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蓮という水生の植物を宇宙全体の姿に組み込むと いうのは、ヴェーダ文献の初期のもので、世界の 原初の姿を「水」としていることと、イメージ的 につながる(宇宙=蓮は水から生まれたというイ メージ)。

蓮はインドの宗教ではきわめて重要な植物で、象 徴的な意味を多く含んでいます。とくに豊穣多産、

生命力、性的な力、コスモスなどとしばしば結び つけられます。ご指摘のヴェーダ文献の創世神話 にはいろいろなものがあります。授業で紹介した

「卵」のイメージも、有名な「ヒラニヤガルバ」

(黄金の卵)を意識 したものです 。これは『 リ グ・ヴェーダ』にも現れますが、『シャタパタ・

ブラーフマナ』というそれよりも遅れて成立した 文献では次のように説かれます。「太初において 宇宙は実に水であった。水波のみであった。水は 欲した、われはいかにして繁殖しうるかと。水は 努力した。水は苦行して熱力を発した。水が苦行 をして熱力を発した とき、<黄金 の卵>が生 じ た。 それから男子が生まれた」と続くものです。

「水が努力すると卵ができる」というのが、なか なかすごいです。蓮のシンボリズムについては若 桑 み ど り 『 薔 薇 の イ コ ノ ロ ジ ー 』( 青 土 社 、 1984)や宮治昭『仏教美術のイコノロジー:イン ドから日本まで』(吉川弘文館、1999)が、また ヴェーダの創世神話や哲学などは辻直四郎『イン

ド文明の曙:ヴェーダとウパニシャッド』(岩波 新書、1967)が参考になります。

胎蔵大日如来坐像のまわりに菩薩がいるのは、不 動明王の八大童子と何か関係があったりするので しょうか。

基本的には関係ありません。胎蔵大日のまわりの 八大童子は、密教の初期の段階で成立した菩薩の グループで、もともとは釈迦や阿弥陀のまわりに 配されていました。観音や文殊、弥勒などの大乗 仏教の時代から信仰を集めていた有名な菩薩を集 めて作られました。その後、中尊を大日に変え、

全体が「八大菩薩マンダラ」を構成したり、胎蔵 マンダラの成立の重 要な要素とな ったりしま す

(これについては『インド密教の仏たち』のコラ ム③参照)。不動の八大童子はおそらく中国で成 立したもので、インドまではさかのぼれないよう です。不動を中心としたマンダラを意図していた ことは、以前に授業でも見たとおりですが、実際 のマンダラの作例はないようです。8 という数字 は、上下左右が対称となるマンダラを作るときに 便利なので、既存の仏たちがしばしばこの数でま とめられます。明王のグループとしても八大明王 というのがありますが、これは八大菩薩と同体と みなされます(三輪身説を用います)。

世界=神であるという哲学について思ったのです が、では、インドでは神を作ったものは何なので しょう。蓮華に坐る神はどこから来たのか気にな るところです。それから、インドやチベットは、

やはり不動より大日の像が多いんだなと思いまし た。獅子がよく出てくるのはなぜでしょう。イン ドといえばトラという気がするのですが。

神を作ったものはいません。神はそれ自体が無始 無終、つまり始まりも終わりもない永遠の存在で す。これがインドの正統的な哲学の基本となって います。神のみが実在で、それ以外は単なる仮の 姿であるとか、映像のようなものであるという説 明もしばしばなされます。一方、仏教はそのよう な永遠不変の絶対者を認めない立場をとります。

それゆえ、異端としてインド世界からは姿を消し てしまうことになります。ほとんど作例のなかっ た不動に比べれば、大日の作例はインドでかなり ありますが、釈迦に比べれば微々たるものです。

これは密教の時代でも、一般の人々の信仰の対象 は、大日のような「特殊な仏」ではなく、伝統的 な釈迦であったことを示しています。チベットで も同様で、釈迦や阿弥陀などに比べて、大日の作 例はそれほど多くはありません。インドの獅子に ついては、他にも質問が何件かありましたが、棲 息はしていなくても、古くから西方世界からもた らされていたようで、有名のものとして、アショ ーカ王の石柱装飾に獅子が現れます。王権のシン ボルとして最も重要な動物だったのです。釈迦の 説法も「獅子吼」といいますが、これも釈迦のイ メージを王者と見ることに由来します。この他、

ヒンドゥー教の女神ドゥルガーが獅子に乗ります。

すべて大日如来だとまでは考えなくても、宇宙全 体というか実感のあるところでは、地球全体が総 合的なもので、それぞれが補いあい、関連しあっ た体系的なものだと考えると、何となくすべてが 大日如来だという考え方はわかるような気がしま した。うまく言えないのですが 。それが大日如 来かといわれると、そういうことはまったく思わ ないんですが、その考え方自体は本当に何となく ですけど、なるほどと思いました。

「 自 分 と は 何 か 」「 自 分 を と り ま く 世 界 と は 何 か」などの問題は、哲学の基本なのですが、大学 までの教育では取り上げられることはほとんどあ りません。私の授業はあまり思想や哲学にはふれ ないのですが、前回のような話をすると、新鮮に 感 じ る 方 が 多 い よ う で す 。「 生 命 体 と し て の 宇 宙」の他のたとえですが、われわれの人体と、そ の中にいる無数の細菌(バクテリア?)のような ものをイメージしてもいいかと思います。われわ れが自分自身だと思っている身体には、おそらく 無数の細菌が含まれていますが、身体からそのよ うな細菌をすべて取り除いてしまったら、おそら くそれらの細菌は死滅するでしょうが、われわれ 自身も生きていけないでしょう。体内には無数の

「生命」を含みながら、われわれという生命が維 持されている、つまり共生関係にあるわけです。

身体を宇宙、細菌をわれわれに置き換えると、イ メージしやすいのではないかと思います。

八大菩薩にも一人一人違う特徴があって、誰が誰 だかわかると先生はおっしゃっていましたが、そ れぞれどんな特徴があるのでしょうか。何となく 白雪姫と七人の小人が頭に浮かびました。八大菩 薩はまたそれと違いますが 。

上にも書いたように、八大菩薩は伝統的な菩薩た ちなので、それぞれ固有の特徴を持っています。

たとえば、観音は蓮華、弥勒は龍華、金剛手は金 剛杵、文殊は梵夾を持ちます。ここからもわかる ように、固有の特徴は手にする持物であることが 多く、それ以外の 4 尊も固有の持物を手にします。

逆に、持物さえ異なれば区別が付くので、それ以 外は同じように表現するという傾向も現れます。

これは密教美術のもつ特徴のひとつで、「シンボ ル至上主義」とそれに伴う「個性の消失」と私は 呼んでいます。くわ しくは『イン ド密教の仏 た ち』の八大菩薩を扱った章を見て下さい。白雪姫 と七人の小人は、ディズニーのイメージが強いの で、だぶだぶの頭巾や服を着た小太りの小人を連 想しますが、もとは明確な区別があったのでしょ うか。7 人という数が重要という気がしますが 。

何かと宇宙ということばが出てきますが、それは 現代私たちの考えている宇宙と同じでしょうか。

そうとも言えますし、そうではないとも言えます。

おそらく私たちが用いる「宇宙」ということばか らは、銀河系や太陽系などの星が暗黒の中に浮か んでいるイメージが連想されます。しかし、だれ もそのような「宇宙の姿」を自分の目で見たわけ ではありません。知らない間に科学関係の本やテ レビの映像などから植え付けられたものでしょう から、「現代日本人の平均的な宇宙像」といった 方がいいかもしれません。それと同じように、異 なる文化背景や環境の中で育った人々は、それぞ れ固有の宇宙のイメージを持っているはずです。

それは宇宙というよりも、自己をとりまく世界と 言った方が適当かもしれません。哲学的には「世 界」という用語の法が妥当でしょう。しかし、世 界も「地球の国々」というニュアンスで用いられ るので、注意が必要です。

すべてが大日如来であるというアニミズムみたい なかんじなのだろうか。あと、すごく変なことで すが、摩訶毘盧遮那を見てふと思いついたのが、

魔法使いサリーちゃんの呪文が「マハリク、マハ リタ」だったので、漢字を当てると「摩訶離苦、

摩訶利他」で、もとは仏教用語なのかなと思いま した。

アニミズムとは少し違うようです。アニミズムか らは世界がすべて大日の顕現という発想は現れな いと思います。魔法 使いサリーち ゃんの呪文 の

「マハリク、マハリタ」は、サンスクリットであ

れば mahṛk mahṛta と解釈できます。mahā は授

業でもお話ししたように「大きい」を表し、ṛk は

『リグ・ヴェーダ』の「リグ」と同じで、神々へ の讃歌を指します。一方、ṛta は「適切な」とい う意味や「秩序」「法則」という意味を持ちます。

いずれもインドの思想では重要なことばです。魔 法使いサリーちゃんの原作者(横山光輝?)がイ ンドの思想に造詣が深いとか想像できますが、真 偽のほどは定かではありません。「摩訶離苦、摩 訶利他」という解釈は私には意外でしたが、ひょ っとするとそうかもしれません。

菩薩の地位の向上がいわれていたが、もともとそ んなに低いものだったのでしょうか。

そんなに低いものではありません。しかし、菩薩 が修行して仏になるというのが仏教の基本なので、

相対的に仏よりも低いということです。その中で、

大乗仏教では仏に代わって実際にわれわれ衆生の 救済につとめる菩薩の役割が重視され、人々の信 仰を集めます。海外での援助のようなものを例に すれば、東京にいる外務省の役人よりも、現地ス タッフの方が、途上国の人々からは信頼を集める ようなものです。現地スタッフの行動が外務省の 役人によって指示されたものであってもです。密 教で法身のような根源的な仏が必要とされたとき、

仏よりも菩薩にそのイメージがもとめられる傾向 があります。日本では法身といえば大日やその前 身である毘盧遮那ですが、インドやチベットでは 文殊や普賢のような菩薩が、法身となることがあ ります。

忍者も「ドロン!」とするときに、智拳印を結ん でいるようなイメージがあるのですが、仏教と忍 者は関係あったりするのでしょうか。

智拳印はたしかに忍者の手のしぐさにそっくりで す。おそらく仏教から直接ではなく、修験のよう な山岳宗教が介在するのではないかと思いますが、

よくわかりません。

今まで僧形というのは地蔵菩薩のように剃髪した ものをいうのかと思っていたのですが、如来の像 も僧形というのですね。

地蔵菩薩もお坊さんの姿をしていますが、「比丘 形」(びくぎょう)といいます。日本では錫杖と 宝珠を持つことが多いのですが、これらは中国で 成立したイメージです。インドには地蔵は八大菩 薩の中に含まれますが、そこでは菩薩形をとりま す。仏のすがたは仏形ともいいますが、通肩(衣 を両肩に掛ける)か褊袒右肩(へんたんうけん、

右肩を衣から出す)のいずれかで、頭には螺髪と 肉髻があります。

宇宙や世界を身近なもの、卵や蓮にたとえて説い

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