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一 O 四

ドキュメント内 日本佛教學會年報 第50号(全) (ページ 112-115)

百甘煎の最後主たるぎ門出向

Fm

wW

何回\増長\不善長と名附けられてゐる︒冨

m HY

E雪 −

ZP

ロザ

w

m H ︿山田留と四分律では︑

E

S! 日ーまたは諮師摩は︑それぞれ

ω£ UE

︑大善生の子とされてゐるが︑﹂れは本来同一王であったものがその

異名ゆゑにいつしか別人と見なされるに一会ったものであらう︒

一 方 ︑

m u g s

m

何回

等で

は︑

HW2UWロといふ名が日

種利帝利の開租たる同名の王を指すのみでなく︑

HW

叩 品 目

s s −

vL

54

MH

Wロロ皆同といふ複数形で

HW

哲也内ロ族諸主を意

味し︑さらに︑

HW

雪山昇己廿といふ単数形または同町笥

M FW

ロ乱

といふ複合語が︑

派 生 語

F M W ﹀

4 1 包 内問

︒と 同じ ゃう に

HW

2I

MF ︸自王族の一人あるひは

H Wm w

g

王の苗育の一人の意で用ゐられることがある︒これらのことに留意すれば︑︿ 包

悌典諸系譜の指し示すところでは︑同

ω

℃ 一 一 山

︿

g Z

J M A

﹂聞いた諸王子の父たる口哲−包自は個人名ではなくむしろ族名で

あり︑それゆゑ︑例へば︑富山︸

U 4 1 2 E

にみえる玉名

ω £

S

匂也記乱首は︑

F

HW

匂忠告族諸王の一人たる

ω £

劃 仲 間

と解すべきこととなり︑したがって︑樟迦族はω

ロミ

ω

︿

ω

吾古の開祖にして宮山口口︿出向︿山田︿山富の子たる目当巴日

王に直接由来するのではなく︑この王の末流の一人で婆羅門教典籍では特に名の見えない

ω £

劃片 山あ るひ は︿ 町出

E

S

4 Fωと呼ばれる王に源を設してゐることになる︒

思ふ に従 来︑

日種王統の鼻極と耀迦族の開祖たる諸王子の父

とはそのまま同一視されてしまふきらひがあり︑その相互関係は頗る暖昧であったが︑雨者ははっきりと区別され

ねばならない︒この

ω £

勘宮

5

5 4 E

S

以下の日種棒迦族譜と婆羅門教典籍の界笥包己主統譜の問を填め補ひ

つつ雨者の閥係を明す手掛りとなるものはなにも残されてゐない︒

の相

内向

凶ロ

可ロ

向山

王統

譜で

は︑

ωロ 門

庄 町 内

HC

mg

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王は

︑目 的

4U

己主家のえWω

45己の孫と見なされ︑

の後 に

3・

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苦の名︑が措かれてゐるが︑これが︑

もっ とも

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州凶

吋同

州宮

崎の

校訂

にな

る諸

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円宮

さらに悌陀と刃包

EE

樟迦族は日種なりといふ通念に基く後代の附舎であることは

まず疑ひないであらう︒つまり︑懇迦族が現賓に

HW

笥得ロの末世間であったのか︑それとも︑あるかなり古い時期

にそのやうな限託がなされたのかといふことは︑もはや判定しがたく︑四枠迦族が雲山の麓に住みついた古い伊国・

4U

一口主家の一支流であると考へることも︑逆に︑本来日種ともW

HW

m矢口とも無縁であった僻陳の民樺迦族が自

らを問︒

g g

のやうな中印度の大圏の主統に閥連づけようとして︑日種と名乗りつつ開↓組を目匂県ロの後脊の内

に需めたと見なすことも︑いづれも可能となるのである︒

ある ひは

︑ 開 ・ 一 ﹃

HF︒58

のや

うに

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r r

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m 内

H

は本来

HW

2h

FW

戸とは無関係なEEWωといふ名に由来する

と見なし︑︒

岳山といふその俗語形が早くに誤って回哲也己より導き出されるとともに︑理迦族の開租が日種w w

と結び附けられるやうになったと考へることも全く無理ではないであらう︒

しか

し︑

漢課程の方では︒

S

\w w 巴

A

w m F

︸内向の音潟語と見なしうる名はなく︑甘煎はもとよりのこと諮師摩も伊摩も欝摩もいやつれも胃匂巴

g

及 至 は

その俗語形によるものであるから︑︼出ロ系惇承のみが︒

w w u w ω

といふ古形を保ちえたと考へねばならぬこととな

る︑

叶︸

55 8

の所設には問題が残る︒

いづ れに せよ

︑富 山日 仏8 5 5 m H

を首におく現存調停迦族諸系譜の内︑員正の日E

種王統停承や樟迦族自身の古停承に由来するものがなにかあるとすれば︑それは∞丘酌片山\︿町四門官

g w m w

O W

s −

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以下の部分のみである︒

HW

4

UW

E

E S w m H

と樟停の祖父山岳﹃ω

︸戸 山口 口と の聞 に見 える 諸王 名お よび 相承 次第 は︑

個々の系譜ごとにか

なりの異同を示してをり︑中には明らかに後世の追補敷街によるとおぼしきものもあるが︑しかしこれらの玉名

は︑明らかな迫補によるものを別とすれば︑すべて婆羅門教典籍には見えぬ悌典濁自のものであるから︑諸系譜の

HW

匂包己\︒

E

内酌片山以下悌陀までの部分は︑その惇承がすでにかなり崩れ陵昧なものになってゐるとはいへ︑やは

りなんらかの緯迦族古俸に遡る一︑まとまりのものと見なしてよいであらう︒

O

さて︑初めに述べたやうに︑諸系譜によれば樟迦族は劫初の王宮山︸

S E E B

山片山の王統に連なるとされてゐる︒

例へ

ば︑

U間 関 げ

ω

w

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身 ー

中の

﹀関

山口

m g E E

では︑併陀が︿

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笹山 と∞

︸る 門出 品︿ ーと 釦と いふ 二人 の婆 羅門 に︑ 劫初

の農耕︑男女交合の濫傷︑四姓の由来を語りつつ︑富山げか

S E E m E

の剖位に説き及んでゐる︒すなはち︑世界が

漸く凋落に向ひ︑人民が財産を貧りつつさまざまの闘誇を繰り庚げるやうになったため︑かれらは自らのうちより

特に容貌端麗で威徳あるものを選び出し︑訴へを裁かしめることとなった︑これが人主の初まりであり︑このやう

に人民より選翠された最初王は︑大衆より等しく認められたものであることから︑富山

F U S E E m

凶片

山と

名付

けら

れた

と読かれてゐるのである︒同様の読は︑封臆する長阿含鰹起世品︑起世経︑起世因本経︑衆許摩詞帝経︑

ω ω

σF

O内 同

釦 ︿ 山 田

一 戸 回 ︑

さらに富山げ雪山田宮の河丘町

W4

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かつ

﹂の 宮山 富田

ω E B m H E

より

HW

UH

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w

書凶さらには悌陀に至る諸王の名が列拳されてゐるのである︒冨

w

ω F M F

吉田山片山読話は濁特の世界凋落読の枠

S

の中で語られてをり︑その成り立ちは︑すでにかなりの護達を遂げた数理睦系なしには考へられぬものである︒

方︑この読話で語られる王権の起源には︑いづれの一紳も聖仙もはたまたいかなる祭儀も苦行も閥りをもたず︑また

筆者の知るかぎり︑婆羅門教典籍では富山

F U S E S ω

冒といふ名も同様の王権起源説も見出しえない︒この説話の

成立過程はたやすくは詳かにしえないが︑正統婆羅門教とは異る思想︑文化がその背景となってゐることはほぼま

ちがひない︒この貼日種利帝利に言及するかぎりでは婆羅門教系停承にも連るものを含み︑また︑初めは僧伽より

はむしろ民間にあるひは轄迦族自身の聞に行れてゐたとおぼしき開匂野口\︒

w w u w m

読話 とは

︑富 山﹃ 宮山

B S ω Z

説話は著しく趣ぎを異にするものである︒かかる王権起源説話に轄迦族の一径の共和政燈の名残りを見てとること

は全く誤りではないであらうが︑直接の基盤となるものは︑むしろ悌滅後借伽の内で漸くまとまった形をとるに至

ったとおぼしき悌教的世界観であらう︒おそらくは︑由来︑背景を異にする

冨 何 回

ESB

自己

ω読話と

同 ︸ 内 叫

︿ 仙 ︸ 内

戸 \

︒w w u

w ω

にまつはる樟迦族起源説話とがある時期に結び附けられ︑かっ︑両者の聞がさまざまの王の名で補はれて︑

今見るやうな王統譜が作りあげられていったと考へるべきであらう︒王統譜がかかる成り立ちのものであればこそ︑

一方では轄迦族を日種刺帝利なりとして

FS UW

ロに言及しておきながら︑日紳との繋りはいづこにも見出されな

いといふ蹴騒が生じたのである︒

ここで富山

F M F E

ωと間垣島ロ\︒E 自己

wE

仰とを繋ぐ諸主の名を各系譜にわたって吟味すれば︑轄迦族の先祖W

とは到底見なしがたい︑明かに系統を異にするはずの王の名が少からず見出され︑現存諸系譜あるひはそれらの

租型となった系譜の作者が︑古停に見える玉名または自ら考へ出した壬名をさまざまに列ねて冨何回町宮山富自己

ω

匂包自\︒H W

w E w m w

とを結びつけていったことを窺はしめる︒しかし︑系譜作者が全くの怒意によって︑いはば手

首り次第に古への名王の名を列ねまた新しい玉名を作り出して並べていったのではないであらう︒雨主を繋げる諸

玉名の配列には系譜作者の一定の意園︑傾向が看取されるのである︒

冨ω

F U S B

自己ω

より 富山 口己

E

同 叫 \ ・

E

に至る同

m w

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E W

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田 知 d吉

F m w

等の数代は︑系譜ごとに相承の次第を

異に

し︑

王名も全く同じではないが︑富山口

b F M

芹吋

\み

ω

を別 とす れば

ほとんど併典にのみ名の見えるものであり︑

おそらくは富山

F M F E S S E ω

と一まとまりをなすものであらう︒績く富山口己E

々\

・Z

\冨

宵門

FU E

は︑婆羅門教

典籍では三世界を討ち卒げ天界に昇り宮内同店と玉座を共にした轄輪王として名を誕はれ︑

かれ にま つは る紳 異− 諌

は併典にも語られてゐるのであるが︑系譜作者はおそらくこのやうな侍読を踏まへて︑

富山

ESB目白訂以下数代

の王のすぐ後にこの神にも等しい

W 1 m

己w u

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の聖主の名を措いたのであらう︒さらに冨

E

門医

営吋

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Z以下の世系

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