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『宗教研究』203号(43巻4輯)

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(1)

――目次――

論文

1,

呪術と法悦:マックス・ウェーバーのインド宗教論, 山折哲雄, Tetsuo YAMAORI, pp.1-29.

2,

般若経における菩提心説, 田上太秀, Taishō TAGAMI, pp.31-53.

3,

胎蔵マンダラ金剛手院の思想, 八田幸雄, Yukio HATTA, pp.55-81.

4,

儀礼研究への一試論, 竹中信常, Shinjō TAKENAKA, pp.83-98.

5,

ガザーリーの神秘思想:tawḥīd 論を中心として, 中村廣治郎, Kōjirō NAKAMURA, pp.99-121.

書評

(2)

呪術と法悦

六五四姉二一

Ⅹ マ ハ Ⅹ ハ Ⅰ

もく

詩と

科学

1. ゲーテをめぐって 芸術と宗教倫理11カーリダーサをめぐって 未開性と近代性 1, 音楽をめぐって

呪術と救い

1. 宗教学をめぐって 救済追求 と救胚込珊、, Ⅲ法悦と﹁ " 魔 , 住 、 の 園 ・ 一 をめぐって

おわりに

外界との接触を遠ざけ、視覚を雙眉の間に注ぎ、 鼻孔に通う出 息 と人 息 とを平等にし、 ㍉ バ おス ヱ ファッ ド ・ 兵 Ⅰ | ターヒて %. 天神地祇ハコトゴトク 善 鬼神 トナヅケタリ コレラノ善神ミナト モ 二念仏 ノヒトラ マモル チ リ 親鸞 コ 現世利益和讃﹂

七 折口

マックスⅠウェーバーのインド ヵ 下机前仏体 祠

呪術と法悦

1@ (459)

(3)

(460)

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科学

@@ ゲーテをめぐって

(4)

呪術と法悦

しかしにもかかわらず、いわゆるウェーバーに ム ゅ ける客観的な科学する精神と、ゲーテにおける ファウスト的人間 の 精神とは、ついに相まじわら ざ 五一つの決定的 な 矛盾として、それぞれにまったく別個の ェ| トスを希求する精神 である。そもそもウェーバーにおける科学の﹁ 客 観性 ﹂なるものは、自己の立脚する価値理念の 自覚を基盤とし、 ま た 認識の一面性とそれによって構成される概念 の 妥当性の限界の自党を通して、はじめて保証さ れるものであった。 にもかかわらずあるいはまさにそれゆえに こそこの峻烈な自己客観化の背後には、 一 ・人間 文化の幽遠な未来﹂ が 、そしてまた﹁巨大な混沌なる生起の流れ﹂が 、 たえず貫流し、交替している。すな ね ち、﹁ 生 はその非合理的な 現実性において、 において汲み尽されることができない﹂ものと、 彼の眼には映らざる をえないのである。︵ 3 ︶そしてこの場面こそは、一方 の 、いわば夜を背にし昼を面にし、空を負い波 に術すところのファ ウスト的錬金術師、および他方の 、リゴ リステ ノックな自己検証を己れに課す厳密な科学、の 足 下 にひろがる危うい 深淵なのであるが、しかし右の両者が目指す 究 極 の 星 とそれぞれの旅程は、いちじるしい径庭を 示すであろう。 というのも、やがてゲーテの手によって天上に 導かれた魔術師ファウストは、全人性を獲得して 救済されるのであ ︵ 4 十 ︶ るが、これにたいしてウェーバーの﹁客観性﹂は ﹁科学と信仰とを分かっ間一髪の境界線﹂を 明示する唯一の尺度 として、すなわち信仰と科学の全人的合一を拒 否 する武器として、専門人ウェーバーの頭上を脅 かす ダ モクレスの

餌り

と 化すのである。そしてこの点を考慮するとき われわれは、マリアンネ夫人が記述しているよう に 、ゲーテの 人 問の なかに、ついに﹁英雄の資質しを見出しえなか っ たとするウェーバーの評価の内面的意味を 、は じめて汲みとること 空を負い渡に僻して。己は駆ける ピ す @ ︶ 只 ファウスト L 第一部間間の 前 森林太郎訳 L Ⅰ

(5)

地点での彼の絶望の対象こそは、﹁精神なき

門人、心情なき享楽人﹂なのであ

った 。︵ 9

主 ン い え か 東 一 あ る ュ 世 界 における価値ある行為の前提であると 沈蛙に屯 胆 っているのであるが、それに直接続けてあの 周 知の テーゼ 、 ﹁ ピ |り タンは職業人たらんと欲した 職業人たらざるをえないしが、この世評の高い 書物の終曲を奏で ことになるのだ。 こうしてゲーテにおける﹁天才の倫理﹂と、かか るものをまったく認めないウェーバーの﹁英雄Ⅱ 騎士の倫理﹂との いだに横たわる障壁は、近代資本主義発展の一 新 面 に刻みつけられた生々しい傷痕でもある。 た とえばゲーテは 、 八世紀末から一九世紀にかけてのドイツ資本主 義の後進性において、その天才的な詩人性と、 フ ランクフルトの 官 およびワイマールの枢密顧問官としての素町人 的 俗物性とを朗らかに一身に共在させることがで きた。そしてそれ ら 約一世紀後になってウェーバー は、ョ ーロッ パの 先進的資本主義の根底からあの 溌刺 としてい た 禁欲の精神が消 失せ、またかつては精気を放った﹁職業倫理﹂の 思想が、いまや宗教的信仰のたんなる灰色の 亡 霊 として緋桐して ︵ 8 ︶ る惨虐 たる状況に直面している。こうしてウェー バーにおける類いまれな﹁ブルジョア思想﹂は シュトルム・ ウ ・ドランクの 狂 熱を冷やかに眺め、同時に プ ロテスタンティズ ム のユダヤ教 的排 金主義への 復 帰 、すなわち資本 萎め ヤンキー主義への退化にたいし 予 舌口者的 警土 口を与えつつ、ひとつの絶頂にたっするのである 。要約すれば、 こ Ⅰ 6- ファウスト的な人間の全面性への断念七の﹁ ド ∼のま の宙 ⅡⅠ 山 e 円 ㏄臣の エ の。 す ⑦ 糖 二のの 岸 @ 内村 0 ぎ 年のの目の コ の り プの コ口 ヨ 巴が、現代 ロテスタンティズ ム の倫理と資本主義の精神口 の 終結部で、﹁専門の仕事への専念と、それに 随 伴 せざるをえない、 レミアになぞらえつつも、自分がけっして予言者 などではないことを確信し、いかなる信仰告白 をも拒否したこと、 ここにこそわれわれは、彼の﹁騎士的品位﹂ と 徹底した専門人的禁欲の根元を見出すのであ る 5 ︶ 。彼は、あの﹁

プひ

ができる。晩年のウェーバーが、第一次世界大 戦 とこの時期の政治活動の体験を通して、自己を あの禍の予言者 イェ

(6)

さて、これまでことさらにウェーバーを ゲ |テに 対置して論じてきたのは、あるいは迂路 でしかなかったかもしれ

主題にとって若干の連関がないわけではない。 周知のようにゲーテは、イランの野情詩 人 ハーフィズの霊感をつけて﹁ 西 哀詩集 L 一巻 を 生みだしたのだが、あた 。かもその経験と軌を一にするかのように、 リ 彼 はまたインド最大の詩人力ーリダーサ 本け 甘口 ゅ 紐 ︵ 四 ! 五世紀︶によっ 二 、芸術と宗教倫理 力一 リダーサをめぐ って || 註 ︵ 1 ︶マリアンネ・ウェーバー 著 ・大久保和郎課口 マ ゾ クス・ウェーバー Ln 伝記 U ー、みすず書房、一三 一 @ 三頁。 ︵ 2 ︶富永・立野課コ社会科学方法論﹂、岩波文庫︵ し ナの穴 ハレ ヴ お君 円ぎヰ 内田この つい p いトセく @ の ㏄。 臣 ㏄ りすゥト ロ ピい 下りⅡ 廷コ 年の。 ド目ぃ - つ 0 目 ヱい い プ のⅡ 己 Ⅰ ガ 。 コ 三田のの︶、 一 0 八頁。 ︵ 3 ︶ q.ilN. ま目﹂、 一 0- 八一見。 ︵ 4 ︶ 司 同書目 一 0 五頁。なおこの論文Ⅰ客観性 目に ついては、安藤英治㍉マックス・ウェーバー研究日米 来社、一一五 l 五四 頁を参照。 ︵ 5 ﹂ガースノミルズ 昔 ・山ロ ノ 大仏記﹁ マ ,クス ウェーバー 目 ミネルヴァ書房、 六 0 貝 。すなめちゃ ヱ | バーに ょ れば、 予 三一口者、芸術家、聖徒だけが自己の心を公にすることが できるのであった | 0 なお、彼の精力的な中国および る 研究が第一次世界大戦のこの時期︵一九一五︶に 開 始 されたことは興味ぶかいことといわなければなわな それについ ては、マリア ソネ 大人口伝記 tuni 、四一二、四二六、 四四二 l 三頁を参照。 ︵ 6 ︶︵ 7 ︶ ハリ e のの日 ヨ 0 目︵のレ口 ヰ の曲︵ い の ドニ Ⅱ 目刑 ③ キ 斉一 0 コ ㏄の。 いム 。 す 雙 P し日 H. 中りつの ︵ 8 ︶安藤夫 治 ﹁上掲 書 日二九二頁、﹁ 彼はブルジョア思想家であった。しかしブルジョアジ 1 のための息根家で は 断じてなかった﹂。 ︵ 9 ︶の レ N オ g ロ千日、けいつ ト

(7)

を 異にしつつも、直接的に交感しうる可能性か たかすてにのへたように、﹁天才の倫理一を拒 否 するウェーバー︵およ ひ その宗教社会学的視角 ︶にとって、﹁ 芸 こには、カーリダーサとゲーテという同じ霊感的 詩魂が、時代と環境 0 世界を信ずる座付詩人、観客にこびようとする 現実家の迫化性を登場させ、その掛け合いのう ちに、巧みに 朗 埋 め 雰 旧式をがもし出すのに成功したのである。 と ころでこの﹁前戯﹂の最後のところで座長がい う 科白、﹁天国からこ 0 世を辿って地獄へ﹂は、この悲劇の壮大な規模 を 暗示するものなのであるが、同時にこのロ ブ ァ ウストロ劇の口頭 に 小された世界こそは、﹁シャクンタラー 姫 L に みられるごとき、地上から天上への舞ムロ転換を ともなう超自然的 夢

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詩人たちに異常在Ⅲ心を示しているにもかかわ 、 りず、右のカーリダーサはおろか、インド宗教 文学史に不朽の名 とどめている詩神たちを、まったく度外視して いるのである。この意味において、それなりに 絢 栖梱 たるインドナ人士 ム は、 彼の方大な宗教社会学研究においてはまさ に 完全に消却された部分となっている観がある。 刊 シャクンタラー 姫口 冒頭の序幕には、シヴァ 神 の 恩寵を乞う祝祷につづいて、学術技士てに長じた 座頭の口ヰ 注 甘ゆ 経 彼の妻である女優 Zu ︵Ⅱが登場する。そこで 彼, 空 一人が交わす対話は、これより観客の目と耳を 楽しませようとい -2 ノ 心意気をみせて、劇の主題を暗示し、自然に第 一幕へと 橋 わたしをする形で進行する。そして 一 セ 九一年の G. フ ルスターによる 独 訳本でこれを読んだ︵と思われ る ︶ゲーテは 、コ ファウスト L 第一部の導入部 に、 右の﹁序幕﹂ @3 ︶ かわる﹁劇場での前戯﹂を構想したのであった。 ここでゲーテは、芝居の大当りをねらう座長、 理想主義的な芸術 て 書かれたコシャクンタラー 姫 L ︵ レヴ 目言 ゅコハ ひが 杢目軒瓦ヨ︶のドラマトゥルギーを、その畢生の 詩劇コフアウスト ヒ -1- の 冒頭に採用している。ところがこれに比して ウェーバーは、その 口 不敬社会学論文集 L におい て弍 ヴェーダ 目 ﹁ 叙 事 諸目コプラーナ L をはじめ、インドの代表的

セクトにおける群小 ひ

(8)

ある。

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術 ﹂低いし﹁芸術家﹂の存在は、平凡人ないし 平凡人の行為それ自体となんら選ぶところがなか っ たことはいうまで もない。すなわ ら 彼にとって真に知るに値し、 か つ 社会学的に﹁意味﹂があるのは、﹁無限に多 様な個々の 明拉 の 一 定 側面﹂、すなわち﹁我々が一般的文化意義を認 めるところの側面﹂ -5 ︶だけであり、この側面のみが 因果的証明の対 曳と なるのである。したがって、かかる手段として の 因果法則の知識は、﹁現象においてその個性の 上から文化意義をも -6 ︶ っ 部分をば、その具体的原因に因果的に川屈せし める助けをなし 且 っこれを可能ならしめる﹂ か ぎりにおいて、そう なのである。こうして﹁天才﹂に賦与されたあ れこれの事象がそれ自体問題であるのではなく、 たとえば彼の善とか 悪 、もしくは 罪 とか 賄 罪とかが、特定の個性的 な 帰結をもたらすにいたった場合においてのみ、 はじめてそれは社会 学的に有意味的な行為もしくは問題とされたの である。いってみれば、グプタ朝の一宮廷詩人た インド古代の家産官僚制下においてはコ人の凡 庸 なお抱え詩人たる域を出るものではなかった。 また信仰の出自とい う 点で、正統ヒンドゥー教に属する敬虔な カ| リダーサといえども、 -7- カースト体制の倫理と規範 の 尋常なる受容者だ っ たかぎりにおいて、ついにシャンカラやチャイ タ ニ ャ のごときたくましいカリスマの、はるか 佳朋にがくれる宗教 的 マッスの一人たるにすぎないのである。あた かもあの﹁プロテスタンティズムの倫理﹂の系 議 咀 におⅡ リナ Ⅰ、たとえば ﹁天路歴程 ヒの バニヤンが、性愛的な神秘主義 家 の聖 ベルナルドゥ スや ルター的敬虔派のツイン ツヱ ンドルフ 生 す々 め 影 うすき灰色の部分であったかのように

と - 告佳敵 な 極眼は 、華麗なミューズの森を冷や かに擦過して、片や ョ| 法 ロッパにおけるプロテスタンティズムの 一 ・ ぬ 不敵 倫 理 ﹂の茂みのなかへ、また片やアジアにおいて は ﹁救出生信仰出色 :465)

(9)

すでにウェーバーの問題関心が、経済的合理主 義 ないし近代資本主義はなぜ西欧にのみ生じ、 中 国やインドでは 生 じなかったか、さらにまた西欧に固有のムロ埋玉 義の多彩な形象は、科学、技術、芸術、政治、経 済 の各分野において いかなる型と性格を有したか、という問いに存し たことについては、周知のように﹁宗教社会 常論文集﹂の﹁序言 ヰ 0 しの ヨ のⅠ左け コ 竺において総括的に論ぜられて いるだけでなく、わが 国 ウェーバー学の高い水準 もまた指摘してあま - 父 v ︶ すところがない。のみならず、西欧においての ろ はじめて現実のものとなったプロテスタンティ ズム の世俗内的禁欲 倫理が、生活態度の倫理的﹁合理化 力 at ざ口臼乙 の Ⅱ けコゅ ﹂をはたす独自の実践倫理として歴史的に 形成されたことの 確 および特定宗教のかかる実践倫理と経済 倫 理の相互規定性と因果連関を、動機の連鎖をたど りつつ論理的に把握 すること、そこにウェーバー宗教社会学の 主たる方法的自覚が存していたことも、これま た 右の司論文集 L の ﹁緒言四三の @ ︵佳品﹂において明言されている通り である。ここでこの問題にこれ以上深入りする ことは、筆者にその 能力もないところから差しひかえるほかはない が 、ただ同じこの﹁緒言 ロ ﹂において、概括的に類 聖化されている ウェ バーの﹁社ム互層の oN ぎ ︶のの り巨ぃゴ ︵の コ ︵ od. のの三り プ ミコ ㏄︶﹂概念についてだけ 一 ミロすれば、それは、 とりわけカリスマ -9- Ⅱ予言者出現の経済的条件として、階級概念と身 分 概念を重層的に含蓄するものであった。しか し 彼にとっては、﹁ 社 金屑﹂の経済的利害それ自体がつねに決定的な 起動力をもつものではなく、むしろ人間の観念や 理念にもそれと同等 の力点がおかれなければなら低かった。なぜな , b 、 一 ・経済と政治に規定された社会的影響が 、そ れぞれの宗教倫理に - ㎎︶ とっていかに甚深なものであろうとも、宗教 倫 理 にその性格を刻印する源泉は、まず第一に 、宗 教 である﹂︵﹁緒言﹂︶ からであった。そしてかかる人間の理念日のの と 、この理念によって創出された﹁世界像 毛 0 ︶︵ ヴ ∼ 圧

﹂それはしば

しば転職 手 として歴史のコースを決定する 0 分析において、ウェーバーは、たとえばインド においてヨーロッパ とはまったく異なった宗教倫理と独自の救極論、 いってみれば﹁呪術の園ぎ手 ミ ga ︵︵の コ ﹂の 粗 野 にして 狂熱 的な原 (466) 8

(10)

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- と とらえるウェーバ | にあっては、以下にのべるインドの 、 ﹁ヴェー ダ的 秘教﹂および﹁性狂躁 逝ぎパ 目凹 0 ﹁ 哩 りの︵円ガ ﹂からその﹁秘密性・ 変約一存 化ガ Ⅱ出で︵ oe ぺ o ︵が。 す のの 由臼 八日田の弓口コ 的 ﹂ の 諸形態にいたる呪術の多彩な系譜こそは、インド 亜大陸にかんする 宗 数 社会学的分析の初発点であり、かつ究極の対 家 だったのである。 (467)

(11)

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約音楽これは修道

僧 の 業締 なのだ﹂は 、そ のまぎれもない証拠である。ところがこれにた いし、ウェーバーが ヨーロッパ以外のオリエントや東アジアやインド の音楽において見出したものは、これとはまっ た,へ 異質の音︵ 階 ︶ 組織および音素材の組み立てであり、合理的立 日程の不在とピアノを基礎とする 整 律の欠如であ った 。こうしてま た 、ヨーロッパ と 、それ以外のオリエント や アジ ア 諸地域の音構造における基本的対立は、和声 的 ホモ フ オニー音楽 @5 ︶ 悦ゴ 銭目 0 コョ のり オ 。 オ 。 ヨ 。です 0 コの才ざ 分村と 笠声性 プ ︵の ゴ ︵の︵円ヨ ヨゐガ の臣の対立でもあったのである。 り ,広 ウェーバーによれば、インド音楽は理論家の レ ヴェルにおいては、ヘレニズム、ビザンツ、アラ ビアと相互に影響 し 合い、 -6 ︶またそこには音程も形成されてい

たとし

う 。だが、とくに旋律的な傾向の強い 々 ンド音楽の場合︵旋律の -7 ︶ 基礎としての う ーガ 勾囲偲 をみよ︶ 、 他のぺ ル シアや アラビアや東アジアや古代ギリシアの芸術 音楽の場合と同様、 11 て 469) ︵ 3 ︶ 合理的記譜 法 ︶の形成過程に思いをひそめたの であった。彼がてりアンネ夫人への手紙のなかに 書きとめた言葉、﹁ 和 々ならぬ関心を裏書きする 一 エピソードにほかな みない。一八九八年︵三四歳︶は げ しい神経症 に 冒されたウェーバ |は 、いったんシュワーベンの森の都ウラ ハ の神 経 病院に入院し、ついで一九 0 一年の早春には ローマ ヘ 転地療養に おもむき、そこで芸術史と修道院史の研究に没 顕 するのであるが、とりわけ修道院における官僚 制 と音楽合理化︵Ⅱ 二九一一 l 一二年︶を書きあげたウェーバーの 、音楽にたいする 並 そ l

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か ﹁ ドヨめ Ⅰの﹂︵パーリ語 け sp 日 リセさが、呪術的・ 胱 惚的秘鷹 師の呪術的表現たる 一ヅャ ーマンの ぎ 日当﹂に転化した - 巧 - のである。そして仏教受容以前のわが国における 丹牡層は 、機能 神 信仰や性器崇拝、護符とそれ および祖霊崇拝等々を、自己 の 生活の基盤にすえていたのであ ハ @-@0 ︵ ムレ ム @ 6 @ ト ︶ -4 @@ ︶ 疾病にたいする異端的な調伏者 芭 Ⅹ。 R@ の︵の コ が 存在したし、 東 トルキスタンでは、サンスクリッ ト 語の﹁シュラマナ -3- l 除祓 的鯛 蹄 の 胱惚坦的 呪術に関連するものでも ある。セイロンでは、霊鬼信仰が在家者の生活 右 - 支配するとともに、 ゴダ 事態はまた、中国においては、仏塔崇拝が大気 や 水中の霊鬼にたいする 際祓 的な手段へと変化し たことにもみられる ムダ -2- I し 、また 朝卸 におけるよ う に、本来仏教僧院の 儀礼とはなんの関係ももたなかったところの、 巫 女 の 行 なう神感 的 ・ そのさまざまな﹁ 調 ︵ 性ピ には、ヨーロッパ 近 代の ﹁ 調 ﹂とは異なって、和声的に決められた﹁ 意味﹂はな い のであ ︵ 8@ る 。この点において、彼が、音楽の初期の発展 段階における社会学的事実を次のように要約して いるのは、ことに ィ ンド音楽を考える場合重要である。 ゲ - 一 ﹁未開音楽のかなり多くが純粋な美的享受 とは縁遠く、実用的な目的に支配されていたと いうこと。最初は とりわけ魔術的な目的、とくに 除 破約 どきヰ 。 ち 注の手︵祭祀的︶目的や祓 魔 的の パ oqN@ の ︵ @ のの ゴ ︵ 医 術的 ︶目的に支配 されていたという事実である。そしてそのため に 未開音楽の発展は、すべてを類型化しよ うとす る 傾向、魔術的意 ︵ ハ Ⅰ︶ 味 をもっどんな行為にも、また魔術的意味をも つ どんな物体にもつきものの、あの傾向に陥って しまった ピ そしてこの﹁魔術的意味をもつ行為もしくは 物 体 1 一 こそは、インドにおいては、たとえば大乗 仏教や新興ヒン ド ゥ| 教が大衆信仰 @ 民間呪術との接触によって 受 容 せざるをえなかったところの、あの﹁呪術 的 神蔵

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㏄哩の c ゴの ︵ 几 ll v ︶ 円ゴの ︵ a ㌧の三東 円 ﹁ 除祓的 ・呪術 類感的胱惚迫 いで 0 ヰ Ⅱ 0 ㌧轄がのすの 目 ・日の的ずの す 1 オ 0 コむ ︵ 0 で㏄ ヰオ がのすのロオの ︵ 曲 ︵ 守 ﹂もしくは﹁ 陽 -.. l 上 Ⅰ ︶ 物的・ 除祓 的な 胱惚道吝凹 P@ の 0 オ の戸ので。 ヰ 。で 注 の c ゴ 0% オの ︵ 曲 ︵ 涛 ﹂等々の諸現象形態にほかならな いのである。かかる (470) 12

(14)

ィ 信仰のなかに、オルギー と エクスターゼの 諸形 態を摘出することができたのである。 - は - 想 内神秘主義 オ 。 ま のヨロ︶ 巴才のタミ ㎏の︵︶ ︵ 8- Ⅱ︵道教︶ ヰ 、 および世俗内的俗人道徳 ぎコ のⅡ ま % 安目のⅠ注の コ 臼 ︵ 臣ド 二才の∼︵︵儒教︶ の 、なにがしか﹁ムロ 理的 ﹂︵ 0-2 な 弁神論丹下 mo 臼い のの の 根底を 、 つねに脅かし、かっ腐蝕させていく ものと考えられたの である。 音楽は、伝統的な旋律定型を純実用的な目的で 使うことから抜け出し、純粋に美的な要求が目覚 めたとき、音楽 本

主張である。しかしわれわれは、インドの音楽に おける実用的な 、し たがって魔術的な要求の具体的な変遷の足跡を 、 残念ながら現実には知りえない。したがって 、 たとえばインドの ソ - 花 ︶ 1% mo 日ゅ 奉献歌などの古い旋律定型がすでに われわれの眼前から見失なわれている以上、 ゥェ | バーとしてはよ ヴ ヱ ー ダヒ のマントラ 日 ㏄ コ ︵﹁㏄ や 、叙事詩や﹁ プ - フ ーナ 円 およびヒンドゥー教の各セクトの教義 のなかに記されてい る 呪術の定型や救世主信仰の諸現象形態を 、ま さに宗教社会学的な方法で分析するほかはなかっ た ︵あるいは分析す

悦る

通が必然的に開かれた︶のである。ウェー バーは当然のことながら、現代インドの誇る天 才 的なシタール奏者であ 法 る ラヴィ・シャンカールのレコードを聞くこと はできなかったが、しかし彼は、たとえば旧約の 世界において、舞踏 術や歌唱によって作り出されたエクスタシス 状 態を確かめえたように、シヴァ教のりンガ崇拝 やブ イシュヌ教のバクテ く 47l) @ Ⅱ︶ 執 されたのである。そしてそれは同時に、現世 逃避的瞑想芝生︵曲目 ぃオ ︵元の メ 0 コ ︵の ヨ巨め由 0 コ ︵ たと えば古代仏教︶や腹 さて周知のようにウェーバーは、近代資本主義

組織、経営・家計 分離の原則、合理的簿記などとならんで音楽に おける合理的記譜法の成立︵一二世紀︶を重要視 した ︵ 司 序言 こ 参照︶。 ところがインドをはじめとするアジア諸国にお いては、これとまったく対照的に、祭祀儀礼的 は 除 破手段や医術的な 破魔手段は、あの宗教倫理から音楽芸術の ェ| トスまでを包含するところの、﹁呪術の園﹂の 原 生 的な技術として 固

(15)

註 ︵ 1 ︶マリアンネ大人㍉伝記﹂、三五頁。 ︵ 2 ︶安藤・ 池宮 ・角倉訳解司音楽社会学 ヒ 、 創文 社、 二四五 ! 七頁。 ︵ 3 ︶㍉周書日二四四 l 五 0 貝 。 ︵ 4 ︶同風害 L 、二五八 @ 九頁。 ︵ 5 ︶﹁音楽社会学日一 セ 二頁。なお同書巻末の﹁ 昔 楽 用語集﹂を参照。 ︵ 6 ︶日向ま目 ヒ 、五一頁。 ︵ 7 ︶ 司 司書日一三一頁。インド音楽における音程は スヴァラークシャラの 泰 3 下代 ぃ 0 名で知られている 。なお、 H.A. ポ プレイ 著 ・ 関拙訳 コインドの音楽号音楽之友社、五 @ ハ l 八頁参照。 ︵ 8 ︶﹁音楽社会学﹂、九八頁。 ︵ 9 ︶同国書日九四頁。 ︵ 印 ︶のレ N 河の・・ い 色目 - 臼 いづ づ ・︵邦訳コアジア宗教の 基本的性格﹂︵池田・山折・日限共訳︶ 勤 草書房、 四 九頁㌔ ︵ 皿 ︶︶すぎ・ , ロロ・ 目 - の ・ののⅠ合同 ま 目 ヒ 、一四一で一一頁︶ バーとともに眉にっばをつけて警戒しなければな みないであろう。︶ 理解が後考にたいする鈍感と無知によって相殺 されるような﹁近代的﹂立場なるものを、われわ れは ウェー の 宗教︵思想︶ と アジアの宗教︵思想︶との対比 においてもいいうることであって、前者にたい する鋭敏 と たいくつな表情とは、本質的に異なった種類の ものであったと想像される。これと同じことは、 ヨーロッパ は 、はなはだ疑問ではあるが、しかしそれは、 わ が 国近代主義の諸流派が、日本の古典音楽に示 す 無関心で ︵ウェーバーは ョ ー ロヅパ 音楽の合理的な和音 和 声音楽を徹底的に理解していたがゆえに、かえ ってアジア 的多声 性の芸術音楽の根源に鋭い洞察をめぐら すことができた。もっともドイツ古典派の室内楽 に 強い関心 を 示した傾か、はたしてインド古典音楽やわが 国の声明、謡曲、長唄などに陶酔することができ たかどうか ひ

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(17)

已ア ・︵使命予言のの コ 色目 コ 的の㌧︵ 0 で下卑 鰍 0 色 ・薄田お オのつ ・ の て 、エリアーデをはじめとするもろもろのインド 学者が 解釈してきた ヨ ーガなる概念は、ウェーバーに おいては 他方では神通力等々の呪術的状態の獲得手段と みなされ を、 右のような観点に立って比較する彼の方法 は 、その である。 周知のように、 J. フレーザーは比較宗教史的 他点か 親縁関係と結びついたものであると主張した。 し たがっ 異なった段階を示すものであって、前者を後考 に 媒介す あるとして、その両者を断絶的に対立させたの である。 @4 ︶ スキーは、呪術は本来耕作の経済的組織と密接に 結 八口 し の役割の相違を自覚していたことを指摘するとと もに、 さて わ和 Ⅱわた れば 、ウェーバー 士 b また、その﹁七本 ヰ 数 社会 とその形成過程を要領よく概括していることを 知って い 別 的側面と共同体的側面を区別し、前者は、 魂 のみとり 状態性︶の形式に対置され、比較されたので 狂 特殊インド 的 カテゴリーのなかで、これまで 主 張 しもしくは 一方ではエクスタシスの一般定式のなかに 位 置 づけられ、 たのである。そして、諸地域におけるさまざ まの宗教現象 呪術成立の諸過程にかんする分析のなかでも 貫 かれているの ら 、呪術的信念は本来宗教的崇拝とは区別され た トーテム的 て 彼は、原始的前科学としての呪術と宗教は信念 体系として るのは、超越的存在にたいする信仰と祈祷による 敬虔感情で ところがこれにたいし、機能主義の立場にたつ B. マリノフ た 社会的な力であるとし、未開 人 が自然の経験的 科学と呪術 ︵ 5 ︶ 呪術を原始的前科学と同一視する見方に反対し -@ キハ 。 常論文集 ヒの ﹁緒言﹂のなかで、呪術および 呪 術師の諸類型 る 。それによれば、彼はさしあたり呪術の機能 ぽかんする 個

手ぎ

臼の 0 ︵ の の︵としての呪術者ぎ手のⅠの r o 卸 目い志卍 @ の Ⅱが 、 一定の緊張・対抗関係を保ちつつ、しかも呪術と 神通力の獲得を志向し、同時に、インドに独自 の無 感動エクスタ シ ス の で ㏄︵ 十乙 のの オ の㊥ オの ︵㏄ののの一匹 味左 Ⅰ なヰ 94 もの L こ 立石 えた。 -2 ︶かくしてこのインド的な無感動エクスタ シス︵模範予言実の 3% ㏄﹁ @ のの 訂巾 3% オ の︵ @ のの状態性︶の形式は 、あ の イスラエルにおける予言者の激情的な エク スタ シスの ヨ 0 ま Q コ ひす い

(18)

げた 引丈 における八神秘的や体験は、その本来 的にいい表わしがたい内容のゆえに、究極にお い ては各人における 個 Ⅰ

く 別の軌道を突きすすんだのであった。このこ と る ウェーバーは 、 次のような言葉で表現してい る 。﹁呪術から構成 されている原始的な世界像の統一性は、合理的 な 認識ならびに自然の合理的な支配という方向と 、他方では 谷 神秘的 ゃ -00 ︶ 体験という方向とに分裂する傾向を示した﹂と。 すなわちイスラエル民族の場合には、個々人の 苦難からの救い立臼∼ だけでなく、民族共同体の苦難が宗教的な救済 待望の対象とされたのであり、そのかぎりにおい て 々スラエ ル民族に よって熱烈な信仰の対象とされた救世主︵メシア ︶は、その個別的性格と普遍的性格を同時に合 わせもっことができ たのである。そしてこの普遍的性格こそは、 呪 術を打破して生活態肚の合理化を遂行する手段と しての合理的使命 予 舌口の唯一の素因なのであり、したがって呪術 か, ら 合理的宗教︵Ⅱ合理的な認識と自然の合理的な 支配︶への決定的 転 換を準備したものにほかならなかったのである。 ところがこの点において、インドの救済宗教門︵ ︵むの 由コ 的のⅡの二四 0 コ はまったく別の形姿を示した。 すなね ち、右に 揚 -7- したのである。そして、まさにこの合理的な世 界 解釈のその後の歴史的帰結において、 ョ ーロッ パと アジアはまった 個々人の疾病や窮乏 部族の︶共同体祭祀 神々を、祈願の対象 しかしやがて呪術 ⋮ , -,@ 士 はまた多くの秘儀 事は、大衆の利害と に 、救世主信仰とそ

ィ士 ま |

において、降雨、日照、狩猟の収穫、敵の打破な

ど 共同体全体の運命にかかわる利害に関与する

師や神々の威信が高まるに

つ れて、そこに部族

大衆の魂への配慮という平民的な動機への奉仕

に 集中されるようになるのであり、それは

れにまつわる救世主神話を、したがって苦難か

, らの救済を約束する合理的な世界解釈を

、 生み

(19)

以上みてきたように、ウェーバーによって把握 された呪術の類型、および呪術的世界のメタモル フォーシス機制も しくは 脱 呪術化の成立過程等々の歴史的諸帰結 が 、フレーザー や エリアーデなどの比較宗教学的 理論や、マリノフス キーのごとき機能主義理論とも異なった、独自 の 宗教社会学的方法をふまえて提示されているこ とが、いく分なりと も 明らかになったかと思う。そしてこのような ウェーバーの呪術にかんする理論的構想は、いま 一つの 観 占からすれ ・は、オリエントやアジアの救済宗教信仰が本質 的に︵現世逃避的︶瞑想へ志向するのにたいし ヨーロッパのそれ が 、本質的に︵現世内的︶禁欲へ志向していた ことを根拠として、両者のあいだに歴史的に 決定的な相迎を定式 @l ヒ して、ることと、 し ︵ t l ︶ 内面的に深い連関性をもっ ていたのである。けだし、アジアとりわけインド の 共同体世界が 、ジ ッぺ のる憶や氏族カリスマのの コ ︵ @ ︶の ま n@ の日のや それにともな う タブー、および 閉績的 カースト 社会によって、呪術 ︵Ⅵ - る 。せいぜいなし得るところは、そのかわりに 他の呪術をおきかえること以上を出ない﹂のであ った 。 人 としてのみの救いの追求を結果するとともに、 他方、純粋の思索に没頭する貴族的知識人屑 の 瞑想を導びいたから である。︵ 9 ︶こうして、たとえば仏陀の予言 は 、その 現世拒否的瞑想において、超越神の命によらず 自発的に生の目標を 定めることに基礎をおき、同時にかかる救済 目 標を希求する者にた いし 、自己の垂範的生活を営 ことを例示する模範予言となった。この意味にお いて結局インドの予言は、ただ理知的な知識人 層 にたいしてのみ 直 接の意義をもちえたにすぎないのである。した がってこのことによってかかる模範予言の場から 遠く引き離された 大 衆 のあいだでは、秘教的祭司や被造物神化 木 ︵の 緊 日東︵㎎ び ︵ トの Ⅱ 岸コ ㏄の対象にたいする崇拝、総じて 聖者崇拝 日捜 0 ︶㏄︵︵中の ︵Ⅱ グル の 由 ︵ ち 崇拝︶が必然的に生ずるのであり 、いまやこれらの大衆層は喜捨を捧げることに よって、奇蹟を行な うと信じられる聖者の肉体を養い、かくして後 生の保障、富、長寿のごとき現世の財のむ︵のⅡ 臼 ハ W ののⅡ づ ﹁ う w Ⅰ︵を得よう と

努めるにいたる。すな

ね ち、﹁こういうめ が 敬意識をもってしては、呪術を駆逐することは とうてい不可能であ (476) 18

(20)

ウェーバーの概括によれば、古代仏教は インドの貴族的な主知主義的 救捧諭せ 0 ヨのオヨ 0 日白日の目の ガ叶 けの コ のコ チ 0 ︵ 0 弓ト

あったが、やがてアショーカ王の大君主制が成 立 するにおよび、かかるの 術 正統のインド的 救 極論は、古代的 ク シ ャトリ ヤ 層の没落とあいまって、その平民時代の幕を 切っておとした、とざ ね

忌味 内容を、ほかならぬウェーバー自身による類 型 概念の使用法とその方 五 、救済追求 と救

捧読魔術の園をめぐって

拘 ・アニミズム的に拘束されていたとする りェ の 歌勘 、 . な主張

、一

ま 、 右にのべてきたごとき 彼 の 巨視的展望のなか に 位置づけることで、はじめて具体性をおびて 結 晶 してくるといわ低ければならない。 証 ︵ー︶ 目 ・口目 ade. Ⅰの ぺ 0% | Ⅰ ヨヨ or 蕾まか 痒口汀 ﹁ こ| ・ 巾 pq@ ,ト のり ト ・ つ ・ トト の ︵ 2 ︶の中ド由の・・㏄Ⅰ・ 目 。の・︶ ひ ㍉ @ 。の ︵ 3 ︶のや

弟ダ零

・ 目 ・ け 322 の ︵内田芳明 訳 Ⅰ古代 ユダヤ教ヒー n@ 、みすず書房、四四八 @ 九二︶。 ︵ 4 ︶水橋草分課㍉金枝篇㈱ 只 岩波文庫、六二 | 一五 セ頁 参照。 ︵ 5 ︶ し ・ ノ ハ柱 コ 0 毛の ニ、の 0% 巴の ㏄﹁由の コ の ぃコ 年月 す臼 Ⅱンミ 轟 亡 の下の円け年 ヒ 。片片 オ 0 ヨ 0 円 下 0 口の 0 Ⅰコ口目二コ め巳ゐ ㏄ 0 目ド コ印 0* 下帥 Ⅱ ざ申拝廷 qp- 勾ざ のの @ コ ︵ オ の中﹁ 0 すユぃコ年 Ⅰ 匹ぃ 二年 の ・ い 0 コ隼 0 ダト の㏄ 9 つ ・の㏄ ヰ ︵ 6 ︶︵ 7 ︶ 0 下 N カの・・ し &.H. の・ ぎ 2l4 ︵林武 訳 ﹁ 世 界 宗教の経済倫理﹂ 八 序説 V 呂 ウェーバー宗教・社会あ 柵集 L. 世界の大思想 Ⅱ1 7 口、一一一一・ @@ 一一一頁︶。 ︵ 8 ︶︵ 9 ︶︶ 圧 d.. の・ 2 の 下 ︵林武 訳 ﹁周書 ヒ 、一二一二頁︶ ︵ 印 ︶青山秀夫 訳 同一般社会経済史要論・下巻 L 二四 八 f 九頁。 ︵は︶たとえば、 目 ﹁︵の 呂ぃ ︵︵ 由乱の ⑬の コ の 斗ぃ ︵︵ - ︵ 戸 木 曲日︵ 臼ヨオ 目性。目の 0 注 0@0 笹色・がひ目の︵英明 訳 ﹁ 宗 教 倫理と現世﹂ 只ウ ヱ ーバー宗教・社会論集し世界の大思想Ⅱ1 7U 、二八 二言 @ 只 ︶。

(21)

彼のいうⅠ コ ︵の コ の 叶 tua 二の ヨ 臆は、類型的には 周 知 のように二種に大別されている。すなわちその 第一は、後期 ユ ダ ヤ教 ︵のパ リサイび と べ パウロ教団、一 セ 世紀の ピューリタンによって歴史的に展開された﹁ プ ロ レタリフ 的 ・ パ| リ ア 的 Ⅱ且の コ の 蚕由凹が日拐 ﹂もしくは﹁小市民的 Ⅱ コ ︵・﹂であり、第二が、アジアの主な救済宗教 が 作りだした﹁貴族 的 Ⅰ コ ︵・﹂である。そしてこの﹁貴族的Ⅱ三のⅠ︶の オ ︵ ua ︶円の ヨ ︵︶の﹂こそは、たとえば仏教のいわゆる﹁

模範予言﹂すな

わち仏陀が自己を神の﹁容器しのの③のと感じ、 少 数の選ばれた弟子にたいして神と合一する救済 への道を範例的に示 す 予言を、その母胎としているのであって 、 かかる予言の類型は、後期ユダヤ教などの﹁ 使 命

予言﹂すなわ

ち 自己を神の﹁道具﹂ キの Ⅱ ガい の仁のと意識し 、大 衆 に目って神の命令への服従を義務として要求す るヱ Ⅱ舌口とは、 き -2 ︶ ねだった対照を示すものである。 また、この﹁貴族的︵ コ ︵・﹂の担い手は、貴族、 レ ンテ生活者、上層官吏、および教会や修道院 そ の他の主要な プフ

してかかる貴族的な特権 層 が追求する救済は 、 ﹁ 現世は意味のある 秩 序界本 0 の ョ 。 ヱ だとする主知主義に特有の要請 と 結びついて、現実との矛盾から生ずる﹁内面的 苦悩 ぎコ のⅠの 之 0 ︵﹂ からの救済をめざすものであり、かくしてその 知 的な反省と究極の目標を、とりわけ現世逃避 烹 のご 巨偉斗 ︵と瞑想 ︵ 4@ 本 0 コ 付の日 宮緊 @0 コ による﹁開悟的神秘体験﹂ 已 Ⅰ 下 仁のコ ミ 品 s1 目イの ︵∼ オ におくのである。したがっ てこの救済追求方法 は、 ﹁プロレタリア的・パーリア的︵ コ ︵の︶ - のオ ︵目口 打ョ 拐 ﹂の担い手たる非特権 層が、 彼らに固有 の 物質的・﹁外面的苦 悩曲仁 ぬの︵の Z0 ヱ からの救済を追求するのと 比 べるとき、現実回避的傾向をいちじるしく帯びる のであって、そのか 宗 , J)

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(478)

法的制約にしたがって、以下にいささか明らか

にしてみようと思う。というのも、この部分の外

延と

内包こそは、

0

(22)

次に﹁敬体読 の 0 ︵の 二 0 ︶ 0 巴の﹂についてふれてお こう。この用語はもともとカトリック神学では、 終末論的に統一さ ︵ 人 v ノ れていた原始キリスト教的﹁キリスト論および 救済論﹂のなかで展開されたものであるが、 ゥ ニ ーバーの用語法で ゾテ @ オ @ ギ l は 、独自の意味内容が付与されているように 思 われる。彼のい う救 極論の問題は、その歴史具体 的な叙述にさいして ま 、しばしば敬体方法論定 め ︶ - のヨ 0%0 色良 とし て 展開されており、概括的にいえば、諸救済宗 数 における救済方法 甲乙当月

ぬのの一環をなすものとして独特 の地位を与えられている。︵ 7 ︶ちなみにここで、ウェ | バーが使用してい る救 擁立のごという複雑な内容を蔵している 概 念 にっⅡ㍗て一舌口してお オしぅ 。すなわちそれは、 原 切的には、不完全で 幸福ならざる状態︵病気、早 魑 、磯館、敗戦、困 苦 、業、罪など︶の克服もしくはそれからの 救 い ・解放を意味す る 。ところがさらにこの目の ヱ は、救済宗教内Ⅱ 乙き品ぴ ﹁の目性 0 口においては、人間の罪からの 解 放 ︵キリスト教にお ける﹁救い﹂、仏教における﹁解脱﹂︶を意味し 、 この場合は事実上﹁救済 巴 Ⅰこのけコ % ﹂とその意味 内容を同じくするの である。したがってこのような観点にたてば、 救 % @ ォ 論 @ ギ とは、原理的には俗人もしくは知識人にた 1 ︵ B ︶ ヱ の中︶および︵もしくは︶宗教的救済Ⅱ 巴 ︵ こ目コ ㎎ の 約束をはたす﹁救いの理論﹂と考えてさしつ かえないと思われよ

悦う

。しかしそれにもかかわらずウェーバーが ゾテり オロギーという場合、それは一般に 、ア ジア とりわけインドの 救 決 済 論 または救済倫理にかんして限定的に使用 していることは、ここで留意しておかなければ ならない。とすれば、 そ 術 れはいったい何故にそうであるのか。またそ こに含まれている文脈上の意味は何か。さし め たってこの問題を理解す 呪るために一例をあげれば、彼がその﹁経済と 社会﹂第二部第五章﹁宗教社会学 | 宗教的な ゲ マインシヤフト関係の諸 21 (479) いて、﹁貴族的主知主義﹂なるものは、日常生活 における平民大衆とのあいだに越えがたい深刻 な ﹁裂け目木 ざ ︵︵﹂ を生ぜしめ、大衆の日常生活はいぜんとして﹁ 呪術の園﹂のなかにとり残されることになるわけ ぎり伝統的宗教にたいする挑戦や内面的革新力 と しては働かない限界をもっのである。そしてほ かならぬこの点にお

(23)

のいわゆ ス ユれ宗教における﹁ 救胚 方法論﹂ ︵たとえばカリスマ 的 再生を るた めの善業の蓄積など︶ て れら相互の相違点を明らか て 故宮 を凸,てう 。 まず右の達人信仰のうちの瞑想的もしくは オル ギ1 的 ・ ェ クスターゼ的な 般 的に非日常的性格を特質とし、一切の目的合 理性に背反し、しかもそのこ の 達人と大衆のあいだは完全に遮断され、したが って日常の実践的生活への めざすための呪力 め 占有や自己完成を う にしていくわけである。以下それに つ い 側面にかぎっていえば、その状態性は一 とのゆえに神聖祖される。ここでは信仰 つながりは生じない。こうしてこの型の Ⅱの - 田哩 0 の 片 ︵ W ︵を本質的に墓 礎 づけ、後考の﹁ 禁 欲 ﹂形態が 、 主としてヨーロッパ 的 特質の救済 宗教信仰を木質的に 基礎づけていることは、打て 市 逃 した通りである @ . 0 -0 l ︶ と ころでウェーバーは 、 右のごとき概念装置の現 実 適用によりて、 彼 類型 | ﹂のなかで、次のようにのべている個所 がひとっの手がかりになるであろう。 一散杖 論 的な 救捧 方法論の 0 ︵のよ。ざ住のり プ の 甲 Hn 二の ヨ 0 日。 隼綜 に特有の諸手段は、そのもっとも精敏 に 発達した形態の 場合、ほとんどすべてインドに起源をもっている 。それらの手段がインドにおいて呪術的な神霊 胎 @ 制ののあ︵のⅡ ぃ 目ら コ ㏄㏄ の方法論に依存しつつ発達したことは、 9 る ︶ 。﹂ すなわちここでは、﹁ 救捧 方法論﹂にがんずる ウェーバー独自の類型論がまずもって問題となる であろう。という のは、右の場合の﹁ 救 極論的﹂という限定詰のも つ忠味は ,﹁ 救拡 万法論・ 一 そのものの概念が明 らかにされることに よってはじめて理解されるだろうからである。 さて周知のようにウェーバーは、信仰形態の二 類型として達人信仰と大衆信仰をあげ、とりわけ 前者の達人信仰を 二型に分かってすなわち一方は、瞑想的も しくはオルギー 的 ・ ェ クスターゼ的なそれであ 信仰である。そしてこの前者の﹁瞑想﹂形態が 、主 としてオリエント 的 およびアジア的特質の救済 宗教信仰甲き目垢 の

(24)

|す目 けますのの css の コ のコイ 円 ㏄まこ / のを獲得すること 法

術る

。だがそのごの発展形態において、このよ う な教 捧 方法論は重要な二つの方向に分岐する のである。すなわちその 一つが、超感覚的存在の化 肉 ︵ロオ a ︵口口︵ @o コ むロの﹁ のぎ三ぎ ア の︵安げのの コ ︵Ⅱ神の人間への化 肉 ︶、すな

わち自己神化の

23 く 48U) 時 的な性格をもつのであって、それ自体として は 、予言的宗教が展開させる﹁有意味的なの ぎコオ のび 廿 ﹂内容とかカリス マ的 状態の持続的な口外口の︵コ 、、、、 % 占有とかを欠いて いる。そこで、合理化が進展し組織的倫理的な 生活態度が要諾され 悦 るようになると、宗教的な 倣斥 ・方法論の目標 は 、オルギーによって得られる急性 のェ クスタ シスを緩和させ変化さ せ タバコ、麻黄、音楽などによって喚起される オル ギ ーなのであ つこ -@@@ll 十ハ 。 だがしかしこうしたオルギー やェ クスターゼの 社会的形式は、原初的には急性のの斤目︵ものであ り、 子の本性上 一 達人信仰は、禁欲を志向するそれとは正反対に 、 本来的に反合理的、反経済的である。さて、 い わヰ 8 席 廿 宗教の原 生 的な状態においては、その陣後に非日常的な カリスマ的 力が 想定されているが、それはやがて お め、悪 - どの超感覚的 諸力 として 表致 されるようになる。 そしてまさにこのことを可能にするのが、呪術 師の実践とその指導 による ヱ クスターゼ 由オの弍めのと オルギー 05 皿 ノ のの % 強なのである。だがこうして生みだされた 超感 ㌍Ⅲ㎡ 力 0 表・・Ⅲ は 、あくまでも生活営為と経済を固定させ、 か つ 停滞せしめるものであって、いわぬ る ﹁呪術の 園 ﹂はそこに成立す るのである。ところで ェ クスターゼ と オルギー といっても、それはたんに同じ類型の二つの カテ コリーといったもの ではなく、実は ヱ クスターゼとは、職業的呪術

り 、この ヱ クスター ゼ 現象を生ぜしめる社会的形式がすなわちオルギ | なのである。こうして呪術師にとってエクス ターゼとは、 蕪 破も しくは陶酔の現象を激発することによって、 救 済もしくは自己神化のの乙の︵ づのゐ 0 ︵ 苫月 を得モ手 段 であり、すべての 組織的な社会的抑制装置を突破する手段である。 したがってこのような状態を生みだす社主的形

(25)

お 続的保持の方向であり、他が、古代ユダヤ教

以降ヨーロッパにおいて発展をみたように、超越

神の要求する宗教的

諸特性を獲得せんとする方向である。そしてこ

の後考の救

捧 方法論は、もはや神を﹁占有㏄のの

∼︵ z ﹂しょうとはせず

に 、ひたすら神の﹁道具﹂たらんとする努力︵

カ ルヴィニズム︶であって、これは、前者の救

胚 方法論が神的な

ながっていることは、すでにみた通りであるが、

その諸手段が、インドにおいてはとりわけ自己

神化の方法論となる

傾向をますます強く帯びるようになったという

こと

それが問題の中心

占 であった。たとえばかつて、

ヨーロ

パの

ローマ教会と中国の儒教は知識人的エクスタ

|ゼを

徹底的に抑圧し、あるいはまた中世キ

リ スト教は、かかる

(482) 24

(26)

法 かる救済財を占有しで、高度に精微な﹁ 業村 ar ma. 輪廻 き 七組 qp ﹂の思想を生みだしたのにた いし、大衆 層 はもっの 術 ぱら呪術的なカースト・タブーのうちに放置 されたのである。こうして貴族的な主知主義と 大衆の宗教意識のあいだ 呪 には、基本的にはアジアに独自のあの避けが たい﹁裂け目﹂が生じたのであるが、しかし ︵あるいはそれゆえに こ きを秘的 睨想 ︵ クノ @ シスの コ 0 の ド の︶とは 徹 の 貴族的な知識人屑はか 申、 クスタシスの発動を、ベルナルドゥ ス の半ば性愛 的な神秘主義、熱烈な聖母崇拝、対抗宗教改革 の 静寂主義、ツィン ︵ 4 l ユ ︶ ツェンドルフの情緒的敬虔主義の諸形態にまで 醇 化 昇華させた。ところがインドにおける大乗 仏 教や新興ヒンドゥー 数 における諸セクトの宗教意識は・それとは 全 く対遮 的に、古代ヴェーダ時代の胱 惚 追約ソーマ 祭祀からクリシュナ 崇拝の秘密性愛的オルギーにいたる呪術的信仰 形式に強く影響され、このような呪術の諸形式は 、その後近代にいた るまで一貫して保持され、不死身の息を吹きっ づ けたのであった。かくしてウェーバーによれば 、このことの歴史的 に 重要な帰結として、インドの宗教信仰は、日常 的 生活態度の方法論の創造にかんして、ネガテ イ ヴな意義しかもた ︵ S l ︶ なかった、とされたのである。 以上の説明によって、本節日目頭にのべた﹁主知 主義﹂および﹁ 救 極論﹂なる概念が、ウェーバー の 宗教社会学の休 系 のなかで、いかなる位置を占めるものである かの 見 透しがある程度えられたのではないかと 思 う 。したがって次に 問題なのは、インドの古代仏教において最高度 に 完備したところの﹁貴族的な主知主義的 救 極論 ﹂が、アショーカ王 による家産官僚制国友の完成を契機にして、﹁ 平民的な﹂インド的 救 極論を開始させたという論 旨の内容である。 そ してとくにここでは、﹁平民的 づ ︶の サゑト ののす﹂ な るものの内容が重要である。 そもそも、インドの主知主義的な正統的 救 極論 ︵ブラフマン主義︶や異端的 救 極論︵仏教やジャ イブ教 ︶などの 教 義や成果を れ接性 ににあすかり知らなかった か 市民屑や農民居 は 、 梵串ド ︶︶日当との合一とか 浬 % 安安目 中ゅ のごと

(27)

いた。また の宗教的欲 なかったの もしくは 胚 ﹁一コ の怖 そもそも ら 現甜と現 毛凹 ︵ 由りゴ c の ども、たと ﹁世俗 ︵般若、 空 ︶は一面で は 哲学的貴族的グノーシスを志向しっ っ も、他面 では民衆 求 に即応して、救世主としての苦汁 し 。 住ゴハ の ゅ ︵かせ のや未来 仏 たる弥勒目の戸叶∼の馬の理念を構想 せ ざるをえ - め @ である。こうして、瞑想と知識を重要視する竜樹 や世親の唯心論のなかにも、真言とタン マ, @ ・ @ 胎し 、同時に偶像崇拝、聖者崇拝、 呪的 祈祷 形 式などの流入とあいまって、ついに大乗仏教は 、 全世界を @ ㏄ - らしい呪術的な魔の園﹂へと変貌させる ィデオ ロギーとなったのである。 アジアの 主的 主義的敬体論の特質は、ウェーバー によって各所にしばしば ふ れられているように 世的 行動を財 祝 し、ひたすら﹁空ぃ 司 コ % ﹂とし て 体験されるところの﹁世俗の背後にある 王

国ま

- ︶︵の ハ @., 2 ︶ オ 0 目 ゴ ﹂を希求するところに存していたのである

念 といえ えば右にのべたごとき大乗仏教の呪術退行化の 作用によって深々と浸蝕されたのである。すなわ ち ここで の 背後にある王国ことは、最高の救済を求める者 が 、究極の存在たる﹁渋し V- め ﹁ 日旦 との神秘的 合一をと 無 律法主義︶などが、その歴史的帰結であり、 こ れはやがて教団の分裂したがってその多一 系 的な発展 @ を 導 - 穏 ︶ そ ︶、そこには主として知識人の側から俗人屈 め ﹁ 魂 ,一の獲得をめざす幾多の教理的架橋の試み がなされた。と同時 に 、大衆の切実な情緒的欲求は、その敬体 論的諸 手段の新たな展開をうながし、かくして大衆 宗 我意識と貴族的主知 主義の相互的な浸透,交錯の現象が托生したの である。インド的 救弗而レ抗 。有の平民的な信仰 欲 実にこのよう ムは托コ を背 長 だししていたのであれ , 、 そのきわめて情緒的な大衆宗典セロ ボ Ⅱに、主知 立 朋的救肛荷 一般にみ られる﹁合理的﹂性格とは 対ル 的に、粗野な形態 たモと荘紋 された形態たるをとれず徹底した﹁ 呪 術 ﹂の同時と﹁救世主﹂ @ ⋮ , t の 崇拝、およびその , 。 雨ポ , Ⅱの混合形態を @ -7-@ 、 、 多・彩に 展 間 せしめたのであった。 たとえば仏教の場合、ヴァイシャーリー結集に おけら ヴア ッジ ー 族の﹁ 十 事の非法﹂、および 大 天の﹁五事﹂︵ @ (184) 26

(28)

註 ︵ー︶ 0 ンドオけい牛ロ・の い印 Pi りり肚 ︵ 巴田 ・山折・ 日 隈 共訳㍉アジア宗教の基本的性格 円七 @ 一二頁︶。 ︵ 2 ︶大町久雄﹁ウェーバーにおける 宗牡 礼金 芋ヒ埋 曲 社会学の相関﹂ 谷 思想 卜 一九六三年一 0 万号︶、とく に一 0 頁 以下参照。 ︵ 3 ︶ 世旦 虹二心印 訳弓 交配 め 社会学﹂ tnu 、 三 0 三頁 以 下 lO ︵ 4 ﹂たとえば毛にの・目木 ぃ毛 ︵色目 デ田い ㏄ 0l の つ 口先 明 記 ㍉上掲重用 ヒ 、二四四 @ 四六頁 U 。 ︵ 5 ︶折原話﹁Ⅱ三の目㊥ 汗 ︵ Ep 二の 3% と技い ま。 コド 二の @ の︵Ⅰ コ ㏄ ﹂︵大塚久雄編 ヨ マックス・ウェーバー研究 L 所収︶ 、一 一四三 @ 七三頁。 ︵ 6 ︶旧約的・ユダヤ 的 神韻の基調 は、 神の創造的 店 助 にあり、この創造神の信仰をめぐって独自の創造 神 詰が 生み出された。 これにたいし、新約的・原始キリスト教的 神観 の 睦調 は、 右の神による﹁創造活動﹂ セ 前提としつつも、 む しろ﹁ 父 なる 神 ﹂ かその﹁御子﹂イエス・キリストの生命を十字架上に ささげることによって救済をはたす、その 績 異性にあ る 0 カトリック 神字でいう・ 技 捧読 の 。荏の﹁ざざ雙のは、この後者の演いを 根仲 とす 与沖朋 および救済神話の問題をめぐって展開 されたのであ る 。 有 ㌍ 輯 六円円キリスト教忠恕における存在論の問 題号 創 支社、二八二 l 歳 一 0 四頁参照。 ︵ 7 ︶以下の号述は主として 甘ゴの : n 本る・ ミ ・ ゆの 再 二の由 コの絹コ巨毛はヰ の ぺ の 0 ヴ +- Ⅰ︵ @ ㌫ ト 0. し目Ⅱ ニ :の年コ 窩毛の 拍 ㏄㌍ ソ卸 @ す ⅠⅡ @ コ 曲目 な の亡 ︵日のⅠの 汀 二 % トヰ す ︵ C コ %U 中㏄ つト 1@ ㏄㏄ つ による。 ︵ 8 ︶ 世 良品志 甲訳司 交配の社会学 ヒ Ⅱ 、五 四一 f 二頁参照。なお、この

をもたらす人が救 出生 由 のぎ ぃコ Ⅰで 旺り 、また 法 宝生それ自体 が 、このような完全な状態をもたらす 呪 力 をも 托吐 するり片肌井る。 485) ︵ 9 ︶ 韻あ ・・の・ き ㏄︵英明課コ 上 拒ま目し、二七一頁﹂。 ︵ 騰 ︶安藤夫 治 コマックス・ ウ,| バ ー 研究㌧未来社 、二四三 l 四頁。 目 この: H 。 けの ︶の ハ 英明課コ七冠 圭 目 L 、二八三一員 U 。 ︵Ⅱ︶折原Ⅲ﹁前掲論文﹂、二四八頁以下を参照。 よびその両舌の緊張関係において、はじめて 十 全 に展開されるべき,ものだったのである。 逃避的 は 知識人の﹁法悦のの 目 ㎎ ガ 文二の王国と 俗人届の粗野な﹁魔術の花園﹂とのあいだの交錯 移行現象の所相 お げることによって導かれる王国であると同時に 、 ﹁神をみだり、保持したり、神がのり移ったり、 神に惹かれている、

て ウェーバーにとって、インドの 救 極論の問題 は 、このいわば現世

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覚 のうえではあれ、首尾一貫せる﹁魔術の園﹂と して停滞しかつ骨化せるところの、変化はあれ ども根底的なる変革 なき社会︵ないし歴史︶として、理念的に構成 されたということである。 い 、 が て

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