泣不動の話が絵巻のと、今昔物語集のと、メイン になるものが全然違うので、面白いと思いました。
その時代の主流になっていた宗教なども関係して いたのでしょうか。地元の成田山に行って、今回 はちゃんと護摩の間も聞いていましたが、般若心 経で大きな太鼓にあわせて唱えていました。壇の 前に火も焚いていて、その奥には不動明王と二人 の土王子がいて、授業でやったのと同じような感 じだったので、何かうれしかったです。財布をあ ぶってもらったり、お札ももらったりしました。
イランのアフラマズダはゾロアスター教の善神だ とあったように思います。また、それに対応する のがアーリマンだと習った気がするのですが、ア フラマズダはゾロアスター教に限らず、イランで は広く信仰されているのでしょうか。
『不動利益縁起』の物語は、さまざまな文献に含 まれるのですが、その中で最も古い形態を示して いるのが『今昔物語集』のようです。話がずいぶ ん違うことにおどろきますが、とくにかんじんの 不動が出てこないのが最大の違いでしょう。絵巻 が作られたときの不動信仰がそれだけさかんであ ったことや、園城寺との結びつきの強さを感じさ せます。成田山への初詣は、他にも名古屋の北の 犬山にある成田山に行ったことを書いてくれた方 が二人いました(別々にお詣りしたと思います)。
不動や護摩が身近なものであることが感じられた ようで、よかったです。高野山の護摩では太鼓を 叩いたりはしないのですが、成田山は新義真言宗 の智山派で、これに対して高野山が古義とよばれ るように、儀礼の方法もいろいろ違うようです。
イランの神話の神は、手元の資料(『世界神話辞 典』角川書店)では、善の存在アフラ=マズダー に対して、悪の存在はアングラ=マインユと呼ば れていて、彼らによ って闇の勢力 であるディ ウ
(授業ではダェーワと紹介)を作ったとあります。
ゾロアスター教はイランのこのような信仰を母胎 にできた宗教なので、アフラ=マズダーをはじめ
とする神々の体系をそのまま継承しています。ゾ ロアスター教は名前はともかく、詳しいことは日 本ではあまり知られていない宗教ですが、インド では「パーシー」とよばれ、今でも多くの信者が いますし、ペルシャやイベリア半島を経てヨーロ ッパに伝わり、新プラトン主義などにも影響を与 えた重要な宗教です。次のような入門書もありま す。インドへの言及も多く、勉強になります。
岡田明憲 1988 『ゾロアスターの神秘思想』講 談社現代新書。
広辞苑を引くと泰山は死者の集まる山と言われた り、仏教では地獄を泰山と呼ぶこともあると書か れていたので、どうして地獄で泰山府君かがわか りました。府君の本地が地蔵菩薩とも書かれてい ておどろきました。広辞苑とリーダーズで Asura と Deva を引き比べると面白かったです。広辞苑 は提婆、提婆達多と阿修羅しかのっていないので すが、リーダーズはヒンドゥー教用語に分類し、
邪神とし、deva は提婆、梵天、天神とする項と、
悪鬼とし、Ishvara に属するとされていました。
deva の方が二面性が強く現れているのでしょう か。また Asura も Deva も天竜八部衆に入るので すか。
おそらく電子辞書を引かれたのでしょうが、なか なか便利なようですね(授業をしている方には、
いいかげんなことが言えないので驚異ですが)。
泰山府君はそのとおりで、日本の十王図や閻魔天 曼荼羅などにもその姿が描かれます。日本の閻魔 のイメージは、この泰山府君から来ているようで す。アスラとデーヴァについては、インドでは一 般にアスラに悪、デーヴァに善という役割を与え ているので、あまり二面性はないように思います。
むしろ、両者が存在してはじめて神々の世界を構 築することができるということで、相互補完的と いった方がいいかもしれません。このような二元 論と宗教の関係は、大日と不動を考える上でも示
唆に富むようで、来週のまとめで少しふれたいと 思っています。八部衆は『法華経』や『仁王経』
などに登場する護法の神々で、デーヴァ(天)も アスラ(阿修羅)も含まれます。興福寺の天平時 代の八部衆像が有名ですね。そのため、日本人の 阿修羅のイメージは少女のようですが、インドで はずいぶん違います。
『不動利益縁起』で、不動帰還のシーンの従者た ちの中に、侍風のがいたのが(ちょんまげ、弓を もっている人物。左上)面白かったです。不動が どこに 帰る のかが 気に なりま した (現世 or 天 界?)。仏教の「十三説」では初七日の裁判官は 初江王だったと思い ますが、これ と不動の関 係 は あまり思いつかない気がするのですが 。今 日のレジュメ 6 枚目の「大日如来坐像(栃木・光 得 寺 )」 の 如 来 の 両 側 に あ っ た 文 字 は 真 言 ( 種 子)ですか?不動の種子と何か関係はないのでし ょうか。
十王信仰では初七日は秦広王(しんこうおう)で、
初江王(しょこうおう)は二七日です。そのあと、
宋帝王(そうていおう)、五官王(ごかんおう)、
閻魔王、変成王(へんじょうおう)、太山王(た いさんおう)、平等王(びょうどうおう)、都市王
(としおう)、五道転輪王(ごどうてんりのう)
と続きます。十王信仰は中国唐末五代の頃に成立 した『十王経』を典拠として誕生したとされます。
これに対し、十三仏信仰は日本独自の死者追悼の システムで、次の表 のようになっ ています( 表 略)。
この表は『仏教文化事典』(佼成出版社)からと ったものですが、それによると、日本で十三仏信 仰と十王信仰が結び付いたのは 11 世紀頃とされ ています。光得寺の大日如来像の文字(種子)は よく気が付いたと思います。これは胎蔵大日の種 子である vaṃ と金剛界大日の種子である a が、
厨子の左右の扉に記されていて、金胎不二を表し ています。この作品については来週紹介するつも りですが、運慶の作であることが近年判明し、話 題になったものです。上野の東京国立博物館に常 設展示されていますので、機会があれば見てきて
下さい。いい作品です。
神と神の結びつきは、どのような手段で調べるの ですか。
きまった方法はありません。神話学や美術史など を本や論文をいろいろ読んだり、神や仏の登場す る経典(聖典)などを見ながら、あれこれ考えま す。異なる神が共通のイメージ(モチーフ)を共 有していたり、類似の神話をもっていたりするこ とが、考えるきっかけとなります。ただし、見か けが似ているだけでは思いつきの域を出ませんの で、それを支えるだけの必然性や蓋然性を探すよ うにつとめます。
身代わり不動の話は、単に物語としても楽しめそ うで面白かったです。自分の干支が猪ということ もあって、少し気になったのですが、猪と太陽神 の関係とは、どんなものなのでしょうか。
インドの神話で猪は創世神話に現れるものが、最 も有名です。これがのちにヴィシュヌの化身の神 話となります。そこでは猪は創造神です。このあ たりのことは私の『インド密教の仏たち』の第 2 章で詳しく書いていますので、読んでみて下さい。
歌舞伎とかそういった伝統芸能の関係っていうの は、面白いなぁと思いました。あまり見たことは ないのですが、演目の内容自体にも不動とかが登 場することはあるのでしょうか。
私も歌舞伎にはまったく暗いので、授業でも避け ました。頼富本宏『庶民のほとけ』(p.312)によ れば、歌舞伎で「不動の金しばり」という場面が あるそうで、悪党が不動の力で動けなくなったり することのようです。12月に紹介した高幡不動の 霊験譚としても有名なようです。ちなみにここは 新撰組の土方歳三ゆかりのお寺でもあるそうで、
大河ドラマにあわせていろいろやるようです。そ れはともかく、不動という名称からの連想や、持 物の羂索が敵を捕縛して身動きをとれないように するものであることが、その背景にあるようです。
先生は疫病神を「えきびょうしん」とよんでいま
したが、「やくびょうがみ」と違うのですか。
どちらもいいようです。「えきびょうしん」とよ んだのは、『不動利益縁起』の解説書にそのよう にルビが振ってあったことにならったからです。
ほかにも「えやみがみ」という読みもあるようで す。「やくびょうがみ」というと、メタファーと しての意味が強いので、それを避けるという意図 もあります。
冥土に連行された不動に二童子は付いていったが、
不動を助けることはしなかったのだろうか。何か 不動もそうだが、マヌケに見えた。
マヌケはともかく、絵巻の中の不動はそのほかの 登場人物と比べると動きがあまり感じられないよ うです。冥土から帰るところでも、眷属の童子達 は生き生きとしているのに対し、不動はだんまり としているように見えます。これは不動のイメー ジがすでに固定化していて、それを絵巻の中にそ のまま取り入れたことにも起因するのではないか と思います。十九相観や玄朝様、良秀様などの不 動のイメージがすでに成立していたこともわかり ます。
・釈迦が「おしえ」をすべて生み出したのではな く、それまでの「おしえ」を編纂したのだという 話は新鮮でした。た しかにキリス ト教のよう に
「釈迦教」とはいわないですね。
・「時間的、空間的に仏を見る」というのは、イ ンド独特のような気がします。ここまで来ると、
宗教というより、哲学の雰囲気さえ感じました。
たしかに「釈迦教」とは言いませんね。基本的に インドの宗教は開祖などの特定の固有名詞をその 名称とすることはないようです。バラモン教とか ヒンドゥー教とかもそうですし、仏教と同じ頃に 現れたジャイナ教も、ブッダに相当するジナ(勝 者)から来ています。話は別ですが、日本にキリ スト教が伝えられたとき、神は大日如来のような ものだという話があったり、中国で唐代にネスト リウス派キリスト教が伝えられたとき、ゼウスを 大日と訳したそうです。キリスト的な神のイメー ジに、大日はずいぶん近いようです。仏陀観の変
遷に「哲学」を感じたという意見の方が、他にも 何人かいました。そのとおりで、インドでは仏教 以前のヴェーダの宗教、とくにウパニシャッドの 哲学で、すでに宇宙と神と人間の関係などを論じ ています。梵我一如もその代表的な説で、インド の正統的な哲学は、すべてこの思想をいかに解釈 するかに腐心したと言ってもいいほどです。もっ ともインドに限らず、哲学というのは、たいてい 宗教や神学から生まれるものです。
空海か誰かは忘れましたけども、すべてのものは 大日如来をその内に宿しているというようなこと を言った人がいませんでしたか。
「すべてのものは大 日如来をその 内に宿して い る」というのは、おそらくふたつのことをまとめ て表現していると思います。ひとつは如来蔵思想 といって、大乗仏教のひとつの考え方で、あらゆ るものは仏となる可能性のようなものを、本来そ の内部にそなえているというものです。これは日 本の仏教、とくに天台や禅、浄土などに大きな影 響を与えました(日本のお坊さんは、よく説教で そのようなことを話します)。もうひとつは、森 羅万象は大日如来のあらわれであるという考え方 です。宇宙そのものが大日如来であり、したがっ てその構成要素はすべて大日如来が何らかの形を とったものであるというものです。これは密教の 基本的な考え方で、それを図に表したものが曼荼 羅です。
ミトナという神の名を聞いて、ローマの神であっ たミトラ神を思い出しました。一字違うだけです が、何か関係があるのでしょうか。
インドではミトラ Mitra という神がヴェーダの時 代に信仰されていて、ヴァルナと並んで至高神の 位置を占めていたのは授業で紹介したとおりです。
これに対応する神がイランではミスラ Mithra 神 です。ローマ世界のミトラ神はミトラス神ともよ ばれ、古くはこのミトラやミスラと同じ系統の神 であるとして、さまざまな研究がありました(下 記参照)。しかし最近の学界では両者の間のつな がりは疑問視されているそうです(『世界神話事