0. 序論
0.1 問題の所在
1.2.2 二諦説と菩薩道
MSA-VI
における勝義は三性説と関連して説明され,[i]対象としての真如,法界と,[ii]それを対象とする智慧,無分別智の二種類であると解釈さ れるわけだが,
MSA
の他の二諦説解釈は,三性説によって説明されるから といって,必ずしも勝義が二種であると解釈されるわけではない.<MSA-XIにおける二諦説と三性説>
MSA-XI k.16
もまた三性説に基づき二諦説を解釈するが,MSA-XI
におい て は 勝 義 が 二 種 類 で あ る こ と に つ い て は 言 及 が な さ れ て い な い .
MSA-VI k.2
をMSAṬ-VI
,SAVBh-VI
は「蛇と縄の譬喩」を以て注釈していたが,MSA-XI k.16直前の
MSABh-XI k.15
においても,別の譬喩をもって 三性説が説明され,その直後のk.16
において二諦説が三性説に基づき説明 されるため,kk.15-16をあわせて確認しておく215.yathā māyā tathābhūtaparikalpo nirucyate /
yathā māyākṛtaṃ tadvat dvaya-bhrāntir nirucyate // MSA-XI k.15
yathā māyā mantra
216-parigṛhītaṃ bhrānti-nimittaṃ
217kāṣṭha-loṣṭādikaṃ tathābhūta-prikalpaḥ paratantraḥ svabhāvo
218veditavyaḥ / yathā māyā- kṛtaṃ tasyāṃ māyāyāṃ hastyaśvasuvarṇādyākṛtis tadbhāvena pratibhāsitā tathā tasminn abhūtaparikalpe dvayabhrāntir grāhya- grāhakatvena pratibhāsitā parikalpitasvabhāvākārā veditavyā /
虚妄分別のあり方は,幻(māyā)のあり方と同様であると説明され る.
二の迷乱のあり方は,幻事(māyākṛta)と同様であると説明される.
MSA-XI k.15
「幻(
māyā
)のように」〔とは〕,呪文をかけられた木片や土塊等が迷 乱の因となるように,依他起性〔という行相を持つ〕虚妄分別が〔迷 乱の因となると〕理解されるべきである.「幻事(māyākṛta)のように」215 MSABh-XI, Lévi ed. p. 59.
216 Ed.: yantra, read mantra. (NS, NC, Tib).
217 Ed.: bhrānti-nimittaṃ, read bhrānter nimittaṃ. (加納他[2014]).
218 Ed.: paratantraḥ svabhāvo, read paratantrasvabhāvo. (加納他[2014]).
〔とは〕,その幻(
māyā
)において象・馬・金等の姿(ākṛti
)がそれら〔象・馬・金等〕の本質(
bhāva
)として顕現するように,かの虚妄分 別において遍計所執性という行相を持つ二の迷乱が所取・能取として 顕現すると理解されるべきである.(翻訳:間中[2014]pp. 21-22.)
yathā tasmin na tad-bhāvaḥ paramārthas tatheṣyate /
yathā tasyopalabdhis tu tathā saṃvṛti-satyatā //MSA-XI k.16
yathā tasmin na tad-bhāvo māyākṛte hastitvādy-abhāvas tathā tasmin paratantre parmārtha iṣyate parikalpitasya dvaya-lakṣaṇasyābhāvaḥ / yathā tasya māyākṛtasya hastyādi-bhāvenopalabdhis tathābhūta- parikalpasya saṃvṛti-satyatvena labdhiḥ
219/
そこにおいてその本質が無いように,そのように勝義はあると考え られる.
一方,それが認識されるように,そのように世俗諦はある〔と考え られる〕.MSA-XI k.16
「そこにおいてその本質が無いように」〔とは〕,幻事(
māyākṛta
)に おいて象たること等が非存在であるように,かの依他起〔性〕におい て勝義は遍計所執〔性〕の二の相が非存在であることと考えられる.その幻事(māyākṛta)が象等の本質として認識されるように,そのよ うに虚妄分別が世俗諦として認識される.
(翻訳:間中[2014]p. 22.)
MSA-XI k.15
は,幻術師が木片等に幻術の呪文をかけて,幻(māyā
)である象等を見せる譬喩を以て三性説を示している.そして,この譬喩は先
の
MSAṬ-VI
,SAVBh-VI
の「蛇と縄の譬喩」と同様に,実在しないものを「迷乱」であり遍計所執性として顕現しているとする.そして,
k.16
では「幻術の譬喩」を以て三性説に基づき二諦説を説明し,世俗とは,「依他起 たる虚妄分別が世俗諦として認識される」,勝義とは「依他起において遍計 所執が存在しないこと」と説明される.
このうち,世俗の解釈については,MSA-VI k.1において示された「依他
219 Ed.: -satyatopalabdhiḥ, read -satyatvena labdhiḥ. (Cf. 加納他[2014])
起世俗有説」と,勝義解釈については
k.2
において「迷乱の滅」が強調さ れる点から,大きな相違はないものと理解される.なお,この「幻術の譬喩」に関しては,SAVBh-XIと
MSABh-XI
との解 釈の相違があることが指摘されており,様々な議論がなされているが220, 本稿の主題からそれるため,その相違をまとめた,以下の間中[2014]の表 を紹介するにとどめる.依他起性=虚妄分別 遍計所執性
=二の迷乱 円成実性(勝義諦)
MSAk
(kk.15-16) māyā(幻) māyākṛta
(幻事)
依他起において遍計所執 が存在しないこと
MSABh k.15 māyā = 木片等 māyākṛta
= 象等の姿
k.15 には円成実性の記述 はない
MSABh k.16 māyākṛta = 象等の姿 hastitvādi
= 象等の本質
依他起において遍計所執 が存在しないこと SAVBh
(kk.15-16) māyā = 木片等 māyākṛta
= 象等の姿
MSAṬ MSABhと同じか?221
TSN
(kk.27-28) māyākṛta = 象の姿 hastyātman
= 象の本質
この
MSA-XI kk.15-16
の内容と,MSA-VI
の理解は二諦説と三性説との関係に関して,それほど大きな相違はないと思われるが,ここでは
MSA-VI
にみられた「二次的な勝義」,つまり勝義を対象とする智もまた勝義である という解釈は,SAVBh-XI
を含めても全く言及されない.この相違はおそらく,
MSA-XI
とMSA-VI
の主題の相違に起因するもの と思われる.つまり,MSA-VI においては,二諦説が三性説に基づき説か れながらも,両者の関係性が主題なのではなく,如何にして,その示され220 Cf. 兵藤[1991],薊[2000],Matsuda[2006],松岡[2007],Matsuoka[2006],本村[2012b],
間中[2014]他.
221 間中[2014: n.8]「無性釈(Mahāyānasūtrālaṃkāra-ṭīkā : MSAṬ)自体説明に乏しいが,
MSABhを注釈していることから世親に従っているように思われる.」
た勝義(円成実性)が体得されるのかという点が主題となっているのであ る.その為,
MSA-VI
に説かれた迷乱(遍計所執性)の滅がMSA-XI
にお いては問題となっておらず,MSA-VI は,この迷乱の滅を可能とする修道 論,無分別智との関係から「二次的勝義」が説かれると予想される.<「二次的勝義」と菩薩道>
MSA-XI
とは異なり,MSA-VI
では,世俗から勝義へ至る論理に智が組み込まれ,その智慧が二次的な意味での勝義とされることは既に指摘した.
では,何故に智が二次的な意味であれ,勝義と理解されたのであろうか.
MSA-XI k.16
には確認されない修行道,菩薩道の視点からこの点について考察する.
菩薩道と勝義との関連とについて,西[1975]によって興味深い指摘がな されている.西[1975]は,般若経系の勝義解釈と有部アビダルマの勝義解 釈の特徴を比較して,「般若系が最第一義を無作・無為・無性・無相・無説 にして性空なる実相にするのに対して,説一切有部宗の毘婆沙師は四聖諦
の現観
abhisamaya
とその果たる無漏智等に重点を置く」と指摘する222.事実,『阿毘達磨大毘婆沙論(以下『婆沙論』)』における,修行道との関連か ら勝義を解釈する箇所では,勝義の解釈について,次のような用例を見い だすことができる.
・世第一法より苦法智忍に入ること223
・四聖諦において真浄の覚を起こすこと224
・四聖諦において正しく了知すること225
222 西[1975]p. 388.
223 『婆沙論』, T27, 342c2-5.
謂入聖法略有二種.一者世俗,二者勝義,世俗者,謂捨離家法趣於非家,剃除鬚髮被
服袈裟,以正信心受持淨戒.勝義者,謂從世第一法入苦法智忍.
224 『婆沙論』, T27, 342c14-18.
現佛出世略有二種.一者世俗,二者勝義.世俗者,謂捨離家法趣於非家,剃除鬚髮被
服袈裟.以正信心受持淨戒.勝義者,謂於四聖諦得眞淨覺.
225 『婆沙論』, T27, 342c26-343a1.
然諸佛行略有二種.一者世俗,二者勝義.世俗者,謂捨離家法趣於非家.剃除鬚髮被
服袈裟,以正信心受持淨戒.勝義者,謂於四聖諦能正了知.
この『婆沙論』の用例を見る限り,勝義を対象・目的としてではなく,四 聖諦の修行とその結果たる智慧として解釈することが確認される.つまり,
MSA-VI
において智が二次的な意味で勝義とされたことと類似する傾向が有部アビダルマの文献に見いだされるのである.
有部ア ビダ ルマと
MSA-VI
との 関係に 関し て重要な 点は ,MSA-VI
kk.6-10
において説かれた五道が有部アビダルマの影響を受けて成立している点である.
勝義智(無分別智)は資糧道・加行道(順決択分)・見道・修道・究竟道と いう,五道の菩薩道によって体得されるわけだが,この五道が有部アビダ ルマの伝統的修行道の影響を受けてのものであることが,早島理
[1982]
に よって「この小乗アビダルマにおいて確立された修行の五段階を,瑜伽行 唯識学派の瑜伽師たちは,修行道の枠組みとして継承したものと思われる」と指摘されている226.早島理[1982]は,
MSABh
と同著者による作と伝えら れる,世親造『阿毘達磨倶舎論(Abhidharmakośa-bhāṣya : AKBh)』にみら れる修行道と比較して,有部アビダルマの修行道と五道との関係を指摘す るため,本稿もAKBh
における修行道を確認することとしたい.AKBh
第VI
章「賢聖品」において,迷いの世界から悟りへの世界へ趣く修行道とし て,見道・修道・無学道が説かれ,その前段階として思所成・思所成からなる 順解脱分,修所成からなる順決択分が説かれる.これらの修行道段階を早 島理[1982]は次のように簡略にまとめている227.226 早島理[1982]p. 155.
227 早島理[1982]p. 154.
五道 有部アビダルマ 修行内容
順解脱分 戒を保持するように修練し,不 浄観・数息観等を繰り返し実践 する.
加行道・順決択分
(煖位・頂位・
忍位・世第一法 位)
順決択分
(煖位・頂位・
忍位・世第一法位)
四聖諦を観修して煩悩を離れ た,無漏智を生じ見道に入る.
見道 見道 無漏智によって四聖諦を繰り 返し観修し,見所断の煩悩を断 滅し,最後の煩悩を滅して修道 に入る.
修道 修道 三界に属する修所断の煩悩を,
四禅定・四無色禅定の三昧によ って断滅する.
無学道 もはや学ぶことのなくなった,
ゴールともいうべき段階.
この有部アビダルマの修行道を確認する限り,その内容は先に確認した 五道の内容とは大きく異なるものの,加行道(順決択分)と順決択分とが 対応し,見道・修道に関しては名称そのものが一致していることが分かる.
この対応・一致関係をみる限り,早島理氏が指摘するように,その修行内容 を変えながらも,有部アビダルマの修行道の枠組みを,瑜伽行派は「五道」
という枠組みとして踏襲したものと考えられる.
そして先に紹介した,『婆沙論』における修行道自体を勝義として捉える 解釈をふまえると,
MSA-VI
は有部アビダルマの修行道から独自の五道を 発展させる際に,その修行道自体を勝義とする有部アビダルマの勝義解釈 の影響を受けて,菩薩道の結果として体得される勝義智(無分別智)をも,二次的な意味で勝義として解釈したと推測されよう.
ただし,有部アビダルマでは四聖諦,特に道諦との関係から,修行道自 体を勝義として理解するのであって,そこには本来的,二次的という相違