と田
第六部会
な
の神社
興定者数る
の韮馬辺が
へ よ 拮五円尊者問的
ユ 41 (40 Ⅰ
)
む 出山Ⅱ目にⅠ
部 であって︑宗教研究一五 0 ︑ 一 九四︑一山八一一︑一丁 @ ハ上ハ ム ・
等につづくものである︒
まず原田氏が︑﹁宗教
づたい何であるかを︑明
の特質を︑一般的に述
︐へ
原田氏発表要旨
農村とは︑都会に対す
村 とも 異 ゐ七町である︒
﹁宗教と農村︐
一
が問 胆, ︒
J と 農村 1 一 と題する場大口の︑農村とはいらかにすることによって︑農村の宗教
る 任にあたることになる︒
るものである︐そしてまた︑山村や漁
しかし︑ひと ロ に農村と言っても︑
される 叫 んだしは︑その村の米がど う動
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し 大分科会報告
今 宗教と農村
いているかという意味での農村は ︑ 余り重要な役割を 占めるも 柁のではない︒そこで重要となるものは︑ 村 そのものを 強力に支 配しているもの︑つまり︑そのもつ共同社会的な性格 である︒
この古くからの︑共同社会的な性格のあることによ
二 ヒ農
村は都会から区別され︑従ってそこに︑都会の宗教と 農村の宗 教 との違いも︑おのずから判然としてくる︒都会のみ 不
の 宗教であるのに対し︑農村の宗教は共同社会の宗教 であると
言える︒
農村の宗教に︑特定の某の宗教はない︒存在するのは ︑ある 家の宗教であり︑講の宗教︑組の宗教︑村の宗教であ る ︒それ ゆえに︑その宗教の伝播も︑個人を媒介にせず︑家や ︑講や︑
組や︑ 村を単位として伝えられる︒
原田氏はか よう に︑農村を︑その強力なる支配要因で
共同社会的な性格からとらえ︑それと同時に︑農村の
ゎ 打沖七
︑
共同社会の宗教であることに特色がある︑と規定す る ︒たた し ︑最近における︑農村への︑新興宗教︑キリスト 教 の 海妨 が ︑そこにおける家などの媒介を否定して︑直接個人
渉 に結びついているところに︑新しい問題が与えられ ていると
一一一一口 ヘノ @ ︒
この原田氏の発表に対しては︑その 言う ︑共同社会的 との @ 言 葉は ついて︑二三の質問が行われた︒原田氏の 使う 共同体と 近代に対キ ‑, る ︑前近代的なる意味での共同体なの
とも︑共同体とは言っ七も︑一時︑変容を遂げた 共 同体なの か ︑という点についてである︒だが︑この辺は判り 難
笘 があった︒
次いで ト堀 氏が ︑ 前の一般的な発表のあとを受けて︑
具体的な︑農村における宗教の一例を︑図表を豊富に 使って 説 明した︒現在︑ 肚 げの直面している問題に︑近代化 や ︑都市
化 ︑多角形化があり︑いわば農村は危機状態にある︒
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の 変り
つつある現在の農村と宗教︑というのが︑堀氏の関心 である︒
選ばれたのは︑宮城県登米郡米川村︒この東北の ︑純 然 たる 農 村に ︑カトリック教会が進出し︑しかも著しい成功を
である︒
堀氏 発表要旨
半 される﹄ 米川村は︑人口五六三八︑村の収入は︑農業と林業に ほぼ 折 この村に︑一九五四年︑はじめてカトリックの司教が 布教を なし︑その理一九五五年の セ 月には︑早くも一七五人 0 集団 受 洗 がなされ︑更に十二月には︑一三五人にの ぽる︑や はり大量 0 集団受洗をみた︒以来現在に至るまで︑受洗者総数 は 四四 0 大 である︒戸数比からみると︑二四・九 % に達し︑一一 戸 に一人 は 受洗者が出ている割合となる︒この ぎ ねだった成功 の 要因と
して︑次の諸事項が考えられる︒
一 ︑既存宗教が弱体であったこと
神社はあっても︑神主が不在であり︑また曹洞宗の寺 院 もあ 貼るが﹁たまたま村民とトラブルを起して︑かれら から不信状態
ム本に小あった︒
郷二
︑村の性格が開放的であること︒ 村 で産出する米の量は︑全消費の三分の一にすぎず︑ 一六①八年頃より︑タバコを生産したりして︑外部との接触
三 ︑家の独立性が稀薄でち・ること︒
右の事項とも関連するが︑林業が村の収益の約半分を 占めて いることから︑山林地主が勢力を持ち︑多くの村民は ︑それに
依存して︑家の独立性を欠く傾向にあった︒
四 ︑キリスト教への親近在のあったこと︒
往時︑かの後藤 寺庵甘 はじめ︑キリシタン数十名の死 没地と
も @ 舌口われてⅠいる︒
ック の進出は︑対自体にも変革 をもた らし︑それまで田地が三二町歩であったのに︑二三八 町歩に増 如 している︒この間の理由ならびに︑受洗した信者た ちの成長 後︑村の内状はど う変石か︑ 長い目で見ていく 泌要が 課題とし
て 残されている︒
以上の堀氏の発表に対しては︑他にもやはり︑曹洞宗 の 寺院 のあるところで同様な例のあるところから︑その理由 が 質問 さ ね ︑これには︑曹洞宗はもともと︑大名などと結びつ き ︑土地 も 多く所有して︑農民との接触が比較的薄いから離反 しやすい のではないかとの解答がなされた︒また︑田地が急に 増加した
ック 教会につたがる外国の資本が投入さ
であろ 5 との推定もあり︑他にも︑一宗教の進出する 際︑チ ‑ の
土地の実益増進と一体化したことによって成功した 例 がヰ ‑ 考に m,
出された︒また︑米川村は︑日本全体からみると︑ ぎ 殊な ケースではないのかとの意見も出る︒
︐ ・・ @ :Ⅰ
Ⅰ
、時間に
入る︒
話題は ︑ 主として︑堀氏の発表 側と︑ 村の構造変化に
神社神道のありかたに 集 申された︒ 堀 氏の発表した 米
合は ついては︑二三の付加的な質疑応答が︑不審 点 ︑ 聞 き 洩ら
L た 箇所を ︑ 正す程度で行われた︒
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今まで︑村の宗教の研究には︑往々二つの方法が ︑多 くとら
ひとつは︑現在︑村に残っている宗教の中でも︑古い 形をと
どめているものを探しだし︑それによって村の宗教の ︑歴史的
変化のあとを求めようという方法である︒
も う 一方のゆ き 方は ︑ 村の中にある︑ 古 ぎもの自体か ら︑古
い 宗教を推しはかろうという方法である︒
さ 25 に︑従来とられていた方法は︑どちらかと言え ぱ︑歴
史的な方法が多用されてぎた︒しかし︑現在の ︑ 村の 宗教を研
究 するには︑別の研究角度が用いられなくてはならな
えば︑その村の職業構成とか︑人口密度とか言った ︑ 現在ある
横の要因を十分加味した研究角度が要求される︒ て ︑個人的な人間関係の上に︑教義を作り直そうとい ぅ動 ぎも
一部あるが︑ 未 だ農村社会の構造変化がもたらす︑神社 神道へ
の 影響については︑具体的な調査がなされていない 曲 ︑ 答えが
なされた︒
ディスカッシ ︐ン の時間が十分持たれないまま︑時間 切れと
なり︑司会をつとめた古野茂 ょ り︑はじめて試みられ た 円卓会
議 という形式が︑今後何度も重ねられて︑成果をあげ
ぅ 希望が述べられて 討議を終った︒ ‑
なにふん ︑ 初の企てだげに︑準備の上でも不十分の占 が 見ら
れたようだ︒発表者と分科は定っていても︑さて具体
かなることを発表して よ いのか︑当会場に来てはじめ て 詳細を
知らされ︑発表者自身当惑の様子を示した人もあっ さような
状態であるから︑事前の発表者間の打ち合せなど︑ 思
ないことであった︒しかしながら発表者は︑さすがに ヴヱテ一 : 7 ︐
ン 揃いだけに︑時間の配分を十分心得て進め︑一方︑司 会 古野
氏の手ぎわの良さとあいまって︑討議はスムースに はかどっ
た ︒また質疑も一部の人に限られはしたが︑かなり 活 托 てもっ
た ︒内容的には︑ややとりとめがなく︑発表者の発表 事項の鎖
大的なことにこだわった感が︑ないでもなかった︒ こ の占ハ︑発 か ︑その再編成は︑どのような形で企てられているか ︑と @@ ロっ 池上氏発表要旨 た 諸点である︒これに対し平井氏は︒ 他 ︑血縁的 基 盤を離れ
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