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高下駄は登山用の下駄で、急な斜面を登るときに は登りやすいというようなことをものの本で読ん だ気がします。絶対の自信はないので間違ってい るかもしれませんが、登山用なのはたしかだった はずです。

そうですか。それは知りませんでした。たしかに 天狗などが高下駄を履いていますが、それは山に 住んでいるためなのですね。でも、一枚歯の高下 駄を履いて歩くのは、やっぱりたいへんそうに見 えます。足首の捻挫などしなかったのでしょうか。

自然的な誕生をとげた修験道が、外来の宗教の影 響を受けて、開祖や 組織化を必要 とした(遂 げ た)のは、修験道が生き残るのに欠かせなかった からといったような背景があったりしたのでしょ うか。中国地方(おもに瀬戸内海側)や九州南部、

中部あたりなど、霊山があまり見られなかった地 域では、修験道はあまりはやらなかったのでしょ うか。それとも適当な山がなかったのでしょうか。

宗教が組織化されることによって、永続性や普遍 性を得ることはたしかにしばしば見られます。た とえば、いわゆる新興宗教は、多くの場合、霊能 力のような特殊な能力を持った人物を中心として 発生しますが、それだけでは長続きせず、その周 囲の人々がいかに有能であるかが重要になるでし

ょう。修験の場合は、とくに密教の影響を受けた ことで、教理や実践の体系化に成功したようです。

授業で一部を紹介したように、修験の教えを説明 する用語の多くは、密教から借用していますし、

護摩や灌頂という儀礼も同様です。神々について も垂迹説で密教の仏との同一視を積極的にすすめ ました。しかし、その一方で、密教も修験と結び つくことで、日本に根付くことが可能になったと 見ることができます。そこが、日本の密教とイン ドや中国の密教とのあいだの最も大きな違いにも なるようです。ついでに言えば、仏教やキリスト 教は釈迦やキリストが「開いた」と一般に考えら れていますが、いずれも伝統的な教えを改革した 者たちであったという見方もできます。釈迦族と かユダヤの民といった特定の民族が有していた信 仰を、彼らは普遍化することに成功したというこ とで「改革者」なのです。霊山信仰については私 も基礎知識がないのでよくわかりませんが、広く 全国的にある中で、東北、北陸、紀伊半島、四国、

九州北部などがとくに重要だったのではないでし ょうか。

先日、テレビで(ちらっとしか見られませんでし たが)西の覗を見ました。断崖絶壁ですごかった です。ひもで支えてはいたけれど、今まで死者と

か出なかったのかなと思いました。拷問に近いな と思いました。山に登るのにも険しい道のりです ごい苦痛であるのに、さらにこんなことをすると は やはり修行というのはきびしいものなのです ね。

私は西の覗は写真でしか見たことがありませんが、

たしかにとても怖そうです。あまりやりたくはな いですね。断食や不眠不休の回峰行も相当にきつ そうです。授業でも紹介したように、修験の修行 で顕著なのは「死と再生」という考え方です。十 界修行や灌頂は、いずれも行者がいったん象徴的 な死を迎え、あらたな生をうけて生まれ変わると いう枠組みで理解されます。「象徴的な死」とい っても、文字通り命がけです。「死と再生」は修 験に限らず、宗教で広く一般で見られる枠組みで す。宗教学者のエリアーデが好んで用いる分析概 念ですし、彼には『生と再生』(東大出版)とい う本もあります。人間は宗教を通して、しばしば あらたな人格へと生まれ変わりますし、そのよう な変革を求めて宗教にかかわることもよく見られ ます。修行などの実践や儀礼は、これを制度化し たものです。

1200 万人ですか!?  今の時代に修験信者がそんな にいっぱいいるとはびっくりです。彼らの修行の 様子は一般人は見られるのでしょうか。護摩をキ ャンプファイヤーみたいに焚いてる様子が雄雄し かったです。 

1200 万人という数は、『図説日本の仏教 6 神仏 習合と修験道』で紹介されている資料によるので すが、日本人の 10 人にひとりとなりますので、

少し多すぎるような気もします(文化庁の『宗教 年鑑』に依拠しているが、データの年代は示され ていない)。修験道の各団体の自己申告によるで しょうし、中には複数の団体に重複して数えられ ているものもいるのではないかと思います。それ でも、修験が現代日本でも生きた宗教であり、日 本人の精神文化の基層のひとつとなっていること はたしかでしょう。修験の修行はかなりオープン で、希望さえすれば参加することは可能なようで す(当然、お金はかかります)。ただし、女人禁

制などで知られるように、女性に多くのタブーを 課す宗教なので、女性には参加できない修行はか なりあるでしょう。真剣に検討するのであれば、

それぞれの教団の事務局のようなところに問い合 わせると教えてくれます。柴燈護摩は通常の密教 の護摩とは違い、たしかにたいへん派手です。私 は 2 回ほど高野山で見たことがありますが、屋外 の広い場所で大きな壇を築き、盛大に火を燃やし ます。儀礼のあいだは何人もの僧侶が般若心経を 大声で唱え続けていますし、大きな太鼓もたたき 続けます。キャンプファイヤーの起源は知りませ んが、火を囲んでおこなう宗教儀礼は世界で広く 見られるので、護摩と通じるものがあるかもしれ ません。小学校などの林間学校でキャンプファイ ヤーをするのも、通過儀礼のようなものでしょう か。

修験道は苦行に近い感じがしますが、ブッダは苦 行は否定したのではないでしょうか。

ブッダは極度の苦行は否定して中道を説きました が、瞑想とヨーガを中心とした実践は重視しまし た。苦行というのはインドでは独自の重要性をも った実践方法で、日本人が想像できないほどの多 様性と過酷さ(場合によってはばかばかしさ)を もっています。修験の回峰行とはあまり重なると ころはないようです。仏教の場合、戒律を守るこ とが大前提ですが、これだけでも現代人にとって は苦行に近いでしょう。しかし、戒律を守ること、

つまり持戒は仏教では苦行とはみなされません。

宗教上の慣習としての断食はあんまりにも残酷で はないかと思います。同じ寮に住んでいるマレー シアの友達は、断食のときには体力がないため、

体育の授業も行けなくなることもあります。

それはたいへんですね。断食はイスラムのラマダ ンが有名ですが、ユダヤ教など多くの宗教がもっ ています。仏教でも僧侶は午前中以外は食物を摂 取しないのが原則で す(日本では 守られませ ん が)。断食ではありませんが、特定の食物をタブ ー視するのも、これに近いと見ることができます。

ヒンドゥー教と牛、 イスラム教と 豚、菜食主 義

等々。日本でも精進料理がありますし、穀断ちの ように米をはじめとする穀類を摂らない修行法が あります(次にふれる即身仏いわゆるミイラもこ れにあたります)。食べ物を摂取するのは人間が 生きていく上で必須ですが、それをどのように行 うか(あるいは規制するか)は、きわめて文化的 な問題なのです。マレーシア人のお友達には、断 食中の体育は軽いメニューにしてもらうよう、教 員に相談することをおすすめします。

たしかに山というのは神秘的だし、隠れて修行す るのにはいい場所だと思いました。海だと砂浜な どはそういうイメージがないけど、崖の洞窟なら 隠れてできそうだと思いました。修験のスライド はすごいインパクトでした。修行といわれても想 像するの忍者くらいのもので、本当に宗教として やっているのにはすごく驚かされました。うちの 実家の近くのお寺には断食してお経を唱える修行 をしたままミイラになったお坊さんが祀ってあり ます。今でもそんな修行はあるのでしょうか。

修験の場合は山が基本ですが、海も日本人の宗教 にとって重要な場所となるときがあります。たと えば、海上他界観つまり海を「あの世」ととらえ て、渡海を試みることも見られます。蓬莱思想や 補陀洛信仰はこのような海上他界観と密接に結び ついています。いわゆるミイラは即身仏などとも 呼ばれますが、東北を中心に多くの事例があるよ うです。中部地方でも岐阜の横蔵寺が有名です。

今ではやらないでしょうが、江戸時代ぐらいまで はやっていたのではないでしょうか(あまりよく 知りません)。Webcat で「ミイラ」で検索すると、

エジプトのミイラに混じって、日本のミイラ(ミ イラ仏、即身仏)に関する本がかなりあることが わかります。

大峯に登ったとき、山伏を何人も見た。変わった 格好で非常に印象的だった。胸の前にある大きな ぼんぼりのようなものや、ほら貝はいったい何の ためのものなのでしょう。

大峯山に登ったことがあるのはうらやましいです。

私は大峯山に登った経験はありませんが、高野山 で修験の行者をよく見かけました。今から考える と、紀伊半島は重要な修験の場なのですね。ぼん ぼりはなぜあるのかわかりません。写真を見ると すべての修験の行者が付けているわけではないよ うなので、宗派や身分で付けることがあるのでは ないでしょうか。また、胸の前だけではなく、背 中にも付いていますし、色もさまざまなようです。

ほら貝は修行の中でさまざまな合図として用いら れるようです。吹き方によっていろいろな意味が 伝えられました。ほら貝から出る低音は、人の声 よりも山の中ではよく聞こえるのだと思います。

戦陣で用いられたのもそのためでしょう。なお、

ほら貝は仏教でも重要な道具やシンボルで、「ほ らを吹く」というのは仏法を説くことを意味しま す。

蔵王権現の像のポーズは、とても不安定な姿勢だ ったので、像のバランスを保つのはたいへんなん だろうなぁと思った。だから造型師がはばかって、

あまり大きな像を作らなかったのではないだろう か。

蔵王権現のイメージの原型は、密教の忿怒尊にあ るようで、授業で紹介した金剛夜叉明王ばかりで はなく、五大力吼菩薩の中の無畏十力吼菩薩、胎 蔵曼荼羅金剛部院の中の金剛使者、大力金剛菩薩、

金剛童子などが密接に関係するそうです。とくに 金剛童子のイメージは蔵王権現ととてもよく似て いて(下図参照)、両者を同体視する考え方もあ ります。片足をあげる姿勢は彫刻としては不安定 になる危険がたしかにありますが、その躍動感や 人を威嚇する効果などは、他の姿勢では得難いも のなのでしょう。また、蔵王権現に比較的小品が 多いのは、金銅像をはじめ鋳銅鍍金のものが多い ためです。それは不朽不滅の金色の神の像を作る ことが重要と考えられたためのようです。修験と 金属文化、とくに金との結びつきもその背景にあ るのです。

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