12節「私は、あなたのなさったすべてのことに思い巡らし、・・・」
Keyword; 「思い巡らす」 meditate, plot, think, utter a sound
1:2/2:1/35:28/37:30/38:12/63:6/71:24/77:12/115:7/143:5
◆「思い巡らす」と訳されたハーガー
הַג ָה
(hagah)は、礼拝用語としてすでに詩1篇で取 り上げています。この動詞は瞑想用語として重要な動詞です。詩1篇では「口ずさむ」と 訳されていますが、詩77篇では「思い巡らす」と訳されています。旧約全体では25回 と使用頻度は多くはありませんが、そのうちの10回が詩篇で使われています。このこと ばの特徴は、すべてを継続的に思い巡らしながら、やがて、口から語り出すまでを含んで います。たとえば、77:12、143:5でも「神のなさったすべてのことを思い巡らす」とあ り、「昼も夜も」(1:2)、「夜ふけて」(63:6)も継続的に思い巡らしています。そして、やが てそこから神の知恵を「声をたてて」(115:7)「語り」(37:30)出すようになります。◆ハーガー
הַג ָה
(hagah)は、牛が草を何度もにれはむように、反芻している光景を思い起 こさせます。熟成という言葉がありますが、ハーガーהַג ָה
(hagah)は、まさに神のことばや神がなされたことの意味を思考の中で咀嚼し、熟成させる行為と言えます。
◆旧約聖書では食物規定があり、食べてよいものとそうでないものがはっきりとしていま した。食べてよい動物としてあげられているのは、ひずめの別れた動物、そして反芻する 動物です。この二つを兼ね備えた動物は食べてよいが、それ以外のものは食べてはならな いとされています。ちなみに、食べてよいのは、牛、羊、山羊といった動物でした。
◆牛の自然な行動パターンを観察した人によれば、牛は、4~5 時間かけて草を採食し、
一日、14 時間は横になって休息していると言います。その時間には反芻している時間も 含まれています。つまり、良い乳を出すためには、横になって休息しているしっかりとっ ていることが大切なのであり、そうした時間をしっかりとっている牛こそ生産性の良い牛 だといわれています。ですから、酪農家の仕事は、牛が横になって、のんびりと反芻する ことのできる環境を提供してあげることだと言います。
◆反芻とは「一度、噛んで飲み込んでものを、再び口の中に戻して、再咀嚼することです。」
そうした再咀嚼する反芻動物の特徴は、四つの胃を持っています。第一の胃が最も大きく 全体の 80%を占めています。草を食べて第一の胃に取り込まれた草の繊維を消毒し、分 解するのは酵素ですが、この酵素は唾液の中に含まれています。唾液の中に含まれる酵素 は胃の中にいる微生物によって作られるのだそうです。唾液は噛むことで、咀嚼すること でより多く分泌します。牛が横になって、反芻する時間をしっかりとることによって、唾 液の分泌が活発になり、それが細菌を殺し、消化を良くし、それが良い乳や肉を作ってい くからです。―これらのことを思うときハーガー
הַג ָה
の重要性がより良く理解できます。94
詩 78 篇 「守る」 (カテゴリー: 従順)
ר ַצ ָנ
ナーツァル
7節「彼らが神に信頼し、神のみわざを忘れず、その仰せを守るためである。」(新改訳) Keyword; 「守る」 keep, observe, obey,
25:10/34:13/78:7/105:45/119:2, 22, 33, 34, 56, 69, 100, 115, 129, 145
◆「守る」と訳されているナーツァル
ר ַצָנ
(natsar)は、神が人を「守る」場合には、英語訳のNIVではprotectが当てられ、人が神のおきてを守る場合にはkeepが当てられてい
ます。神が人を「守る」と言う場合、防衛の保障を意味しますが、人が神との約束、ある いは神の律法を「守る」という場合には、神とのかかわりを保つことに他ならないからで す。特に、詩119篇における「守ります」という礼拝用語は、自主的・主体的なかかわり において、「愛します」と同義的意味合いをもっています。「おきてを守る」というのは、
何か窮屈で、自由のない束縛や義務感を想像します。しかし、詩119篇では「守る」とい うことが当為であるとともに、自意を表す重要な言葉となっています。つまり、「守る」
とは、神ご自身のことばである戒め(律法)に喜んでお従いすることを意味しているのです。
◆イエス・キリストが最後の晩餐の席で弟子たちに語った「新しい戒め―あなたがたは互 いに愛し合いなさいー」があります。しかも、その相互愛には「わたしがあなたがたを愛 したように」という愛が前提となっています。イエスは、「わたしの戒めを保ち、それを 守る人は、わたしを愛する人です。」、「だれでも、わたしを愛する人は、わたしのことば を守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来 て、その人とともに住みます」とも語られました(ヨハネの福音書14章21~23節)。 ここでも、「愛する」ことと「神の戒めを守る」ことが同義とされています。
◆詩78篇では、作者が「昔からのなぞ」について語ろうとしています。「なぞ」とは、不 可解、神秘、私たちの理性では納得できない事柄であり、あり得ないこと、という意味で す。その内実は、神と神によって選ばれた民との関係についてのものであり、神がなして くださった驚くべき恵みを忘れて、繰り返し神に背き、幾度も神を無視しようとしてきた にもかかわらず、神はその民に見切りをつけてしまうことなく、見捨てることもなく、歴 史を貫いて、忍耐とあわれみをもってかかわってくださったということ・・・これがこの 詩篇のいう「昔からのなぞ」です。この「なぞ」が語られる目的が7節に記されています。
それによれば、「彼らが神に信頼し、神のみわざを忘れず、その仰せを守るためである」
としています。神の「なぞ」に目が開かれるならば、おのずと守るべきことが、愛すべき ことにより近づけられるのだと信じます。これこそが神の恵みの業だと信じます。
◆ナーツァル
ר ַצָנ
(natsar)の類義語にシャーマーר ַמ ָשׁ
(shamar)があります。ちなみに、詩119篇では4, 5, 8, 9, 17, 34, 44, 55, 57, 60, 63, 67, 88, 101, 106, 134, 136, 146, 158, 167, 168で使われています。
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詩 79 篇 「とこしえまで」 (カテゴリー: 誓約)
םָלֹוע
オーラーム
13節「そうすれば、・・私たちは、とこしえまでも、あなたに感謝し・・ましょう。」 Keyword; 「とこしえまでも、とこしえに、永遠に、」 forever, ever, everlasting
5:11/30:12/52:9/61:8/75:9/79:13/86:12/89:52/119:44
◆「神は、人の心に永遠への思いを与えられた」と伝道者の書3章節にしるされています が、ここでは詩79篇13節にある「ともしえまでも」と訳された
םָלֹוע
(`olam)に注目し、ヘブル人が永遠についてどのように思惟していたかを思い巡らしてみたいと思います。
◆オーラーム
םָלֹוע
(`olam)は、旧約聖書においては439回使用されています。その中に は、神ご自身の永遠性についての言及―たとえば、「まことにとこしえからとこしえまで あなたは神です。」(詩90篇2節)、「あなたはとこしえまでも統べ治められる。」(出15章 18節)-もあれば、人に対する神のかかわりの永遠性―たとえば、「主の恵みはとこしえ からとこしえまで、主を恐れる者の上にある。」(詩103篇17節)―についての言及もあり ます。しかも、この語彙は詩篇において最も多く使われています。◆ヘブル人の時間観念、あるいは永遠についての思惟は、天文学的な時間の客観的な持続 に関する表現ではありません。あくまでも、神と人とのかかわりの中にある限界なき時間 を意味しています。オーラーム
םָלֹוע
は、「いつまでも」「生涯」(for life)とも訳され、必ずしも、永遠というわけではありません。
◆ルカの福音書 1 章に祭司ザカリヤの賛歌がありますが、その中に、「主は、われらを、
敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御 前に仕えることを許される。」(74, 75節)とあります。つまり、ここの「人の全生涯にお いて」がオーラームなのです。神とのかかわりにおいて、全生涯、終生、主に仕えること が許されている意味でのオーラームは、神の途切れることのない、変わることのない、永 遠の愛によって支えられることなしには、あり得ないことです。
◆私たちは軽々しく「とこしえに、永遠に」と言ったり、賛美したりすることがあるます が、このことばを口にするとき、いつも、神の永遠性に支えられた「とこしえまでも」で あることに心を留めたいものです。
◆礼拝の最後に歌われる三位一体なる神を讃える「頌栄」があります。頌栄には、必ずと 言っていいほど、永遠性に関する表現が伴っています。そのことに留意し、また、その永 遠のいのちのかかわりの中に私たちが招かれていることを覚えたいものです。
◆類義語としてはドール
רֹודּ
(dor)があります。詩79篇13節にםָלֹוע
の同義的対句語として
רֹד ָו רֹד ְל
(「代々限りなく」from generation to generation)が置かれています。この ことばも詩篇に多く見られます。「世々にわたって」(always) 10:6、「代々にわたって」(generations)45:17等と訳されます。⇒参照。詩61篇でも
םָלֹוע
を取り上げています。96
詩 80 篇 「そうすれば」 (カテゴリー: 誓約)
ְו
ヴェ
3, 7, 19節「そうすれば、私たちは救われます。」
18節 「そうすれば、私たちはあなたを裏切りません。」
Keyword; 「そうすれば、さすれば」 and
19:13/51:7, 8, 14, 15/106:5/119:6, 33, 117, 125
◆「そうすれば」と訳されたヴェ
ְו
は接続詞です(新共同訳では訳されていません)。英語 ではandですが、日本訳では「そうすれば」と続く神への忠誠の誓いをうまく表現するも のとなっています。◆命令形の後に来る接続詞の後には、神の祝福の約束が伴いますが、嘆願の後に来る接続 詞の後には、神の祝福の状態、あるいは神への誓約がきます。詩80篇には四回(3, 7, 18, 19 節)、「そうすれば」ということばがありますが、いずれも、後者の意味です。
◆「そうすれば」の前にある嘆願の部分を見てみましょう。3, 7, 18節はこの詩80篇のリ フレイン(反復句)となっていて、この詩篇の最も重要な部分です。
「神よ(万軍の主よ)。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、・・」
「もとに返し」という部分を他の聖書でみると、「連れ帰り」(新共同訳)、「連れ戻し」(岩 波訳)、「元通り、みそばにおらせ」(尾山訳)、「生き返らしめよ」(文語訳)、Restore us(NKJV) と訳されています。つまり、神との生きたかかわりの回復(再構築)を願っているのです。
◆「御顔を照り輝かせてください」という意味は、民数記6章にあるアロンの祝祷を思い 起こさせますが、LB訳は次のように訳しています。「私たちに向けられる御顔が、喜びと 愛で輝きますように。それこそ私たちを救うのです。」と。この場合の「救うのです」と は、「ほっとする」「心が安らぐ」という意味合いだと思います。それは、子どもが、親の 顔やまなざしをうかがうのと似ています。どんなにことばで赦されたとしても、受け入れ られたとしても、顔が怒っていたり、眼差しがきつかったりすると安心できないものです。
◆「御顔を照り輝かせてください」とは、「あなたの喜びと愛のまなざしを注いでくださ い」と言い換えることができます。このまなざしこそ私たちを安心させ、かかわりを新し くさせる原動力です。もしそのようなまなざしが注がれるならば、「私たちはあなたを裏 切りません(離れません、背を向けません)」と忠誠の誓いをすることができます。この決 意が与えられること自体が神のあわれみと言えます。
◆御父の私たちに対する「喜びと愛のまなざし」を、聖霊によって仰ぎ見ることーこれこ そが、「いのちの日の限り、主の家に住み、主の麗しさを仰ぎ見る」(詩27篇4節)ダビデ
の“One Thing”―ダビデの幕屋の精神であると信じます。