11節「このことによって、あなたは私を喜んでおられるのが、わかります。」(新改訳)
「そしてわたしは知るでしょう。わたしはあなたの御旨にかなうのだと」(新共同訳) Keyword; 「知る」 know,
4:3/9:10/20:6/36:10/51:3/56:9/59:13/73:16/83:18/87:4/89:15/91:14/100:3/109:27 119:75, 79, 125, 152/135:5/139:14/140:12
◆「知る」と訳されるヤーダー
ע ַדָי
(yada`)は、神とのかかわりにおいて、きわめて重要な 礼拝用語です。旧約では947回、詩篇では92回使われています。神がどのようなお方で あるかということを知るということは、単なる知的理解にとどまることではなく、人格 的・体験的な愛の交わりを意味するからです。「知り、知られる」という関係をしるした 詩 139 篇はその意味ではすばらしい傑作です。また、創世記4章 1 節の「人はその妻を 知った」は、霊的、精神的、肉体的なものすべてを含んだ交わりを意味します。◆詩41篇11節のように、自分の存在が神によって喜ばれていることが「わかる」、神に 受け入れられていることを「知る」ことは、生きる力を生み出し、存在の輝きを放ちます。
御子イエスも御父から「わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と言われました。
この御父の内なる愛の声こそ、すべての子どもたちが日々聞く必要があります。
◆かつて NHK でマザーテレサの働きを紹介するドキュメンタリーが放映されました。
その中で、孤児を抱くマザーテレサの姿がありました。顔に輝きを失った幼児が、マザー に抱かれ、頬ずりされ、語りかけられているうちに、孤児の顔は次第に輝きはじめました。
「これが人間と言う存在なのだ」と思いました。。自分の存在が認められ、受け入れられ、
理解され、大切にされてはじめて輝くかかわり、これこそ人格的な交わりです。
◆ちなみに、ヨハネの福音書における大切なキーワードは「信じる」(πιστενειν)ですが、
「知る」(γνωσκειν)という動詞もそれと密接な関係にあります。
◆詩 41 篇は詩篇第一巻の最後の詩篇です。A・バイザーという人は、第一巻の主要テー マは「悟り」だとしています。つまり、何が「幸いなことか」を悟ること、最も大切なこ とは何かを悟ること、しかし、その悟りは知識によって得ることはできません。神と共に 歩む経験を通して開かれる悟りです。人間の知恵によってもたらされるものではありませ ん。神の知恵に基づく「気づき」といえます。
◆預言者ホセアは、「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光 のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨理ように、地を潤 される。」(ホセア6 章 3 節)と、主を知ることの大切さとその祝福を語りました。神を知 ることを、神ご自身がなによりも喜ばれるからです。
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詩 42 篇 「渇く」 (カテゴリー: 渇望)
ג ַר ָע
アーラグ
א ֵמ ָצ
ツァーメー
1節「鹿が谷川の流れを慕いあえぐ
ג ַר ָע
ように、私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」2節「私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。
א ֵמ ָצ
」Keyword; 「慕いあえぐ」(
ג ַר ָע
) 42:1, pant,「渇く」(
א ֵמ ָצ
) 42:2/63:1 thirsty, thirst,◆詩42篇には多くの礼拝用語が登場していますが、その中でも渇望を表わす動詞「慕い あえぐ」「渇く」という二つのことばが詩篇ではじめて登場します。「慕いあえぐ」と訳さ れたアーラグ
ג ַר ָע
(`arag)も、「渇く」と訳されたツァーメーא ֵמ ָצ
(tsame’)も、単に喉が渇くだけでなく、たましいの強烈な渇き、切羽詰まった渇きを意味することばです。前者は 旧約で3回、そのうち2回が詩篇。後者は旧約で10回、詩篇では2回用いられています。
◆喉の「渇き」(名詞はツァーマー
א ָמ ָצ
(tsama’) 69:21/104:11)もさることながら、たまし い(ネフェシュ)の渇きは、人間のニーズの中でも最も根源的なものであり、切実です。「渇 き」はどうしても満たされなければなりません。すべての人はこの「渇き」を満たすべく 生きていると言っても過言ではありません。◆詩42篇の作者には、かつてエルサレムで経験した生ける神との一体感への希求があり ます。その一体感を再び味わいたいとの強い希求があります。しかし、現実にはそれがか なわぬことで、なおいっそう、その渇きが増幅されているのです。
◆イエスは「大いなる祭りー仮庵の祭りーの終わりの日に、立って、大声で言われました。
『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来なさい。わたしを信じる者は、聖書が言っ ているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる』」(ヨハネ
の福音書7:38)。このイエスの叫びは、どんな大きな祭りに参加したとしても、なお満た
されない心があることを見抜いた上での招きでした。
◆イエス・キリストは「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」 (マタイ5:6) 「義」とは神とのかかわりを意味する関係概念です。神のすべての祝福の原 則は、義、すなわち神との親しいかかわりに飢え渇いている者にのみ注がれるということ です。ヨハネの福音書でも「渇き」は大切なキーワードです。真実の愛に渇いていたサマ リヤの女はその良い例です。彼女は自分の心の渇きに気づかずに、男性を求めていた女性 でした。しかし、イエスとの出会いによって自分の渇きに気づかされ、渇くことのないい のちの水を与えてくださる方に出会ったのです。私たちもこの方とかかわることなしには、
たましいの渇きをいやすことはできません。
◆ツァーメー
א ֵמ ָצ
(tsame’)の類義語としては、シャーカクק ַק ָשׁ
(shaqaq)があります。「飢える、渇きがとまらない、渇く、飢え渇く」を意味します。107:9:/143:6参照。
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詩 43 篇 「待ち望む」 (カテゴリー: 待望・渇望)
ל ַח ָי
ヤーハル
5節「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」
Keyword; 「待ち望む」 hope, put hope, give hope
31:24/33:18, 22/38:15/39:742:5, 11/69:3/71:14/119:43, 49, 147/130:5/147:11
◆詩42篇と詩43篇は、同じリフレイン(反復句)を持つために、もともと一つの詩篇だと 言われています。そのリフレインとは以下の句です。
「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。
なぜ、私の前で(岩波訳では「私のことで」) (※) 思い乱れているのか。
神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。」
(※新改訳第二版では「なぜ、御前で思い乱れているのか」と訳されていますが、第三版では
「私の前で」と改訳されています。アル
ל ַע
は、upon, on, above, over, beside, near, before, towards, against, within, from, because, by・・など、前置詞のすべてを含んでいるような意。)◆リフレインでは、詩篇の作者がもう一人の自分―「うなだれ」「思い乱れている」自分
―に向って呼びかけています。「うなだれ」とはcast down頭を垂れ、意気消沈している、
失望落胆している状態を表し、「思い乱れている」とはwoamうめき、嘆いている状態で す。そんなたましいに対して、「神を待ち望め。私はなおも主をほめたたえる。」と告白し ています。「ほめたたえる」と訳された原語ヤーダー
ה ַדָי
(yadah)は、賛美する、感謝する、公に告白するという意味です。しかも「なおも」オド
דֹוע
(`od)とは、現実の事態に反して も神がすべてのことにおいて「いつくしみ深い方」だと信じ続けていく決意の表現です。◆詩篇瞑想の目的のひとつは、自分が自分に向って励ましと希望を与えることです。私た ちは、表と裏、信と不信、興奮している自分と醒めている自分、温かな面と冷ややかな面、
熱心さと虚しさ・・などを合わせ持っている存在です。それゆえ、私たちはしばしば自分 のたましいに向って、自分を励ますために語りかける必要があるのです。
◆「待ち望む」と訳される類義語は多くありますが(例: 詩25篇参照)、詩43篇5節の
ヤーハル
ל ַחָי
(yachal)は、将来になされる神の善を信じて、今日を生き抜く力をもたらす「待ち望み」を意味することばのように思えます。作者は、過去の良かったことを「思 い起こし」ては、自分を励まそうとするのですが、過去と現実のギャップを知ることで、
より辛くなっていく自分に気づきはじめているように思います。「待ち望み」のプロセス としてそこはだれもが通るところかもしれませんが、どんなに良かりし過去を顧みたとて、
今、生きる原動力とはなりません。人は将来に希望を持つことによってはじめて今の時を 意味あることとして、創造的に生きることのできる存在です。つまり、明日を信じて生き ることのできる人は、今日を生き抜くことができるということです。「神を待ち望め。私 はなおも神をほめたたえる。」との告白は、生きることに新しい喜びと力を与えるます。
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