.1 真如・清浄法界 無分別智
勝 義
b)人法二無我
世俗
(↓)
(勝義)
k.2 人無我 法無我
c)顛倒 kk.3-4 顛倒の非難 顛倒の対治
d-1)涅槃 k.5 共涅槃 不共涅槃
d-2)修道論 k.5 三十七菩提分法 五道
SAVBh
の解釈によれば,k.1
が修道論の対象・目的たる真如・清浄法界を説くのに対して,
kk.6-9[10]はそれを対象・目的とする無分別智・五道を, k.2
が人無我を主題にしたのに対して,kk.6-9[10]は法無我の体得を,kk.3-4が 顛倒した世間の人々を非難するのに対して,kk.6-9[10]はその対治を,k.5 が大乗・小乗に共通した涅槃とその為の共通の修道論,三十七菩提分法を説 くのに対して,kk.6-9[10]
は大乗・小乗の不共なる涅槃と,その為の不共な る修道論,五道を説くと理解される.つまり,先行研究のように,
MSA-VI
を「世俗と勝義を説く前半部と,勝義に悟入するための菩薩道を説く後半部」という単純な構造で理解すべ きではなく,「対象・目的たる勝義が示され,迷乱,顛倒したあり方(世俗)
にある衆生が,その勝義を体得することは可能なのであり,菩薩道によっ て不共なる勝義をも体得することを説く」という構造で理解すべきである
ことを
SAVBh-VI
は示唆しているのである.また,
MSA-XI k.42
は(1)
持(ādhāra
),(2)
作(ādhāna
),(3)
鏡(ādarśa
),(4)
明(āloka
),(5)
依(āśraya
)よりなる階梯,五瑜伽地(pañcayogabhūmi
) を説き,内容は五道と完全に一致するものではないものの154,これは五道 に相当するものと考えられる.そして,入無相方便相に関しては,MSA-XI, XIV
においても説かれ,MSg-IIIはMSA-VI kk.6-10
を引用するなど,多く の瑜伽行派の文献において関連する修道論が説かれる155.以上の点に留意し,先行研究を概観しつつ五道の具体的な階梯を確認す
154 両者の関連については,長尾[2007b : p. 97, n.1]に詳しい.
155 MSA-XI, XIVにおける修道論,及びMSA-VIの五道との関連は兵藤[2010 : pp. 69-88]に,
MSg-IIIの引用箇所については,長尾[1987 : pp. 92-103]に詳しい.
また,五道,入無相方便相については,この他,MAV,TrBh等の多くの瑜伽行派の文 献に確認される.
る.
<k.6156(資糧道・加行道(煖位))>
saṃbhṛtya saṃbhāram anantapāraṃ jñānasya puṇyasya ca bodhi- satvaḥ /
dharmeṣu cintāsuviniścitatvāj157 jalpānvayām arthagatiṃ paraiti //
MSA-VI k.6
ekena
saṃbhṛtasaṃbhāratvaṃ dharmacintāsuviniścitatvaṃ 158samādhiniśrityabhāvanāt manojalpāc ca teṣāṃ dharmāṇām
artha-prakhyānāvagamāt tatpraveṣaṃ darśayati / asaṃkhyeyaprabhedakālaṃ pāram asya paripūraṇam ity anantapāraṃ /
菩薩は,智慧と福徳の際限なき資糧を,集積して,
諸法に関して思惟が十分に確定しているので,対象のあり方が〔意〕
言に従うと理解する.MSA-VI k.6
一〔番目の偈〕(第
6
偈)によって,1)
資糧が集積され,三昧に依拠 して修習することにより,法についての思惟が十分に確定することと,2)
その諸法は意言から対象として顕現しているということを理解す ることによる,それへの悟入を示す.「その時間に不可算の区別をもつ,際限がそれに存在する,つまり,
満ち満ちる」というのが,「際限なき」〔の意味〕である.
MSA-VI k.6
は,MSABh
において資糧道,MSAṬ, SAVBh
において資糧道と加行道(煖位)を説く偈頌と注釈される.まず,菩薩は智慧と福徳の 資糧を集積する.
SAVBh
はこの智慧と福徳の資糧を「如来を旗と傘蓋によ り敬うことが福徳の資糧,如来から正法を聞・思・修を行じるのが智慧の 資糧」或いは,六波羅蜜との関連から「布施・持戒・忍辱を成就するのが 福徳の資糧,禅定・般若の実践が智慧の資糧,精進が両方の資糧」と注釈 する159.そして,三昧に依拠して修習することによって,法についての思156 MSABh-VI, Lévi ed. pp. 23-24.
157 Ed.: cintāsuviniśritatvāj, read cintāsuviniścitatvāj. Lévi[1907], Tib.
158 Ed.: dharmacintāsuviniśritatvaṃ, read dharmacintāsuviniścitatvaṃ. . Lévi[1907], Tib.
159 SAVBh-VI, Hayashima ed. p. 63.
'dis ni tshogs chen po bsags pa bstan te / bskal pa grangs med pa gcig tu de bzhin gshegs pa la
惟が確定する.
SAVBh
は,この「法についての思惟が確定すること」を「無 常・苦・空・無我を実践する三昧に依拠して,十二分経の諸法を無常・苦・空・無我を思惟して,確定して無常・苦などの意味に対する疑いがなくな ること」と注釈する.なお,MSAṬ,SAVBhに従えば,ここまでの内容が 資糧道を示すと考えられる.
続けて,
MSA-VI k.6d
は加行道(煖位)を説き,対象のあり方が言(jalpa)に従うことが説かれる.
MSABh
は「意言から対象として顕現していると いうことを理解することによる,それへの悟入を示す」と注釈する.この うち「意言」には,早島理[1982]
が指摘するように,聞薫習を意味する場 合と,心における言語活動一般(明確なことばになる前の状態のことば,ことばの潜在的エネルギー)を意味する場合があるが160,ここでは後者の 意味で用いられると考えられる161.つまり,諸存在は心における言語活動 から対象として顕現しているのであって,心を離れて対象が存在している わけではないことに,加行道(煖位)において悟入するのである.
<k.7162,(加行道(頂位・忍位)・見道)>
arthān sa vijñāya ca jalpamātrān saṃtiṣṭhate tannibhacittamātre / pratyakṣatām eti ca dharmadhātus tasmād viyukto dvayalakṣaṇena //
MSA-VI k.7
dvitīyena manojalpamātrān
arthān viditvā tadābhāse cittamātre 'vasthānam iyaṃbodhisatvasya nirvedhabhāgīyāvasthā / tataḥ pareṇa
dharmadhātoḥ pratyakṣatogamane
dvayalakṣaṇena viyuktogrāhyagrāhaka-lakṣaṇena iyaṃ darśanamārgāvasthā /
彼(菩薩)は,諸々の対象は〔意〕言のみであると識り,それ(諸 対象)として顕現するところの唯心に住する.
rgyal mtshan dang gdugs la sogs pas bsnyen bkur byas pa ni bsod nams kyi tshogs so // de bzhin gshegs pa de dag las dam pa'i chos nyan pa dang bsam pa dang bsgom pa byas pa ni ye shes kyi tshogs so //
yang na bskal pa grangs med pa gcig tu sbyin pa dang tshul khrims dang bzod pa bsgurbs pa ni bsod nams kyi tshogs so // bsam gtan dang shes rab bsgoms pa ni ye shes kyi tshogs so //
brtson 'grus ni gnyis ka'i tshogs so //
160 早島理[1982]pp. 168-170, 174 n.4.
161 この他,意言については武内[1963], [1966],松下[1985],本村[2011a, b],都[2005], [2006]
などに詳しい.
162 MSABh-VI, Lévi ed. p. 24.
なお,MSA-VI k.7abはSākārasiddhiśāstra(Thakur ed. p. 507)に引用される.