これまでは、2次元NMRスペクトルを測定するプログラムの物理的な原理に注目 して考察してきた。タンパク質に対して、これらの2次元NMR測定法を適用すると、
実際どのようなスペクトルが得られるのだろうか。そのスペクトルから、どのようにし てタンパク質に関する情報を得るのだろうか。タンパク質の立体構造に立脚した考察を 行うためには、NMRスペクトル上の共鳴ピークがどの残基由来のものなのか同定する 必要がある。すなわちピーク帰属という作業である。種々の測定法によって得られたス ペクトルの情報を組み合わせてピーク帰属が行われるが、2次元のスペクトルだけでは なく 3 次元スペクトルも必要になる。以下では、具体的な NMR スペクトルを例とし て、そのような問題を考察していこう。
30. DQF-COSYスペクトル
スピンースピン結合する2 つのスピンの交差ピークを与える DQF-COSY スペク トルを測定する場合を考えよう。図16に示したCOSYのパルスプログラムを参考にし て、スペクトル測定の流れを考える。右はアミノ酸残基の概
略図である。スピン1をCHプロトン(1HCと略記)、ス ピン2を主鎖 NHプロトン(1HNと略記)としてコヒーレ ンスの移動を具体的に考えよう。1HCと1HNはスピン-ス ピン結合した2スピン系である。第1 の90xパルスでスピ ン1 がxy平面上に倒れ、 ˆ1,
I y
という状態になり、スピン1 の横磁化(コヒーレンス)
は周波数1で時間t1だけ歳差運動する。スカラーカップリング項を含んだハミルトニ アンのもとで時間展開するので、式(20.2)に示されているように、状態ˆは4つの直積 スピン演算子の和で表されるが、このとき各スピン演算子には、cos
1 1t
あるいは
1 1
sin t という振幅変調が掛かり、時間軸t1を 1HCの化学シフト周波数1でラベル したという。つぎに、第2の90xパルスを照射すると、ˆ ˆ1, 2,
y z
I I という状態はˆ ˆ1, 2,
z y
I I とな ってコヒーレンスがスピン1(1HC)からスピン2(1HN)に移行する(上の挿絵の中 の青い矢印)。そのまま FID 信号を観測すると COSY スペクトルになるが、対角ピー
N H H
C
C C
O
t
2 t
188
クが分散型になって分解能が悪いので、第 2 のパルス照射前後でˆ ˆ1, 2,
x z
I I から ˆ ˆ1, 2,
x y
I I と なる状態変化だけが残るように「コヒーレンス選択」を行う。すなわち、ˆ ˆ1, 2,
x y
I I という
2量子コヒーレンスだけを選択するので、この測定法はDQF-COSYと呼ばれる。図18 はそのパルスプログラムの概略図を示す。外見上は図16に第3の90xパルスが追加さ れただけのように見えるが、第3のパルスの位相を4ステップの「位相回し」で変化さ せて積算されたFIDデータが解析に用いられる(27節の(2)項を参照)。その結果、ˆ のうち次のスピン演算子の項だけがFIDという観測量を与える。
1 1
1 1
ˆ ˆ1, 2, ˆ ˆ1, 2,
sin t sin t 2I Ix z 2I Iz x
(30.1)
t1軸は振幅変調因子で、周波数1のanti-phase doubletである。t2軸に関しては、第1 項が周波数1の anti-phase doublet 信号を与え、第 2 項は周波数2の anti-phase doublet 信号となる。1HCがスピン 1、1HN がスピン 2 であったので、第 1 項は
α α
1 C H , 2 C H
となる対角線上の位置に 4 つの正負の吸収型ピークとして現れ る(対角ピーク)。一方、第2項は
1 C Hα , 2 NH
となる位置に正負の4つの吸 収型ピークが現れ、それが1HCと1HNとの間の交差ピークを表す。同様にスピン1を
1HN、スピン2を1HCとして考えても同じ現象が起きるので、1 NH,
2 C Hα
という、対角線に対して対称な位置にもう一つの交差ピークが現れる(図19参照)。 アミノ酸残基内の1HNと1HCの交差ピークを考察したが、残基内にはスピン-ス ピン結合する他のプロトン対も存在する。例えば、1HCと1HC、1HCと1HCなどで ある(3つ以内の共有結合で連結された1H)。従って、これらのプロトン間には前述の ような交差ピークが見出される。しかし、ペプチド結合をまたいだ2つのアミノ酸残基 間のプロトンは、共有結合上4つ以上離れているため検出可能なスピン-スピン結合が 存在しない。従って、DQF-COSYスペクトルにおいて交差ピークが検出されるプロト ン対は同一残基内に限られる。これはピーク帰属を行うさい重要な情報となる。
DQF-COSYスペクトルの実例を2つ示してその意味を考えてみよう。例はニワト
リ・リゾチームに対して得られた2次元スペクトルである。図38はNH-CH領域の交 差ピークを表している。測定原理の説明では、NMRスペクトルの周波数軸を角振動数
で表したが、実際のNMRスペクトルでは、Hz単位の周波数に変換し、さらにppm 単位の化学シフト で表すので、周波数軸をF1、F2 軸と名付けた。横軸(F2 軸)は
89
NHプロトン領域、縦軸(F1軸)はCHプロトン領域を表している。赤と黒で表され
図38 DQF-COSYスペクトルのNH-CH領域。図中の赤と黒のピーク合計4つで1つの交差
ピークを表す。交差ピークの名前は数字が残基番号を表し、aN はNを意味している。例えば 34aNは残基F34内の1HN-1HCの交差ピークを表す。
た4つのピークで一つの交差ピークを表しているので、ピークを間違える可能性が少な い。F2=7.42 ppm, F1=4.36付近に34aNと名付けられた交差ピークが見つかる。34は 残基番号を表し、残基F34内の1HNの化学シフトが7.42 ppm、1HCの化学シフトが 4.36であることを示している。もちろん、ピーク帰属が未定の状態では交差ピークは何 も情報を与えないが、もし残基F34の1HNの化学シフトが7.42 ppmであるという確 証が得られれば、F34の1HCの化学シフトが4.36であることが確定する。以下で述べ るが、NH基のプロトンの化学シフトは3次元の HSQC-NOESY-HSQCというスペク トルを用いて連鎖帰属が高い確率で成功する。3次元でなくとも、2次元のNOESYス ペクトルから得られる隣接残基の 1HN 間の交差ピーク(dNN相関という)情報でも、
COSYスペクトルの情報と組み合わせると、1HN-1HC-1HN-…というピークの連鎖帰
(ppm) 8.8 8.4 8.0 7.6 7.2
(ppm)
4.8 4.4 4.0 3.6 3.2
9aN
74aN 31aN 96aN
122aN
16aN 91aN
58aN
5de 22aN
16aN
32aN 29aN
4aN 19aN
67aN 99aN
10aN
102aN 7aN
14aN 27aN
20aN 77aN
129aN
83aN 11aN
114aN
82aN 123aN
125aN
97aN 38aN
111aN
28aN
17aN
62aN 34aN
115aN
15aN
72aN 100aN
23aN
124aN
127aN 118aN
48aN
108aN 49aN
101aN 68aN
88aN 113aN 36aN 41aN
87aN 50aN
69aN 37aN 120aN
110aN
121aN 121aN
86aN
103aN 39aN 104aN
80aN
106aN 40aN
7.2 7.6
8.0 8.4
4.8 4.4 4.0 3.6
F2 (ppm)
F1 (ppm)
90 属が比較的容易に成功する。
一枚のDQF-COSYスペクトル上には、NH-CH領域だけでなく0 ~ 10 ppmにわ たる他の領域においても交差ピークが現れる。図39はDQF-COSYスペクトルのC H-CH領域を示している。この場合も、CHプロトンのピーク帰属が出来ていれば、CH プロトンの化学シフトが分かることになる。このようにDQF-COSYスペクトルは、交 差ピークを用いて同一残基内の水素原子の化学シフトを NH 基から順に側鎖の末端に 向かって決めていくことが出来るので、貴重な情報源である。特にタンパク質の構造を 考察する場合には、側鎖の水素原子間の距離情報が重要になる(残基間接触は多くの場 合側鎖間で起きる)ので、側鎖の水素原子のピーク帰属は大切な作業である。
図39 DQF-COSYスペクトルのCH-CH領域。F1軸がCHプロトン領域、F2軸がCH プロトン領域。図中の数字は残基番号、abはを意味し、CH-CHの交差ピークであるこ とを示す。図中のbbやgdは、あるいはを意味し、CH、CHあるいはCHプロトン 間の交差ピークであることを示す。交差ピークの強度が特に強いものは、残基がAlaなどで CHプロトンがCH3基である。
3ab 3bb
5ab
6ab
8ab 9ab
10ab 12ab
13ab
13dd
14ab
15ab 15bb
18ab 18bb
19ab 19bb
21ab
21gd
23bb
27ab
29ab
31ab
32ab
34ab 34bb
35ab 37bb
39bb
39ab
41ab
42ab
43bg 128gd
48ab 48bb
53ab
55ab
56ab 57ab
58ab
61ab
62ab 66bb
88ab 74ab
74bb
75ab
80ab
80ab
5gd
82ab
83ab
87ab 87ab
68ab
90ab 92ab
93ab 94bb
95ab
96ab 96ab
99ab 106bb
109ab
110ab 111ab
111bb
112ab
113ab
114ab 116ab
120ab
122ab
124ab
125ab
128ab
127ab
79gd 79dg
129ab 64bb
127bb
6bb
57ab
103ab
77ab
115ab 37ab
125ab
41ab
11ab
45ab
2ab 7ab
97ab
73ab
47bg 45gd
53bb
77bb
106ab
121ab
112gd 14,68,125gd
1ab 119bb
87bb
30bb 30ab
89bG
(ppm) 2.8 2.4 2.0 1.6 1.2
(ppm)
4.8 4.4 4.0 3.6 3.2
4.4 4.0 3.6 3.2
2.8 2.4 2.0 1.6
F2 (ppm)
F1 (ppm)
91 31. 1H-15N HSQCスペクトル
タンパク質の主鎖NH基のN原子を同位体の15Nで置換した試料を用いると、1
H-15N HSQCという2次元スペクトルを測定することが出来る。スピンースピン結合した
2 スピン系のコヒーレンス移行を利用して交差ピークを得るという意味では COSY ス ペクトルの測定原理と同じである。ただし、HSQCのHはhetero nucleusの頭文字に 由来し、COSY が同種核であるプロトン間のコヒーレン
ス移行を利用しているのと違って、このパルスプログラム では、主鎖NH基内の異種核である15N核と1H核との間 のコヒーレンス移行を利用している。HSQC パルスプロ グラムは図20に示されている。挿入図は主鎖NH基内で
のコヒーレンス移行と各スピンの展開時間を図示している。15N 核を Sスピン、1H 核 をIスピンとして、パルスプログラムの流れを具体的に考察しよう。スピンIとSは異 種核なのでパルスは別々の発生器を用いて照射される。図20に示されたパルスプログ ラムのA期はIスピンに90xパルスを打ってスピンエコーさせ、ˆ ˆ
x z
I S というスピン状 態を作り出す準備期間である。同時に生成されるˆ
Iyという状態は「位相回し」によって 消去する。つぎに、Iスピンにはy軸から、Sスピンにはx軸から90パルスを照射する と、ˆ状態はˆ ˆ
x z
I S から ˆ ˆ
z y
I S という状態に変わる。このとき、コヒーレンスは I スピン からSスピンに移行しているので、挿入図では1Hから15Nに向かう青い矢印でそれを 示している。つぎに、ˆ ˆ
z y
I S をt1時間展開すると、Sスピンの歳差運動に伴ってcos
St1
という振幅変調が掛かってt1軸をSスピンの周波数でラベルし、cos
st1
I Sˆz ˆyという 状態になる(それ以外の項はFID信号として観測されない)。続いて両スピンに照射さ れた90xパルスによってcos
st1
I Sˆyˆzという状態に変化して、コヒーレンスが S ス ピンから再びIスピンに戻される。この操作をコヒーレンスバックと呼び、図中では15N から1Hに向かう矢印で示されている。厳密な式は(22.4)に与えられた第1項であるが、比例係数の違いは測定原理の説明には影響しないので無視する。パルスプログラムのE 期において、さらにスピンエコーを打って S 核をデカップリングしながらコヒーレン スが移った観測核1HのFID信号を測定すると、t2軸上には周波数Iで振動するデー タが得られる。このFID信号をフーリエ変換すると、2次元のスペクトルが得られ、交
C
C
15
N
(t
1)
(t
2)
1