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ドキュメント内 『宗教研究』158号(32巻3輯) (ページ 65-77)

︵Ⅰ︶ ては彼の蹟 蹄が 見られるが︑後にはそれが理性 であることを明言して ゐ ・ る " か ﹂るもののそれに 固有な徳に従っての  一 一 

﹁形而上 豊書 ﹂︑ 巻では︑その純粋観想︵や き下 ︵⑨は︑理性 守 00 ︒︶との 開係に 於て追求され たが︑﹁ニコマコス 

倫理壁書﹂︑ 巻では幸福との問題に於て探究さ れる︒アリストテレスはその純粋観想を前者の且 目 では形而上的面から 

取扱 ひ ︑後者の書では 具掲的 面から取扱って ゐ る ︒而して純粋観想と幸福の問題が﹁ニコマコス 倫理 里書 ﹂ 巻 ︑第 

七章の冒頭で述べられる 即ち幸福とは最高の 徳締盈づ さに従っての活動であり︑その最高の 徳 どは我々のうちに 

於ける最善なるものの徳である︒我々のこの 最 も 善い部分とは﹁理性 官 ︒ 斗 ︶であらうと︑何か 他 のものであらうと 

も ﹂執れにしても︑それはその本性上支配し指 暮 し ?G Ⅱかおも q@ 二 セ きめ @ 寸沫し ふ目出ぃⅠも治し・ 且 又 美しき神的なるも 

のについて思念し得る 宋き oha で 娘 Ⅹの︵寸ヰ 巾ゑ再 斗ぎ蕉釦簿へ cov ︶と考へられるものである︒ この場合︑アリスト 

テレスは﹁ 神 的なるものについて思念し得るも の ﹂とは﹁それ自身が神的なものであらうとも︑ 我々のうちにある 最 

も 神的なものⅠかもの︵㏄ づ ︑﹁ こであらうとも﹂ と 述べ︑それが 亦 彼によれば︑﹁理性であら う と︑ 何か他のもので 

あらうとも﹂と述べて ゐて ︑そこにはアリスナ アレスの不明瞭さがあり︑従ってそれが理性であ ると 云 ふことについ 

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今  にもつものである︒何故ならば︑純粋観照は自分  支げ濁り居て出来る  のであって他の人の存在は必然としない︒この  活動はそれ自身以外の何ものも生ぜず︑この活動  のみそれ自身の故に 

      

て  る人に配される所の几ゆる傑作がこの純粋  観想の活動に具備されるので︑この純粋観想は最  上位の活動である︒尤も     煙  ﹁  かュる  生活は人間的より以上の善き生活  でなければならない︒何故ならば︑人がかくの  如く生活することは︑その  て  人が人間である限りに於てではなくて︑  却  って神的なる或るものがその人間のうちに内存  する︵  申転セ  がし限りに     の  於てであり︑この神的なるものが合成的  存  狂者としての人間から実ってみると同じ程度にそ  の  活動も亦他の徳に従っ     轍  ての活動と  昇  ってゐるからである﹂︵  P  すか  宙︐  ︒  P  ︶べ  べヴめめ  も  ゅ  ︶︒人間は感性的本性をも知性的本性  をも所有する精神と身  購  僻  との合成  瞠  であるので︑人間に限定される  生活は︑感性的且  つ肉膿的  心の動きがあり︑  そ  の  働きを理性によって秩序  利付げられねばならない︒蓋し理性の働きが  憩ふ  ?p  の の  ﹁の︶  と云  ふことは優れた  堅緯  に固有な  ことであり︑そこに於て     テ  のみ知性的本性が見出されるのである︒トマ  スは  註釈して﹁それ故に明かにか  ュる  生活をする  人間即ち観想に憩ふこと    

  

間は︑  彼が様々のものから合成されたと  云  ふこ  とによってではなくて︑  人     間  には或る神的なるものが存在すると  云  ふこと  によって換言すれば知性によって神的な類似を  分取する限り生きるの 

65@  (3aD 

パ ・ ゴト ︶ べき ︶め @S  アリストテレスはかⅠ る 純粋 観想の特性を次の如く述べてゐる︒﹁それは 如 何なる事柄をなす ょ ‑3q3‑ りも 持績的 ︵ qc ふ Ⅹ ら しに出来る﹂ ‑2@  宙ヴ 山口・ ドト 円ぺ の 凶 ㍉ 又 それは 

知律 

0% ⑨に従っての活動であ る ︒ かュる 知に従っ ‑4‑ ての活動は純粋 

牲父 

仁心 由 で転 つつ こと不動性 8% ま ︒こに於ける驚歎すべ き快 ⑱の ふ ︶を含ん でぬ るものである︒    活動が究極的な幸福でなくてはならない︒その 活動︵守令せ め @ ⑨が純粋観想的なもの宅の p ︶屯せ コ 沫 さである︵門三・・ 

  としてあると 云 ふことに謝するアリストテレス の 自費は不徹底であった︒この艶をトマスはキリ スト教の思索の上に 

立って明瞭化するのである︒その意味で︑トマ スの 観想 宋 口 ︵の @9 団ぃ笘 ︶は軍なる観想 の 穏 芭 ではなくて︑トマ    トテレスは人間のうちに神的なるものがあると は云ふが ︑神的なるもの乃至神それ自身になる︑ ズ はかくなったもの  の 最善なる部分たる理性の 

ある︒かくして人間はか ュ 

あるが︑人間は努力を轟 し 

ふことに含まれる問題 肛つ  徳に 従って神的生活に入り得る可能性と 云 ふも のはある︒然るに神的生活は不死の生活で 

る 理性の徳に従って神的生活に入るべく努力す ることが必要となる︒神は初めから不死で 

て 人間に可能な程度に不死になるのである︒蓋し ︑アリストテレスはこの﹁不死になる﹂と 云 

いては不明瞭さを残してゐる︒この鮎を明瞭に 食属 させたのがトマスである︒ 既ち アリス  だが︑然し人間はか ム る神的生活 肛 興るために は ﹁我々は出来る限り不死になる③も fiva づ ︵ りめ @v ︶ べ ぎであり︑自己 

のうちにある最善なるもの に 従って生きるため に萬善 を養すべきである﹂ ヱすや Ⅰ・︒トトⅡⅠ 且 葵上のち︒ ‑9‑ 人間には人間のうち  である︒それ故に ︑ 自らの純粋性に於て考察され る 理性が精神と身籠のムロ 成騰と興 ってみると 同 じ 程度に︑観想の働 き 

︵ ちの lp ︵ @0  のち nF‑p‑ 〜 づ こは︑本来的に人間的なもの に閥 する所の道徳的 徳 によって生ずる働きとは 距 りがある﹂と 月ァ | 

傍 卜串田 コ傍 ︒の︒ 日 me コ村 Ⅱ 軍ぎパ Ⅰ 乙 ﹁ のし目ざ︒ ﹁ 偉尽の Ⅰ 才ピ ︒ 日 ac け宙ヨ ︒Ⅰ〜 汗 ︵ パ ︒Ⅰお宝︒ⅩⅠ︶︒ 従 ってか上る生活は人間 

的 生活 ㌦︒ 寺き 叫き の 而 ︵ 0q ︶に比して神的生活 ③ものの 0" 馬む ︒︶である︒然し︑ 他 万一︐合成者の徳 

  

ふち の づ ︵︶は人間的 徳 であり︑而して生活も亦 か 上る人間的 徳に 従っての生活であり﹂ 釜 ・ : 本 目おの き 1% ︶︑人間 

の 最善なる徳である理性の徳以外のか ュる Ⅱ他の 徳仁 従っての生活は第二次的なものである︒何 故 ならば︑ かュる 徳に ハ 7@ 従っての諸々の活動は人間的性質⑤︒ Qbe ョ ︒ 沫 Ⅰ ざの Ⅰもので セ のるか 亡リで 七のる ニ ︵ 手宙 ・︒︶︶Ⅱ㏄の ト ︒ 人間は精神と身 膿め 

合成者であるから︑人間は理性の徳以外の諸徳 にも 徒 ふものであり︑ か 上る生活が人間の生活 であるが︑ 又 ﹁理性の 

  

如く外的なものに左右されない自己の中の最高 部分たる理性の念 

に徒 ふ生活もなし得るのであり︑その生活は神 的 生活である︒ か ﹂ る 意味では︑人間は二重生活者 であると 云ひ 得るの 

(302)@ 66 

  

アリストテレ スの 純粋観想についての 聖 トマ スの 解釈 

ス がそれを神の観照︵ no 口の︵の 日 専田︒ し ③ と明 瞭に 呼び︑そこに人間の究極的幸福︵〜の 目 9% 就岸 田日巴 をおくのであ 

り ︑その鮎にトマスの特色がある︒このことは 逐次明かになるであらう︒ 

以上によって︑アリストテレスでは︑﹁不死に なる﹂と 云 ふことに含まれる問題ついては不明 瞭 さはあるとは 云 

へ︑彼の云 ふ 観想 途 6e 穏 こも神的生活である ことが理解されたが︑更にこの点をか上る観想 と 幸福の問題に立入 

って論及して見ると︑アリストテレスは次の如 く 述べる︑﹁究極的幸福ぶ つ やめ へお し㌢ ‑ モ Ot へ ぬ ︶が純粋観想的な  或る活動であることは次のことから明かであら ぅ ︒即ち 神 Q め 0 へ ︶が何にまして至福守 ぉ玉転や Q こであり且つ幸福 

︵ 驚 ㌢ モの艶 らであると我々は考へた︒︵中略︶ 至 福 なることに於て優ってゐる神の活動は純粋 観 想 的なものである﹂と 

︵〜す い伍 : P ト 日㏄ す ㏄ l ㎏ ㏄︶ 0  この吉井 禾 からして︑アリスト テレスの観想も﹁神の観照﹂となり︑トマスの それと同一のものの 

様に思はれるが︑それは表面的に両者が同一の ものであると感ぜられるのであって︑同一では ない︒一 % ︑アリスト 

テレスが ︑ こュで︑神谷 め 0 ごと 穐 してゐるものは 如何なるものであらうか︒勿論︑アリストテレス の 去ふ神はキリスト 

教の神 の屈の︶ではない︒トマスは︑この箇所に 於 げ ろ アリストテレスの︵ 簿 0 へ ︶たる神が如何な るものかを 註稚 して 云  ふに ︑それは 猜 正實 籠 ︵ 簿 すの︵ り ロ目 pn  のの 口 ara ︵のの︶ であると述べてゐるが︵ づオ ︒ 目毬卜 信田 甫の :の︒ @ ︶ @ 目 ・ @ 己 ・〜 4,  Ⅹ︒Ⅰのの 目 ︒ 

パ ︵Ⅰ︶それは軍なる 猫 土質膿の意味であって ︑キ リスト 教 的意味のものではない︒前述した如く 二︶アリストテレ 

ス は神を思惟の思惟で 0 ふ q め 8 のヒム dq ︵の︶と規定 し ︑そこに 於げ ・ る 神の思惟の封 象は ︑神的理性 が 最も優れてゐる 限 

り ︑ 神 自己自身であった︒それ故に ︑ 神は自己 自身より以下のものを思惟すること 守 oe 

のⅠ︶は ︑思惟の思惟を低下  させること ュ なり︑神の堕落となる︒ましてや 最 悪 なるものを思惟することは避けられるべ き で ある官立ので㌢ら ゆ 

︶の円かすぎ よ止り ︒ かノ Ⅹの 如ノ へ︑アリストテレスの 神 が封 象 とするものは最善なるものであって ︑亜 ゅ なるものはその 封象  となってみない︒アリストテレスに於ては︑ そ の神は善をも悪をも含める神ではない︒その 意 味 で︑アリストテレス  の神に於ては善悪の交錯するこの世界は顧み ろ れてゐない︒アリストテレスの神は世界に伺って 積極的に働きかけ ろ 

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ドキュメント内 『宗教研究』158号(32巻3輯) (ページ 65-77)

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