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プラナカン共同体の再興

ドキュメント内 ̶プラナカン・メスティーソ・琉球華僑̶  (ページ 55-59)

第2章 「偉大なるプラナカン」という新時代へ

第2節 プラナカン文化のリバイバル

1. プラナカン共同体の再興

シンガポールが海峡植民地ではなくなると、SCBAはシンガポール・プラナカン協会へ 改称した。SCBAに含まれる海峡華人(Straits Chinese)という語が、海峡植民地ではな くなって以降はメリットのないものとなったどころか、前時代的な印象を与えるというこ とによるとしても、ここでババ・ニョニャではなくプラナカンという語が選択されたこと は、のちの展開を考えてみても政治的である。

プラナカンはシンガポールにおいて「政治的に死んだ135」状態となり、SCBAから改称 したシンガポール・プラナカン協会の活動も表立ったものはなかった。しかし1980年代 後半になると、シンガポールと、マレーシアのマラッカ、ペナンの3地域のプラナカン協 会が再び密接にかかわるようになり、ともに文化的な活動(具体的にどのような活動か述 べる。ババ・コンベンションなど)に積極的に取り組むようになっていく。

そのきっかけとなったのが、1988年にペナンで初めて開催された「ババ・コンベンショ

ン(The Baba Convention)136」である。これはシンガポールとマラッカ、ペナンのプラ

ナカン協会の会員が一堂に会するというイベントで、初回が大盛況だったことから137会場 を3地域持ち回りで毎年行われている。さらに、ババ・コンベンションの開催に合わせて 1991年からは運営委員会発行のニュースレター「スアラ・ババ(Suara Baba)」138が年1 回発行されるようになった。創刊号での記事で編集長は、毎年盛大に開催されるようにな ったババ・コンベンションについて「ニョニャ料理を囲みながら集うだけではなく、これ からは共同体を維持し、未来を描くためにともに考え、議論する場にしていきたい」139と 述べている。また編集長は同記事において、ババ・ニョニャはこれまで過去の栄光にしが

135 Lee Kip Lee, “Going Strong : A Rejuvenated Association Looks Forward to the New Millennium”, The Peranakan (October - December 1999), 2.

136「ババ・ニョニャ・コンベンション(The Baba Nyonya Convention)」と称すること もある。なお、タイ・プーケットにおける近年のプラナカン概念の盛り上がりについては 片岡樹(2014)を参照。片岡樹 2014「想像の海峡植民地――現代タイ国のババ文化にみる 同化と差異化」『年報 タイ研究』No.14。

137 Dato’ Khor Cheang Kee, “Where Do We Go From Here?”, Suara Baba (August 1991), 2.

138 マラッカ、ペナン、シンガポールのプラナカン協会、グヌン・サヤン協会(Gunong

Sayang Association:歌や舞踊、演劇を用いてプラナカン文化を広める活動をおこなう。

1910年設立)の4組織が中心となって発行。”For internal circulation only”と記載されて いる。スアラ(Suara)とはババ・マレー語で「声」の意。

139 Dato’ Khor Cheang Kee, “Where Do We Go from Here?”, Suara Baba (August 1991), 1. 引用者訳。

みつきがちであり、将来のことを考えず、政治にも積極的に参加せず、いわば国家の成長 や発展においては眠れるパートナーであった140と述べたうえで、読者である各協会の会員 へ呼びかけるようにして次のように語っている。

私たちはここからどこへ行くのか、どの方向へ大きく一歩踏み出すべきか、問いか ける時がおそらくきたのだ。共同体として発展していくためには、まず、他の共同 体へインパクトを与えなければならないということは疑いの余地がないことである。

141

そしてこの「スアラ・ババ」の創刊は、このような状況を打破しようと呼びかける初め ての試みであると述べている。また同誌創刊号では、前年の1990年にマラッカで開催さ れたババ・コンベンションにてマラヤ大学のタン・チーベン(Tan Chee Beng: 陳志明、

肩書きは当時)が行った発表を紹介する記事「ババは共同体として生き残れるか?(Will

the Baba Survive as a Community?)」や、他のスピーカーによる発表をまとめて紹介す

る記事「不朽のババ文化(Immortalising the Baba Culture)」など、文化やアイデンティ ティについて議論した記事が掲載されている。これらの議論については後述するが、1988 年にババ・コンベンションが初めて開催されたのを機に、シンガポール、マラッカ、ペナ ンのプラナカンたちが、プラナカン(あるいはババ・ニョニャ)というひとつの共同体意 識を持っていることを再確認し、「スアラ・ババ」というニュースレターを発行することで アイデンティティや文化、共同体について議論する場をつくり出したといえる。また、ニ ュースレターの創刊に至った時期というのは、プラナカンにとって自らのアイデンティテ ィやプラナカンという共同体的なものの存亡について考えさせられるような状況にあり、

そういったことをじっくり議論できる時期にきていたといえるのかもしれない。そして、

それらはシンガポールやマレーシアといった国家によって閉じられた世界の中だけで議論 するものではなく、国境を越えて取り組むべきものとしてプラナカン共同体がとらえられ ていることに着目しておきたい。

2. 消失する文化への危機感

140 Ibid. 引用者訳。

141 Ibid. 引用者訳。

次に、シンガポール・プラナカン協会が活動を活発化していくようになるまでの経緯を みていこう。シンガポール・プラナカン協会は1992年、SCBA時代からの会長・副会長 が変わり、リーダー層が大きく入れ替わった。副会長に選出されたデビッド・オンは新聞 のインタビューにおいて、新リーダー層はプラナカン文化の保存や推進に積極的に取り組 み、もっと外向きのアプローチをとっていくと語っている142。これまで、同協会の活動と いえば月例のランチ・ミーティングや年1回のダンスパーティーを開催することぐらいで あった。1988年にババ・コンベンションが開催されるようになってからは、その参加やあ るいは開催地となった場合にホストを務めることも加わっている143。また同記事において 彼は、このまま何もしなければプラナカン文化はあと1~2世代で消えてしまうであろう と述べている144

このように、プラナカン文化が消滅しかかっているという危機感が協会内部から発信さ れるようになったこと、その要因のひとつに他の華人系との婚姻が進んだことが挙げられ ていること、先述したように「共同体として発展していくためには、まず他の共同体へイ ンパクトを与えなければならない」と呼びかけるように語られたことは、1990年代に入っ て顕著になったことである。タンは上記の記事において、「ババは華人社会にもマレー社会 にも入ることができるが、人種共同体的ではないアプローチをとることができる」145と語 り、ババは華人系とマレー系の間の架け橋であるという言説を例に出しながら、ネイショ ン・ビルディングにおいて人種共同体的なアプローチをとるマレーシア社会で、ババとい う共同体が果たすことのできる役割について述べている。また、1991年にペナンで開催さ れた第4回ババ・コンベンションでマレーシアのガファール副首相(当時、Abdul Ghafar Baba)は、ババ・ニョニャ共同体はマレー系と華人系の文化をつなぐ役割を再開すべきだ と提案している146。さらにガファールは「マラッカ、ペナン、シンガポールの華人が長年 にわたってローカル文化を受け入れ、自らを同化することができたということは、(この地

142 Lim Teng Joon, “New Peranakan Leaders Spell Out Plans”, The Straits Times, 28 June 1992, 20.

143 Ibid.

144 Rudolph 1998 op.cit., 253-255. プラナカン文化が消滅しかかっているという言説のひ とつの要因として、ババ共同体以外の華人系との婚姻が挙げられている。とくに日本軍占 領時代以降インターマリッジが著しく増加したといわれる。

145 Tan Chee Beng, “Will the Baba Survive as a Community?”, Suara Baba (August 1991), 6. 引用者訳。

146 “Babas Urged to Resume Role of Cultural Bridge”, The Straits Times, 7 December 1991, 18. 引用者訳。

域における)緊張関係を和らげてきた」と述べ、「センシティブで情勢が不安定な複合社会 において、ババ・ニョニャ文化は間接的に衝撃を和らげてきた」と語っている147

これらの語りからは、シンガポールとマレーシアにおいてプラナカン(ババ・ニョニャ)

は華人社会とマレー社会という両者を媒介することができる存在として位置づけられてお り、当時、特にマレーシアにおいて懸念されていた「人種共同体的な」緊張関係を和らげ る役割に対する期待が高まっていたことがうかがえる。そしてプラナカン文化こそが、そ の緩衝剤的な役割を象徴しているといえるのではないだろうか。

3. 文化と伝統に託すもの

プラナカン文化が果たすべき役割への期待が高まっていく中、シンガポール・プラナカ ン協会は1995年、次のようなミッションを掲げる。

プラナカン文化と伝統の保存と復興を、文化的で社会的な、そして文芸的な活動を 通して行っていくこと148

ミッションにプラナカン文化と伝統の保存と復興を掲げた背景には、その消滅への危機 感のほか、ババ・コンベンションが定着化して幅広い議論がなされるようになり、その重 要性が再認識されるようになったこと、さらには協会の存続にかけて会員数を増やしたい、

特に若い世代を取り込んでいきたいという協会幹部の思いがあったのではないか。ミッシ ョンが掲載された号に先立ち、1995年9月のニュースレター149で当時副会長だったリー・

キップ・リー(Lee Kip Lee)は、その年の7月に開催したディナートークイベントへの 参加者がかつてないほど多かったことや、新会員数の着実な伸び、ニュースレターへの投 稿数の増加などから、協会への関心が高まっていると語り、今後は会員数増加の速度を上 げ、活動にかかわってもらうようにするためには若い世代の参加が必要であると述べてい る150。「ザ・プラナカン」はやがて1996年に会長となったリーのもと、シンガポール・

147 Ibid. 引用者訳。

148 “Mission Statement”, The Peranakan (December 1995), 12. 引用者訳。

149 シンガポール・プラナカン協会のニュースレター「ザ・プラナカン(The Peranakan)」 は1994年に創刊。年4回発行。

150 Lee Kip Lee, “Portents of an Awakening”, The Peranakan Association Newsletter (September 1995), 1.

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