第4章 パインと水牛の歴史を抱え込むということ
第2節 方法としてのチャイニーズ性
抱え込んだ者であるのだ。フィリピンはスペイン、アメリカ、日本など、外国に占領され た長い歴史があることからも、外来性はローカル性と比べると上位の階層にあったことと 深く関係していると考えられる。
フィリピンにおける華人系メスティーソ、そして世界中に存在するOFWsからチャイニ ーズ性とともにフィリピノ性も遂行的に形成されていることを第3章で論じたが、第4章 では外来系住民から社会が構成される沖縄・八重山での琉球華僑が集合的主体を形成する 局面について論じた。八重山は歴史的に、沖縄各地からの開拓移民、日本本土からの商人、
台湾からの農業移民など、外来系住民が仕事を求め(あるいは開拓目的で)、集まり、社会 を構成している場所である。そこでの琉球華僑は、植民地期の台湾からパイン産業を導入 し、戦後米軍占領下の沖縄で基幹産業にまで成長させた大いなる貢献者という語りが近年 なされるようになった。八重山の琉球華僑が沖縄本島の琉球華僑とは異なる集合的主体を 形成する背景には、パインブームの記憶と、八重山における農業労働者であることへの思 いがあるが、それは琉球華僑だけではなく同時代的に経験していた開拓移民や八重山の人 びとにも共有されていたのであった。顕頌碑の建立は「台湾農業者」を讃えるものであり、
顕頌碑とともに据えられているのは水牛の像である。八重山の華僑は、沖縄本島の華僑が 打ち出す「世界の華僑」とは自分たちは異なる、と強い差異を感じ取っている。逆にいう と、沖縄本島の華僑が中国化し「世界の華僑」ネットワークでビジネス上のメリットを享 受する面がそれだけ強く看取されているといえる。
ここまで、本稿で明らかにしてきたことをまとめて論じた。では、序論に立ち返って、
本稿で問いにたてたチャイニーズ性とは遂行的なものではないか、ということについてみ ていきたい。
スニシティで分類された、国家のなかのエスニック・グループや国家の外に広がるディア スポラという、統治権力の側から定義づけられ分類されるものなのではなく、その権力に 抗うなかで、あるいはそこで比較がなされることによって出会う他者との関係性、その相 互作用において、遂行的に生み出される集合的主体性であった。繰り返すが、「他者」と「わ れわれ」とはあらかじめ存在しているのではなく、比較がなされるという行為によってた ちあがる存在なのである。それはプラナカンあるいはメスティーソという概念にまつわる 複数の語彙が使い分けられ、あるいはズレをも含みながら用いられてきたことからも明ら かであった。本稿で取り上げたプラナカン、メスティーソ、琉球華僑の3者は、シンガポ ールとフィリピン、沖縄・八重山、という国民国家や地域の内と外のどちらかに属する者、
と単純に分類することが難しく、いずれも外来系住民として外来性を抱え含みつつ、ある 場所で生きることを選択し続けているといえるような人びとである。それはもちろん、ト ランスナショナルな華人やコスモポリタン、あるいは不法滞在者というように、国家とい う枠組みでの分類を前提とした、そこから越境した者あるいははみ出している者というわ けでもないのだ。
本論部分で具体的に明らかにしてきたことについては前節で述べたので繰り返さないが、
比較がなされることによって遂行的にチャイニーズ性が形成される、再定義され続けると いうことについて、あらためて考えてみたい。比較がなされることというのは、序章で述 べたように、比較の対象に想定された共約可能性そのものに問いをたてることである。本 稿に即して述べると、プラナカン、メスティーソ、琉球華僑の3者を取り上げたのも、比 較の土台を問い直すことの試みのひとつでもある。
こうした外来系住民は、これまでは国民国家という枠組みのなかで、マジョリティとの 対比によって国家のなかのマイノリティとして位置づけられてきた。マイノリティゆえに 国民国家の歴史を語ることのできる当事者とみなされることはなく、マイノリティからみ た国家の歴史、というように、いつでも国民国家のなかで周縁に位置づけられ、そこでは 主体的に歴史や文化を語っていくことはなされていなかったといえよう。それは換言する と、国家においては内か外か、というすぐさま分類が可能となる土台で、換言するとマジ ョリティが主体となり比較対象が決められる土台において、比較がなされたことによる。
本稿では、プラナカン、メスティーソ、琉球華僑という、国民国家も共通していない3 者、あえていうなればそれぞれの「ルーツ」とみなされる場所自体も国民国家とみなされ てはいないような人びとを取り上げた。そのうえで明らかになったことは、比較がなされ
る対象が変わるたびにそれぞれのあらわれは変化していることであった。たとえば、シン ガポールが海峡植民地であった時期には新移民と同一視されることで受ける暴力を感知し 英国臣民という主体を打ち出したプラナカンは、独立後のシンガポールでは文化や商品と なってのあらわれが顕著になった。それは、国家のアレゴリーに回収しようとするシンガ ポールの社会状況で、プラナカンがその力をひるがえす場を確保しているということのあ らわれといえるのだ。
そして、それはまさに、チャイニーズ性とは遂行的なものであるということに接続して いるのである。本稿で取り上げたシンガポール、フィリピン、沖縄のなかの八重山は、い ずれも帝国あるいは大国の歴史に翻弄され続けてきた場所であり、そこでは帝国および国 家や資本によって主体は区分され、あるいは差異化されてきた。本稿で中国やアメリカ、
日本といった大国を議論の中心に取り上げるのではなく309、大国間の利害に巻き込まれ続 けてきたいわば境界のような場所を取り上げたのは、大国的あるいは帝国的なまなざしで センサスのように人びとを分類してしまうのではなく、境界のような場所で外来系住民と して生きる人びとが歴史や文化を語る主体としてどのように自らをたてていくのかを描い ていくことで、歴史や文化を語るあらたな視点を提示できるのではないかと考えたためで ある。それは鶴見(1983, 1999)が島嶼東南アジアについて次のように語っていることと も関連している。
ここにネーションというまとまりの意識が成熟しなかったのには、それなりの理由 がある。それはこの土地の生産様式と文化が、移動可能な分散的なものだったからで ある。インドネシアからフィリピンまで、村むらには、かなり共通の生産様式がある のに、まさにこの移動性、分散性という性格のゆえに、全体のまとまり具合ははなは だ悪かった。東南アジアの民衆も、自立を重んじるけれども、その自立は、中国の漢 人の場合と違って、移動、分散を許す考え方である。
こうした移動的、分散的な文化こそ、マングローブの沼地から生れたものだった。310
309 ベネディクト・アンダーソン 2009「比較の枠組み」ベネディクト・アンダーソン(山 本信人訳)2009『ヤシガラ椀の外へ』180-181頁。
310 鶴見良行1999「ミンダナオへの旅」花崎皐平編集/解説『鶴見良行著作集7 マングロ ーブ』みすず書房、4-5頁(初出は鶴見良行1983「ミンダナオへの旅」『朝日ジャーナル』
1983年7月1日号)。
本稿で取り上げた外来系住民は、いわば複数の境界が刻み込まれた主体としてあらわれ てきたといえよう。もちろん、国家など権力側によって定義づけられるだけではなく、プ ラナカン、メスティーソ、琉球華僑は、それぞれある集合体を形成しながら、主体性をた ちあげようとし続けているのだ。それぞれはチャイニーズと、あるいは地元の人びとと比 較がなされることで集合体を遂行的に生み出し、自ら歴史や文化を語りはじめようとし続 けてきたのである。それは竹村(1997, 2012)が語る、「責任あるエイジェンシーという 概念は、何か一つの立場を代弁するということではない。数多くの環境が歴史的現実とし て交差する 地ポジショナリティー点 から語るということなのだ311」ということのように、プラナカンやメ スティーソ、琉球華僑はそれぞれ一丸となった集合的主体を形成し歴史を語るということ ではなく、また「国境を越えて労働力やマネーや情報を動かす多国籍企業の理論的補完物
312」になりきってしまうのでももちろんない。
「境界とはひとつの場であり、そこでは従来の時間と空間が融解し始め、新たな共同性を 遂行的に見出していくプロジェクトが登場する。313」冨山(2013)が述べるように、境界 においてプラナカン、メスティーソ、琉球華僑はそれぞれ集合的主体を形成していくが、
それらが遂行的にたちあがっていくのと同時に、チャイニーズ性という概念も遂行的に形 成され続けていくのである。またそれは複数の境界によって無数の主体があらわれる世界 を提示する『方法としての境界』のように314、チャイニーズ性によって集合的主体がたち あげられることでもあるのだ。もちろん、ひとつだけではなく複数の境界が空間的、時間 的に刻み込まれているように、チャイニーズ性も均質的なものなどではけっしてないので ある。
しかしその場所は、新たな共同体に帰着するのではなく、その手前に留まり続ける。
311 竹村和子 2012「責任あるエイジェンシー――ポストモダニズム、ポストコロニアリズ
ム、フェミニズム」竹村和子(河野貴代美、新田啓子編)2012『彼女は何を視ているのか
――映像表象と欲望の深層』178頁(初出は竹村和子1997「責任あるエイジェンシー――
ポストモダニズム、ポストコロニアリズム、フェミニズム」山形和美編『差異と同一化――
ポストコロニアル文学論』研究社、65-81頁)。
312 竹村 2012前掲論文、175頁。
313 冨山一郎 2013「流民の故郷」冨山一郎 2013『流着の思想――「沖縄問題」の系譜学』
インパクト出版会、81頁。
314 西川和樹・安里陽子・桐山節子・小路万紀子・高橋侑里 2015「境界から思考する――
『方法としての境界、あるいは労働の多数化』が問いかけるもの」『同志社グローバル・ス タディーズ』5:139.