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 子供の力学に対する概念形成に着目し、事象面接法を行い、身近な物理現象について彼ら の考え方についての分析を行ってきた。その結果次のような知見を得た。

(1)子供たちは日常生活から力学を学んでおり、その考え方はある方向性を持つ。つまり日常  生活の体験は子供たちに潜在カリキュラムを与える。

(2)潜在カリキュラムにより子供立ちの中に育った先行知識は根強いものであり、簡単に学校  教育における理科の学習で変えられるほど容易なものではない。

(3)潜在カリキュラムにより形成された子供の科学のパラダイムは中世以前のそれに近いも  のであり、教科書のカリキュラムで意図されているニュートン力学のパラダイムとはシフ  トしている。だから科学史を教えることは有効である。

(4)学校教育も子供たちにとっての日常生活の一部であり、教科書のカリキュラムは、潜在カ  リキュラムの幹を中心に、よりそれを複雑なものへと発展させる。

(5)力学における子供の科学のパラダイムを形成する大きな要因は『静的自然観』と『筋肉の  緊張の感覚』である。

(6)子供の考える『力』の範疇は広く、日常生活の会話に大きく依存している。そのため、教  師が理科の授:業の中で使う『力』という言葉はしばしば教師と子供たちの間で共約不可能  になる。

(7)ニュートン力学では物体に対する外力だけが運動に影響するが、子供の科学では力がどこ  に所在するかは問題ではなく、『力が働けば物体は動く』という考え方をする。

(8)見かけ上の運動や座標系の運動においては、子供は速度の維持と力の関係を認めない傾向  にある。

(9)子供の科学にとっての重力はいろいろな働きや性質がありそれを彼らは、場面に応じて使  い分ける。また幼少の頃から教え込まれた重力の存在はしばしば教師の意図とは別に誤差  的な要素として表れる。

以上のような結果を踏まえた場合に従来の教授方式による学習形態ではなかなかニュー トン力学が子供たちの中に理解されない事は明らかになった。そこには新しい内容への概

念変換、パラダイム転換という考え方を充実して行くことが必要とされる。

 学習前には子供の科学における力学のパラダイムが存在し1つの方向性を持つ。それは 中世以前の科学としての動力学と同じようなのパラダイムであり、ニュートン力学のそれ とは大きくシフトしているのである。そして子供の科学のパラダイムを形成する基盤は

『静的自然観』であり、これを打破しなければ力学教育の問題点は解決されそうもない。

そのための教材開発やカリキュラムの開発を今後もっと充実させていく事が大切である。

 現在の教科書の内容では概念変換やパラダイム転換を起こさせる事ができない。なぜな らそこには分散型の知識から統合型の知識へと子供の理解を図るために帰納的な内容で 構成されている傾向が読み取れるからである。子供たちは個々バラバラに見える現象に関 して子供の科学のパラダイムで納得することができる。多くの知識を与えても無意味だし、

ニュートン力学的パラダイムからどんどんずれて行く傾向にあり、高等学校での『物理嫌 い』を招く恐れがある。

 そのような理由で中学力学教育においては、その基礎基本という内容を『静的自然観の 打破』におき、『力は速度を作る』、『速度は距離を作る』という力や速度に対する実体論 的イメージをつかませたい。

 また力学の授業を展開する上でr力』などの言葉が教師と生徒の間で共約不可能であり 共通に使用できない可能性があると踏まえ、授業前に共通に使えるような工夫をする必要 がある。

 今回の研究で、子供たちになかなか教科書の力学が受け入れられない主な原因が見えて きた。今後はこの事を切り口にして、教材やカリキュラムの面でもっと充実できる内容の ものを開発する事が課題であると思える。学校五日制を踏まえ教科書の内容の精選、基礎 基本の充実が当然最も重要である。そのことに対して私なりに力学教材に関するものの指 針は示したつもりである。

本稿の一部は、廣瀬正美教授のご指導の下、日本理科教育学会第48回全国大会(199 8)において発表したものである。

補章

 修士論文公開審査会でパラダイム転換がゲシタルト心理学の問題から、そう容易な問題で ないことの指摘を受けて、その事と本論分との主旨について最後に補っておきたい。

 指摘の点は、本文の中の認知心理学上、子供たちはその先行知識によって形成された子ど もの科学とでも言うべきものを簡単に放棄しないのに対応している。

 ゲシタルトとは全体は部分の総和以上のものであるという形態を捉えたものである。その 例として、よく出されるのがメロディーである。メロディーは一つ一つの楽音の和であるが、

全体として形成された場合ににそれ以上のものを印象付ける。この例で分かるように我々の 知覚は幾つかの部分の組み合わせからそれ以上のものを想像してしまうものである。

 このことを少し物理的内容に対応する部分で捉えてみると、仮現運動と呼ばれているもの がある。映画のシーンは我々には常に一連に見えるが誰もが知るようにそれは不連続な静止 画像の連続である。これはデジタルをアナログ変換するようなものであり、一つの静止画と 次の静止画の間が連続動作のように知覚してしまうのである。アニメや人形劇の作品を見れ ばよく分かる。つまり局所的事実がその周囲に存在する諸条件によって影響されたものを見 るのである。錯視という効果は直接的に実験や、観察にも影響するということを意味する。

これだけでも単に見ることだけでは遂行行動中の継続的な事象を正しく関連付ける保証には ならないことを示している。

 さらに経験主義的な内容にまで踏み込みそのゲシタルト効果を考えてみる。記録には驚く ほどの多数の痕跡が含まれ、それらのすべては以前の経験を表すものである。そして以前の 経験の痕跡が現在の痕跡と類似していると、現在の類似性がそれらを選択する可能性を高く するというのである。このことは本文で述べた教科書の内容が子どもの科学で納得できれば それをより強める効果を表すことを示している。さらにこの継続により常にそのように見え るようになってしまう。これがゲシタルト心理学の教えるところである。

 正しい見方は、そのように見ることを納得した者のみ繰り返しそう見えるようになるとい うのである。そして、そのように見えるようになるには問題を解決しようと積極的に努力し ながら成功しないという時期を経て突然に起こるという。まさにこれは革命でありシフトで ある。つまりパラダイム転換というのは教える側の意図とは縁遠い事を教えている。

 科学と日常生活における知覚とは概念的枠組みに具現化された知識と登録された既存の 知覚とによって制御されたものと考えることが可能とされる。そして既存の知識は知覚を構

成する手短な情報と溶け合って期待の源泉となる。このことは正しい知識があれば正しく見 ることを可能とするはずであるがなぜ、見ることができるものについての知識を把握し損な ってしまうのだろうか。

 ターンは言う新しいものを見るためには支配的な古いパラダイムは知覚者の精神に対す る支配力をとにかく失っていかなければならない22)。つまり落胆効果がなければならないと。

つまりパラダイム転換は知覚者の精神に大きく左右されるものであり、個人の考えの中にし か存在しない。そして何が精神に影響するかわからない。だからこそ科学は基本的には開か れたもの(日常生活、社会制度、趣味などと結びついてよい)でその起源がどうであれ科学 の概念枠組みに結合できると。このことは伝統的な真理の探求などと科学を位置させるもの を緩めるものである。ゲシタルト転換の時も『積極的に努力しながら』という部分で精神構 造が影響する。

 子どもの科学が中世のそれに類似していて、教科書の教えるニュートン力学とのパラダイ ムのズレを指摘したわけであるがこの場合も精神的要素が必要であり、パラダイム転換は個 人内の問題になることが結論付けられた。つまりパラダイム転換をなすためには既存のパラ ダイムに不満を抱かなければならない。そのことは子どもにそのパラダイムで考えることの 矛盾を与えるだけでは不可能であることを表している。つまり欲望的ともいえるものとして 落胆を与えなければならない。自分に対するディメリットを直接的に受けるくらいのものが なければならないというわけである。換言すれば,そのことは子どもにとっての学習の価値 付けの度合いによって左右されるといえるだろう。しかし逆にいえば、彼らのパラダイムで 納得できる内容では転換のきっかけさえ与えられないということである。

 ゲシタルト転換はふとした時に個人内に急に起こるといわれている。それではなぜそうな るのか。古いパラダイムは常に根強く残る。しかし、新しいものは異質な枠組みの中で成長 しているのである。つまり種をまかなければ芽は出てこない。私は本文の中でパラダイム転 換のメカニズムに触れたつもりはない。子どもの科学が存在し、それがニュートン力学のパ

ラダイムとずれている事を示し、そのことによる現行の物理教育の問題点を指摘したっもり である。パラダイム転換が困難であることは明らかであるが公教育として子どもたちが転換 を起こせる努力はすべきである。教材の精選と学習心理における効果とは全く別の問題であ

る。

 今後はパラダイム転換を個人内部の問題から集団学習の場へと具現化する研究について は課題といえる。

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