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第Ⅶ章 効率的市場仮説と行動ファイナンス
これまでの各章では、MPTを巡る考察を行ってきた。すなわち、MPTの前史から始ま り、Markowitz (1952)、Tobin (1958)、Sharpe (1964) によるMPTの到達点を考察した。
MPTの到達点とはCAPMに他ならないが、Ross (1976) のAPTはファクターの多様化と いう方向でCAPMを拡張したことを考察した。また、MPTに基づくインデックス運用を 実践するためのグローバル市場ポートフォリオや、インデックス運用の優位性を理論的に 支える効率的市場仮説を巡る初期の議論を考察するとともに、これまで理論では捨象され てきたインデックス運用の陥穽を考察した。第Ⅵ章では企業価値との関連を中心にWACC とROICについて考察したが、これもMPTの枠内の議論である。
本章ではMPT の枠を超えて、行動ファイナンスの立場から効率的市場仮説の成立要件 の妥当性を検討する。さらに、フィッシャー・ブラックが示唆したノイズ・トレーダーの
役割やDe Long et al. (1990) のノイズ・トレーダー・モデルやその意義を検討する。それ
によって、次章以降で近年の行動ファイナンス研究を考察するための準備を行いたい。
1.行動ファイナンス研究の 2 つの潮流
認知心理学者として著名なダニエル・カーネマンは、実験経済学のバーノン・スミスと ともに2002年にノーベル経済学賞を受賞した。その受賞理由は、行動経済学と実験経済 学という新しい研究分野の開拓に貢献したことである。この受賞を契機として、行動経済 学や実験経済学、あるいは行動ファイナンスは一般にも知られるようになった。近年、行 動ファイナンスは、株式投資への応用可能性ゆえに証券関係者の熱い注目を集めている。
行動ファイナンス研究には、2つの潮流がある。ひとつは認知心理学を応用したアプロ ーチであり、いまひとつは裁定取引が不完全にしか行われないことを重視するアプローチ である1。
認知心理学を応用したアプローチは、カーネマンと故エーモス・トゥベルスキーが開拓 した研究分野であり、彼らの提起したプロスペクト理論は有名である。米国の現代心理学 の主流である認知心理学では、理論の想定する環境を実験室の中に設定し、人間を被験者
1 Shleifer (2000: 24) は、行動ファイナンスは制約された裁定取引(limited arbitrage)と投資家心理
(investor sentiment)という2つの大きな基礎に立脚していると指摘している。また、行動ファイナン スの優れた入門書である真壁 (2003) は、証券投資の「「必勝法探し」と「心理的誤りの法則」の2つが
「行動ファイナンス理論」の大きな流れを形作っている」(同書57頁)と指摘している。
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としてデータ収集して理論の統計的な検証を行う。こうした認知心理学の手法を用いるこ とから、行動ファイナンス研究のこの潮流は実験経済学とも呼ばれる。こうした研究は、
本来、ファイナンス分野にとどまるものではなく、行動ファイナンス研究のもうひとつの 潮流にミクロ的基礎を与えるものといえる2。
行動ファイナンス研究のもうひとつの潮流は、現実世界の金融市場の制度的な要因や非 合理的あるいは限定合理的な投資家心理に注目し、裁定取引が不完全にしか行われないこ とを重視するアプローチである。裁定取引とは、価格差を利用した鞘さや取とり行為のことであ る。すなわち、異なる市場で同一の証券、あるいは本質的に類似した代替証券の購入と売 却を同時に行うことである。割安な証券を購入し、割高な証券を売却することによって利 益を上げる行為である。
この潮流の研究では、アンドレイ・シュレイファーがノイズ・トレーダー・リスク、エ ージェンシー問題、投資家心理、フィードバック投資戦略などを考察することによって金 融市場のアノマリー(変則的事象)を読み解いている。また、リチャード・セイラーの業 績は二つの潮流に 跨またがる幅広いものであるが、彼は株式市場のアノマリーを始めとする各種 のアノマリーの謎を解明している。本稿では、この潮流を「裁定不全アプローチ」と呼ぶ ことにする。
裁定不全アプローチでは、投資家の非合理的あるいは限定合理的な行動をモデル化した 理論研究や、主に金融関連データを使った実証研究によってアノマリーを解明しようとす る研究が主流である。金融市場のアノマリーとは、MPTを支える効率的市場仮説では説 明できない事象のことである。裁定不全アプローチは、現実の証券市場が効率的ではない ことを統計的に実証し、その理由を現実世界の証券市場の制度的な要因や非合理的あるい は限定合理的な投資家心理に求める研究である。これは証券投資の「必勝法探し」3でもあ る。
2.効率的市場仮説の理論的成立要件
行動ファイナンスの立場から効率的市場仮説を検討してみよう。
効率的市場仮説の理論的成立要件は、3つのレベルで考察することができる。次の3つ のレベルの要件がひとつでも満たされるならば、効率的市場仮説は成立する4。
第一のレベルは、「全ての投資家は証券価格を適正に評価することができる」という要 件である。証券の適正な評価とは、そのファンダメンタル価値のことである。端的に言え ば、その証券が生み出す将来キャッシュフローの割引現在価値のことである。したがって、
2 行動ファイナンスの認知心理学を応用したアプローチについては、第ⅩⅠ・ⅩⅡ章にて考察する。
3 真壁 (2003) 57頁。
4 Shleifer (2000): Ch 1をもとに整理した。
第Ⅶ章 効率的市場仮説と行動ファイナンス
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第一のレベルの要件は、全ての投資家が合理的であるならば、証券価格はそのファンダメ ンタル価値に収束する、と言い換えることができる。
これは合理的経済人の仮定から導出される条件であるが、現実的には、これを満たすこ とがかなり厳しい要件である。現実の市場には、非合理的に行動する投資家が存在するか らである。
第二のレベルは、「証券価値を過大評価する投資家と過小評価する投資家が、互いの影響 を相殺する。つまり、証券価値を過大評価したり、過小評価したりする非合理的な投資家 は互いにランダムに取引する」という要件である。すなわち、現実には全ての投資家が合 理的に行動して証券価格を適正に評価することはできないが、平均値で見れば投資家は合 理的に行動しているという要件である。これが満たされるならば、効率的市場仮説は成立 することになる。
しかし、人間の認識の歪みや行動の非合理性が系統的な(systematic)ものであるなら ば、この仮定は満たされない。近年の認知心理学の研究は、人間の認識の歪みや行動の非 合理性が系統的であることを解明している。こうした研究を踏まえた近年の行動ファイナ ンスの研究成果を見れば、証券価値を過大評価する投資家と過小評価する投資家の影響が 相殺されて、その影響が完全に消失するという想定は非現実的であろう。
第三のレベルは、「非合理的な投資家が存在し、その取引が互いにランダムではなく相関 しているとしても、その証券に本質的に類似した代替証券が存在するならば、裁定取引に よって適正水準が維持される」という要件である。すなわち、証券価値を過大評価する投 資家や過小評価する投資家の影響が完全に相殺されない場合、市場には過大評価された割 高な証券と過小評価された割安な証券が存在することになる。このとき、割高な証券を売 ったり、割安な証券を買ったりする投資家が存在するならば、割高な証券は売られて安く なり、割安な証券は買われて高くなることによって、いずれも適正水準に落ち着くことに なる。適正水準に到達した時点で、投資家は売った証券を買い戻し、買った証券を売ると いう反対売買を行い、利益を上げることができる。
裁定取引とは、価格差を利用した鞘さや取とり行為のことである。すなわち、異なる市場で同 一の証券、あるいはそれに本質的に類似した代替証券の購入と売却を同時に行うことであ る。割安な証券を購入し、割高な証券を売却することによって利益を上げる行為である。
裁定取引を行うアービトラージャーがいるならば、非合理的投資家は損失を出し、競争 的に淘汰されていく。つまり、裁定取引と競争的淘汰によって市場の効率性は維持される。
この第三のレベルの要件が満たされるだけで、効率的市場仮説は理論的には成立するので ある。
しかし、現実には様々な制度的要因のために完全な裁定取引など行われないし、さらに 非合理的に行動するノイズ・トレーダーの存在は、ときとして市場の歪みを増幅する。ノ イズ・トレーダー・リスクや、市場の制度的な歪みや非合理的あるいは限定合理的な投資