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総合病院浦河赤十字病院長 嘉 戸 達 也

輸精管切断術にしても、そうである。両側で、

1,300円だ。 これも万一妊娠したら、手術の失敗 だといって患家はかんかんとなって頭に湯気をた てるだろう。これも1.300円なら、現在の物価で はハイボール2杯程度の料金にすぎぬ。

虫垂炎の手術は8,600円でこれが夜間であると 10,320円となる。

ところが、これを医師1人1時間、看護婦3人 2時間とするか。この時間外手当は大よそ3,200 円である。さすれば10,320円から 8,600円を引け ば、 1,720円(夜間割増料〉で、これに3,200円の 時間外手当を出すということは算術が合わぬ。つ まり夜間に手術をすれば、する程損となる。 しか も今どき、夜中に生命にかかわる手術をして1万 円とは何ごとか。

いつも飲むことを例にひいて恐縮だが、パーに 行って、ビールの3、4本も飲めばこの{立はとら れる。

この話をうちの外科の先生に話したら、

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聞を ズボンの上から切った患者が来たので、縫ったが、

脚の手術料よりズボンの修理代の方が高かった」

といって笑っていた。

現今のように、我々にいささかの落度でもあれ ば、すぐ訴えられ、 しかも、ひとたび裁判となれ ば、殆んどが敗訴に終る時勢では、 ( 6 : 1で敗 訴になるそうだ〉、技術という概念をもう一度再 認識しなければならぬ。

今後は補償料というか危険料というか、こうい うものが、技術料に加味される度合いが当然、強ま ろう。

往年の、医は仁術といった時代を偲ぶと、まさ に隔l!tの感がある。

44  fJ 4:IJ占院協会雑誌Vo1.17,No. l1970 

しんしゅんずいそう

勤 務 医 の 魅 力

勤務医の魅力は何であろうか。もとより人それ ぞれ考え方は違うであろうし、明治生れの在、と昭 和生れの若い人々とが同じ考えであろうとは思え ないけれども、管理に当る者としては若い勤務医 が何を求め、何に魅力を感ずるかを知っておく必 要があろう。それには先ず卒業後大学病院の医局 生活を送り勤務医になってから開業の誘いにも乗 り切れず、今日まで勤務医を続けてきた自分を振 り返ってみる必要があろう。私は臨床家として一 生を過すには勤務医が好都合だと漠然と考えてい たように思う。それなら大学病院の方がかえって よいのではないかとも考えられるが、大学ではlb くなると診療の範囲が段々狭まれてくる、給料が 安い、教授・助教民になるのは少数で尖力と運とが 伴う。運を離れ最も実力を発揮できるのが病院の ように思えた。しかしそれには患者が相当多数集 まる病院であること、食べていける給料をもらえ ること、研究施設をもっていること、勉強の時間 的余猶のあること(医局員が相当数いて日夜診療 のみに没頭しなくてもすむ〉などが要求される。

私が現在の病院を選んだのはこうしたことを念頭 においてである。もちろんこれらの希望を全て満 たして呉れたとは思わないが、まあまあ辛抱でき る程度だったのでこの病院に勤務するようになっ た。それに開業医の煩しさというか、少くとも一 日中精神的重圧を感じ、学会出席すら思うように 委せず、勉強する機会と意慾を減弱させ、収入に 重点をおいた診療に陥り易く、何だか医学から取 り伐されていくような錯覚にすら捕われていたよ うに思う。

大阪赤十.'f:病院長 小 山 三 郎

しかし近頃の若い医師諸兄には私の若い頃の感 覚とは違ったものがあるのではないかと考えて、

若い勤務医に聞いてみた。ところが私の想像とは 逆に今の若い勤務医の考えも私が若い頃懐いてい たのと全く同じであるのに一驚した。

彼等は臨床家として真に患者のため良心に恥じ ない経済を無視した自由な診療がしたいので敢え て勤務医を志望したと言う。すなわち彼等が抱く 勤務医の魅力は金儲けを度外視した良心的医療が 行ない得られ、勉強の時間と設備を備え、研究対 象の多い病院に魅力を覚えるということになる。

更に彼等は言葉を続ける。

それにしても、卒業間もない頃は病院の給料で 生活し得るが、家族が殖えると段々生活が苦しく なる、これは現代の医療行政の歪み、低医療費に 基因する。これからの医療の中心は病院にあるべ きと考えられ、医療の中心は医師にあるとすれば 勤務医の待遇を開業医並とは言わないまでも相当 大巾に改善すべきである、このまま推移すれば病 院は人的・物的に衰微の一途を辿らざるを得ない であろう、これが国の医療行政として当を得たも のだろうかと言う。

私もこの考ヌに同調する。技術尊重を叫びなが ら技術を軽視した現在の医療行政の矛盾と失望を 覚える。低医療費政策は病院の経営を圧迫し、医 師を中心とした医療従業者の待遇を劣悪にしてい ることは否めない、われわれ管理者はこれを打破 し、勤務医が良心的診療を安んじて続け得られる 状態に改善するよう、努力を続ける責務がある。

それが病院発展の基礎ではなかろうか。

H本!ぽ院協会雑誌Vo1.17No.1. 1970  45 

しんしゅんずいそう

病 院 と 社 会

今は未来論が華やかであるが、これには平和が 維持され、経済成長がつづくことが前提となって いることはいうまでもない。これまで病院は社会 との関連においては社会保障や社会福祉の面から のみ考えられてきたきらいがある。 しかしもっと 広く考えてもよいのではないか。

平和ということは、国家間又は圏内の政治が大 きく関係するが、病院は、疾病によってそのまま では社会へ適応できず脱落を余儀なくされるであ ろう人々を救って社会不安を除去する働きがある と忠弘このことは地域社会の中でみると具体的 である。特に自治体立病院は、行政サービスの一 環としての医療サービスを行なっているわけであ る。また国際協力のーっとして開発途上国へ医療 援助チームを送り、純粋な peopleto  people の 協力を行なうこともできる。

他方経済の角度からは国民の健康を守って再生 産にあずかることはいうまでもなく、特に今後老 令化する人口構成の中で、潜在疾患をもっている といってよい老人の活動能力を維持することは、

国民経済上マイナスをプラスとすることで大きい 効果があると思う。また病院こそいわゆる「知識 産業」といってよいと思うが、その成長性は疑い

*  * 

伊勢崎病院長 岡 村 輝 彦

なく、関連業種への経済的影響も大きい。

景気の後退に際して道路其他の公共投資がすぐ 考えられるが、病院への投資も同じように考えて

よいのではないか。

そこでこれだけの影響力をもっ病院は、統合さ れた力を以て社会に対するべきであろう。といっ ても公立病院は公的な組織の下にあるのであるか らその立場を忘れてはならないが、政治や経済に 対して必然的にもっている関係を、今までは表面 化するのをさけていた傾向はなかろうか。むしろ これだけ大きい将来性をもっ「病院」は、社会か らの援助にたよるという受動的な姿勢よりも、社 会に対し能動的に働きかけるべき立場になったと

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う。

今後の方向として公的資金による強力な投資を うけ優秀な人材を集め高度な医療サービスを行な って国民の要望に答えるとともに、政治や経済と のかかわり合いにおいても積極的な役割をするべ

きものと思う。

1970年代は変革の時代といわれるが、私は「大 学Jと「病院」が特に大きく変るとともに、大き い立場を持つように思う。現在みられる混乱はむ

しろ明日の変革の胎動というべきであろう。

46  日本病院協会雑誌Vo1.17.No.1. 1970 

しんしゅんずいそう

横 瀬 浦 に て

先日所用のため長崎に赴いた私は、かねての念 願を果すべく、横瀬浦を訪れることとした。

横瀬浦と言っても多くの人々には全く無関心な 土地であり、 しかも東彼杵半島の突端の佐世保湾 に面した小さな漁港である。車を走らせながら道 を聞いてもほとんど知らない人許り。とうとう西 海大橋までたどりつき、お巡りさんにたずねても 要領を得ない。ょうやくのことで10数キロのデコ ボコの山路をほこりをかぶりながら横瀬浦へ着い た。なるほど、山又山の中の寒村で、海は奇麗だ が漁港としても大したことはないらしい。海から 直ちに小高い丘となり、そこに僅かの藁ぶきの民 家が点在しているだけだ。 しかも、その後は山又 山がこれを取り囲んでいる。耕地と言ってもほん の僅か、全く猫の額にも及ばないほどだ。

岸辺に「南蛮船渡航地Jの碑がたてられ、湾の 入口の島に十字架がたてられてなかったなら、誰 が、ここを横瀬浦と思うだろうか。それほど貧し い漁港なのである。

しかし、湾の対岸には山すそに奇麗な町の並ん でいる佐世保の町がある。道行く老人は、あそこ に「エンプラ」がいたよと教えてくれた。

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エン

プラ」と突然言われでも私にはピンとこない。ェ ツ.ゲ とケゲンな顔をするとすかさず、せんだっ て来たエンタープライズだよと事もなげに話して くれた。私より相当の老人のようだった。また、

あの島蔭に21万トンのタンカーが建造されている よとも教えてくれた。見ばえのせぬ貧乏村の漁夫 と思っていた私は、ヤツパリ彼等もかつての海の 勇者の血をヲ

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いた人達だなと感心した。

言うまでもなく横瀬浦は、中世紀、平戸と並ん で唯一の貿易港であり、またキリシタン布教の根

山下病院長 服 部 敏 良

拠地でもあった。日本のキリシタン文化史をひも とく人なら、洋の東西を問わず、この横瀬浦を知 らぬ人はあるまい。当時の記録によれば平戸より 約35キロほど離れた所にあり、海上からは余程接 近せぬと湾の入口がわからぬらしい。それで港の 島の頂とに十字架をたて、それを目印にしたよう だ。港の右の方にキリシタンの部落があり、さら にこれに面して小高い所に宣教師の住宅があっ た。また石橋をかけ、石段をめぐらし、庭をひか えた教会堂が建てられていた。これらは、みなキ リシタンの奉仕によって出来たもののようだ。湾 内には、多くの漁夫が住み、海上生活を営んでい る。魚類は豊富のようだ。

ポルトカール船の入航によって多額の貿易が行な われ、この土地の領主大村純忠も、しばしば、こ こを訪れて貿易にあたり、キリシタンを保護して いた。したがって、この土地は大いにさかえキリ シタンの洗礼を受けたものだけでも 250人にのぼ り、毎日曜日の礼拝には、遠く博多平戸からも、

押しょせ、会堂はいっぱいになったと言うのであ る。

こんなにすばらしかった横瀬浦も、ひとたび禁教 令が布かれると、長い間の時代の断絶は、この土 地をこんなにまでかえてしまったので、ある。

栄枯盛衰と言うか、国破れて山河在りと言うの か、余りにもみじめな、この土地の有様をみて、

私はしばしぼうぜんとした。この土堤のすみにも あの山の下蔭にもかつてのキリシタンの骨が埋め られていたのであろう。夏草のしけ、りの聞からか つての海の勇士の夢のあとが忍ばれてくる。

往時を思い、今にくらべて私はただ暗然として 世の移りかわにり涙するだけであった。

日本病院協会雑誌Vo1.l7,No.1, 1970  47 

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