本章では、「初級文型の硬直化」とはどのような現象であるかを論じる。「初級文型 の硬直化」は、第1章や第2章で述べたような初級文型の取り扱いを巡る問題が原因 で起こると考えられる。また、初級文型の中でも評価的複合形式の文型には顕著に表 れる現象である。よって本研究は評価的複合形式を持つ初級文型を対象とし、「初級文 型の硬直化」の問題を検討する。3.1.では評価的複合形式の初級文型とはどのようなも のであるかを述べる。3.2.では「初級文型の硬直化」の様々なタイプについて論じたい。
3.1. 評価的複合形式の初級文型とは
高梨信乃(2002)は従来「当為判断」「価値判断」などと呼ばれる表現形式(~ホ ウガイイ、~テモイイ、~ナケレバナラナイなど)を評価のモダリティと称し、その 形式を以下の三つに分けている。
① 評価的複合形式
「といい」「ばいい」「たらいい」,「ほうがいい」
「てもいい」,「なくてもいい」
「てはいけない」(「てはならない」)
「なくてはいけない」(「なくてはならない」「なければならない」
「なければいけない」「ないといけない」)
② 助動詞
「べきだ」,「ものだ」,「ことだ」
③ そのほかの複合形式
「ざるを得ない」,「ないわけにはいかない」,「しかない」,
「必要がある」,「必要がない」,「までもない」,「こともない」
etc.
(高梨2002:82)
本研究で評価的複合形式と呼ばれる初級文型を取り上げた理由は、評価的複合形式 自体の特徴が、当該形式を持つ初級文型を教育または学習する上で、様々な影響を及
ぼすと考えるからである。高梨(2002)は評価的複合形式が持つ特徴を3つ挙げてい るが、本稿では日本語教育に与える影響という観点から以下の3つの特徴について考 える。
1)評価的複合形式は、全般的に文法化の度合いが低い。
2)基本的意味と二次的な意味がある。
3)評価の基準に「主観的判断」や「客観的判断」などがある。
(高梨2002:85-96から要約引用)
まず、第一の特徴は「文法化の度合いが低い」である。花園悟(1999)は評価的複 合形式の中のいくつかの形式間にも文法化の度合いに違いがあることを指摘している が、「評価的複合形式は、全般的に文法化の度合いが低い」(高梨2002:85)と考えら れている。そのため、これらに隣接する多くの表現形式がある。例えば、義務表現は
~ナケレバナラナイ、~ナクテハイケナイ、~ナイトイケナイなどの異形態から~ナ キャだめだ、~ナクチャ困るといった文法化のより低い「形態」へと連続している。
このように文法化が低いことにより、日本語母語話者の形態使用に多様性が現れ、当 該文型をどのように教育するか、学習するかという問題が起こってくるのである。
第二の特徴は「基本的意味と二次的な意味がある」である。高梨(2002)では基本 的意味は「当該事態に対する何らかの評価である」(同:87)とし、そこから派生する 二次的な意味を決定するファクターとして①当該事態の制御可能性②当該事態の実現 状態③当該事態の行為者の人称(同:87)の3つを挙げている。例えば、「君は行って もいい」という表現では人が制御可能な事態(当該事態の制御可能性)であり、未実 現の事態(当該事態の実現状態)であり、当該事態を引き起こす人は聞き手(行為者 の人称)である。3つのファクターが変化することで「行ってもいい」はさまざまな
「意味」・「用法」を持つことになる。このことにより、日本語母語話者が用いる表現 の「意味」・「用法」に多様性が現れ、当該文型をどのように教育するか、学習するか という問題が起こってくるのである。
第三の特徴は「評価の基準に「主観的判断」や「客観的判断」などがある」である。
「主観的領域だけでなく,客観的領域を表す側面ももっている」6(高梨 2002:92)
とは、例えば「飲んではいけない」という判断が、「(この場の自分の判断で)飲んで はいけない」と判断する「主観的判断」であるか、「(自分の判断はさておき規則で)
飲んではいけない(ことになっている)」という「客観的判断」であるかで、積極的に 相手に働きかける表現となるか、ただ事実を伝えるだけの表現になるかという違いが 出てくることを指す。「主観的な判断」か「客観的な判断」であるかは「~ということ になっている」などの形式から判断することも可能であるが、現実には、どちらの判 断によって行われた発話であるかを厳密に区別することは難しく、両者は連続、とき に重複していると考えられる。しかしながら、2つの判断基準があることにより、相 手に対して直接働きかけることも可能であるし、婉曲的に働きかけることも可能とな る。待遇表現教育を行ううえで、十分留意しなければならない点であろう。
以上、評価的複合形式には、3つの特徴があり、初級文型の日本語教育上、留意す べきであることがわかった。
本研究では、今後、初級文型について議論する際、評価的複合形式を持つ初級文型 を中心に論を進める。
3.2. 「初級文型の硬直化」
3.2.1. 「意味」・「用法」の硬直化
前節で述べた、評価的複合形式を持つ初級文型の三つの特徴は、日本語を学習する 学習者や日本語を教育する教師に「初級文型の硬直化」という問題を引き起こす可能 性がある。では、「初級文型の硬直化」とは何か。遠藤(2006)は「初級文型の硬直 化」について以下のように述べている。
日本語教育で使用されている初級の教科書の中の文型には,その使用場面や用法,それら についての練習が極めて限られているものがある。恐らくこれは,学習者の負担を軽くす ることが目的であると推察されるが,それにより学習者が当該の文型の他の用法に目を向 けることができず,その文型に対する正確な理解が阻害される恐れもある。筆者は,これ を「初級文型の硬直化」と呼ぶ。「初級文型の硬直化」は,学習者の側の問題であるとと
6 奥田靖雄(1988)は「てもいい」の文型を例として挙げ、このような2つの側面を「《私の論理》」(同:18)と「《状況
もに,教師の側の問題でもある。教師は硬直化に陥らないために,当該の文型の様々な用 法に対して広い知見を持つべきであり,そのことはまた,初級・中級・上級と日本語学習 を長いスパンで捉える上で有益であろう。
(遠藤2006:73)
同論文は、~テモイイという初級文型を例として取り上げ、~テモイイが持つ多様 な「意味」・「用法」を分類している。また、日本語の教科書や教材が~テモイイの多 様な「意味」・「用法」を取り上げる機会がないことにより、教師や学習者が当該文型 に対して「硬直化」した認識を持つ可能性を指摘している。
実際に日本語学習者が~テモイイに対して「硬直化」した認識を持っているかどう かを調査したものに遠藤(2008a)がある。同論文は、日本語母語話者と日本語学習 者に~テモイイに関するアンケート調査を行っている。アンケートの内容は、AとB の二人が会話している絵があり、Aは「ここで、昼ごはんを食べてもいいですね。」と いうセリフを言っている。一方、Bのセリフは空白になっている。この絵を見て、A とBの人間関係や、シチュエーションなど、どのような状況下での会話と考えるかを 問うものである。また、Bのセリフにどのようなものがあるかについても尋ねている。
同論文は、アンケート調査の結果とフォローアップインタビューの結果から、学習者 の過半数が~テモイイ文型の「許可求め」の用法を、母語話者の大半が~テモイイ文 型の「提案」の用法を想起し、その結果には大きな違いがあったと述べ、学習者に「初 級文型の硬直化」が起こっている可能性があると分析している。
遠藤(2006)、遠藤(2008a)ともに、学習者の~テモイイに対する認識を「初級文 型の硬直化」のうちの、「意味」・「用法」の硬直化であるとしている。「意味」・「用法」
の硬直化とは、評価的複合形式の特徴の一つである「②基本的意味と二次的な意味が ある」ことが、十分に理解されず、学習者が当該文型の多様な「意味」・「用法」に気 づいていない現象を指している。
本研究は評価的複合形式が持つ3つの特徴に対忚し、「初級文型の硬直化」にも次の 3つのタイプがあると考えている。
1)「意味」・「用法」の硬直化(評価的複合形式の②の特徴)
2)形式の硬直化(評価的複合形式の①の特徴)
3)待遇度の硬直化(評価的複合形式の③の特徴)
「初級文型の硬直化」は、初級文型に対して硬直化した見方や考え方をすることで あり、その結果、当該文型の「意味」や「用法」や形式などの非用や不適切な使用を 招くおそれがある。
「意味」・「用法」の硬直化は、当該文型が多様な「意味」・「用法」を持っているこ とに学習者が気付かないことである。気がつかない「意味」・「用法」は使用すること ができない。そのため、一部の「意味」・「用法」は非用となる。また、初級文型にノ ダを付与することができないために、不適切な表現となることもある。「意味」・「用法」
の硬直化については、遠藤直子(2007 修士論文 未刊行)が詳しい。
形式の硬直化および待遇度の硬直化も非用や不適切な使用の原因となる。形式の硬 直化の概要については3.2.2で、待遇度の硬直化の概要については3.2.3で述べる。
3.2.2 形式の硬直化
形式の硬直化とは、教授者および学習者が、初級で学習した「文型形式」や文型の
「形態」がすべてであると思い込んでしまい、中・上級になってもその他の「文型形 式」や「形態」について注意を向けさせることも、自主的に注意が向くこともなくな る現象を指す。形式の硬直化には、2つのタイプがあると考える。「形態」の硬直化と
「文型形式」の硬直化である。「形態」の硬直化については、3.2.2.1で述べ、「文型形 式」の硬直化については、3.2.2.2で述べる。
3.2.2.1 「形態」の硬直化
日本語教育の初級で導入する義務表現のように、~ナケレバナラナイ、~ナイトイ ケナイ、~ナキャイケナイ、~ナクテハイケナイなど、ほぼ同じ「意味」であるにも かかわらず、さまざまなバリエーションを持つ表現もある。このように、同じ「意味」・
「用法」の文型に属するいくつかのバリエーションのことを「形態」のバリエーショ ンと呼ぶ。「形態」のバリエーションには、それぞれ、話しことばとしてよく使用され る、書きことばに多い、などの特徴が見られる。渋谷勝己(2007)は、「ことばのバ リエーション」を 4種類のタイプに分けている。そのうちの「言語変異」のタイプは
「「指示的同一性(referential sameness)をもつ形式群,すなわち意味的に同義で