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:アイゼンヒュッテンシュタットの事例研究

 

4−1  都市の概要 

(1)

地理・歴史的概要

  アイゼンヒュッテンシュタットはブランデンブルク州オーダー・スプリー県に属 し、ドイツ北東部、ポーランドとの国境を流れるオーダー川に沿って位置する。

1950

年にソビエト連邦の第三会議にて、製鉄所と近隣の村からなる新都市をつくること が決定され、1951 年から製鉄コンビナートを中核とした工業都市として、重要な 産業拠点として位置づけられ、開発された。

  旧東ドイツは1950年代以降、社会主義の理念に基づいた都市づくりを展開した。

具体的には「都市の中心部に大きな広場をつくり、その周辺に共産党の建物などの 重要な政治的機能を有する建物を配置」、「この広場から周辺に向かって延びる広 幅員の目抜き通り(マギストラーレ)を整備」、「この目抜き通りに沿って、行政 機能を有している大きな建物を配地」することなどが規範とされた。アイゼンヒュ ッテンシュタットは、これらを含めた「都市の16の原則」に忠実にもとづいて建設 された「戦後復興のための製鉄所」、「ドイツ最初の社会主義の都市」と形容され た都市であるi

写真 4-1  マギストラーレの先には製鉄所の煙突がそびえ立つ計画的工業都市 

 

1953年にこの新都市はスターリンシュタットと命名されるが、1961年に隣接し

ていたオーダー川の舟渡し場として形成された集落ヒューステンベルクを合併し てアイゼンヒュッテンシュタットに改名する。ドイツ語でアイゼンは「鉄」、ヒュ ッテンは「工場」、シュタットは「都市」であるから、「鉄工場の都市」という、

名は体を表すの例え通りの名前の都市である。

 

1965

年に製鉄所がつくられ、1968 年には稼働し始める。それは都市の中心に 位置づけられ、マギストラーレのリンデン・12 ptアレーからは、この製鉄所の巨大 な煙突が象徴的に展望できるように計画された。「労働者こそが主人である」とい う強いイデオロギーが表現された都市である。社会主義時代にこのように産業発展 を意図して極めて計画的につくられた工業都市は、他にも石油産業のホイヤスヴェ ルダ(6章参照)、製紙産業のシュヴェートなどがある。

  東西ドイツが合併された後では、そこに製鉄所を立地させる地理的優位性はほ とんど消失したが、社会主義時代はロシアの鉄鉱石とポーランドの石炭を使って、

ドイツの土地で製鉄をつくるという観点からは望ましい場所であると考えられた。

そして、旧東ドイツでは最大の製鉄所である「EKOスティール」が都市の中心に つくられた。市域面積は

63.3

平方キロメートルである。

 

2

)地区の概要

  アイゼンヒュッタンシュタットは開発された時期によって、第1地区から第7地区 と分類される。それぞれの地区の位置を示したものが図4-1である。また、それら の開発時期、特徴等を表4-1に整理した。これら7つの地区のうち、第1地区から第4 地区までは1951 年から1964 年の間に、マギストラーレであるリンデン・アレー を挟んで両翼に広がるようにつくられた。

 

図4-1  第1地区から第7地区の位置 

(出所:Leinhard Lötscher et al. (2004): "Eisenhüttenstadt: Monitoring a Shrinking German City"から筆者作成)

 

表4-1  各地区の概要  地

名  建設年  1998

人口  2006 人口 

人口増減率

(1998-20 06) 

戸数(減 築前)  特徴  第1

地区  1951-1952  2624  2106  80%  1,512 

最初に開発された第 1 地区は、

労働者のための住宅の性格を 強く有していた。 

第 2

地区  1952-1953  3391  3130  92%  1,964 

この地区と第 3 地区の建物は 旧東ドイツ時代に建設された 国家的歴史建築物として認識 されており、すべて保全されて いる。建物群が、中庭を取り囲 み、豊かな住環境を具体化でき ている。 

第 3地

区  1955-1957  2165  1364  63%  1,003  第 2 地区と同様。 

第 4地

区  1959-1965  3867  3061  79%  2,057 

都心部に位置する。建物のクオ リティは、これ以前に開発され たものに比べると劣る。 

第 5地

区  1959-1965  3117  2401  77%  1,699  都心部に隣接して立地してい る。第 4 地区と同時期に開発。 

第 6地

区  1965-1977  9677  7661  79%  3,888 

この地区の建物は、プラッテン バウ形式ですべてがつくられ た。 

第 7

地区  1978-1987  6672  1321  20%  3,143 

経済的不況のためプラッテン バウ形式でも、安普請でつくら れた。北東部では、歴史的村落 であるヒューステンベルクに 隣接している。 

(出所:アイゼンヒュッテンシュタット市)

 

 

1960

年頃には第1-4地区の住宅は合計すると6100 戸、さらには4つの学校、6つ

の保育所、3つのホステル、商店、スーパーマーケット、ガソリンスタンド、オフ ィス、そして市役所、劇場、病院、レストラン、組合集会所などが整備された。リ ンデン・アレーに沿って、二つのデパートメント・ストア、ホテル、カフェやレス トラン、事務所などが立地したii。第1地区1〜第4地区は、旧東ドイツの1950年代か ら1960年代にかけての建築、都市計画の考え方を今に伝えている。その集合住宅は 製鉄所とともに、F.エールリッヒ(Ehrlich)等によって提案された。そこの敷地 調査、基礎計画は1950年から開始された。エールリッヒの計画コンセプトは、旧東 ドイツの再開発省が発表した前述した「都市の16の原則」に則ったものであった。

プロジェクト・エンジニアの責任者としては、K.W.レウヒト(Leucht)が指名され た

 

1961

年頃から第4地区の南に第5地区の住宅群が開発される。1966 年頃からは、

運河を越えて第6地区が開発される。これは、すべてプラッテンバウ住宅となったiii。 そして、旧東ドイツの不況からまだ抜け出せていない1983 年からは、さらに都心 から離れて、この都市の開発以前から存在する村落ヒューステンベルクの南側に隣 接するように第7地区が開発されはじめ、東西ドイツが併合する直前の1987年まで 建設は続いた。

図4-2  EKOの従業員数の推移 

(出所:Marco Schmidt, “Eisenhüttenstadt- die erste sozialistische Planstadt der

DDR”, Grin, 2011)

 

  アイゼンヒュッテンシュタットの状況が大きく変わったのは、

1990年のドイツ再

統一後である。社会主義経済圏では優位性を持っていた同市の立地条件は、むしろ 統一後は不利になり、またその経営の非効率性もあり、1991年には3つの溶鉱炉の 営業が中止された。ただし、

1997年にはフランスの製鉄会社ウシノールが同市の製

鉄所を買収し、また製鉄会社同士の合併が進んだこともあり、アイゼンヒュッテン シュタットの製鉄所は現在でもまだ営業中であるiv。ただし、製鉄所の効率化は雇 用者数の大幅な減少をもたらし、統一後には3060の雇用が失われた(図4-2参照)。

同市全体でも1990 年にはわずか

4.5%であった失業率が1997年には20.1%まで急

速に増加する。

(3)人口減少の実態 

  アイゼンヒュッテンシュタットは東西ドイツが統合した後、急激な人口減少に見 舞われた。アイゼンヒュッテンシュタットの人口がピークに達したのは再統一前の

1988年の5万3千人である。それ以来、前述したほとんどの市民が関係していた製鉄

所の効率化などに伴う雇用喪失などに伴い、人口は減少していき、

2012年には1988

0 2000 4000 6000 8000 10000 12000 14000

1950 1955 1960 1965 1970 1975 1980 1985 1990 1995 1999

年に比べると48%減の2万7千人強になった。

24年間でほぼ半分の人口が減少したこ

とになる。人口の減少率は90年代前半こそ前年比1.1%程度であったが、90年代後 半は2.5%、さらに2000年以降は2.8%と縮小の速度はむしろ加速しているような状 況にある。

図4-3  アイゼンヒュッテンシュタットの人口推移 

(出所:アイゼンヒュッテンシュタット市) 

 

4

)人口減少によって生じた課題

  上述した急激な人口減少によって、アイゼンヒュッテンシュタットではどのよう な課題が生じたのか。

Lötscher

等は 1)プラッテンバウ住宅の空き家率の増加とそ れに起因する社会インフラの維持管理費の高騰、2)(市場縮小による) 小売業の 衰退、を挙げているv。さらに、筆者による市役所等の取材調査から、3)幼稚園や 小学校といった公共サービスの人口当たりコストの増加、4)税収減による市役所 をはじめとした公務員や学校等の教職員の削減をする必要性の増大、5)人口密度 の低下に伴う行政サービスを提供するシステムの再構築の必要性の増大、特に公共 交通サービス等の効率悪化、なども問題であることが判明したvi

  ここでは、撤去政策と最も関係のある1)に特に着目して、その状況を整理する。

① 空き家率の実態

  アイゼンヒュッテンシュタットにおける人口減少は同市内の集合住宅における 空き家の増大を促した。表4-2は、「シュタットウンバウ・オスト」プログラムが 実践される前の2001年5月におけるアイゼンヒュッテンシュタットの地区別の集合 住宅の戸数と空き家数を示したものである(参考までに2008年12月31日のデータ も記している)。アイゼンヒュッテンシュタット市内にある集合住宅の戸数は18741 戸、そのうちプラッテンバウ住宅は全体の85%を占める15960戸である。

  空き家率は地区によって大きく異なり、第6地区、第7地区などプラッテンバウ住 宅が多い地区、そして都心部に位置しているが建設されてから50年近く経ち、設備 が悪い第1〜第3地区において空き家率が市平均を上回っている。特に、社会主義

0 10000 20000 30000 40000 50000 60000

1953 1955 1958 1960 1961 1965 1970 1975 1980 1985 1988 1990 1995 2000 2005 2007 2008 2009 2010 2011 2012