︵Ⅰ︶ ては彼の蹟 蹄が 見られるが︑後にはそれが理性 であることを明言して ゐ ・ る " か ﹂るもののそれに 固有な徳に従っての 一 一
﹁形而上 豊書 ﹂︑ A 巻では︑その純粋観想︵や き下 ︵⑨は︑理性 守 00 ︒︶との 開係に 於て追求され たが︑﹁ニコマコス
倫理壁書﹂︑ K 巻では幸福との問題に於て探究さ れる︒アリストテレスはその純粋観想を前者の且 目 では形而上的面から
取扱 ひ ︑後者の書では 具掲的 面から取扱って ゐ る ︒而して純粋観想と幸福の問題が﹁ニコマコス 倫理 里書 ﹂ K 巻 ︑第
七章の冒頭で述べられる " 即ち幸福とは最高の 徳締盈づ さに従っての活動であり︑その最高の 徳 どは我々のうちに
於ける最善なるものの徳である︒我々のこの 最 も 善い部分とは﹁理性 官 ︒ 斗 ︶であらうと︑何か 他 のものであらうと
も ﹂執れにしても︑それはその本性上支配し指 暮 し ?G Ⅱかおも q@ 二 % セ きめ @ 寸沫し ふ目出ぃⅠも治し・ 且 又 美しき神的なるも
のについて思念し得る 宋き oha で 娘 Ⅹの︵寸ヰ 巾ゑ再 斗ぎ蕉釦簿へ cov ︶と考へられるものである︒ この場合︑アリスト
テレスは﹁ 神 的なるものについて思念し得るも の ﹂とは﹁それ自身が神的なものであらうとも︑ 我々のうちにある 最
も 神的なものⅠかもの︵㏄ づ a ︑﹁ 0 こであらうとも﹂ と 述べ︑それが 亦 彼によれば︑﹁理性であら う と︑ 何か他のもので
あらうとも﹂と述べて ゐて ︑そこにはアリスナ アレスの不明瞭さがあり︑従ってそれが理性であ ると 云 ふことについ
英
ア
リ
ス
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ト
今 にもつものである︒何故ならば︑純粋観照は自分 支げ濁り居て出来る のであって他の人の存在は必然としない︒この 活動はそれ自身以外の何ものも生ぜず︑この活動 のみそれ自身の故に
て る人に配される所の几ゆる傑作がこの純粋 観想の活動に具備されるので︑この純粋観想は最 上位の活動である︒尤も 煙 ﹁ かュる 生活は人間的より以上の善き生活 でなければならない︒何故ならば︑人がかくの 如く生活することは︑その て 人が人間である限りに於てではなくて︑ 却 って神的なる或るものがその人間のうちに内存 する︵ 申転セ がし限りに の 於てであり︑この神的なるものが合成的 存 狂者としての人間から実ってみると同じ程度にそ の 活動も亦他の徳に従っ 轍 ての活動と 昇 ってゐるからである﹂︵ P すか 宙︐ ︒ P ︶べ べヴめめ も ゅ ︶︒人間は感性的本性をも知性的本性 をも所有する精神と身 購 僻 との合成 瞠 であるので︑人間に限定される 生活は︑感性的且 つ肉膿的 心の動きがあり︑ そ の 働きを理性によって秩序 利付げられねばならない︒蓋し理性の働きが 憩ふ ?p の の ﹁の︶ と云 ふことは優れた 堅緯 に固有な ことであり︑そこに於て テ のみ知性的本性が見出されるのである︒トマ スは 註釈して﹁それ故に明かにか ュる 生活をする 人間即ち観想に憩ふこと
間は︑ 彼が様々のものから合成されたと 云 ふこ とによってではなくて︑ 人 間 には或る神的なるものが存在すると 云 ふこと によって換言すれば知性によって神的な類似を 分取する限り生きるの
65@ (3aD
パ ・ ゴト ︶ べき ︶め @S アリストテレスはかⅠ る 純粋 観想の特性を次の如く述べてゐる︒﹁それは 如 何なる事柄をなす ょ ‑3q3‑ りも 持績的 ︵ qc ふ Ⅹ ら しに出来る﹂ ‑2@ 宙ヴ 山口・ ドト 円ぺ の 凶 ㍉ 又 それは
知律
0% ⑨に従っての活動であ る ︒ かュる 知に従っ ‑4‑ ての活動は純粋牲父
仁心 由 で転 つつ こと不動性 8% ま ︒こに於ける驚歎すべ き快 ⑱の 0 ふ ︶を含ん でぬ るものである︒ 活動が究極的な幸福でなくてはならない︒その 活動︵守令せ め @ ⑨が純粋観想的なもの宅の p ︶屯せ コ 沫 さである︵門三・・としてあると 云 ふことに謝するアリストテレス の 自費は不徹底であった︒この艶をトマスはキリ スト教の思索の上に
立って明瞭化するのである︒その意味で︑トマ スの 観想 宋 0 口 ︵の @9 団ぃ笘 0 ︶は軍なる観想 Q の e 穏 芭 ではなくて︑トマ トテレスは人間のうちに神的なるものがあると は云ふが ︑神的なるもの乃至神それ自身になる︑ ズ はかくなったもの の 最善なる部分たる理性の
ある︒かくして人間はか ュ
あるが︑人間は努力を轟 し
ふことに含まれる問題 肛つ 徳に 従って神的生活に入り得る可能性と 云 ふも のはある︒然るに神的生活は不死の生活で
る 理性の徳に従って神的生活に入るべく努力す ることが必要となる︒神は初めから不死で
て 人間に可能な程度に不死になるのである︒蓋し ︑アリストテレスはこの﹁不死になる﹂と 云
いては不明瞭さを残してゐる︒この鮎を明瞭に 食属 させたのがトマスである︒ 既ち アリス だが︑然し人間はか ム る神的生活 肛 興るために は ﹁我々は出来る限り不死になる③も fiva づ ︵ りめ @v ︶ べ ぎであり︑自己
のうちにある最善なるもの に 従って生きるため に萬善 を養すべきである﹂ ヱすや Ⅰ・︒トトⅡⅠ 且 葵上のち︒ ‑9‑ 人間には人間のうち である︒それ故に ︑ 自らの純粋性に於て考察され る 理性が精神と身籠のムロ 成騰と興 ってみると 同 じ 程度に︑観想の働 き
︵ 0 ちの lp ︵ @0 のち nF‑p‑ 〜 づ こは︑本来的に人間的なもの に閥 する所の道徳的 徳 によって生ずる働きとは 距 りがある﹂と 月ァ 0 |
m 傍 卜串田 コ傍 ︒の︒ 日 me コ村 Ⅱ 軍ぎパ Ⅰ 乙 ﹁ 0 のし目ざ︒ ﹁ 偉尽の Ⅰ 才ピ ︒ 日 ac け宙ヨ ︒Ⅰ〜 汗 ︵ パ ︒Ⅰお宝︒ⅩⅠ︶︒ 従 ってか上る生活は人間
的 生活 a ㌦︒ 寺き 叫き 0 の 而 ︵ 0q ︶に比して神的生活 ③ものの 0" 馬む ︒︶である︒然し︑ 他 万一︐合成者の徳
ふち の づ a ︵︶は人間的 徳 であり︑而して生活も亦 か 上る人間的 徳に 従っての生活であり﹂ 釜 ・ z : 本 9 目おの き 1% ︶︑人間
の 最善なる徳である理性の徳以外のか ュる Ⅱ他の 徳仁 従っての生活は第二次的なものである︒何 故 ならば︑ かュる 徳に ハ 7@ 従っての諸々の活動は人間的性質⑤︒ Qbe ョ ︒ 沫 Ⅰ ざの Ⅰもので セ のるか 亡リで 七のる ニ ︵ 手宙 ・︒︶︶Ⅱ㏄の ト e ︒ 人間は精神と身 膿め
合成者であるから︑人間は理性の徳以外の諸徳 にも 徒 ふものであり︑ か 上る生活が人間の生活 であるが︑ 又 ﹁理性の
如く外的なものに左右されない自己の中の最高 0 部分たる理性の念
に徒 ふ生活もなし得るのであり︑その生活は神 的 生活である︒ か ﹂ る 意味では︑人間は二重生活者 であると 云ひ 得るの
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アリストテレ スの 純粋観想についての 聖 トマ スの 解釈
ス がそれを神の観照︵ no 口の︵の 日 専田︒ し ③ と明 瞭に 呼び︑そこに人間の究極的幸福︵〜の 目 9% 就岸 田日巴 をおくのであ
り ︑その鮎にトマスの特色がある︒このことは 逐次明かになるであらう︒
以上によって︑アリストテレスでは︑﹁不死に なる﹂と 云 ふことに含まれる問題ついては不明 瞭 さはあるとは 云
へ︑彼の云 ふ 観想 途 6e 穏 こも神的生活である ことが理解されたが︑更にこの点をか上る観想 と 幸福の問題に立入
って論及して見ると︑アリストテレスは次の如 く 述べる︑﹁究極的幸福ぶ つ やめ へお し㌢ ‑ モ Ot へ ぬ ︶が純粋観想的な 或る活動であることは次のことから明かであら ぅ ︒即ち 神 Q め 0 へ ︶が何にまして至福守 ぉ玉転や Q こであり且つ幸福
︵ 驚 ㌢ モの艶 らであると我々は考へた︒︵中略︶ 至 福 なることに於て優ってゐる神の活動は純粋 観 想 的なものである﹂と
︵〜す い伍 : P ト 日㏄ す ㏄ l ㎏ ㏄︶ 0 この吉井 禾 からして︑アリスト テレスの観想も﹁神の観照﹂となり︑トマスの それと同一のものの
様に思はれるが︑それは表面的に両者が同一の ものであると感ぜられるのであって︑同一では ない︒一 % ︑アリスト
テレスが ︑ こュで︑神谷 め 0 ごと 穐 してゐるものは 如何なるものであらうか︒勿論︑アリストテレス の 去ふ神はキリスト
教の神 6 の屈の︶ではない︒トマスは︑この箇所に 於 げ ろ アリストテレスの︵ 簿 0 へ ︶たる神が如何な るものかを 註稚 して 云 ふに ︑それは 猜 正實 籠 ︵ 簿 すの︵ り ロ目 pn のの 口 ara ︵のの︶ であると述べてゐるが︵ づオ ︒ 目毬卜 信田 甫の :の︒ @ ︶ @ 目 ・ @ 己 ・〜 4, Ⅹ︒Ⅰのの 目 ︒
パ ︵Ⅰ︶それは軍なる 猫 土質膿の意味であって ︑キ リスト 教 的意味のものではない︒前述した如く 二︶アリストテレ
ス は神を思惟の思惟で 0 ふ q め 8 のヒム dq ︵の︶と規定 し ︑そこに 於げ ・ る 神の思惟の封 象は ︑神的理性 が 最も優れてゐる 限
り ︑ 神 自己自身であった︒それ故に ︑ 神は自己 自身より以下のものを思惟すること 守 oe
のⅠ︶は ︑思惟の思惟を低下 させること ュ なり︑神の堕落となる︒ましてや 最 悪 なるものを思惟することは避けられるべ き で ある官立ので㌢ら ゆ
︶の円かすぎ よ止り ︒ かノ Ⅹの 如ノ へ︑アリストテレスの 神 が封 象 とするものは最善なるものであって ︑亜 ゅ なるものはその 封象 となってみない︒アリストテレスに於ては︑ そ の神は善をも悪をも含める神ではない︒その 意 味 で︑アリストテレス の神に於ては善悪の交錯するこの世界は顧み ろ れてゐない︒アリストテレスの神は世界に伺って 積極的に働きかけ ろ
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