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113 (325)
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第三部会
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光の形而上学と宗教
遠山調度
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第三部会
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米沢穂積
り ︑それを負 う 主体の問題として展開され得ない︒ ヰハ 1‑ Ⅰ ヘ ・ 論理は 村識 となり得ない︒ ま 源的 否定性を自らに 負 となるか﹂という問が 自らに負 う 他者のこの 礎づ げており︑この 他 壊 されえない以上︑ そ のは見出 えつつ︑ 見るならば︑﹁我の我で に 有する他者性に他 な 者 性を克服しえな いな いてゆくことはで きな いる 境 位は明白なもの いうこと 老 じしん ず ︑ただ我との関わりてしまうことに 塞 くものであろう︒ 源苦 とし ものとして︑ 我は他者
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119 (331)
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(334) 122
第四部会
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この画期㏄
られたこ お とっ八エ 几 ︶ 宣教観 と 比べる時︑つぎのような特徴をもっている︒ は歴 に 奉仕 のことば らすこと の 一つの
手段ではあっても︑宣教そのものではない︒ のもと 仰 と生き じて︑ か め ︑保存
し ︑促進することをも意味する︒ 正 され で 変わる にかけて ね ︑宣教 宣教の危 ような 批 あるので・ カトリ われる︒
(336)
124
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本土の左傾して行った︒
さえら 二十三倍といわれた海外領土にお ょ ばしていた︒ ︑後者は 聾 し︑ られる南部地方を拠点﹂こに火とする︒
する 政 をはくという結末に導いたのである︒ 緯 もあり︑キリスト なったが︑これはキリ 共産党との間に不和を 敵 に進行醸し出して国際問題にまで進展した︒ 進派と 地 に賃上 の 根には げ ストが続発し︑失業の危機が増大した︒ たわっているよ う に たが︑ 失 おもえる︒ 余儀なく された︒トミズムにおける一つの問題点
って 穏 した︒岩木一夫
挙 ︵五十年ぶ にある が 主体︶︒︑一一一力 あろう︒125 (337)
ズム受容 面 では ト ら 検討さ らこの 間 十八 しこ ︑︒ ト教哲 思床 の 間 べからざ ている︒ ると 巴 わ ・ の 選択と ︑それ が宇 えら
れると記しているのである︒ ︑第一 間 との 連 と 舌口って のみでは とによっ れる限り れなけれ
ばならない ト よりに回心上われ 二 りの ネ しあて り ︒ て︑仮 諸問題 領 ︑ 言わば よう
に思は
われる点を指摘したいと思 う のである︒
よって㏄
全ての 存 と 考え もれるのである︒ のにも あって ︑
トマスは ︑ 次の如く述べている︒ の ︒ 幅コ ︒ 口口 去 0 口ロ岸が 呂 ・ e の︵ ぎ 〜︶ 由弔隼 0 ︶ 岸 ︵片田 ヲ ・・
㏄も・ 切 ︶ 神にそ を 受ける への志向 トマス のを秩序 系を啓示 るのであ かれる︒
ア タナシオスの﹁存在﹂理解をめぐって
軒灯 啓
学問 の
明 のまま
に 即して
存在 か
Ⅱのの由が メ ⅠⅡⅡ曲目の
い の仁田Ⅱ山ロ ざ ㏄ めの ・︵ 刃 0 〜︶︶: M ︑め 0 ︶ が︑又 が 認めら が定立さ
れるその根源的発想が如何なるものであろうか︒ しての は ︶︑これ てい きた
いと思 う のである︒ 再 解釈に 軸 とする 者の相違 者を﹁ 存 に ﹁存在﹂ いる﹁ パ あるが︶ ︑ 考えた 場 その一派 重要な 鍵
を 提供してくれるよさに思われる︒ クリ ス RV とみ ことを 否 性的 置づ よるとこ 等しく 神 って神の ない︒ す おいて後 存在では る ︒そし 下 し︑ 両 0 これに
127 (339)