0. 序論
0.1 問題の所在
1.2.1 二諦説と勝義的智,勝義智
既に述べたように,MSA-VI は
k.1
において体得されるべき勝義の特徴を,
kk.2-5
において,その勝義への道程として迷乱・顛倒した衆生のあり方(世俗)を説く.では,kk.6-10は二諦説との関連において,如何様に位置 づけられるべきであるのか.
先に紹介した縄と蛇の比喩に対応させると,「縄を蛇とみる迷乱(遍計所 執性,世俗)から離れて,縄であると識ることによって,体の安楽と心の 穏やかさ(円成実性,勝義)」という関連となる.そして,蛇を縄であると 認識する智こそが,勝義智(無分別智)であり,この勝義智(無分別智)
は五道という修行道によって体得されるのである.
<二種の勝義>
ところで,
k.1
において説かれる勝義と後半部で説かれる勝義智の関係 について,SAVBh-VI
は,k.1
に対する注釈において「『勝義の特徴を分析 して一偈あり』と言ううち,勝義とは二種であり,[i]真如である清浄法界 と[ii]不二/無二の無分別智である.」と説き193,勝義が[i]真如である清浄法 界 と[ii]不 二 /
無 二 の 無 分 別 智 の 二 種 で あ る こ と を 示 す .MSAṬ-VI
もSAVBh-VI
と同様の見解を示す示す194.
「遍計所執〔相〕と依他起相として有ではない」というのは,
[i]
法界 を主題として説き,これ(k.1
)は学処の対象をまさに説くのである.
[ii]
無分別智もまた〔修行〕道の本質である故に,円成実性であっても,それはこの偈においては説かれない.この(無分別智の)特徴は 別(kk.6-10)にはっきりと説かれるであろう.
MSAṬ-VI
は「勝義が二種である」と直接言及することはないものの,勝義を三性説に基づいて円成実性であると説き,
SAVBh-VI
と同様に[i]
法界 と[ii]
無分別智の二種であると示す.よって,両釈ともに勝義が[i]
対象とし ての真如,法界と,[ii]
それを対象とする智慧,無分別智との二種であると 注釈するものと考えられる.つまり,MSAṬ-VI
,SAVBh-VI
に基づけば,MSA-VI
における勝義とは,k.1 における対象としての勝義(=[i]真如,法界)と後半部のそれを対象とする勝義智(=[i]無分別智)の二種であると 言える.
また,[i]真如,法界が勝義である理由を
SAVBh-VI
は複合語解釈を以て 説明する195.193 SAVBh-VI, Hayashima ed. p. 45.
don dam pa'i mtshan nyid du tshigs su bcad pa / zhes bya ba la / don dam pa rnam pa gnyis te / de bzhin nyid chos kyi dbyings rnam par dag pa dang gnyis su med pa'i rnam par mi rtog pa'i ye shes so //
194 MSAṬ-VI, Hayashima ed. p. 46.
kun brtags pa dang gzhan gyi dbang gi mtshan nyid dag gis ni yod pa ma yin no / zhes bya ba ni chos kyi dbyings kyi dbang du byas nas bshad pa yin te / de ni bslab pa'i dmigs pa nyid du bshad do //
rnam par mi rtog pa'i ye shes kyang lam gyi ngo bo nyid yin pa'i phyir yongs su grub pa'i ngo bo nyid yin mod kyi / de ni tshigs su bcad pa 'dir ma smos te /de'i mtshan nyid ni logs shig tu 'chad par 'gyur ro //
195 SAVBh-VI, Hayashima ed. p. 45.
don dam pa rnam pa gnyis te / de bzhin nyid chos kyi dbyings rnam par dag pa dang gnyis su med pa'i rnam par mi rtog pa'i ye shes so //
[a] [Kdh] de bzhin nyid la ci'i phyir don dam pa zhes bya zhe na / 'phags pa'i lam bsgoms pa'i 'bras bu yin pas don zhes bya ba la / chos thams cad [P84b]
du gyur pas dam pa zhes bya'o //
[b] [Tp] yang na don zhes bya ba ni yul la bya ste / rnam par mi rtog pa'i ye shes dam pa'i yul yin pas don dam pa zhes bya'o //
勝義とは二種であり,真如である清浄法界と不二
/
無二の無分別智であ る.
真如を何故に「勝義」というのかと言えば,
[a] [Kdh]
聖道を修習した結果であるので,「目的(義,*artha)」と言われ,一切法についてはたらいているので「勝れた(勝,*parama)」 と言われる.
[b] [Tp]
或いはまた,義(*artha)とは対象(*viṣaya)ということであり,勝れた(勝,
*parama
)無分別智の対象(義,*artha
)であるので,「勝義(
*paramārtha
)」と言うのである.SAVBh-VI
は勝義(*paramārtha
)について[a]
「勝れた(勝,*parama
)目 的(義,*artha)
」というKarmadhāraya
(Kdh)解釈と[b]「勝れた(*parama)無分別智の対象(義,*artha)」という
Tatpuruṣa(Tp)解釈という二種の複
合語解釈を行なう.この複合語解釈は一見,
[a]Kdh
解釈によって[i]真如である清浄法界,[b]Tp
解釈によって[ii]
不二/
無二の無分別智が導きだされるように見えるが,両解釈とも
[a]
真如である清浄法界に対するものと考えられる.二種の複合 語解釈の直前の一文は「真如を何故に『勝義』というのかといえば」であり,
[a]Kdh
解釈と[b]Tp
解釈は等位接続詞「或いは(yang na
)」によって結ばれる.そして,[b]Tp 解釈において,parama の内容が無分別智なのであ って,paramārtha が無分別智を指すとは考え難い.従って,この複合語解 釈は両者とも[i]真如である清浄法界に対するものと理解される.
一方,[ii]不二/無二の無分別智が勝義であることについては複合語解釈 がなされない.ただし,詳しくは後述するが
MAVBh-III
は「勝義を対象,目的として有するもの」という
Bahuvrīhi
(Bv
)解釈によって勝義が道であ ることを導きだすが196,そこには無分別智が勝義であることも含意されて おり197,道,無分別智が勝義であることをBv
解釈によって導きだしてい る.また,MAVBh-IIIの影響を受けるPPr-XXIV
もまた「勝義を対象とし て有するもの」というBv
解釈によって無分別智を勝義としている,198.そ して,MSAṬ-VI,SAVBh-VI ともに,この無分別智としての勝義について はk.6
以降の修行道,五道が説かれる箇所において言及するとしている199. おそらくは,MSAṬ-VI
,SAVBh-VI
が[ii]
無分別智を勝義とする注釈の背景 には,このような「勝義」のBv
解釈が念頭にあったものと思われる.以上の注釈に従うならば,
MSA-VI
における勝義とは[i]
真如,清浄法界 という対象としての勝義と[ii]
修行道において体得される無分別智として の勝義の二種であり,それが三性説と関連づけられて示されると理解され る.しかし,後述するように初期中観派の文献などにおける,勝義を勝れた 目的,対象を示すものとしてのみ解釈する用例をふまえると200,この
MSA-VI
に見られるような,勝れた対象だけではなく,それを対象とする無分別智もまた勝義であるという解釈は非常に特徴的なものと言える.
<二次的な勝義>
前節において考察した
MSA-VI
の,[1]体得すべき勝義, [2]勝義を体得す
るために滅すべき迷乱,顛倒(世俗),[3]迷乱,顛倒を滅する勝義智(=無 分別智)を体得するための五道という構造をふまえると,[1]勝義, [2]世俗,
196 MAVBh-III, Nagao ed. p. 41.
pratipattiparamārtho mārgaḥ paramo 'syārtha iti kṛtvā /
行為としての勝義は道である. それは勝れた義(目的, 対象)を有すると考えて.
197 Cf. 本稿3.1.2.
198 Cf. 本稿3.2.1.
199 MSAṬ, Hayashima ed. p. 61.
dom dam pa'i ye shes la 'jug pa'i tshigs sub cad pa bzhi ste /zhes bya ba ni rnam par mi rtog pa'i ye shes la 'jug pa thun mong ma yin pa'i dbang du byas pa ste /
SAVBh, Hayashima ed. p. 61.
phyin ci log las smad pa byas nas de'i gnyen po don dam pa'i ye shes la 'jug pa'i phyir tshigs su bcad pa bzhi'o / zhes bya ba la don dam pa rnam pa gnyis las 'di yan chad du de kho na nyid kyi don dam pa bstan nas / da ni rnam par mi rtog pa'i ye shes kyi mtshan nyid kyi don dam pa ston te /
200 Cf.本稿2.1.2.
[3]
勝義智のうち,注釈に基づけば[1]
勝義はもちろん勝義であるが,それを 対象とする[3]
勝義智もまた勝義であると理解される.これは,遍計所執性を離れることが円成実性であるという三性説の構造 に基づき,二諦説が,迷乱・顛倒(世俗)の滅によって勝義が体得される という構造で再解釈され,それを滅するための智慧が,本来的な意味では ないが,勝義を導き出すものとして,勝義と解釈されたと考えられる.つ まり,三性説成立以降に,世俗の滅によって勝義が体得されるという構造 で二諦説が再解釈される場合に,世俗から勝義へ至る論理に,智慧を組み 込むこととなり,その智慧が本来的に勝義ではないが,勝義智という名称 で勝義に組み込まれたと理解すべきであろう.
このように,本来的にそうでないものを二次的な意味で導き出すような 用例は,勝義に限らず確認される.例えば,MSg-IVにおいては,
rnam par mi rtog par sbyor ba dang / rnam par mi rtog pa dang / rnam par mi rtog pa'i rjes la thob pa'i shes rab po //
〔智(
*prajñā
)には〕(A)
加行無分別智(*nirvikalpa-prayoga-prajñā
),(B)
無 分 別 智 (*nirvikalpa-prajñā
)(C)
後 得 無 分 別 智(
*nirvikalpa-pṛṣṭhalabdha-prajñā
)〔の三種〕がある.と説かれる201.ここでは,(A)加行無分別智・(B)無分別智・(C)後得無分別智 という三種の無分別智が説かれるが,(A)加行無分別智と(C)後得無分別智 とは,本来的には無分別智ではない.
MSg
と同じ無着造『顕揚聖教論』(『顕 揚論』)においては(a)順決擇分智,つまり不善清浄世俗智,(b)見道に依止 する智,つまり勝義智,(c)
修道に依止する智,つまり善清浄世俗智との三 種の智慧が説かれるが202,この(a)-(c)
の三種の智慧はMSg
の(A)-(C)
の三種 の無分別智へと名称を変えて発展するものであり,(A)
加行無分別智は,(B)
無分別智体得以前の智,(C)
後得無分別智は(B)
無分別智体得以後の智であ る.本来的に無分別智であるものは文字通り,
(B)無分別智のみであるが,そ
れを体得するための(A)「加行道」の段階にける智もまた「無分別智」と呼201 MSg-IV, Nagao ed. p. 77.
202 本稿fn.393.
ばれ,無分別智を体得した
(C)
「後に得られる」智も「無分別智」と呼ばれ るのである.これらの「無分別智」という名称は,本来的な意味での無分 別智ではないが,「無分別智を体得するための智」であるから,「無分別智 の後に得られる智」であるから二次的な意味で「無分別智」と呼ばれるの である.ま た , 陳 那 造 『 仏 母 般 若 波 羅 蜜 多 円 集 要 義 論 (
Prajñāpāramitā- piṇḍārthasaṃgraha
:PPPS
)』k.1
は,般若波羅蜜について次のように説く203.prajñāpāramitā jñānam advayaṃ sā tathāgataḥ /
sādhyā tādarthyayogena tācchabdyaṃ granthamārgayoḥ // PPPS k.1 般若波羅蜜とは無二智である.それは如来であり,
体得すべきものである.その〔同じ〕意味(artha)を有しているの で,書物と〔修行〕道についても,「それ(般若波羅蜜)」と呼ぶべき である.
PPPS k.1
は,般若波羅蜜が無二智,如来であるのみならず,同じ意味(artha
)を有する書物と修行道もまた「般若波羅蜜」と呼ばれると説く.この「般 若波羅蜜」に関しても先と同様に,書物・修行道は般若波羅蜜を体得するた めに読誦,修習すべきものであって,本来的には「般若波羅蜜」と呼ばれ るとは考えられない.般若波羅蜜を体得するための同じ意味を有するもの として,二次的に「般若波羅蜜」と呼ばれるのである.この点について
PPPS
の注釈である,三宝尊(Triratnadāsa)造『仏母般若波羅蜜多円集要義釈論』は,「本来的な意味(*mukhyārtha)」と「二次的な意味(*gauṇārtha)」とし て両者が区別されることを説く204.
これらの用例を参照する限り,無分別智は本来的には勝義ではないが,
MSAṬ-VI
,SAVBh-VI
が注釈するような,二次的な意味で「勝義」であるという解釈は,瑜伽行派の文献のなかでは特殊なものとは言えないであろ う.なお,勝義が二次的な意味でも解釈されることについては,次項にお いて修行道の観点から追記する.
203 PPPS, Tucci ed. p. 432.
204 PPPS,及びその注釈に関する研究はあまりさされていないが,主な先行研究として服
部[1961]が挙げられる.
そして,無分別智,つまり勝義智が勝義とされるわけだが,この点につ い て ,
MSABh-VI
がkk.6-9
の 導 入 部 に お い て は205,「 勝 義 的 智(
pāramārthikajñāna
)」 と ,k.10
の 導 入 部 に お い て は206,「 勝 義 智(paramārthajñāna)」と述べ,二つの表現を区別している点に注意しなけれ ばならない.Tib訳では,MSABh-VI,MSAṬ-VI,SAVBh-VIすべて,両者 を" don dam pa'i ye shes "と翻訳しており,両者を区別していない.しかし ながら,両者は明確に区別されるべきと考えられる.
MSA
と 密 接 な 関 係 に あ るBBh
に お い て 「 世 俗 的 ( 慣 習 的 ) 智(
sāṃketikajñāna
)」の対概念としての「勝義的智(pāramārthikajñāna
)」と いう表現は確認されるものの207,管見の限り「勝義智(paramārthajñāna
)」という表現は確認されない.あくまでも,勝義的智(
pāramārthikajñāna
)は,世俗的(慣習的)智(sāṃketikajñāna)と比較して「勝義的(pāramārthika)」 なのであって,それ自体には「勝義を対象とする」という意味は含まれな いものと考えられる.
Nagao[1958-61]
に よ るIndex
を 参 照 す る 限 り ,「 勝 義 的 智(
pāramārthikajñāna
)」という表現は先のMSABh-VI
以外には,MSABh
に 見いだせないが,「勝義智(paramārthajñāna
)」という表現は,もう一例MSA-XVI
「度摂品(Pāramitā-adhikāra
)」k.15
において確認される.MSA-XVI k.15
は六波羅蜜の各々を語義解釈するに際して,「般若(prajñā
)」の語義 解釈として「勝義智(paramārthajñāna)」を説く208.そして,この「勝義智(paramārthajñāna)」は
MSABh-XVI
によって次のように注釈される209.paramārthaṃ
210jānāty anayeti prajñā /
それによって,勝義を知るという意味で般若である.
205 Cf. 本稿fn.151.
206 Cf. 本稿fn.176.
207 Cf. 本稿fn.310.
208 MSA-XVI, Lévi ed. p. 101.
dāridryasyāpanayāc chaityasya ca lambhanāt kṣayāt kruddheḥ / varayogamanodhāraṇaparamāthajñānataś coktiḥ // MSA-XVI k.15
209 MSABh-XVI, Lévi ed. p. 102.
210 Ed.: paramārtha, read paramārthaṃ. (Tib).
paramārthaは長尾[2009]によって,Tib訳('dis ni don dam pa shes pas na shes rab bo //)に 基づき校訂されている.文脈上も動詞「jānāti」につながるため,この校訂は妥当であ ろう.