各地に於ける降次石の始終時︑降石の大小︑並に深度は左の如くであった︒
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共分布を見るに最深は鹿部村字小川︑折戸附近を中心とし南東方に長軸を引き﹄縮図同
森 同
同 亀 田 郡 七 飯 村 同
同 同
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亀 岡 村 湯ノ川村 銭抱埠村
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戸 井 村 同
尻岸内村 同
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夜中 同 同 同 同
形放をなして海上に撲大して居る︒
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寺 間大爆殺は十時に始まって同時に・一次石を噴
3
上げた乙とは鹿部村役場並に石川氏の報告によって考へらるL之とである︒而して鹿部村市街地に℃は乙の大爆殺を見て後二十分で降石となったまた山麓の小川
第二殺電所附近に降石の時刻も乙れと殆ど大差がなかった︒駒ヶ岳山頂よ
b
字小川は南東方八粁で鹿部村市街地は東南東方十一粁四である此問大爆殺の友煙を見てよ
b
約二十分間を要して降石が到注した誇である0・無論噴出石塊は拠物線の経路を辿って降下した乙冒とであらう次で降石分布の最終貼(陸上)で
ある亀田郡椴法華村岡尻岸内村にては十三時三十分に至って始めて降石を見たのであるが此間各地につ
いて夫々所要時間を見ると臼尻村市街地は二十五粁六にてこ時十分︐尾札部村市街地は三十三粁六で二
時四十分︑更に椴法華市街地は四十六粁五︑尻岸内村古武井(役場所在地)は四十八粁で執も三時十分間
後であった︒鹿部村方面の欣況に比較すると著しくじ記時間を要した乙とである︒乙れに付℃官時の肢
況十‑椴法華︑尻岸内方面の人々に聞くに︑十時を過円︑る乙と若干分後噴火湾沖
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口の
上空
に砂
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暗黒の雲回現はれ漸次上家二面に撰大して来た︑暗黒と云ふも異様の色彩でその上部に日射を受け光輝四方に後
散して奇観であったと言ふ乙とである︒多くの人は聴がて大雷雨にても至るべしと忠ひ家外に晒してあ
った乾燥物等始末した程であった︒次第に黒雲は陸の上答に山達したが格別の降雨もない︑不思議に戚じ
てゐーたが︑午後一時過ぎ貼々屋根を打つ一菅あ
b
家外を見ると異様の回結物の降下であるので或は震の下降かとも思はれたが︑能く見ると軽石であったとの乙とである︒
之に擦って見ると駒ヶ岳爆殺常初の噴出物は専ら山麓及び其東方海上逢の方面に飛行し而して漸次に
陸上茅部郡東部沿岸方面に波及したもので臼尻村以来の各地にて降石停播の長時間を要したのは共闘係
であったらしい︒俗画館師範皐校教詠松丸乙}辺氏は臼尻小墜校訓導伊藤祐美氏の営時の目撃談を筆記し
た稿を寄せられたが該地の営時の朕況も窺はれ参考となるべ
3
を以って左にその全文を掲記するc六月十七日︑日本晴の天気であった︑が午前十時頃大鳴動があった︑人々は夕立前の雷鳴と思ってその
用意をしてゐた︒次第に異常の雲が来︑たれるによって不思議に思ってゐた此雲(註︑火山友煙の塊閣を雲
と見たるなるべじ)は初め海面上にホゆだが其下の海面は黄色(詰︑噴出の・一火︑石の浮認によって海水面
時便色せしなるべし)となった︐児童は乙れを見て鰹模様︑たと言合った共最盛時は正午過ぎであった︒正
午頃から此雲は陸上へも擦がって来たが大豆大の軽石が少し宛降って来た人々は珍らじがつ℃一っこっ
と拾ぴ集めた午後一時頃から此雲が愈々陸上に来ると強風となιリ降石が多くなλ
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なるものは直径四寸乃至五寸であった云々
と之の目撃によっても最初は駒ケ昏東方海上に友石降下した︒恰も営時の上層風に乗じたものL
如く
市して活動の愈あ旺盛となって漸次北東
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南東に区域援大したものであらう︒品回日十四時四十五分汽般ジ ア イ
︑ォプピクト
ηノア競は駒ヶ岳の東南東約二百八十五粁で軽石末の飛来に遭遇したが恐らくそ の軽石末は爆殺営初噴出した群塊固の飛行のものと思はる︑のである︑が到達に要したる時間は約四時四 十五分であっ℃之れを秒時の速度に見ると卒均毎秒十六米七の飛行速度である︒
向ほ前項降石の分布に見る如く其降石は山麓東乃至南東方に俣多の堆積によって新生火口道は若干の 傾殺を有するに基く結果であると一般に言はる︑のであるが営時噴煙の高度は地上卦流圏を突破せる乙 と及び上︑中︐下各層の風向北西であった賂よ
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見ると山麓の東乃至南東方に降石を驚らしたる主力は
風向によると考ふるは妥常なる之とであらう︒
石 塊 流
の
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,盆 出
今同の爆後噴火に際しては墜に山麓の・一束乃至南東方面に倭多の降・一次石があったのみならず山側麓の四
方に高熱の浮石質砂磯山石屑の混交せる印ち石塊流が海出した︒之れがため山側麓の樹林帯の庚大なる面 積を焼議して一一府惨害を大ならしめた︒先づ其最初は十二時十分縮図形火口の北西壁である駒ノ背を盗 出して押出怒に流れた一僚があった︒次で噴火活動の盛期に入って十五時及び十五時二十分南壁馬ノ背
の高丘部よ
b
盗出するを認めた︑以上は説れも僅少の量で殆ど山腹に停留したが十五時三十分東壁﹁ク
Y
ミ坂﹂に溢流したるよ
b
愈々大規模の傾向となった印ち﹁クYミ坂﹂に出でたるものは其上宇部を埋め目別肢に展開し℃一部は南東方に携散し︑
一部は熊野を壊乱して北東に岐れ断崖の海岸を突破して海演に
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庚大の三角州を遣った︑更に一部は砂原岳
左肩下を越へ鍛冶犀川と明紳川及び其中間
高丘を犯し命ほ左廻し℃﹁イ一フし路に注入し
た︒一丹び十六時三十分馬ノ背.駒ノ背よb
一・滑に溢れ前者は南.南西麓に進み焼山を
突破して赤井川に迫
b
後者は砂原岳右肩を掠め
押出
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北西に向ひ一波はい天幕深に入ったが大部分は命北西に建み多少は押 出潔を浸し其偉尾白内及び土橋に至
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なる樹林︑耕地を埋設せしめた次で瞬時を
置かず内側ケ峯及び砂原岳内壁約二百八十五
米・と二百六十米の高距離を飛躍して外側に
溢出した︒何腕ケ峯を越へたるは其斜面渓谷
の中腹に止まらJ
しも砂原岳外側に出でたる
ものは馬拘諜と摘右衛門海並に共中間高一丘
に流れ又一一次は梨の木津と砂原押出津に入
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尾根にてA
口し山麓陸軍用地の大地積を荒療に蹄せしめ其の末端は紋兵衛砂原の海岸よ
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約千三百米附近に建した︒斯て十七時には肢に殆ど金山側麓乙れがために草樹の焼燃による鼠色煙と石塊流の掲色噴煙に包因された而して山上活動の濠々だる噴煙轟々たる鳴動
と相混雑し貨に名朕すべからゴる凄惨の極となった︒乙の石塊流は各慮とも数同氏溢出せしもの︑如く
共滞溜の跡は能く段階の暦を示して居る︒焼山に出でたるものは︑宿野透小島ナ校長長谷川彦次郎氏の談
によると最後夜宇に及び凡そ六同で流下の際は﹁ドク
1 ゴ 1
﹂の一品目響を聞いた︑而して山側斜面流下の際の遮皮は甚だ念なるものであって約七百米の山腹斜面寅に一瞬時であったとの之とである︒尾白内石
塊流につい℃は会・く停止に至るまで凡そ二十分内外であった︒
石塊流の末端は概ね舌肢をなし塊震を累ねたるが如く而して石塊は稜角を快
3
幾分丸味を帯び大なるものは径一米厚
3
五十粧を測ったが共中央︑上部は概して小石塊で赤褐色の火山砂と混合して居る︒共被表面積凶十八方粁に達し堆積したる最深は三十
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三十五米であった︒而して共溢出するや・外側斜面念速の轄落によって渓谷の上部は著しく彫刻
3
れ下端は却で埋積し且つ山麓裏地に著しく地形肢の媛化を呈した左に其分布を掲記する︒
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石1
塊 赤 流ぴ〉
井 場 所 )11
延 長 五粁八
幅最大
三粁主
十 面積 八 方 粁
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