112節「私は、あなたのおきてを行なうことに、心を傾けます。いつまでも、」(新改訳) 112節「まことを尽くして、わたしはおきてを守る。いつまでも、終わりなく。」(典礼訳)
Keyword; 「傾ける、向ける、尽くす」 119:36, 51, 112, 157/ 141:4/
◆「(心を)傾ける」と訳されたナーター
ה ָטָנ
(natah)は、神にも(恩寵用語)、人にも(礼拝用 語)にも用いられます。旧約では215回、詩篇では29回使われています。礼拝用語として 使われる場合には、神のことばに耳(心)を傾けるということであり、恩寵用語として用い られる場合には、神が人の祈りや叫びに耳を傾けられるということになります。ただし、神が私たちの叫びに耳を傾けられるそのあり方は尋常ではありません。「天を押し曲げて 降りてきてください。」(144:5) の「押し曲げる」とか、「伸ばす」(102:11)、「広げる」(104:2)、
「差し伸ばされる(腕)」(136:12)と訳されるように、心だけでく、身を乗り出すようにし て耳を傾けるくださる、親身になってかかわってくださるイメージです。
◆礼拝用語として使われる場合には、神の方向に向かって、反れることなく、一途に向か っていくことを意味します。詩119篇の他の節を見てみましょう。
119:36では「私の心をあなたのさとしに傾かせ、不正な利得に傾けないようにしてくだ
さい。」次節 37 節には「むなしいもの見ないように私の目をそらせ、あなたの道に生かし てください。」と言い換えられています。119:51では「高ぶる者どもは、ひどく私をあざ けりました。しかし、私は、あなたのみおしえからそれませんでした。」 119:157では
「私を迫害する者どもは多い。しかし私はあなたのさとしから離れません。」とあります。
◆「心を傾ける」ということは、それを阻もうとする環境にもかかわらず、あえて、そう していこうとする強い意思が感じられます。119:105~112の段落では、特にその意思が 濃厚です。「しかし私は」というフレーズでそれが強調されています。109節の「私は、
いつもいのちがけでいなければなりません。しかし私は、あなたのみおしえを忘れませ ん。」とか、110節の「悪者は私に対してわなを設けました。しかし私は、あなたの戒め から迷い出ませんでした。」に見られるとおりです。
◆作者の「心を傾ける」の根拠は、単なる、熱意だけではありません。111節にあるよう に、「あなたの定めはとこしえにわたしの嗣業です」(新共同訳)という確信に基づいている のです。この作者は祭司かレビ人であったかもしれません。祭司やレビ人は本来、「主ご 自身が彼らの相続地」だったからです。この事実を真に目覚めさせたのはバビロン捕囚の 経験でした。祭司もむレビ人はバビロン解放後、新しい神の民の再建のために大きな霊的 役割を担ったことが歴代誌に記されています。神殿礼拝のみならず、みことばを教えるこ とにおいて、多くの者が登用されたようです。
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詩 119 篇 (13) 「あえぐ」 (カテゴリー: 渇望)
באַ ָי
ヤーアヴ
131節「私は口を大きく開けてあえぎました。あなたの仰せを愛したからです。」(新改訳)
「わたしは口を大きく開き、渇望しています。あなたの戒めを慕い求めます。」(新共同訳) Keyword; 「慕う」 longing for 119:131 (旧約聖書中、ここ1回のみ)
◆詩119篇には詩119篇特有の語彙(動詞)がいつくか見られます。たとえば、
①「学ぶ」と訳されたラーマド
ד ַמָל
(lamad)。詩篇では27回使われています。その多く は「教える」(teach)と訳されていますが、119篇では7節と71節の2回が「学ぶ」(learn) と訳されています。「苦しみにあったことは、私にとってしあわせでした。私はそれで あなたのおきてを学びました。」(119:71)は有名です。②「喜ぶ」と訳されたシャーアー
ע ַע ָשׁ
(sha`a) (119:16, 47, 70)。英語ではdelightと訳さ れています。名詞形では「私の喜び」(My delight)םי ִעוּשֲׁע ַשׁ
(sha`ashu`im)として使 われています。119:24, 77, 92, 143, 173参照。シャーアーע ַע ָשׁ
(sha`a)の「喜び」は、特別な「喜び」(rejoice)ではなく、日常的なこととしての「喜び」―オランダの歴史学 者ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」でいうところの<遊び>の世界に近い感覚-、し かも高価で、尊い、大切な楽しみを表わしています。LB訳では「無上の喜び」と訳さ れています。神のトーラー(教え)を幾千の金銀にも勝るものとして高めたのです。
③「甘い」と訳されたマーラツ
ץַל ָמ
(malats)も(119:103)。サウル王の息子ヨナタンが戦 場で少しばかりの蜂蜜でも目が輝いたとあるように、まさに、昔は甘いものが貴重でし た。「あなたのみことばは、私の上あごに名と甘いことでしょう。密よりも甘いのです」という表現は119篇の中のまさに白眉です。
④「目を留める」と訳されたシャーアー
ה ַע ָשׁ
(sha`ah)。目も心も注ぎ込む、しかも好意 をもってじっと凝視する、注目するという意味です。英語ではregardと訳されていま す。新約聖書のヘブル人への手紙12章2節にある「アフォラオー」(αφοραω)というギ リシア語も新約聖書ではここ1回しか使われていませんが、へブル人への手紙のキーワ ードです。まなざしをイエスに固定して、イエスから目を離さないでいること、イエス だけを見つめながら、イエスを仰ぎ見るという言葉です。ה ַע ָשׁ
(sha`ah)もそれに近い意味合いではないかと思います。
◆そして、今回の「あえぐ」(渇望する、慕う)と訳されたヤーアヴ
באַָי
(ya’av)も詩119篇にしか登場しない動詞です。なぜ「あえぐ」のでしょうか。それは129節にあるように、
「あなたのさとしは奇しい(wonderful)」からです。死海写本では「奇しい」を「蜜蜂の 流れ」と訳しているようです。
◆バビロン捕囚の経験によって新しく生み出された言葉を通して見えてくるものは、
「みことばの戸が開かれて」、神とその教えに対する新しいいのちのかかわりなのです。
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詩 119 篇 (14) 「選ぶ」 (カテゴリー: 信頼)
ר ַח ָבּ
バーハル
173節「・・・私はあなたの戒めを選びました。」 Keyword; 「選ぶ」 choose, 25:12, 119:30, 173
◆「選ぶ」と訳されたバーハル
ַר ַח ָבּ
(bachar)という動詞は、旧約で164回、詩篇13回使われています。その多くが、神がイスラエルを、あるいは神が人を選ぶという場合に使わ れています。
◆この動詞が多く使われているのは申命記、次いでイザヤ書です。申命記では 31 回中1 回だけいのちを選ぶように求められています。つまり、30 回は神がイスラエルを選んだ とたたみかけているのです。その極めつけは7章7~8節です。「主があなたがたを恋い慕 って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。
事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があな たがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主 は力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から あなたがたを贖い出された。」です。ここには神の先行的な愛と真実に基づく「選び」が 記されています。
◆イザヤ書も20回中2回だけ、神の喜ばれることを「選ぶ」ようにと勧告し、その祝福 を約束しています。いずれもイスラエルか神の選民として自立するためには、この「神に 選ばれて、神を選ぶ」という神の恩寵に対する主体的な決断が重要です。信仰的自立とは
「愛されて愛する、選ばれて選ぶ」という主体的な決断に基づく服従の意志なのです。
◆主イエス・キリストも弟子たちに「あなたがたがわたしを選んだのではありません。
わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15章16節) と言わ れました。選びの先行的恩寵が弟子たちに明言されています。
◆ところで、詩篇でも同様です。13回中2回だけ、しかも119篇(30節と173節)に人間 側の「選び」の告白として使われています。119篇にそれが見られるという点が重要です。
バビロンの捕囚を経験した者がはじめて、自分たちが神の選びにあずかり、神の律法を賦 与されていたことに目が開かれ、それによって自らのアイデンティティを確立し、やがて 離散と迫害を余儀なくされる運命にあった彼らの存在を根底から支える基盤となったか らです。
「私は真実の道を選び取り、あなたのさばきを私の前に置いた。」(119:30)
「私はあなたの戒めを選びました。」(119:173)
◆神に選ばれて、「選ぶ」という主体的な告白の数は、神の選びの宣言に比べてあまりに もその数は少ないように思います。それゆえ、極めて重く、価値のある告白となっていま す。しかも、その「選び取り」の告白をもって詩119篇が閉じられているのです。
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詩 131 篇 「(魂を)和らげる、静める」 (カテゴリー: 信頼)
ה ָו ָשׁ
シャーワー
2節「まことに私は、自分のたましいを和らげ(
ה ָו ָשׁ
)、 静めました(ם ַמדּ
)。」Keyword; 「沈黙、平穏」 silent, still,
◆詩131篇は短い詩篇ながらも、「静まりへの希求」をテーマとしたすばらしい詩篇です。
120 篇~134 篇の「都上りの歌」のテーマは、「シャロームへの希求」です。このテーマ において、まさに詩131篇はきわめて重要な詩篇と言えます。
◆作者は自分のたましい(ネフェシュ)を「和らげ」「静め」ようとしています。「和らげ」
と訳された動詞シャーワー
ה ָו ָשׁ
(shawah)は、平らにする、平穏にする、沈黙させる、静める、still という意味で、旧約では4回、詩篇ではこの131篇のみ使われています。
後者の「静めます」と訳された動詞ダーマン
ם ַמדּ
(damam)は、穏やかにするsilent 沈黙させるquietで、前者のシャーワー
ה ָו ָשׁ
と似たような意味を持っています。同義的なことばを重ねることによって、「静まりへの希求」を一層強める表現となっています。
◆今日、キリスト教会は、この「静まりへの希求」が高まりつつあります。この霊性の必 要性を強調している一人、ヘンリー・ナウエンは“Out of Solitude” (邦訳「静まりから 生まれるもの」―大田和功一訳、あめんどう社、2004)の中で、「朝早くまだ暗いうちに、
イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(マルコ1章35節) という聖書のテキストを通して、多くの人々の問題に深くかかわっておられるイエスの働 きの中心(秘訣)に、ひとり退くこと、御父との親しい交わりに身を浸すことの重要性に注 目しています。一人になること、一人でいること、閑静な場所に身を置くこと、人から離 れることのできる場所を持つこと、それがなぜ大切なのか。それは、私たちのすること、
言うことに深みを(内実を)持たせるためです。
◆ドイツのナチに立ち向かった牧師ボンフェッファ―は「共に生きる生活」という本の中 で、沈黙についてこう述べています。「一人でいることのできない者は、交わりに入るこ とを用心しなさい。交わりの中にいない者は一人でいることを用心しなさい。・・ひとり でいる日がなければ、他者と共なる日は交わりにとっても、個人にとっても、実りのない ものとなる。」 これは沈黙の必要性を語っています。沈黙は神に聞くためのものであり、
神の道はしばしば外的活動を犠牲にしなければならない反対の方向にあります。
◆はからずも、作者は1節で「主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつ かない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。」と述べています。高慢な野 心、崇高な気負いから解かれて、意図的に平静な心を回復することが必要なのです。作者 はそれを「乳離れした子が母親の前にいる」姿にたとえています。主の前にただひたすら 静まって御声に聞き入っているマリアのライフスタイルを彷彿させます。