4節「私は、あなたの幕屋に、いつまでも住み」(新改訳) 「わたしをとこしえにあなたの幕屋に住まわせ」(口語訳) 「あなたの幕屋にわたしはとこしえに宿り」(新共同訳) Keyword; 「永遠に」 forever, eternity,
◆詩61篇にはダビデの「永遠の誓い」が表明されています。「いつまでも」「とこしえに」
と訳されたことばは、オーラミーム
םימָלֹוע
(םָלֹוע
の複数形)、7節の「いつまでも」はオーラーム
םָלֹוע
(`olam)の語が使われています。他にも、永遠を表わす語彙が他にも使 われています。6節の「代々」(新改訳)「よろずよに」(新改訳)「よろずよに」(口語訳)「代々 に」(新共同訳)「いつまでも」(尾山訳)と訳された定型句、レドール・ヴァドールרֹד ָו רֹד ְל
(ledor wador)、それに、8節の「とこしえ」(新改訳「永遠」) (新共同訳)と訳されたアド
ד ַע
(`ad)が、一つの詩篇の中にあります。いずれも動詞ではなく名詞です。
◆「永遠の誓い」とは結婚式だけのものではありません。ダビデが神に対する永遠の誓い をするに至ったそのプロセスとその生涯の検証が重要です。ダビデは「地の果てから」神 に呼び求め(
א ָר ָק
)ています。「地の果て」とは、単なる地理的なことだけではなく、自 分の力では到底回復することが及ばない状況を表しているかもしれません。詩130篇1節で も「主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。」とありますが、その「深い淵」も「地の果て」と同じような意味合いを持っていると考えます。自分の力では生きることも、
立つことも、ましてや輝くこともできない状況―それはまさに「心が衰え果てるとき」(新 改訳)、「心のくずれおるとき」(口語訳)、「心が挫けるとき」(新共同訳)ーの中で、ダビ デは「もしこの状況から自分を救い出してくださり、及びがたいほどの高い岩の上に導い てくださるなら、永遠の誓いをいたします。」と神に誓ったのであろうと信じます。
◆ダビデのその「永遠の誓い」の内訳は三つあります。
①神の幕屋に住むこと I will abide in your tabanacle forever.
②御翼の陰に身を避けること I will trust in the shelter of your wings.
③主を賛美すること I will always sing praises to you.
◆「住む」とは「とどまる」こと、「身を避ける」とは「信頼する」ことと同義です。
ダビデの永遠の誓いー主にとどまり、主を信頼し、主を賛美することーは、みな連動して おり、神との親しい関係を表明するものです。それらは決して強制や義務ではなく、あく までも自発的(I will)であるという点において価値があります。しかも、ダビデはそれを「い つも」「日ごとに」に実行したのでした。それゆえ(結果として)ダビデは神にあって力あ る働きをすることが出来たのです。最後に、ダビデの永遠の誓いが「どん底経験」におい てなされたことも注目すべき点です。永遠の誓いの背後に神の導きが隠されているのです。
70
詩 62 篇 「黙って待ち望む」 (カテゴリー: 待望)
ם ַמ ָדּ
ダ ー マ ム
הָיּ ִמוּדּ
ド ゥ ミ ッ ヤ ー
5節「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ」(新改訳)
「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。」(新共同訳)
Finds rest O my soul, in God alone; (The New International Version)
Keyword; 「沈黙して待つ」 silent, 4:4/30:12/31:17/35:15/37:7/62:5/131:2
◆「黙って、待ち望む」と訳されたダーマム
ם ַמ ָדּ
(damam)。原文は自分の魂に向って「沈 黙せよ」という命令形になっています。to be silent, keep quiet, be still, be motionless, ちなみに、1節でも同じように訳されていますが、そこでは動詞ではなく、名詞ドミッヤー
הָיּ ִמוּדּ
(dumiyyah)が使われています。「静まり」「沈黙」「期待」「待望」とも訳されることばで、詩篇にのみ4回―silent(22:2), still(39:2), rest(62:1), awaits(65:1※)―
使われている語彙です。※「期待して待つこと」
ちなみに、62篇1節の原文は「ただ、向かって、神に、沈黙、私の魂は」となっています。
◆沈黙するとは、単に、何も言わず黙していることだけでなく、My soul finds rest in God
alone.とあるように、信仰によって、ただ神の内にのみ「休息(安息)を見出す」という積
極的な意味合いがあります。休息(安息)を見出すことは、神への信頼のあかしと言えます。
どんな状況においても、あわてることなく、神にすべてをゆだねて、神を信頼し、神を待 ち望んでいます。なぜなら、私の救いーすべての必要、守り、助け、導きなどーは、すべ て神から来ると信じているからです。
◆私たちの現実は黙っていることなど到底できない状況がいくらでも襲ってきます。恐れ と不安、焦りと自己不信の中にある神の民に、預言者エレミヤは呼びかけました。
「主はいつくしみ深い。・・主の救いを黙って待つのは良い。人が、若い時に、くびきを 負うのは良い。それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。・・口をちり につけよ。・・主は、人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」(哀 歌 3章25~29節)と。「主がいくつしみ深い(良い方)」であることを知ることと沈黙する こと、そして希望を持つこと、それらはみな密接な関係にあります。
◆沈黙と静まりこそ、御父のみこころに従う御子イエスの内なる自由が培われた場でした。
私たちも、神に愛された者として生きるためには、活動的な働きから退く「静まりの時」
が必要です。なぜなら、その静まりの時こそ神との信頼の絆が深められる時だからです。
換言するならば、静まりは臨在を回復する営みと言えます。神が私に語りかけておられる という感覚が研ぎ澄まされ、敏感になりながらも、たましいは、神にゆだねる心で休息し ている。「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む」―その模範はイエス・キリストで す。沈黙と静まりを通して、私たち自身が神に向けられるようになります。そして、開か れた神のことばの理解がより深められる経験をするのです。
71
詩 63 篇(1) 「切に求める」 (カテゴリー: 渇望)
ר ַח ָשׁ
シャーハル
1節「神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。」(新改訳)
Keyword; 「切に求める」 earnestly seek, search for, long for, look for, seek
◆詩63篇は礼拝用語の宝庫です。全11節に16(17)個の礼拝用語を見つけることができます。
① 1節「切に求めます」
ר ַח ָשׁ
(shachar) 63:1/78:34② 1節「渇きます」
א ֵמ ָצ
(tsama’ ) 42:2/63:1③ 1節「慕います」
הּ ַמָכּ
(kamah) 63:1 (この箇所のみ)④ 2節「見ています」
האָ ָר
(ra’ah) 34:8⑤ 2節「仰ぎ見ます」
ה ָז ָח
(chazah) 11:7/17:15/27:4⑥ 3節「賛美します」
ח ַב ָשׁ
(shabach) 63:3/106/47/145:4/147:12⑦ 4節「ほめたたえます」
ךּ ַר ָבּ
(barak) 5:12/10:3/16:7/26:12/28:6, 9/31:21⑧ 4節「(手を)上げて(祈ります)」
א ָשָׂנ
(nasa’) 28:2//134:2⑨ 5節「満ち足ります」
ע ַב ָשׂ
(sava`) 17:14/22:26/37:9/59:15/65:4/78:29⑩ 5節「賛美します」
לַל ָה
(halal) 22:22, 23, 26/35:18/56:4, 10/69:30, 34⑪ 6節「思い出します」
ר ַכ ָז
(zakhar) 9:12/20:3/22:27/25:6, 7/42:4, 6/77:3,6,11⑫ 6節「思います」
הָג ָה
(hagah) 1:2/77:12/143:5⑬ 7節「喜び歌います」
ןַנ ָר
(ranan)5:11/20:5/32:11/33:1/35:27/51:14/59:16⑭ 8節「すがります」
ק ַב ָדּ
(davaq) (神との直接的なかかわりとしてはここのみ)⑮11節「喜びます」
ח ַמ ָשׂ
(samach)5:11/9:2/14:7/16:9/21:1/31:7/32:11/⑯11節「誓います」
ע ַב ָשׁ
(shava`) 15:4/119:106/132:2―ע ַב ָשׂ(saba`)との違い⑰11節「誇ります」
לַל ָה
(halal) 64:10/97:7/105:3/106:5/◆これらの多くはすでに詩篇第一巻(1~41篇)で取り上げたものばかりです。そこになか った新しい礼拝用語は三つです。まずは「切に求めます」と訳されたシャーハル
ר ַח ָשׁ
(shachar)、次に「慕います」のカーマーה ַמָכּ
ּ (kamah)、そして「すがります」のダーヴァク
ק ַב ָדּ
(davaq)です。今回は「切に求めます」と訳されたシャーハルר ַח ָשׁ
(shachar)にのみ注目したいと思います。
◆シャーハル
ר ַח ָשׁ
(shachar)は「真面目に、熱心に、本気で神を求める(捜し求める)こと」を意味します。旧約聖書では13回使われていますが、そのうち、2回が詩篇にあります。
詩63篇1節と、そしてもう一回は詩78篇34節です。箴言8章17節には「わたしを愛する者 を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す(
ר ַח ָשׁ
)者は、わたしを見つける。」とありま す。心を尽くし、精神を尽くして、切に主を求めること、それは命がけでもあります。神 も失われた羊を捜し出して、これの世話をされる方です(エゼキエル34:11)。それはまさ に神の命がけのサーチでした。そのサーチによって私たちは神に見出されたのです。72
詩 63 篇(2) 「すがる」 (カテゴリー: 信頼)
ק ַב ָדּ
ダーヴァク
8節 「私のたましいは、あなたにすがり、あなたの右の手は、私をささえてくださいます。」
Keyword; 「すがる、すがりつく」 cling, hold fast,
22:15/44:25/63:8/101:3/102:5/119:25, 31/137:6
◆「すがる」「すがりつく」と訳されているダーヴァク
ק ַב ָדּ
(davaq)という動詞は、普通、あまり良い意味で使われません。というのも、「くっついて離れない、執着する、固執す る」というイメージがあるからかもしれません。しかし、神に「すがる」ということは神 を喜ばせます。なぜなら、どんな状況に陥っても神を決して離すまいとする心、あるいは、
決して望みを捨てないという心だからです。LB訳では「すがる」ことを「神様のふとこ ろに飛び込む」と意訳しています。なかなか味わい深い表現です。
◆神にすがる者、すがりつく者は、新約的に言うならば「貧しい者」のことです。イエス は「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたの者です。」(ルカ6章20節)と約束されま した。主の弟子とは「貧しい者」のことであり、「小さき者」「弱き者」と同義なのです。
つまり、神なしには生きられないことを知っている者たちであり、神の愛と支えと導きな しには輝く望みなどないと知っている者たちなのです。
◆旧約聖書の中に「すがりつく」恵みを体験したひとりの女性がいます。その女性の名は ダビデの曾祖母ルツです。ルツは異邦人(モアブ人)でしたが、姑ナオミにすがりつきまし た(ルツ記1章14節参照)。ルツは姑のナオミにすがりつくことで、ナオミの信じている神 にすがりついたのです。神は、このルツをしっかりと支えられました。そして、はからず も、ボアズと出会い、結婚し、ダビデにつながる子孫をもたらしました。そしてやがては その子孫からメシアが生まれるという神のご計画に預かったのでした。
◆ダビデも荒野経験において神にすがりついています。ダビデの系譜はまさに「神にすが りつく系譜」と言えます。ダビデにとって、荒野での予期せぬ出来事は、神への思いを募 らせ、そのかかわりを深める契機ともなりましたが、その強烈さに圧倒されます。ここに、
ダビデがいかに模範的な礼拝者であったかを伺わせます。
◆ダビデは、8節で「私のたましいは、あなたにすがり」ということばで、その前にある すべての<礼拝用語>を統括し、それに対して「あなたの右の手は、私をささえてくださ います。」というたったひとつの<恩寵用語>によってその祝福の確信を要約しています。
「あなたの右の手は、私をささえてくださる」を、尾山訳では「あなたは私をしっかり抱 きしめてくださいます」と訳しています。まさにこの「抱っこ法」は神の養育方法です。
◆このように、神とのかかわりにおいてダーヴァク
ק ַב ָדּ
(davaq)が用いられているのは、詩篇ではここ詩63篇8節のみです。とても価値のある、重要な動詞と言えます。
73
詩 64 篇 「悟る」 (カテゴリー: 信頼)
ל ַכ ָשׂ
サーハル
9 節「こうして、すべての人は恐れ、神の・・なさったことを悟ります。」(新改訳)
「人は皆、恐れて、神の・・御業に目覚めるでしょう。」(新共同訳)
「その時すべての人は恐れ、神の・・なされた事を考えるでしょう。」(口語訳) Keyword; 「熟考する、思案する」 ponder, meditate, understand, careful 2:10/14:2/32:8/36:3/41:1/53:2/94:8/101:2 / etc.
◆この詩64篇のテーマは、神を恐れず、神に敵対する者がたどる「自滅の原則」です。
詩64篇だけでなく、詩7篇14~16節、詩27篇2節、詩63篇9~10節にも同じ原則が述べら れています。だれも見破られないように、どんなに周到で陰険な計画がなされていたとし ても、高慢な者の悪事はやがていつしかしっぽを掴まれて、その悪が明るみに出されてし まいます。それゆえ、今日においても巷をにぎわす悪事のニュースのネタは事欠かないほ どです。
◆「悟ります」と訳されたサーハル
ל ַכ ָשׂ
(sakhal)は、この詩篇のコンテキストでは悪や悪 事は必ず自滅するという原則があることを、恐れをもって「悟る」ことを意味します。NIV訳では ponder what he has done.と訳されており、神がなされることをあらゆる角度 からじっくりと考えて、悟るようにとの意味です。
◆サーハル
ל ַכ ָשׂ
(sakhal)は、ひとつの問題(事柄)を「熟考する」こと、「沈思黙考する」こと、「心に留める」こと、「(一考に値することに)気づかされる」ことを意味する動詞 です。知性的な面だけでなく、直観的な面も含めての「悟り、思慮深さ」と言えます。そ れゆえに、この
לַכ ָשׂ
(sakhal)は詩篇だけでなく、知恵文学の箴言にも多く使われています。◆主イエス・キリストは「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、
聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。」(マタイの福音書13章14節) と述べて、「四つの地に落ちた種のたとえ話」をされました。そして、種が良い地に蒔か れるとは「みことばを聞いて、それを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あ るものは三十倍倍、あるものは六十倍、あるものは百倍の実を結びます。」と約束されま した。そして「耳のある者は聞きなさい」と呼びかけました。「聞いて、悟る」というこ との大切さは、今にはじまったことではなく、昔からある神の呼びかけなのです。
◆10節に「正しい者は主にあって喜び
ח ַמ ָשׂ
(samach)、主に身を避けますה ָס ָח
(chasah)。心の直ぐな人はみな、誇る
לַל ָה
(halal)ことができましょう。」とありますが、ここにあ るサーマフח ַמ ָשׂ
, ハーサーה ָס ָח
, ハーラルלַל ָה
の三つの動詞は、9節の「主のなさったことを悟るサーハル