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第六部会 

式 筆太  暮 

繊肉 

あ  人 式  すは  粁田 

士 

宅岐 

島 

ん 

‑ 

し 

お    

る 

ノム、  唐 

イ 

  

賊法機建比沖弥附 

   法  第     部 

@s. 

昧 

Ⅹ 

侮の如く同語礼拝する︒他の作法は 本来の歎 ク @ サング︐ テシ︐ゥ ︒ ︐アンム @ ︐︐︐フカ @ ウィキ︐ゥ 仏会に異ならず︑回向も礼讃功徳殊勝 行 ︑無辺 肪福皆 廻向  と 話するのである︒所謂唐音で話するところから本来 の 歎仏に  対して 唐 歎仏︑あるいはリズムの情緒が支那的である ところか  ら ︑その ょう に呼ばれ石のであろう︒現在︑歎仏とは 唐 歎仏を  指し︑本来のものは和典 仏 として両者を区別している    

Ill   (371) 

お げる三十五仏のみと回向を所謂の唐音で︑一仏ある いは 4 口 仏 ‑ ノ して唱名する 主讃に 従い︑大衆は繰り返し南無状油ヰ 尼仏 ︑南 

% 紬鵬弔壊伸 ︑︐ 朝 純綿 鰯串鰯弗蔀 ㌧︑︐ 

朝 

網取 峡壌漱 明律 ん ︑南 オオ 4  に体功徳の讃嘆である︒現在の会式との 異 りは勿論であ ろ う が ︑ 

衆亜殿 維那 挙棚厳呪唱 薬師号嘆仏 畢 回向 

と ︑ 勅伸 清規 巻 一景命昔日 祝讃に 見ゆる︒我国にては 坐山 清規  下巻附着に歎仏会式が存し︑方舟宋朝 が 附する球に依 れば 坐山  禅師の時には未だ勤修せられて居らぬ︒思うに元以後 支那で ムム  式 が制定され日本に伝わったであろうが︑般若心経︑   

呪 ︑ 酒水 ︑浄道場︑讃仏 褐 ︑歎仏 褐 ︑帰依 文 

︑嘆仏 

偶 ︑仏名  礼 ︑ 繊悔 文︑ セ 伝達 礼 ︑回向文︑三帰依に終るそれは ぬ低讃仏  の 唱名会であり︑国家安寧︑風雨順調︑山門鎮静︑ 檀 情婦崇尊  の祝禧 である︒歎仏会中の仏名礼は過去七仏︑五十二一 仏 ︑三十  五仏であるが︑曹洞宗で︑父島で普通に修される本来 の 

歎仏 

は ︑過去七仏と五十三仏を所謂漢音での 主 讃の唱名に   

衆は一 ・ 軒蟻ヨ距詔偶 ﹂と 唱謁 し︑回向を太鼓と手 碧に 合わせて 

所謂の唐音で同話するのである︒ 

唐 歎仏に称せられるものは木魚︑ 馨子 ︑手 磐と 及び太鼓 ︑小銭︑   鰐口を一人で鳴らす三つ星︑即ち香煙のり ズム に和し て 仏名に 

﹂Ⅰ 

     

              

  

5  黄菜 宗 の 円浄 儀範の小施餓鬼経文は歎仏法会に類 よろしかろう︒ 

ている︒ 神道の思想的展開は︑仏教教学の刺戟によって端緒が 開か 

ね ︑ ヨいゴいまヨ ・ c 銭ぃ や 根本的仏陀を宇宙的本体と観 して︑ そ 

れとの関係において神と人とを説く真言神道・ ス ムロ 神 道も生れ 

3   拾遺和歌集﹁  ゑ︑  0  部﹂  神話的表現の形で解答されている︒  教説  ・教義・信条  といった 

    

人間観  甘  ︑その 

時代ごとの英知と価値基準で再評価・再認識したもの  と  考えて  菅盲  三足  也  云々﹂ 

この法会は最初︑大衆随喜の江湖会のみで勤修されて @‑@ @. マキ @ ハ 

が ︑明治八年頃から十夜供養にも採用され今日に至 っ ている︒ 

故に江湖歎仏︑十夜歎仏とも称される︒音韻的にほ 新 らしく︑ 

黄 粟からの借用と言えるが︑明治三年迄の禅宗関係 寺 院 数は延  宝 四年の末寺附属 状 と違わず︑臨済三十八︵ 現 十︶ ︑曹 洞 九十   は 見出さ  れぬ︒文責粟は歎仏なる纏まった法式を持たず︑リズ ︵ 8% な 

る ︒従って起原乃至輸入系路は明らかでないが︑異端 視の中に 

も音楽を通して信心へ向はしめんとする手段に先人の 努力が認  められる︒島での儀式の最上のものとして随喜 僧 六人 以上の在  家 供養でも広く修せられ︑独自の特色あるものを形成 している  が ︑島民の欲求を満たす何物かを有するからであろう ︒然しこ  のことに関しては改めて論ぜねばならぬ︑というのは @ ﹂こでは  如何なるものかを示すに留めたから︒唐音は師資相承 であり 乍 

ち ︑地域性︑宗派性を越え︑リズムにも発音において も ︑差異 

の 大なるを認むることは出来ないようだ︒ 

桂ュ 続 日本後記 巻十セ 仁明天皇承和五年 

2  三代実録 巻 第三十二陽成天皇元慶元年          

神道神学の 

一 

問題 

        

平井直属 

若し︑人生の意味を明らかにし︑人間問題の究極的 辞 決 をも 

たらそうとするいとなみを中心とした文化現象を ︑宗 教 と規定  するなら︑神社神道も正に一個の宗教と言わねばなる まい︒ 

宗教は︑知的沈潜 や︑ 祈りを含めた個人的︑社会的実 践や︑ 

宗教集団としての展開のうちに︑歴史・文化・社会を 統合する 

力 であり︑人間の統 体 的存在にかかわる問題でもあ る ︒従っ 

て ︑神社神道も︑これを単なる思想体系的側面から 見 るだけで 

は ︑まとまった問題把握にならぬが︑一応ここでは︑ 神学的 分 

野から歴史的神道説の宗教性を追求して見た い ︒ 

諸宗教の神学の展開の最初の足がかりは︑その民族父   

の 持つ神話である︒Ⅰが口沫﹁ や 旨 い目コ 毛のまに従うま でもな 

く ︑神話は根本的真理の原初的な直覚であり陳述であ って ︑そ 

こには古代人が︑自然や人生に対して抱いた疑問のか ずかず が 

        

  , 、 バ @ タ 

ド       

第六部会 

  

      夫 

椿 

  

日本神話は天照夫神を中心とする太陽の神話てあって   

三目 

惜 

月の神話 

①神宮を中小として 統 ムロ調和している信仰であること ⑤特定 

の一 神が一切の神の本質を併呑するが如 き 教義は除外 されるこ 

と ⑥善美なる宗教として人道に背戻しないこと︑の上 ハ点に注 

煮 して立案されるべぎであるとい ︒ 

かような立場に立って︑宗教としての神社神道の定義 つ げを 

試みると︑次のようになる︒ 

神社神道とは︑人間の生きる意味を探求し ︑ 

神と人 

との 

  っ ながりの下に ︑ 人として取るべ き 基本的生活態度を 実践 し 

て ︑人生の充実と︑現世における理想の達成をはかる いとな 

みである︒ 

神社神道は教祖を持たないが︑日本古典神話の精神と 神社 

祭祀の伝統と︑個々人の敬虔な宗教体験を規準にして ︑それ 

らの 再 解釈再認識から導 き 出される教学と実践と氏子 崇敬者 

組織を持っている︒ 

    神と人との っ ながりとは︑神のめぐみやむすびとして 歴 

史的に信仰せられたところであり︑基本的生活態度と ま︑ @   生活態度としてのまことをいい︑理想とは︑人間問題 の究 

極 的解決と︑日本及び世界の平和・福祉・繁栄への 男 力を 

さすものである﹄ 

               一 

""" 

""" 

"‑ 

""" 

ト  ト 

命  という月の神格は発展した神話をもたないように  見  受  げられ  る  ︒果して月の信仰は発展しなかつたのであろうか︒  また︑  そ  の  信仰はどのようにして来り︑どのように変容してい  っ  たので 

あろうか︒書紀一書︑三貴子分任の条のⅡによると﹁ 

  

宜しく  爾  ︵いまし︶月夜見尊︑  我ぎ  ゲ︐候 

ませ︒﹂という神勅により︑月夜見は保食神の許に到る     と鴇雑  ㍼ e@<,.9  鐘榔街  れい叩い 

g.M 

パ  グ﹁沖もがⅦ  耶鞠  饗  ぅ 

‑ 

れるの品物で御翻したため︑  みぁ  @   月夜見は怒って保食神を  撃殺す︒ 

寒擬ボ  がが遣わされた時︑保食神は已に死んでおり︑  その神の  頂に牛馬︑麒の上に い たた  ヶ  粟︑  眉の上に  蟹 まゅ  ︑  眼の中に  稗  ︑  腹  の中に 

  

﹁日本神話伝説の研究﹂︶︑月神と農作物との関係︑月神  ︒これは 

と  保合  中国の盤古  氏  説話の漠  傲  であるといわれているが︵  高 

木 敏雄 

神との関係はきわめて密接なものであって︑日本農業  神話の根  元  には月の信仰があったと考えられる︒これと同様の  神話に  紀  一書 

の雅彦  帝 正尊︑記の  スサ  ノ  ラと  大気  津比  売の神話  があるこ  とは周知のことであるが︑金沢博士は日韓両国同系  の  立場か  ら  ︑身体各部の名と︑そこから出来た物の名を比較さ  れている  ので︑それを括弧内に示して記紀の神話を比較してみ  よとノ  ︒ 

︵﹁国語の研究﹂︶  コし 

  

一重目 

紀一書は  須佐之男命  殺す神月夜見尊  大気  津  比売神  殺される神保食神  椎  産霊 

このように比較してみると︑月神と保食神との結びつ ぎは︑ 

もともと朝鮮にあったもので︑ 目 ︵ コ屈コ ︶Ⅰ 蚕 ︵ ヲ 仁の︶ ︑耳 ︵ ヰ偉 @ ︶ |ヤ  耳麦 ︵ ガ三 ︒二︶ ︑鼻 ︵ ガゴ 0 ︶ 4 大豆︵ マゴ Q コめ ︶ ︑頭 ︵ ヨひ由 ︶ + 馬 ︵ 頁ヲ甜 Ⅰ︶ ︑  陰 Gon 三 ︶Ⅰ 麦 ︵ づ 0 ヱ ︶ ︑腹 ︵ ロ藍 ︶ ょ稲は忍 ︶がそれぞれ 出来たと  いう語呂合せの話が朝鮮から伝わって︑記紀の編纂 時 代 にはそ  れが既に忘れられ︑記のような形に移行したものでは あるまい  かと想定される︒金沢博士の語源 説 が認められるとす ね ︒ ば︑こ  の神話は前二世紀中頃と比定される稲作の伝来に並行 するもの  であろうし︑牛馬の将来ということになれば更に時代 は下る伝 

来たるや明かである︒ 

以上の仮設の上に立てば︑古事記の伝承によって月読 ム 叩は ス  サ ノ ブ に 置 ぎかえられたと見ることができ︑月の神話 が 大腸の 

光 にかくれてゆく姿を見ることができるであろう︒    

麒  Ⅱ  粟 Ⅰ ︐  眉  Ⅱ  璽  へ  ︵ 魁  Ⅱ  コ  C の︶  眼  Ⅱ  稗 

  

︵ コ岸コ  ︶  耳  Ⅱ  粟  腹  Ⅱ  稲  ︵ 才仁  @ ︶ノ  ア  ︵ づ麓  @ ︶ 十 l  ︵ づせひ  ︶  陰  Ⅱ  麦  陰  Ⅱ  麦  ︵ 咀  湖岸田︐  ヱ  ︶  ︵ づミネ  ︶ |ィ  ︵ づ  ︒二︶  尻  Ⅱ大豆  大豆  k,  ︵ 寸ゴ  0 コぬ  ︶  鼻  Ⅱ小豆  小豆  ︵ 寸コ  0 ︶  ︵括弧内は朝鮮語矢印は稗行を示す︶ 

(374 Ⅰ  Ⅰ 14 

  

    

第六部会 

・ ㍉Ⅰ 

  

ぬ 城国風土記逸文に よ ると︑﹁月読尊︑天鑑犬神の勅 を 支げ  て ︑豊葦原中国に降りて︑保食神の許に到りまし ぎ 

︒ 

時に一つ  の 湯澤 桂 の 水 あり︒月読尊すなは ち その樹に 椅り 立た しき︒ そ  の樹の有りし所を︑今︑桂の里 と号ふピ ︵山城名勝 志 十︶ 

とあって︑月読 命 と保食神の関係は民間信仰の支持が 厚く 

︑ 

つき 記 にも﹁倭建命と美 夜 支出売の神婚の話﹂に見る月経 と 神事と 

月 ︵農耕︶との関係が存在する本朝世紀の風俗歌︵ 設  の 関係 汝が 評せる欝が裾に月立ちにけり﹂﹁諾な諾な 

楽歌 

︶ 

君 待ち 

難に我が著せる襲の裾に月立たなむ 

ょ ﹂の 

棺聞 

にして    ︒豊楽に 信仰に根ざと 

よ の  ネ小  ︑  つき  立つ  せ 

緩の葉が大御菱 に浮 んだという﹁事の語 事 ﹂の歌謡に も豊耕神 

お 

み 

き 

事の背景として朝鮮まで 跡 づ けぅる ﹁月の神話﹂と﹁ 月 の 信仰﹂ 

が 存在することを推定し ぅる ︒亀ト と 月読 社 との関係 ︑八幡 と ふそ (  肩 は 笠 

着る八幡は種蒔くいざ我等荒田開かむ︵ 

天 優人 

年 八月三日宇佐八幡上洛の時の歌遊の曲︶ 

などにしても︑﹁月の笠着る﹂時は︑ 種 蒔の時であ 

っ 

て ︑農耕  暦と 月の変容との関係 

壁  @ ロ 

うまでもなく︑月の信仰は   

語 ﹂をはじめ﹁源氏物語﹂︵タ顔の死︶にすらも厳存 している  ので日本農耕神話の根底には月の神話があり︑それは 朝鮮から  農耕にともなって き たもので︑記紀編纂時代にはそれ が 太陽 と 

スサ ノ ブ の影にかくれてしまったものと考えられる︒ 

日本宗教政策定 

奈良から平安 

へ 

工藤  張雄 

称徳 帝 ︵ 孝謙帝 の 重詐 ︶の時︑道鏡を天皇にする よう 神託 が  宇佐八幡からなされ︑この件にからんで 清 麻呂が流罪 となっ  た ︒帝は清麻呂が う そをつぎ︑他の一派もこれにから んでいる 

が ︑それは処罰しないと 出 早言した︒ 

称徳帝の死に ょ り︑元仁 帝 が藤原系におされた︒太政 大臣は  おろが法王の位地にすえられていた道鏡は︑十日を経 ず 下野に  追 い やられた︒その際︑宇佐の神 托をょ せた阿曽麻呂 は 恩賞に  より︑その後も優待されている︒つまり神 に そのもの が ︑藤原 

系の陰謀とみられる︒ 

元仁・ 桓武 父子は ︑ 長らく皇統から離れていた天智希 の後  で︑外戚関係が貴族になく︑長く傍観者だけに︑従来 の 仏教政  治 に好感をもっていなかった︒しかも仏教は堕落し︑ 亘 8 かな 経  活力をもっていた︒とりしまる ズ︑ぎ 時期であった︒ そ の方法と  して︑徹底をみたのは︑ 桓 武帝であり︑仏教行事を朝 廷内でし  ばらく止め︑ 仏 寺を禁じ︑都を遷し︑寺の移動をさ せなかっ 

た ︒実に巧妙である︒ 

最澄︑空海は︑奈良仏教に対する新勢力として利用さ れたと  の 考えは︑推量違いで︑仏教抑圧の波にのせられ︑ 初 め 山にも  和手が建てられなかった︒ただ和気 氏 が助力し︑その 弘寿︑神 

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