学者の実践
の主調
で 発 あ , L の 因縁とは何であろう 、
う ︑その基本として 六 か ︒ 経 所説によ
波羅蜜の実践を ると般若 波羅
あげている︒ 蜜呂 の 間思惨
いま︑例証を であ 軋 あげ
ぬ ることができる︒ここにまとめた論述の裏付 けとなる見解は次項以下において示されるであ ろう︒
られる︒例えば金岡り心と利益安楽心とは正覚 後に実践保持すべき誓願と心情で︑他の三心はキ ‑ の 以前のものと考え
それら五種 心 には正覚前 後の各々において実践保持すべき誓願と心情とを 説述していると考え
この五種 心 が正覚の前後のいずれにおいて実践さ れるべきものか︑作者は何も説明を示していな ぃ ︒しかし内容を検 なう るまでに︑あるいはうるために実践︐保持 すべき心情なのか︑それとも正覚後に実践・保持 すべき心情なのか︒ では 不捨 衆生の心情を基調とする五種 心は︑発 心した人にとってどんな意味をもつものであろう か ︒すなわち正覚つ 。
ある︒本絵衆生の意味はこのような重苦から 逃 避 したいと切実に希求願望する心情を察知し ︑そ れを叶えてやるとい ぅ 現実的立場からの実践を示している︒しかし ただ 不捨行 がこの意味だけで満たされるというの ではない︒苦悩する 衆生がみ ば 求道の心情を起す動機は ︑ やほ 0 所 述の生物的満足から生じるのであるが︑それが 求 めた対象への愛情に 変化し尊敬の念に高まってゆく︒この段階まで は 即世である︒これが進んで衆生が自己完成の欲 望を起し︑同時に他 の人の可能性をも実現させたい欲望を併起すると いう自己実現の動機を斎らし︑その実現に精進 するよ う 勘助教導す るに至る︒これを産地と考えたい︒ 不捨 衆生は このように利益したのちに 救度 をなす二つの実践 を 成就するにあると
㌧ q. つ ・ ︑ロ ・けのゆ︶
②世尊が般若波羅蜜を説法されていた時︑三百 比丘 従 ︒ 座起 ︒ 以 二所︒苦衷 ‑ 上 ︒ 仏 ︒登三河 褥 多羅一一 一読三菩提心 4% 大
口 ㌍大正八・二二九 申 ‑ 下ぎ ・ キ ・アロ・ 臼 ︶
③ 復次若 五 % Ⅲヂ善女人 づ於ニ此 般若沖離生多イ 未 ︒ 能 : 聴 愛読話 ‑ 者︒所有 己発 二 河褥 多羅二親一一 垂ロ 捉ふ弍 諸天子 衆
桂二 彼 入所為 ‑ 作二曲金の勘合下船 二此 般若波羅蜜多 ィ 穂麦読話 如 ︒ 説 修行㏄ 谷 仏画 出 ヒ大正八・五九 四丁︑ここは梵文
の 抄訳であるが﹁小ロ 囲 大正八・五四一下より 明 確 ︶︒
梵文は重複部分が多く長文なので要約して出す と︑
無上正尊 旦へ 向けて進んだ人で︑まだ絶対完全 の 智慧を得てい低い諸天人達は︑絶対完全の智慧 を 聞き読話し修学
した人に親近し︑かれの絶対完全の智慧につい ての説法を聞き読話 し 修学するであろう︒
宮
㌍ づ q. つ ・ ︑ づつ・母の1の 0 ︶④ 仏 諸弟子皆川二河 褥 多羅三親三菩提 法 Ⅱ 護 二念 諸菩薩摩 詞薩づ令ドニ 二河 褥 多羅三親三菩提心り 令 レ住 二河幅多羅三鏡
三菩提 り何以故 ︒過去諸菩薩摩 詞祀 ︒ 皆因 ︒半工 是 六波羅蜜多 ‑ 故 ︒発 こ 菩提心 ‑ 往こ 菩提 果弍 宮仕 母
セ下 ︶
︵梵文は長文になっているので喀出り
もし ボサッ 大士が菩提心を発起しないで正覚を ︐ つるために六波羅蜜を椎 学 することがなかったな らば︑かれらはっ
いに正覚を証得することがなかったであろう︒ し かし ボサッ 大士達は ボサッ 行である六波羅蜜を 修学するために︑
それゆえにかれらは菩提心を発起し︑それゆえ に 正覚を︐﹁与るのである︒︵ 臣 ㌍・ 宙 ・ ト︐ やお牛口 二万五千 頒 L. ﹁ 十
万頗 L ではここに相当する文はない︒︶
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①十方諸仏説二足般若沖縄 み下 ︒無量阿僧祇 衆 生 小祭三河 褥 多羅二 % 三菩提心り︵﹁人品ヒ大正 人 二上ロ三缶 十 ‑ ㌧㏄ 白い
般若経における ,菩提心
㈲般若波羅蜜への 侮学 ここでは般若波羅蜜 修 学は具体的に何を意味しているのか︑所説をもと に 考えよう︒
﹁八千 頒 ﹂所説
世尊高 く︑ スブーティ よ ︑絶対完全の智慧を修学 する﹁初学者﹂︵ ぎ守 銭ヨ ぎさ ・ ボサッ 大士は ︑主 口 友を助け愛し尊敬 り
の 智慧のために教導し諭してくれる人々である︑
説述してくれる人々である︒かの善友達はつぎ のように説諭するであろう︒ 刊 ここへ来て六波羅 蜜 を一生懸命に実 4 ぬ ために六波羅蜜を修学しょうとする心情が 起って来るところにあるようである︒ 蜜 説法の聞 聴 によって︑本給衆生の誓願を起し︑ 般若波羅蜜の完成の 縁 ともなっている︒なぜか︒六波羅蜜は菩薩 た ちの善き友達であり︑
ニ ︑
‑7I ︶
過去現在未来の諸仏の正覚 淫薬の王国であるか 0 次ぎに 読 謂も発心の因縁となっている︒説法 内容を読 謂し 熟慮瞑想することが無上正等覚 へ 志向するものに必要であるようだ︒この後で六波羅蜜の修学をしよ
︐ つ
とする心が生起して来る︒この修学をしようと する心情が発心の囚 どうかが大切であり︑この菩薩を不退転菩薩 と
ている︒ 聞 聴の因縁 あり方が問題である︒ ﹁八千 頒 L に︑般若波羅蜜を聞く聞かぬに拘ら ず ︑本人の心に不浩一切衆生の心情があるか 四例によると︑般若波羅蜜説法を聞聴すること が 発心の一つの因縁となっている︒聞くといって るのであり︑その性学をしない人の発心も誓願 も 無意味である︑という︒ ム る 人で六波羅蜜を皓学しないものは︑真の発 菩 捉ふ 者とはいえない︒大波 毘軍 に学をなすものだ けが無上正等覚を ぅ する人でなければ︑またそれをしようと 蕾ゅす る 人でなければ真の発心をなしたとはいえ低い︒ 無上正等覚 へ進越 す 右の四例中︑①②の例では世尊が般若枝 薙 蜜を 説法されている時︑また説法された後でそれを 聞 いて感動をうけ 無
上玉等覚をえようとして発心する衆生や比丘 ら ほ ついて述べている︒③④の例では︑般若波羅蜜 を聞 聴し 読謂し 修学
右によると︑まず初学者は善友達に親近し ︑か れらを愛護し尊敬すべきだと述べ︑善友達の所説 するであろう内容を 明かす︒Ⅲ六波羅蜜修学を成就 し ︑その功徳 善 根を無上正等覚へ向けること︑㈲一切智和 は 敗着 されないもの︑㈲ 二
乗 位を慣れないこと︑などの三点を教え︑この
一 二点を修学するならば自然に般若波羅蜜
へ趣 爪す るであろうという︒
いま般若波羅蜜多への修学について考えたが︑ で はその修学の心情はど う あるべきだろうか︒ 心 のあり方について
具体的に知る必要がある︒
㈲初学者の心のあり方前項の問題をつけて︑ そ の 解答を刊八千 頒 ﹂に求めるとしょう︒
①世尊旨 く︑ スブーティ よ ︑無上正等覚へ志向 せんとする ボサツ 大士は︑すべての衆生に対して ﹁等しく﹂︵ ぎヨ の七︶
あるべきであり︑また﹁平等の心﹂︵ ぎミ リ七の @ ︵︵㏄七︶を持たなければならない︒﹁憎悪の心を ︒って﹂︵ ヰ 丘ゆ ゅヨ㏄︒
住 ︵ de コの ︶他人を取り扱ってはならない︒﹁友情 ある心をもって﹂︵ヨ日︵︵ ギユ ︵︵の コハ ︶︑﹁利益を与 える心をもって﹂
︵田斉 お ・︶︑﹁敬いの心をもって﹂︵ 帝ゅ与卸セの lc. ︶ ︑ 一 ︒謙下の心をもって﹂︵ コゴゅ ︵ゅヨ鉤墨 蕊 ・︶︑﹁ 瞑志の ない心をもって﹂
︵の ロ ︵ 曲 ︵ ぎ ata‑c. ︶︑﹁ 損 悩めない心をもって﹂ G 丘 ゴ 0% 空山 お ・︶他人を遇すべきである︒ ︵ 9 ︶ @ キ よ ん Ⅰ @ Ⅴ 0 浅 しなさい︒善男子よ︑布施波羅蜜をなし︵ 乃 至 ︶智慧波羅蜜をなすことによって︑あなたが 成 就 したものはすべ
て ﹁それを無上正等覚へ回向しなさい﹂︵ tatsu Ⅱ せゅ さ Ⅰ ㏄ コ仁 二のハ % セ囲 七の笘〜︵︶㎏㏄ ガの ㏄七サ 0 印すい口ロ リ ユ % 囲 ヨ ㏄Ⅱ め ︶︒しかし 血偲 土工等覚を色またはそのほかのいかなるあっ ま りなどと間違って理解してはならない︒﹁なぜな ら ︑善男子よ ︑一 切 智は収着のないものであるから﹂︵︵㏄︵オド 几ド ㏄ 胡の tO 甘 ︑ので㏄ ぺ囲日 ハ % 囲 三村 け 寸で仁田Ⅱ斡の㏄Ⅱ つ と印の計 囲 ︶︒ ﹁そして声聞 位 ・
の末の l すゴ目 〜︵︶ む 仁ヰ卸でⅡ㏄片田の方 のす 日色色目㏄ @ ヴ 下目 ヨ ㏄ け せ り ㏄ つ Ⅰ す卸 七 % パリ ︵ ゅ円 ︵︶ L と ︒このようにスブーティ よ ︑初学者・ ボサツ 大士は次第に善友達によって絶対完全の智慧に 趣 入しなければなら
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% て ︑﹁私はすべての衆生の救済者である ヒと い う 自覚と使命感とを持っべきだと教える︒ こ の 自覚に立っ使命感が不
お捨
行の原動力となる︒①②③の三 つは 他人に 対する自分の心構え︑心の持ち方をいっている が ︑では 心 そのものにつの 柵 いてはどうであろう︒④では自らすべての 悪 を制適 した心の状態をもっべきという︒悪を根 絶した状態ではなく︑ 悪 ︵般 が 活動を止めた状態・悪が勢力を失った状態・ 亜 ゅが 支配された状態にしておくべきであるという 意味であろう︒この 4
菩提
であり︑最も崇高な心情のあり方である︒親子の 愛情はすべての愛情の基本形といえよう︒③は この情愛の上に立っ
し、 ぎ寺
②すべての有情に﹁母の想い﹂︵ ョ注 rl 終 七古 ゅ旧 ︶を︑﹁父の想い﹂︵口耳 八こを ︑そして﹁娘の 想いし︵色目玉︵ ハ ーの・︶
を ︑﹁息子の想い﹂︵で け ︵ ぺが ︒ ダ ︶を抱き︑侍従 し て過 すべきである︒
③またスブーティ よ ︑無上正等覚を証得しよう と 欲する ボサッ 大士は︑すべての衆生の前に進み 出て ︑ 次のように
言って修学すべきである︒﹁私はすべての衆生 の 救済者である︵ き ︵ 春お ︵︵ 4 ゆ コ囲ヨ日 団七 コゆ ︵ゴ ロ さ ︒ ヒと ︒
④また自ら﹁すべての 悪 八の活動 V が休止した 状態にあるべきである 1 一 ︵の arval つ醐 注目アヤ︵︵入目の ︵ ゴゆ円 ㏄ せ Ⅱ 曲 巾 Ⅰ ︶ ︑
⑤贈物を与えるべきであり︑戒を保つべきであ り ︑忍耐を完全にすべきであり︑精進に努力すべ きであり︑禅定に
入るべきであり︑智慧を完成すべぎであり︑ 順 逆の縁起の法を達見すべきである︒
⑥また他人をも︵自分と同じように︶よく 証得 させ︑それ︵無上正等覚︶を讃美し説法 し ︑そし
達 にも︶知らしめるようにさせるべきである 守
せ 目色 ‑ 口目 叶 の 吋1 の㏄ ミリ @
コ 三曲の口ロ OP オゴ の くコゆへ せ めヨ ︶ 0
右の例文中︑①は平等利益の心情︐謙下の心情 ・ 不 害の心情を一切衆生に対してもっべきであり ︑これが一切衆生
を 捨てない行為の心情でもある︒②ではもっと 具体的に説く︒親に対する子供の気持のような︑ 子供に対する親の気
持 のような情愛を衆生のすべてに注ぐべきとい︐ っ ︒これは人間をはじめ他の動物におけるも同様 ︑原初的愛情の形態