第2章 対話型授業を支える対話理論の考察
1 人間形成に関する多様な対話理論
対話は人間形成とどのような関わりをもっているのであろうか。対話型授業の 学習効果を高めるには、真摯な態度で、深層性ある対話を生起させることが必須 である。深層性ある対話を生起させる対話型授業を検討する基礎作業として、対 話型授業を支える対話と人間形成との関わりを考察していく。
「対話と人間形成」に関わる先行研究を「真の対話と人間形成に関わる研究」
「社会との関連を重視した対話と人間形成に関わる研究」および本研究に関わる
「グローバル時代の人間形成と対話に関わる研究」の3類型に整理する。
1-1. 真の対話と人間形成に関わる対話論
「対話と人間形成」との関わりを考察するためには、真の対話とは何かを検討 することは重要である。真の対話こそが自身を高め、他者との共創的な関係を構 築させると考えるからである。
真の対話とは何かを追求するため,対話と人間形成に関わる代表的な思想家で ある、O.F.ボルノーとマルティン・ブーバー言説を考察していく 。ボルノー の言語観については、広岡義之116、森田孝117、川森康喜118等によって研究さ れてきた。
ボルノーは、「真の対話のなかで真の内省の問いが口を開くのです。それゆえ、
困難になると容易に一つの問題から他の問題へと移行することによって、問題を 巧みにかわすことは許されません。真の対話は、その対象に頑として留まらなく てはなりません。それは真剣に、また頑強に、問いが投げかける疑わしさを耐え、
そうしてその深部に迫るのでなくてはなりません」119と記している。ボルノー はまた「対話においてのみ、人間の人間性は完成される」120と、人間形成にお ける対話の役割の重要性を指摘した。
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ボルノーの対話と人間に関わって注目されるのは菅沼静香の研究である。菅沼の 論考「ボルノーにおける言語と人間形成との関わり」は、ボルノーの「人間として の尊厳」を豊かに表出する言語教育についての見解を考察している。菅沼は「彼は 話を一般的現実に戻し、対話の人間的意義について述べる。即ち、相互的な対話に おいて初めて人間の思索は創造的になり、深い認識に達すると考えた。ボルノーは 対話のもつ深い人間的意義をここに提唱しているのである」121と記し、思索は相 互的な対話によって創造されるとのボルノーの見解を指摘している。
吉田敦彦は、ブーバーの「対話しているかのようにみえる饒舌な二人が、実は独 白を交換しているだけだということがよくある。結局のところ、自分のなかですで に出来上がった物語を交互に語っているだけで、関心があるのは自分であって相手 ではなく、自分を語るために相手に向かって(しかし実は自分自身に向かって)語 っている」122との言説を紹介している。
ブーバーはこのような「対話的に偽装されている独白」をする者を、「鏡の前の 独白者Spiegel-Monologist」と呼び、さらに「対話する二人の人間の、いずれか一 方でも、また両方でもない。語られる言葉は、むしろ私が〈 Zwischen〉と名づける、
個人と個人との間の波打ち振動する場に生起する。その〈間〉は、そこに関わる両 方の人物には決して還元できない場である」と記している123。ブーバーの見解は、
真の対話とは汝と我との「真摯な相互行為」であることを示したといえる。
ボルノー、バフチンの言説から,真の対話は、真剣・真摯に自己や他者と向かい 合う真摯な相互行為であるとえる。
次に、人間形成と対話との関係を森昭、海後勝雄の言説から解明していこう。
教育人間学の先達、森は「人間は言語によって事実を表示するだけでなく、それ について彼の意味する(思考する)ことを通して他人に通報する」、言語によって
「会話が成立し、人の体験を認識でき、思想を吸収し、自分の物にできる」と記し、
さらに、思考の本質とは「関係を発見する意識の作用」と規定した上で、「人間は 知能(→思考)面で、世界に対して開かれた関係に立ち、またさまざまな関係に向 かって開かれているだけではない。感情生活の面でも、世界とのあいだに豊かな関 係をくりひろげていく」124と述べ、対話が「人格」の陶冶に深く関与することを 示した。
また、教育学者海後勝雄は「言語教育の目的は、ただ認識や思考の力を育てたり、
コミュニケーションの要求を充たすことに止まるものではない。そうではなくて、
それらのはたらきを通じて、自由で能動的な人間を形成すること自体を目指すもの なのである」125と論じ、言語教育の目的が「自由で能動的な人間を形成する」に あると指摘した。
森・海後の言説は、対話が単なる情報の伝達にとどまらず,人間性の陶冶に関与 していることを示している。論者は沈黙の時間が人間性の陶冶に意味があると捉え ているが、このことをスイスの思想家マックス・ピカード(Max Picard)の言説に
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ピカードは、沈黙の意味について、「沈黙は単に人間が語るのを止めることに よって成り立つのではない。単なる『言語の断念』以上のものである」「沈黙は その人間の中心なのである。人間のうごきは、ひとりの人間から直接に他の人間 にはたらきかけるのではなく、ひとりの人間の沈黙から他の人間の沈黙に働きか けるのである」と述べ、また「人間の眼差しそれが包括的なるところの内在的な 原動力である」とも記し、人間形成における沈黙の重要性を指摘した。このこと は、人間形成における「自己との対話」の意義を示したと受けとめられる。
これらの真の対話に関する言説から、対話が人間形成に深く関与していること、
皮相的・形式的でない「自己内対話」及び「他者と真摯に語り合う対話」が重要な こと、また対話が「関係性の形成」「能動的な人間の形成」に有用であること、
また人間形成における「沈黙」の意義について示唆をうけた。
1-2. 社会との関連を重視した対話論
対話研究はやがて社会(人や事象,社会現象)との関わりを課題とする研究へ と拡大していく。
パウロ・フレイレは、社会改革の視点から対話研究に取り組んだ教育者である。
彼は、ブラジル北東部の貧しい町、レシフェで貧しい農村の非識字の農夫たちに、
意識化力としての言葉の読み書きを教えるという斬新な識字教育を始めた。
パウロ・フレイレは、「対話とは出合いであり、対話者同士の省察と行動がそ こでひとつに結びついて、世界の変革に向かうもの」であり、「創造的行為」で あるとし、「対話」の条件としては「愛 謙虚さ 信頼 信用 希望 批判的思 考」の6つを上げている127。
フレイレは、「対話とは世界を媒介とする人間同士の出会いであり、世界を“引 き受ける”ためのものであると」とし、「言葉を話すという本来の権利を否定さ れてしまった人がこれらの権利を得ることがまず必要だし、このような非人間的 な攻撃を止める必要もある」と対話が社会変革や個々人の人間性の回復の手立て になることを主張した128。
なお、フレイレは「一方の主体の思考内容を他方の主体に移し入れることを『伝 達』と呼び、思考する諸主体が思考される対象を共に見つめつつ、互いにコミュ ニケートし合い、お互いの考えをお互いにとって意味のあるものにしようとする 努力を『対話』」と記している129。フレイレの言説は、個人と個人にとどまら ず、「対話が社会との関連」をもつことを示したと言えよう。
対話が社会との関わりをもつには、他者との関わりが重要な意味をもつ、その 他者との関わりについて、更に考察を深めるため、バフチンの言説を検討する 。
ロシアの思想家・哲学者のミハイル・ミハイロビッチ・バフチンの言説は、対 話における「他者との関わり」の意味を示している。バフチンは「 文化はもう一
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つの文化のまなざしに照らされてはじめて、より完全に、より深く自らを明らかに する。一つの意味は、別の<他者の>意味と出会い、触れ合うことで、深みを増す。
両者の間でいわば対話がはじまるのであり、対話はこれらの意味や文化の閉鎖性と 一面性を克服するのである」130と述べ、さらに「対話を交わす両者の究極的な一 致をめざすものではない。それは、差異を認め合い、差異を喜ぶだけでなく、場合 によっては、論争、闘争を交わすもの」131と記している。
バフチンの見解は、差違を認め合い、対立や異見をむしろ活用し、変革をもたら す対話の方向を示したといえる。このことは、冷厳な現実世界における「グローバ ル時代の対話力」の基本的な方向を示していると受けとめることができる。
対話による他者との関わりのあり方を追求したのはドイツの哲学者ユルゲン・ハ ーバーマスであった。ハーバーマスは人間の相互行為を「成果志向行為」と「コミ ュニケーション的行為」にわけ、前者を道具的行為・戦略的行為とし、行為主体の 主観に基づく独我論的理性のある一方的行為と断じ、後者、すなわちコミュニケー ション的行為は、相互主観性や議論を重視する、とした。
彼は、相互主観的なコミュニケーションとは、「複数の主体」が相互に意見や感 情を表現することであり、その表現を他者(聞き手)が「了解」することで「合意 としての真理」が非暴力的に形成できるとするものであるとし、「生きている他者 の主張(反論)」を無視した「独我論的・モノローグ的な思想展開(一般的な結論 や規則の提示)」に強く反対し、実際に相手とコミュニケートして「了解」を得る というプロセスを重視する相互主観的なコミュニケーション論を提起した132。
ハーバーマスの言説は、対等な立場の参加者が「了解」し合うことを求め、コミ ュニケーションのあり方を提唱した点で、「共生社会における対話」のあり方の根 本ともなろう。このことは、対話場面における受容的雰囲気の大切さや,強圧的権 力構造の打破などが「対話」による共創の要件であることを明示していると解する ことができる。
直塚玲子、村松賢一、平田オリザらは、日本の風土の特質と対話との関わりや、
日 本 の グ ロ ー バ ル 時 代 に 対 応 し た 対 話 力 を 根 か せ る た め の 問 題 点 に つ い て 論 究 し ている。直塚は、欧米人と日本人とのコミュニケーション方法の相違と、そこから 派生する誤解や摩擦について自己体験や調査をもとに、米国の教室での事例を「そ れぞれ意見の違いがあって当然で、対立意見を大いに歓迎する、という教師の態度 はすがすがしかった。自信と余裕にみちていて、かつ謙虚であった。学生の方も、
下手な遠慮をせずに、真正面から教師に挑戦していく、その率直さがそばでみてい てほほえ ましかった。 ‘Be original’ (人まねをしな いで、独創的であるこ と)
が、社会的に大きな価値をもっているからだろう」133。と記している。
他方、村松は「わが国の言語教育は伝統的に独語能力を目標としてきた」と指摘 し、「話し合いによって意見を調整したり問題を解決したりする対話能力『ダイア ローグ型言葉教育』への転換」を主張している134。また、平田オリザは、日本の