――目次――
1,
神秘主義における神の理念, フリードリツヒ・ハイラー, The Idea of God within Mysticism, Friedrich
HEILER, pp.1-23.
2,
背景的研究と形態学的研究, 仏教学研究の新課題について, 山田龍城, A New Approach to Buddhist
Study, Ry
ūjō YAMADA, pp.24-33.
3,
マリノウスキーの呪術と宗教の機能説について, 阿部重夫, Malinowski’s Functional Theory of Magic
and Religion, Shigeo ABE, pp.34-63.
4,
アリストテレスの純粋観想(θεωρία)についての聖トマスの解釈(下), 東光寛英, St. Thomas’
Interpretation of “
θεωρία” in Aristotle, Kan’ei TŌKŌ, pp.64-77.
5,
米国宗教学の展望(上), 北川三夫, A View of the Science of Religion in America, J. Mitsuo
KITAGAWA, pp.78-109.
神秘主義における 神の理念 っ そ の 満 て て の で た 切 こ
外 内 は
さ り の界 な な れ 抜 危
的
る く たげ 機
な 体 " 洸 よ な体 験 個 惚
ぅ神
験を人体と学
で、
的 験すは
な し で あ
フ も と っ ち と
交りを
に ィム、尚復
出会っ 彼 て、
革 者@
。,
守
ら た ら と持
9 目 。 の 神 つれ 易
し神 秘 人
たのか
、
心し 認家
識と
座 で は 知 る り
のの
上体
た "的。
"神し
返 な 験 と 派 聖 助 るな え 生 な げ
神
の彼的
るを
な で ら な 雲 珠 ィ あ が も に め エ イ 237 Ⅰ おそらくは人間の排除、非難となり、かくて 遂 に 、限界 づ げられ 得 ざる神の限界 づ げによって 、 ぬ @ 学,は -EnE の の局 0 口 学問となってしまうであろう。 神学と云 う ものは、すべて一種のジレンマの 或いは神の業について組織的な方法で表現し、 れた理念から区別する事が神学の課題である。 ろで、しかしながら神の本質は無限なるものな が 生じる。第一に 、 神はこ生では卑小化され、フリードリ
ツヒ
ハイラー
中にある。神学とは、神についての学問的な研 究 である。神の本質、 かくして神についての真の理念を誤まった 、あ いまいな、ゆがめら あるドイツの神学者は﹁神学の本質は限定にあ る ﹂と定義した。とこ のである。かくして、この限定と排除とから 神 学 にとって二つの危険 せ ばめられ、歪められるであろう。第二に、 諸概 食や諸理念の排除は 、神秘主義における神の理
念
ザヤ が神殿において見知し 、 雲の上から﹁これは 我が愛する 子 ﹂という父の声をイエスが聞き、 又 キリスト教の聖者達 2 がさま
ム
Ⅰな形で神やキリストや聖母を見た 、 と 云 う ようなすべてのこれらの体験においては、 決して外界において 怒 なされた観察が問題とされているのではないの である。それらは、外界的な感覚と等しいと 思 われる程に強烈な 、内 なる眼の見た光景であり、内なる耳の聴いた 声 なのである。多くの神秘 家 達も又幻視と幻聴を 知っている。しかし、 これらは、単に彼らの体験の世界の境界線にす ぎない。彼らにとって、これらすべての幻にまさ って、はるかに重要 なのは至高なる神についての霊的な瞑想 せ安 0 ぃ ユのコ のの︵ け巴ざ であり、さらにそれよりも又、無 限なる神との魂の底に おける合一の体験口ロ いつ目せの ︵ @0 曲なのである。 この究極的な 、 全く直接的な神の体験は、しか しながら、長い真摯な求道と苦闘の準備の後に初 めて与えられる。 うつろい行く世から自己を断絶する ゎ 0 目の︵の サ 0 ﹁ 目 心しにつ ビ いて、外界からの組織的な分離と き 難の克服の道 つぎ 口目 圏 ︵ 円 せ りロ 浄罪の道しがあり、さらに黙想と祈祷 による、 唯 真にして善なるもののみへの心の集注 の道 ぺ ia 二三日トロの 申 せ % 庶 萌の遵がある。かくて道は つ ぎ岸田︵ 円 4 曲二教 の 導に通じるのである。突如として神にとら , ぇ られ召された予言者 達 と同様に、神秘家にとってもまた神は知的反 省の結果ではなく、彼らの生命の事実、彼らの 体 験の事実なのである。 然り、 唯単 仁体験の事実であるのみならず、 彼 らの苦難の事実ですらある。神秘 家 たちは神を 知る事を学ぶのみなら ず、 神を苦しむ事をも学ぶのである。 きて & ヒ 0 ヒ モ Q もふ 寸酊ざシ ネ木 しゴぬ吏ひ ⅠⅡ a も 航ヘ ㌫ 周 弟子となる ぱ かりでなく苦難も又しと ディオニシウス・アレオパ キタ ロ口 @0月
旨 0 の︵ずの 尼 B ゥ も % 汀 。新約聖書に見える一世紀のギリシャ 人 、彼の 名を借りた 新 プラト ソ 派 的 キリスト教神秘主義の偽書が六世紀に書かれた口は その 師ヒ ェロ テ オスについての舌口葉の中で述べ ている。神秘主義は 、 多くの場合﹁苦難神秘主義﹂であり、受難の神 秘 主義である。それはキリスト教ばかりのこと ではなく、イスラム教 においても、ヒソ ヅ| 教においてもまたそうな のである。神秘 家 達は 、 単に聖化の最初の段階に おいてのみではな く 、そのょり高 い 段階においても、 又 合一を得 た 後においてさえも、 尚 内なる苦しみを 持 つ。 な ぜなら、神に満たさ念ン
・ルーミー
ロ の巳の∼・
巳隼
・キイ
刃巾ヨ
@
・一二
0
七
セ三
、ペルシャ神秘主義詩人
U
、ユダヤ教における
力
。ハリストロ木が
ヴび巴
@ の ︵・
タ
とハ
シディーム
G
ず ハ
%
目ョ
・ユダヤ教敬虔派、パリ
サ
イ
派の先駆とも言われる
u
、
東
神
援方
キリスト教におけるディオニシウス・
ア
レオパ
ギタ
と﹁
斬
らしい神学者﹂シメオソロの
ゼョ
00
タ
九四九
@
1
一
0
二
二、東口
おマ
帝国のキリスト教神秘思想家、﹁
斬
らしい神学者
﹂と呼ぼれ
色
中世ドイッにおけるマイスター・
ェ
ッ
クハルト口言
臼降轄已め柑
されるが、しかし
九五
|
二三六六、
ェッ 尚
より
クハ
兜
れた 洸惚 たる一瞬には、直ちに最も恐ろしい虚血 い の段階が
|
・﹁乾燥﹂ @ 暗夜﹂﹁断念﹂一心の捕 囚 ﹂﹁神秘なる 死 ﹂﹁ 瞬 時の地獄﹂の時が|
; 続くのである。これらは すべて、キリスト教神秘主義の用語である。 神秘家の神は体験されたる神である。神は神学 者の神の如き、反省と考察の産物ではなく、知的 抽象の結果でもなドの 見者達によつてのの︵ せ 斡の湘の曲︵ せがヨ ︵真実の真 実 ︶と呼ばれ、ブラ トソ に よ つて円も憶 斉 0 ∼ ま ︵真の存在 て 中世の ス コラ神学者によってはの臣のⅡの p-@ のの片目年 5 ︵ 至 現実 なる実在︶と呼ばれ た 。神秘的に体験されたこの神は、どの民族、国 民 、宗教においても同じである。シナの道教に お Ⅱ リイ Ⅰ 、ブ ミノフマニ スム 、仏教、ヒンツー 教 、ユダヤ教、イスラム 教 、キリスト教において、そしてもちろんまた 、シリア、 ェ ジプト、 ギリシャ、ラテン、ケルト、ゲルマン、スラヴ 等の全ての民族のキリスト教においても、常に同 じなのである。神秘 的な体験として、それは常に同一であり、それ 故 に 救済の神秘的な道も又常に同じである。神秘主 義の用語と象徴が 、 到る所、常に同一であるのは、この理由に よ る 。神の神秘的な理念も又、それ故に同ぜである。 たしかに神秘主義は 異なった型や変容を有している。しかしそれら は、 いろ
Ⅱ
ノ な 民族や国民の申でお互いに共存し ている。たとえば ヒ ンゾ ーにおけるシャンカラ いコ Fpqp. セ八八 @ 1人 二 OYU とうーマーヌジャロ 鰍 ョ田 自ざ ・ 一 0 五五 l 1一一三七ロイスラム におけるイブン・アル・アラビロま
生声奉ま ,一 一六五 l 1丁一四 0 、イスラムスフィズ ム の神秘 家 しと ゲラル・エド・ディ高い綜合において両者は結ばれる。非人格的 神 秘 主義は人格的神秘主義をその第一歩と見放して いるし、一方全ての 人格的神秘主義は神における人格的要素をどこ か 不適切なものと見ている。同様に神秘主義の素 朴実践的な型と反省 的 理論的な型、霊的な神秘主義と知的な神秘主 義 とは、イソグロ ミ @ 三
貫穿
迂ず 目も、一八六 0 | | 一九五四、イギリス 国教会の神学考
がそのキリスト教神秘主義につ いての書の中で言っている 丈う に 、 全ての高等 ゐ 示教において区別され ていると共にまた結びつげられてもいる。 神秘家の神の理念の最もいちじるしい特徴は 、 彼らが真剣に神の謎官
せの︵ 辞 ざを問題にしている 事である。神秘主 義 ︵ 絹ぜの ︵片色のじ と、諸官
鴇 ︵の︵しの語源は同じ ものである。 ざかぎ Ⅱ︵ 0 争三 -モ
︵ い の bvToq よ憶 ㍉Ⅱ ヰ 。の す目 ︵ 0 目 。の づ。 @ 岸仔ず一は 絶対の秘密である。人間の一切の思考も言葉 も 神については不充分 である。神は㍉き良 づ駄ノ宵づ oE ︵とらえ難い︶また 要ぜ つつ oE 釜叩り 難い︶であり ぎ no 日つ ︵のずの口の い す∼ - の痒 ぎの用 いす 牲の︵舷 灯し を 言葉でとらえ得ると信じるのは、神を げ が す らず﹂とは シナ の最古の神秘的な書﹁老子道徳 難く言い難い︶であり、すでに シナ の賢者老子 のであり、﹁不可解なるもの﹂、﹁不可測な 、絶 神について語り、神に祈る最もふさわしい道は 事ではないでしょう か ? ﹂。沈黙こそ、神秘家に 経 ﹂の言葉である。 又 、現代の一女性詩人はこ 射的に不可測な名前なきもの﹂なのである。 に @ ニ ロ われているよさに﹁決して名づげられ得 さ 沈黙である。﹁道を語る者はそれを知らず、 道 ぅ 祈っている、﹁あなた る 隠されたる﹂あるも とっては最高の説教 を 知る者はそれを 語 であり、祈りなのである。 ふ 忘失 ノ駄さ え 鰍て 下問 P ぎ 者、沈黙の中に拝せ らる ュ者よ ︶。神秘家は偉大なる沈黙の人である 。彼らは常に沈黙を修練する。彼らの禁欲的 沈黙は黙想的沈黙、 教 理 的、哲学的、神学的沈黙となり、最後にほ 形而上学的沈黙となる。 神 的流出の霊智的な流 れの発端に 、 我々は や途 0 の と q ミふ 深淵と沈黙を見出す。生涯 の 沈黙を誓い、弟子達との会話にも合図しか 使 わないインドの禁欲 主 義者︵ 約 ロロでの ぎ ︶がある。究極の神秘について の 最も首尾 ィ質 した沈黙は、初期の仏教に見られ る 。それほ神秘的な (240) 4
神秘主義における 神の理念
秘 本
リて
ドはかの
そ 形 そ
散
る学
人
を 八救
済
の神
5 (241)1
神秘的表現の最も重要な定式は否定である。
それは、しば二重否定に
迄
高められる。
神
秘
主義はぎの
0 一 0
め ぎ
309a
︵ 写曲
である。老子はすでに神聖なる﹁
道
﹂
を
否定的な表現によって描いている。神聖なる
ア
トマ
ソ
・フラフマ
ソ
Ⅰ梵我一如
口は
、ヴェーダのウパニシャッド群の見
生有にとっては
臣 生口
監
﹁そうで
は
ない、そ
う
ではない﹂であり、
﹁この否定の外には如何なる表現も不可能なので
ある﹂。神は﹁言葉によって
壁
= ロ われ得ず﹂、﹁
思惟によっては考え
られ得ず﹂、﹁眼によっては見られ得ない﹂。初期
仏教においては、同じような方法で三ミリ
口 pn
浬 巣口について語られて
いる。大乗仏教においては、絶対的実在は﹁
絶
対空﹂︵
囲臣せ
ぎととして性格
づ
げられる。神秘的
否定は
、
特に新プラ
トソ
派に
よ
く見出だされる。それは、おそらく
五世紀の単性論の教父セ
ブヱ
ルス
G
のくの
甘
㌢四六
五
? |
@
五三八、
アソテ
ト教新
プラト
ソ
主義者によって最も崇高に展開
されている。彼の寮
ら宙セへふ
㍉㍉
色や良
﹁︵送ふ︵否定補
学
︶は多くの非常に
独創的な用語を我々にもたらしている。それら
は
マイスター・エックハルトによってドイツ語に
う
つされた。この
ド
ミニカ
ソ
の修道
僧
にとって神は﹁定義なく、
質
なく﹂、﹁
名
なく、すがたなき﹂ものでありつの
@ 臣
z の
ヨ
。 臣
。佳コ
毎胃
0 ︵のの
-0 ののの,︶
、
﹁、これでもそれでもないもの﹂Ⅰ
音
毛舖
- 色舘
三のず︵
田窃
。 串 目口ののめの︵。。︶であり、﹁
人
が神について考える
全てのもの、丈人が神に与えるすべての名前・
|
これらの全ては神ではない﹂のである。かくて
神は、まったくの﹁
非
存在﹂、﹁
非精ぬい
﹂、﹁非人格﹂、﹁
非神
﹂、﹁
無
さ
﹂、﹁
無
﹂
二
Z ざア
︵毛のの
e 口 ,。
, 三
% ずゐ
色色,。
,之
∼ リ アドで
e ㍉の。
ちこ
@
拭け石ざず
︵。
た%
ソ
ゲルス・シレジウス﹁
下患
ざの篆のの
ビ si
一 六二四
@ |七セ
、本質的には
ヱッ
クハルトの
教説
の 赴
文化であ
凸と
言われる
神
% 的
短詩集﹁ケルビムの巡礼﹂
孟 茂した﹂が神秘主義
の
観念の全ての集約を含むと思われるその﹁
ケ
ルビ
ム
の巡礼﹂の中
で、次のように歌
う時
、我々は彼を
ア
レオパ
ギ
タと
エックハルトの道に位置づ
け
得るであろう。
﹁神とは何か
、
誰も知らない。
( ぬ 2) 6神秘主義における 神の理念 神は私とあなたがそうであるもの、 しかも決して被造物なる人間ではない。 x 、神郷自身ですらない。 決して知られず、 又 知られ得ないからなのであ る 。﹂ しかし、この神秘的否定は 、 実は肯定的な表現 なのである。しば誤解されている仏教のニル ヴア ナという観念 ほ ついて、特にこの事は言われなければならな い 。それを﹁ニヒリズム﹂と説明するのは、全く の 誤解である。無を その究極の目標とするが如き宗教が、アジアの 半ばを征服する事が出来よう筈はない。ニルヴァ ナの 、この肯定的な 性格は 、 次のようなゴータマ・ ブ " ダの壮厳 な @ @ の中にはっきりと強調されている。﹁生れず、 成長せず、 づ くられ ず 、構成 力 から生じたのでもないものがある。 かュる、 生れず、成長せず、 づ くられず、構成 力から生じたのでもな いものが存しないとすれば、生れたもの、 づ く られたものから出づる道、構成力から生じる道は 存しないであろう・ 一 。 神秘主義者にとって、否定はた ビ も 経つモ Q ヒづ 00 薄 い こ ﹁絶対他者性﹂、 聖 アウグスティヌスの 一 吉日 ぅ 如き 巴ぎ 仁田∼ EL 春田の学∼の︵ ヰの 0 日 リョ 荘あ ︵﹁これらすべてのもの と 異なるもの、全く異なるものとの表現にすぎ ない。かくして、 否 定は神についての最高の表現となる。なぜな
ヨ
ア イ オニシウス・アレオパ ギタ の言う如く﹁ 神 によって 、 我々は神は何であるかと云 う 事を認 裁 する﹂ C ∼㏄ 甘モ 心皮 ち q0 むの Ⅱ コの め ヒ 。 か ・ コの b ocR 守 神は光ではない、心でもない。 真理、一致でもない。 又 、あなたが、 神と思いなすそのものでもない 0 知恵、理性でもなく、やさしさ、愛、心のおも いでもない。 何ものでもないもの、又、無、これこそ神であ る 。情緒の産み出す一切のものでもない。も 小さく、最も大きなものよりも大きい﹂。同じ よ う に アソ ゲルス・シレ シウス も歌っている。 ﹁ あ Ⅰ 、 神は何と大きいことか、 あュ、 神は何と小さいことか、 最も小さいものよりも小さく、
における矛盾の結合の表現である。神秘家の神 はゎ 0 日怯めメぃ 。 イ オニシウス・アレオパ ギタ の言う如く﹁光り 輝く暗黒﹂の マンは﹁内在にして超越、言い得て言い得ず 、発 見されて 発 して不動、遠くして近く 、 全てのものに内在し て 全てを 超,ぇ 。 ヌス も又神を﹁の︵申す∼ -@ の 票田 00 日つ ﹁の ザ 窪の子安 ダ @ 日日月︵ 笛ヴヱぢ 。 のの ヨ ㌧ 締 傭の目の。お 5 つ 繍由仁 ︶の︵岸の﹂
禾
変にして会得 し 難く 、 動か く ::常に 肋らきつュ 常に静かなり︶と呼んで いる 0 カータ 0 で㌧ 0% ︵ 0ru 邑 。 no ぎ 0 日の三 ぎ 0 せつ 0 の︵︵ oru ヨ である。 神は デ 中に住む。ウパニシャッドによれば、アトマ ソ ・ブラフ 見されず、意識にして無意識、現実忙して非現 実 、動に ている﹂のである。インドの見者と同じく 聖ア ウグステ ロ 由 ︵ 笛已 。日日 p 。三目石窟目口 0 づロダ ヨ目 ち ua 日 ﹁の -u の: ずして万物を動かし、決して 斬 らしくなく決し て 古くな 力 ・ ウパ ニシャ, ド によれば、神は最も小さな ものより 2 、神についての神秘的表現の第二の重要な道 は 矛盾である。ルドルフ・ オ ,トーの言 う ところ の ﹁矛盾の調和﹂&% 怯 むのである。こうして無知 と無 認識とは、 最高の知、最高の認識となるのである。すでに ウパニシャッドの め る 神秘詩人は﹁認識者によって知られず、認識 せざる者によって知られる﹂と語っている。ディ オニシウス・アレオ ハギタ は﹁無知によって知られる﹂神の最も聖 なる知識について語っている哀辞 S コ汁 心づ 00% の 00 また 鱗 q ︵ づ ㏄Ⅱ 羽セ Ⅰ G. q ヘ Q づ せき 0q 沫 0 モぎ さ 。 聖 アウグスティヌスも又 ﹁日色ぎのを︵ ur しの 拐臣 のの ゑ の口ロ 0 ﹂︵神は無知に よってより良く知られ る ︶ と言 3 時アレオパ ギタと 一致しており、 二 コラウス・ クサヌ スロ 之ず 三八ド の えの 由ゅダ 一四 0 一 l ・ @ 六四、ドイツの神学者、 哲学者、新プラト ソ 派の神秘思想を受け継ぐしも 聖ア ウグスティ ヌス にしたがって 隼 oc ︵の何 % 。 S 三寸 ロ 無知の知日という卓越 した用語を見出だしている。 (244) 8
神秘主義における
神の理念
( さ と ( の か 誠 喜 サ て" 0 まもま は っ
し タ
善い
語 ほ でソ 万
神 れ
よ ノ 隻 。 ホ, Ⅰ る る るれ 勺 々 て 沫 に イ圭
坤
㌃
笘 ㏄( く匡曲
日 日9@ (245)
笘の @-so 汀 ヨ % 邑 ︵汝のあるところのものは 我な り ︶ 、 q もさち 笘レ きへんぺ シ q も︵汝は我 な り、 我は汝なり︶ 、 q も ミぞ ㏄ 憶ぎ卜 ︵汝は我のあるところのものなり 肖 目巳 。 オ aq 由 ︵我は神なり、フサイン・アル・ハラ
こ
、 私の存在が神である ︵ジェノヴァのカタリナ︶ ロいいチ S 目 ohO 廿らギ 一四 四セ ・・・ l 。・一五一 0 イタリアの神秘 家 、聖女 UO キリス ト教 神秘 家 達は、この 同一性を本性において得られたものとして ビ は なく、聖なる恩寵の賜物として述べている。﹁ 新 らしい神学者﹂シメ オ ソ はこう言っている。﹁私は本性によっては人間 であるが、恩寵によって神である 二 ③も う 03 有才 の 首 ︵やもⅠ よ 。もめ レり萌 め Ⅰへへ百こマイス ヵ ノー・ ェ " カノ ハル 八 Ⅰハり舌口も同じで ある イ 神が本性によって神であるのに対し、我々 は 恩寵によって神と なるべぎである﹂。しかし多くの神秘家において は、ナ ﹂の同一性の定型は、内在の定型へと容易に押 し 進められる。すで に 聖パウロはこう言っている。﹁生きているのは 、もはやわたしではない、キリストが私のうち に 生きておられるの である﹂︵ガラテヤ二三 0 ︶。ヨハネ福音書におい て、 我々は同じような言葉をイェスの口から 聞 く 。﹁あなたたちは 私 におり、私もあなたたちにおる﹁︵ヨハネ一四二 ⑤。救済 神 クリシュナも又同じように バガ バッド ギ ーターにおいてそ の 弟子達に語っている︵九二こ 0 キリスト教の神 秘宗達は﹁ 汝 、我にいまし、 我 、汝におる﹂と い う 祈りの定型をく りかえし用いている。神秘 家は、 神と 魂 とのこ の 交りの中に、又、いと小さき人間の心に永遠の 神の住み 結う このこ とに、彼らの最高の歓喜を見出すのである。 人間の心に住むこの同じ神は、 又 同時に万物のに 変容する。一切 の 感覚的なものから自己を救い、外界に対して その扉をとざした魂に、多種多様な全自然が回帰 して 釆る 。しかもそ れは、もはや神から離れ、孤立してではなく、 神から溢れ出で、神から放射して彼に回帰して 来 るのである。世界の 過程 は 、神秘家にとっては、一つの流出であり 、放射なのである。神秘家は万物の中に反映され た 聖なる自己を認め る 。ウパニシャッドは語っている。﹁我において 彼は宇宙を認識する﹂、﹁万象を彼は我と 見傲す 一 、﹁ちょうど小さな 火花が火からあらわれるよさに、この我から 生 きとし生ける全ての 霊 、一切世界、一切諸神、 一 切生類が出で来る﹂。 (246) Ⅰ 0
リウゲナコ
0 オコ
の no*0
の 甲俺
のコ
チ
八一
0l@
八七
セ
:スコット
ラソド
の
哲
学者
ロの
言によれば、﹁万物は
、
見ゆるものも
見えざるものも、全て神の顕現である﹂。すでに
旧約外典の賢者の言
の中に
、
我々は﹁宇宙、それが神である﹂すか
甘
ぎぬ
q
﹁ ら Ⅰ自守
オ
・︶
es.
組プお
" 。︶という大たんな
一節を見出すのであ
る
0
この感嘆に文字通り対応しているのは、
チ
サ
ーソド
グヤ
ウパニシャッドの中の次の言である
。﹁げに、宇宙はこの
ブラフマソロ
覚
しなり﹂
宮麓ぺづ
の 日
オア
ま田ゅヨプ
ト
1合修道女
ロ
の次のような言にも見られる。﹁神は
﹁ ゅア
日色。エジプトの母神イシスに対して、ある
全てのものにおいて全て
ビ
ある﹂口の
0 ︵ -
かめ
︵ ヒ
すし
り 目的︵巨の目
0 戸ロ︶
目顕
0 コ
︶。
礼拝者はこう呼びか
げている﹁三村圭
鴬
9
。日田
p-p
の p H
の @ ﹂︵
汝
、
唯
一にして万物なる者
l
イポイマンドルの祈祷
三
ジプトヘレニズム
0
所謂神秘的書物の仮空の人物︶もこの方法でな
篠
q
円らⅠ
憶
下手巾
い -q
イら
む
コめ寸
Ⅱ か良め寸
㏄丁の
vo
で。
q
も
つアて
や
柁めヒ転
荒亡
0 ヒ ﹂︵
油供は
宇宙なり、汝にあらざるものなし、汝は存在する
一切のもの、
又
存在せ
ざる一切のものなりて神と現象的世界とのこの
同一視は
ョ日
三の已
目絹
のし毬の﹂︵万物は神なり
︶という
ェりウゲナ
のみならず、素朴な祈祷
女
マグ
デ
ブルグの
メヒテ
ィ
ルトロ
目
ec
仁田
ユぬ
0h
睾ぃ
㏄伍のすけ
お
、一二一二
i
|
八二
こ
亙において我々は
、
最もいちじるしい
神
顕現
思想に出会う。しかもそれは合理的反省にではな
く
、神秘的合一の
洸
惚
たる宇宙的体験に根ざすものなのである。
神
私家にとって、宇宙は
ヵ
オスではない、宇宙は調
によっ圭織﹁神は世界を時間性において創造したの
義的
思想・は
、アソ
ゲルス・シレジ
ウス
宇宙は永遠 よ りある。それは明らかな事だ。 神は今なお創造する。 それは奇妙な事だと思 うか 7 神にとっては、我々が こ 生でもつような以前も なく、以後もないのだ﹂。 このように、神秘家は神の意識によってのみな らず、宇宙の意識によっても貫かれているのであ る 。﹁我は神なり﹂と い う 歓喜には﹁我はげに、この一切なり﹂ 守ま ヨ 臼の出Ⅰの呂のの∼ ヰの日諺且 ︶という叫びがつ ビく 。この意識から、 自 然 に対する神秘家の偉大な 愛 、特に全ての動物 、人間以下の生物への愛は説明され得るであろう 。神秘家の愛は全て の 生物を包含する。五世紀の東方の神秘 家 シリ アの イサク ロ ︵の aac ︵ ダ 0 ぜ 由ぃ 巳は﹁憐れみ深 き 心と は 何か﹂と問い、 そ してこ う 答えている。﹁全ての生きもの、全ての 人々、 鳥 、動物、然り、悪鬼に対してすら燃える 魂 、存在する全ての ものに対して燃える魂である﹂。フランドルの神 桃家ヨハン・ルイスブルック ニ 0 アリゴ憶の串 0 の 拝 紬正きダ 一二九三ー i 一 三八Ⅰオランダの神秘 家 口は神秘 家の ﹁全てを 包 合 する 愛 ﹂について語っている。キリスト教の ゆ 漠の修道 僧 、 アイ ルラソド 、スコットランドの修道 僧 、アシ ジ の 聖 フランシス 3 ヰ 巾 rpn 目の 0 ︵下劣 ざデ
一一八二二
三上八ロ と リオ二の幸Ⅲ押マ ナ 4 達 ズインリヒ・ ゾイゼ 、シュヴァ l ベソ の ブ ラ ンシスカン 達 、彼らはすべて、この全てを包含 する愛の最も ぃちじる しい実例である。しかしてこの愛は 、たビ 人間以 下の生物を包含するのみではなく、人間であれ、 動 物であれ彼に敵対す る 存在をも包含するのである。敵に対する愛は 、 キリスト教においてと同様に、シナの道教、イン ドの ブラナマニズム、 仏教、ヒンツー 教 、モスレムのスフィズムロ ミ 。 ム の目の。かの 日 ・イスラム教の神秘主義、八世紀頃に始ま る 0 の 曲 かの V 七ロ 宙憶 。 ra 戸戸 汀口リ ア∼ U 、ユダヤ教の ハ シディ ム においても、 最 も重要な倫理の標準規則なのである。野獣にお いても、敵対する人間 においても、等しく我々は神性それ自体を愛す べきなのである。 超越と内在は、神秘家においては一つの偉大な の Q 日の片Ⅰの 口 ︵ ぃ p o づ 遷の @ ︵ oqE 日の中に共存する。神は 空無であると同時 (243)@ 12のに併呑される。 これらの自然からのイメージと並んで、我々は 、 人間の生活の領域から取られたイメージをも 見 出 だす。神は 、王 であり、 主 ︵まま 亀 。︵ 之窩 pn 自在天 ど、 救い主、 X 、母、友、愛する人、花婿である。この最後 の 二つのイメージは 、 歓喜に溢れる 岸圧 。 ヨせ の∼ @ca と同時に 、 神の不 在の悲しみの段階にも関連して好んで用いられ る 。この世の性的な 愛 は 、この世ならざる神秘的 愛の イメージとなる。 神秘主義においては、 大 ていの場合、正常住性 褒め イメ l シが比倫 的 表現に用いられるのであるが、ペルシ ャ の イスラム神秘主義においては、同性愛の比 倫 的 表現がよく見られる。。 へ ル シ ャ では、それは不道徳なものとは晃敏され ていないのである。ヘルメス・トリス プギ ストス 、仏陀、ヴィシュヌ 念 ・ナーラーヤーナ、クリシュナ 、 ヤハウェ 、 アラー、子なるキリスト、苦難の人キリスト、 復活のキリスト等いろい ぬ ろな宗教の人格的な神の姿が神秘家にとっ て 神性のイメージとなる。これらの外にも我々は 、 大いなる母なるな 神ィ にっビ いてキリスト教の聖母等をも見出すのであ る 。 お 自然や人間の生から取られたこれらのイメージ と 並んで、我々は礼拝 と聖 礼典の領域から取ら れたものをも見出
描す
。神秘家は全て何らかの精神的な方法で 神を想起しており、彼らの中のある人々は徹底し た 精神主義者である。 し 嗣 かし、他の神秘 家 達は 、 神の臨在の彼らの 体験の意味として、神像のような感覚的な象徴 や 、礼典的な象徴を m いる 13@ (249.) 内奥の原因であるが故に、神秘家にとって感覚 に 認知され得るものは全て無限なる神の象徴とな るのである。一方で は神秘 家 達は 、 最も大たんぽ抽象を進めると 同 時に他方、彼等はその体験した秘密を讐 喰 的に 図 示する事を決して 蔑 規 したりはしない。彼等は 、 神についての象徴 を 好んで自然から取る。 火 、光、太陽、山、海、 泉 、井戸、 樹 、バラ 、 円 、それらと共に 又 、暗黒、深淵、孤独、沙漠 導 これら全ては神の無限さ、その広大さ、その 先 命の力、その美しさ に 対する象形なのである。終りあるものは全て 終りなきものから発しそこへと帰り、限りあるも のは全て限りなぎも に豊移 であり、最も単純なものであると同時に 、 最も多様なものなのである。神は万物の中に存 し 、万物の存在の最事を決して蔑視してはいない。
南
インドの
タ、、、
|かめ洸惚
的な神秘主義の詩人ヴァーサガルは
、
くり返しシヴァ
の神殿における神像の瞑想に心を燃やされてい
る
。また、ギリシャ教会の画像礼拝の弁護者達は
、
次の二つの論点を
特に持ち出している。㈲、霊的人間はこの世の
対
型から聖なる原型へと昇り行くと云
う
プラト
ソ 的なイデアについて
の
理論、②、不可視なる神が
、
見ゆる姿を取り、
そのような姿の中に今も尚入り続
け結うと
云
う
キリスト教の受肉に
ついての教理、がそれである。
しかしながら、全てのイメージも
、
全ての社会
的形体も、一切の神の名も、皆、単なる道具であ
り
、象徴であるに
すぎない。神秘
家は、ェ
"
クハルトによれば﹁
象徴から立ち去り﹂
宙
0 口ロ二年の目方。日日の色、﹁
警
愉から踏み出し、
守
屈の隼の日
0
二の
0 ず
三の
ぽ の﹁
斡痒の
- ﹁の
ト の コ
︶、﹁全ての曲言
ゆを打ちくだ﹂守二のの
@
。 す
三の
" の
。 E す
。の臼の口﹂
かねばならない。
神
0
人格的概念すら、一つの初歩的なものにすぎ
ない。それは、
たビ
単に人間に向げられた神の人
間
的な顔、人間に拡
げられた神の人間的な手を示すにすぎないので
ある。神秘
宗
はしかしながら、超人格的な神へと
進まねばならない。
偉大なイソ
ド
の哲学者シャ
ソカラ
は、人格的な
神への信仰を﹁下知﹂
守
-"a
︵ 簿づゃ
Ⅰ せ
こと
見
敬した
。しかしながらそれ
は
彼にとって決して価値のないものではないの
みならず必要なものですらあった。たしかに﹁
最
高
自在神としての
ブ
き
れ
認 し の
である﹂。フィ
ロソ
にとってもまた、人格的に
想
定
されたロゴスは
、
質を持たない永遠の神への
第一歩にすぎない。
同じように、キリスト教神秘主義は人間イェス
、 受肉の神子から永遠の神ロゴスへと
向う
。オリ
ゲ不ス
nO
由 ge
口 。一八
神秘主義における 神の理念
あ の 言 れ
、
この ,
清麗
ニ憶鰻嚢瞬あ
神
で し こ
想
しかなのの
@
ヒ、
」。
根
いり、
と信じ へと高あ な れ
た て め 拠 る い ら なるがこ
。
らそ
と る れ の ウ " 神"
単秘
ころしいあ
。
て で Ⅰ 5 (251)ャムピオソ の 目標は、神化︵
たる教父アタナシウス
宰へ tq
ネ
口曳
下
np-@0 姦描 ︶である。
。毬花㌧Ⅰ
五|
二五四、アレクサ ソ ドリアのフラト ソ 主義的キリ スト 教 神学者しもまた、 聖 アウグスティヌス と同 じく口ミ ア 。 日 ぎの 日 Chri の︵日日方 申 山口の粒 し笘日害
由の ︵耳目︵人間キリ ストを通って汝は神なるキリストに達しつ ュあ る ︶という原理に従 っていた。 ゾイセ はキリストの口から次のような 言葉を聞いている。﹁もしあなたが私の純粋な 神性に真に至ろ うと 願 う なら、あなたは私の蒙もっている人間性を 破らなければならない﹂。イェス、その受難、聖 体 秘跡をその主な対 象 とする比倫 的 具体的な神秘主義は無限の神秘 主義の第一歩にすぎない。人格的な神の上に。|
たビ 受肉の神のみな らず、三位一体の神をも超えて我々は ェ " クハルト呉に
、 永 遠の神性 ち 0 ︵ チの ∼Ⅰ︶を見る のである。キリスト の 瞑想、キリストのまねび、そしてキリストの 愛は キリストとの一致へと至る。全てのクリスト 者は、古代の教父 達 がくり返し強調しているよ う に、キリストとな り、 神の子となるべきなのである。﹁すべての 人 は 、自分自身の内に おいてキリトスとなるべきである﹂︵の ぃ口 苛性 ぎア e Ⅱ ぎ円 e づ ・の 0 すの 0-@ 毛 。の。 目曲戸 ︶ ず @ のの - すの @e ト ロ ハリ アⅠⅠ の ︵ ヒ ㏄︶とマグ デ ブルグニシャッ
ド
群はすでに、﹁至福の世界への日々の
婦人﹂について語っている。真の神秘宗
は、し
かし、この分離に決㎎
してと
ビ
まりはしない。彼はこの世界へ立ち帰
る
。彼は変容の奇跡を体験したタ
ホル
の山の高み
から、日常生活の低
駿
地
へとおりて来る
口 マタイ一七
%@
等ロ
。真の神
桃家は神との一致において与えられる歓喜を自分
だ
げに
とビ
めておか
ず
、それを彼の友なる人々や文なる生物遠に分
げ
ひろげる。﹁
斬
らしい神学者﹂シメ
オソ
は
、彼
が
﹁満たされ、そして
後に全ての人にそれを伝え得るように﹂と祈っ
ている
ぎ
a
︶んて㍉
シ
ギ黛もめ
沫
して
而 ﹁
R
、のむⅠ師の
づ Q
ぎ
あ ノ
ン
。㌔
甘釦
吟ら︶。フラ
ンドルの神学者
ョ
ハン,ルイスフルクはこう
言
っている。﹁さて、愛の絆に結ばれて後、人は聖
霊
との一致にとどま
り
、啓発された知識と溢れ出る
愛
とによって
天
と
地へ出で行
き
::真の寛容をもって万物を神の
変
によって豊かにす
るであろう:⋮
か
﹂
る
啓発されたる人は
、
真に
やさしくその
女
なる人々に光を与えるであろう。
彼は
、 彼らを立て、
導
き、彼らに奉仕するであろう。彼は全てを包含
する愛を有しているからである。それ故、彼は
神と全ての人との仲保
者
なのである﹂。人々を豊かにするこのような
伝
きは、すでに神秘家運によって、仏教徒に
ょっ
ても、実践されて
ぃ
たところの全てを包容するとりなしなのである。
真の神秘主義は、
4P
︵
pS
ョ
も -p
︵ ざ八
瞑想の生︶
と
丘宙ま
目の︵活動の
生
︶との一致である。それはキリスト教神秘主
義
によって、レア
とラ
ケル、マルタとマリヤの
姉妹達の象徴的な姿の
もとで表現されている
口創
七九章以下、ル力
一
0
亡 一
<l
当参照
L
。神秘家運には瞑想的な生活と活
動的な生活とのたえ
ざ
る
交替がある。それは人間の心臓のの
ゼ の︵
0 こと
隼 ia
の︵
0 一の︵収縮と拡張Ⅰ肺の宕ロら
0 のと
倖礒
もら。
の
︵正忌
と異息
︶の
律
動的な動ぎに較べられよ
う
。キナスト
教
神秘
家
の中には、
聖
アウグスティヌス
、聖
ベルナルド
万
︵
めのⅠ
目 すりⅡ
あ
0 円の
一 0 戸
ぺの仁
Ⅹ・
人
、フラノンス
ブ
ラ
ソス
の神秘的修道女﹂第の偉大な活動家がい
る
。彼らはすべて世を捨てる事と世にあって活動
する事とを調和ある
神秘主義における 置 ッ あ タ い ク る l て
い か エ る ト ス ツ が、 と @ ク 同 プ ハ し じ を ル か く 求 ト も 初 め の
仏 朝
る言
陀
の質 業
も 仏 者 で ,や 教 が あ
は
もあ
る り ま づ が ミ た た らそ
平 の 弘 司
静事
は じ と 念 面 ェ 現 」 ち ッ0
曲 タ は状 目シ
こ行 の
で土
。 l あ に ェ に 17 (2 品 )合
さまよ
う
遊行﹂は
、
一つの道程にすぎない
。それは人類への、また一切の生あるものへの
広い付きかげの過程なので
襖
ある。﹁私は憐れみよりも断絶を賞讃する﹂
︵ 田 。
ゴ一
0 ヴ
0 %
円のキす
内のののず円の宙の臣ず臼︵
む すのⅠ
田
。
目 い の
Ⅱ 日ゴの
rz
握ガの
@ ︵︶
とは
マイス
道 において最大限に結びつげている。しかして また、我々は瞑想と活動とのこの一致を偉大な 非 キリスト教神秘家に おいても見出す事が出来る。たとえば老子は﹁ 俺 @ 為 ﹂と云 う その神秘的な生理念の上に、社会と国 家についての全哲学 な 形成し、神秘主義を政治の原理に体ならぬも のたらしめている。ゴータマ・ブッダはこの世 か らの完全な断絶にと どまるという誘惑を、万物に対する彼の慈悲に よって克服した。なぜなら、彼は人々が彼の説教 なしには救いを見出 すことは出来ない事を認めたからである。それ 故 彼は自分自身この世を歩むとともに、また弟子達を占い仏教の
言葉によれば﹁衆生の救いのために、衆生の安 楽 のために、世間への慈悲のために、神々と人々 の 歓喜と救いと恵み のために﹂守の ダニ a 尽 田田︵ 鱗ぜ p, ㌢ きち寒由痔はぽ ・ a, ∼ 0 オリコ 廷村 駐ヨ づ 馳せ a. 曲 二ず 自ま欝 - ず ヱリ せヂと村 牙山 せ笛 宙 のくの・∼目の目 こ のの山口 曲コこ 使者としてつかわしたのである。ゴータマ ・ブッダのこの決意から、大乗仏教における慈悲 深 き 菩薩の理想は成 長した。菩薩は衆生の重荷と悲しみを己が身に 負い、彼らの代りに苦しみ、あがないとして自身 を 犠牲にし、愛によ って衆生の中に光明をともすことを誓 う のである 。最もよく読まれているインドの瞑想的神秘主 義の集約とも高 5 べ 釜 スカバット ギ ーターは神秘的な心術である ョ ガと 神への誠実なる愛であるす は の ォ ︵ @ ﹁敬信とに もとづいて、活動と 井手の 率 直な倫理を展開している。それ故、神 秘 主義は決して救済の個人主義的なエゴイズムを 示すものではない。 もっとはっきり言えば、この世と人々からとの 一見利己的な断絶と 孤離 、古代の仏教の言葉にあ るところの﹁無住にる 。神秘家の神の理念において我々の認めたあ の 同じ 00 ぎ 。 ま窪守 0 篭 9 ぎ 。 きヨ がその生活にお いても繰り返されて M いるのである。神秘 家
自身がその神の如く
に 同時に おヨづ繍お 0 臣の。 おヨづ % モ あ - 笛の ︵常に 肋 らぎつつ常に狂 静止している︶のである。神の神秘的理念は 、 現代人の宗教思想にとって非常に重要なものであ る 0 コペルニクス や ガリレイよりもはるか以前に神秘 家 達は無限性 と ム大さについてのその体験によって、天文学者 達 によって示された 現代の宇宙の体系を先取しているのである。 現 代の天文学者は、いわばすでにギリシャの哲学 者 へ う クレートスに 見 られる千店 ぞ ot ︵無限︶ と 云 う 神秘的な理念を 厳密に展開したのである。太陽や星が照明装置 と して固定されている 大空に覆われた小さな地球に 伐 って 、 我々は 、 我々の小さな地球からも、またお互いにも何十万 光年と離れた無数の 天体を有する巨大な宇宙、銀河、星や星雲の体 糸を見出す。偉大な神秘的哲学者、エリウゲナ 、 二 コミノス・ クザヌス、 ブルーノ達は神についての現代の神秘的意識の 在 なる神が 、 我らの内にあって祈っている。﹁ わ 導 き 手となっているのである。 たしたちはど う 祈ったらよいかわからないが、 御霊みずから、言葉 この量り知れざる神は、原始人 や、 多くの高等 ゐ 示教のいろいろな表現における擬人的理解によっ て、 単なる一個の 人格とされてしまうには余りに大きい。人格的 な 要素は 、 神の無限性を充分に述べうくす事は決 して出来ない。たし かに神秘家にとっても、神は人格なのである。 預 言者の表現においてと同様に人格的神秘主義の 表現においても、 神 0 本質と、この人格的要素とは結びついている。 彼らの考えにょれば、神は愛である。神は人間 の魂の愛と憧れの 対 象 であるにとどまらず、 神 自身が 、 与え、赦す 、謙抑な、犠牲的な 変 なのである。神が一つの 人 格 であり、﹁ 汝 ﹂であ るが故に、人間は普段の社会関係におけるのと 同じ方法で祈りの中で彼に呼びかけ得るのである 。神のこの﹁ 汝 ﹂ な る 事は、神秘家が体験した如く、無限の聖なる 存 在 が我々に内在し 、 我々の魂の根拠であり、また ラテンの ぺ ンテコ ス テの 讃美歌の一節を借りて言えば作三 0 ∼のす 0 の で のの の伍 ぎ鰍 ︵魂のやさしぎ客人︶であるが故に可能 なのである。この内 にあらぬせない切なる うぬ きをもって、わたし たちのためにとりなして下さる L 官マ 凡主 ハ ︶ とあ る 通りである。バス神秘主義における 神の理念 な 一 神 力 言 の め
ュ 神 く め 汝 と こ 神 着 た は
ら 、 て 。 し 使 び ね い い る
信 声
た く る し は で と た のな 明 あ
い び でご
0.
の
ぅ も な高 神 か
で な っあ
呼た
私
の る。 んら
で、
耳
啓 沃
Ⅴ ァ しさ
し達
与 て
し え私
) よ らむ
ノヘ ノ ・ ね た とず ず
す
、 ね る絶 求
汝
望 め
の し をま全
た して
あ な
の , る か努
敬 っ 力、 虔 た な で男 あ
が る す ま の@
次 」
の と よ 元5@ 5 19@ <255)
﹁言い難く 、 量り難 き光 ﹂︵ 巨パ 中言ぎ ヴ Ⅱ - 一の里ぎ 0 0 日展 簿 当の い す い捷 Ⅹ﹁言い難き威光﹂ 公 p の 曲 申す いロい の 8 曲 い のの︵ の の︶、﹁至高な 却 る 充満﹂︵のけ日日曲 っざロト ︵ 乱 0 ︶のように語る。 我 々のドイッ語で云 う ﹁ 神 ﹂も、もともとは男性 名詞ではなく、中性 名 ㈹ 詞 であったのである。 この量り知れざる神は絶対なる神秘であり続 け る 。それは、たどいと深 き 崇敬と平伏において 拝 せられるのみであ って 、 決して我々の知性によっては量られ得ない 。神秘 家は 一切の独断的定理や、神学的教理が 神に対しては不適切 である事を認識している。神秘主義は我人を 、 あらゆる宗教の正統派がその信者達を縛って来た 文字の圧政から救い 出す。﹁文字は人を殺し、霊は人を生かす﹂︵第一 一 コリント三六︶新約聖書のこの言葉は 、長 い間 キリスト 教 神学 者達によって無視され、或いは忘れられていた 。あるドイツの神学者が﹁キリスト教は信条にも とづく﹂と言い得た のもそのためである。現代においては、独断的 正力 は、ョ ー p : ハ 就中ドイッの神学において、 我々を過去数十年 ょ りも尚一層激しく圧迫している。オランダの 偉 大な神学者、故 G. ファソ・デル・レオは カ| ル ・バルトを﹁ バ @ セ ルの暴君﹂と呼んでいた。歴史批評もそうで あろうが、神秘主義もまた、あらゆる﹁信条崇拝 ﹂に対する強烈な 均 待物なのである。信条がそれに対しては、たど 遠くからの徴しであるにすぎないところの聖なる ぎの内申す いロ の︵言い難さ もの︶を、信条そのものと混同する者は、その 神の可視的な形像を神自身と混同している異教の 偶像崇拝者と、なん ら 異なるところはないのである。 ロ の屈の三 co 日召 臼の臣のざ臣の黛 田簗斗田の ︵量り難く 、 言い難 き神 ︶こそ、一切の真の 神学のアルパにしてオメガなのである。 スト教相互のみならず、全世界の諸宗教の間に 其の ヱ キュメニズムロ教会合同運動口を打ち建てる のである 0 キリスト 神の神秘的理念はまた、諸教会、諸宗教、相互 の 関係にとっても非常に重要な意味をもつている 。それは単にキリ 教会の神秘宗達 志 、すべての偉大な諸宗教の神 私家運 も、 同じ一つの聖なる神秘を体験している のである。 数千年来、神秘家の理念もイメ @ シも、その用 圧 拍も祈りも変ってはいない。伝達手段の法則に従 って神秘主義は 、
神秘主義における
神の理念
て そ い れ 「む親
か金神的かの
し教
いろ
美 " あの五ム
おうく
" さぅ
。
くい
永陽
め所
て な し '-
乃て るす
な でら
あ
ば る@
レ維 を て
れ 進
は む の 彼 で が あ そ る の 真 ル体
lな l
宗
は 考 [ , こ数
立 め く い の 溝 も が ら い ヤ い言い
団礼 呉
る「 成 得黙 ほ の 教 て
か 切
拝 な 。 真 さ た 想 牛 場 、 と も っ者
にたか
づしにれとと
宗たこ讃の
性合
、
イスじ
同 21 ( あ 7)一歩
ぬげ
出ている事を示している。﹁天のいた
ど き迄
いけば、もう梯子はいらない﹂のである。
神の神秘的理念は、宇宙的な広がりのものであ
る 。しかしながら、それはただ一つの点において
制限と一面性とを
有している。神秘
家は、
神の啓示を自然の中に
見、一人の人の魂の中に見、また全ての人の魂の
中に見るが、しかし
たど
一つ、歴史の中にのみは見ていない。完成
の 究極の目標へと同
3
歴史の事件の導ぎの中には
見ないのである。
救
済は、
限りあり、終りある世界のかなたに存す
る 。あの
浬 盤の不可入の領域に、そこから万物が
溢れ出して来るとこ
ろの根源存在への回帰の中に存するのである。
, しの点においては、預言者宗教は、はるかに広い
視野を有している。
生
﹂守も
ミ桶濤
q
へ しを告げている︵マタイ
二
三衣一九
廿 八︶。これらはすべて神秘的救済宗教
のような、彼岸の々
不
ぬ であるのみならず、終末論的宗教なのである。
彼らの最高の理想は、不動の薄日日
E
日す
。戸戸
ョ
ではなく全世界に
%
げ ろ
ダイナミックな神の国であり、真理と正
義 と愛の王国の建設なのである。一切の悪魔の
カ が
征服しっくされた
後に、﹁
斬 らしき
天と地
﹂は起るであろう︵第二
ぺ テ
ワ三三︶。しかし、神の神秘的理念と、この
終末論的観点とは
決
して相互に排除し合
う ものではない。その
ょう
な 綜合の最もよい例は
オリゲ不ス
とヵ
パドキヤ
の 教父
違
おも
口 " 口 o
。 @ めコ
Ⅱ ぃ ︵ ず
0%
。小アジア東部の
ロマ
の一県、ナチ
アソツ
の グ
レゴリウス、ニッサのグレゴリウス
ヘ バシリウス等の教
俗巳
である。彼らは
神秘家であったのみならず、﹁万物の回復﹂⑧
目 。 木羽
づ臥
q ぎ
Ⅰ ち
㌔ 目 鮨桶
ミ ︶を教えている限り、同時
にまた、終末論的思想
家であった。
聖 アウグスティヌスでさえ、別な
方法によってではあったが、
新 プラト
ん 派的な神
秘 主義と聖書的な預
言 主義とを調和的に結びつけている、彼は
、そ
の母モニカについての言葉の中で、神秘的告白の
頂点に、まったく
新
フラト
ソ 派的な永生の概念を記している。しかも
同じアウグスティヌスが、偉大な歴史的、神学
的 作品、﹁神の国﹂を
いるように、義と愛の勝利によって終るのであ
る 。宇宙の神、唯一つの魂の神は、同時に歴史の
中に
肋 らぎ、その
究
(2S8) 22神秘主義における 神の理念 文 申、
は 原 著 者 の
註
訳 者 註 であ ま
す
。
訳 註 よ @ ] 月支限 に め ま -@0 % ト
端
純
四卜
宮 訳極の目標を歴史の中に実現する神であり、最後 に、 全ての造られたる霊をその御旨の下に支配す る神 なのである。神 に ついての神秘的理念と終末論的理念との調和は 、 我々が 古 教会の同じ正典の中に見出だされる 一 一つの言を綜合して 見 る 時に明らかとなる。一つはギリシャ語の旧約 聖書の賢者シラクの子イエス︵四三千よの言で あ 二リ。﹁ 能ドめ蝶 ㌦ q づ ︵ ヒ Q 串簿 ﹁ 彼 ︵ 神 ︶は宇宙である﹂。しかし、この @ @ はそれだけ見れば相対的で不充分である。なぜ なら、それは悪の力 はどこから 来 たのか、またそれは何のためか、 という問いに答えを与え得ないからである。神秘 家は ヤコブ・ べ|メ nJ 曲ガ 0 す ロ琴 日 e. 一五 セ五 lli 一六二四、ルーテル派の ドイツ神秘思想家、哲学者しがなした如く 、 悪の起 源を世界の根 低 にも とめるか、或いは単なる﹁非存在﹂ぞ手 ぎ ︶ 、 ﹁ 最高存在からの逸脱﹂在留日日 0 の幼のよⅠの - い り︵∼⑧ 、 単なる 口 ﹁∼ 4 曲︵ @o ︵ 欠 如 ︶ 、 隼の︵の c ︵仁の︵障碍︶ 、 a ヴ のの 臣
ぎ木
在 ︶ と見傲 すかしなければならなくなる。悪の本質について 、これらの答えでは 不充分と見 倣す 者は、神は今はまだ、全てでは ないが、やがて﹁全てにおいて全て﹂となり 結う であろうと信じて、 終末の時を見つめるのみなのである。それこそ 、イェス と 原始キリスト教団の中に行きわたっ ているところの信仰 であり、聖書のもう一つの個所に、宇宙につい ても触れながら、もっとも壮大な表現において 示 されている信仰であ る 。即ち、使徒パウロの言葉にこ う ある︵第一 コリント一五 甘こ 。﹁神が 、 全てにおいて全てと なり 結う ために ! ﹂ ︵ⅡⅠ 寮め ㏄も 小 ひの 目 八寸Ⅰ Q% Ⅰ㍉ 簿 q ヰ Ⅰ︶。 23 (259@ちよう げん かぶきの勧進帳でひろく世に知られている東大 寺の大仏鋳造にあたって、大勧進 職 に任ぜられ た 俊乗房重源二 一
ハと 宋に渡り、次のとし栄西とともに帰国して いる。重源はその後 も 再三 宋に 行ったらしい︵玉葉三八巻、寿永二年正 月 二四日の下﹁渡唐三 箇度 ﹂という記述を見る︶が 、 かの地から彼が将来 したと伝えられる袈裟は、現在京都の知恩院の 宝物となっている。 数年まえのこと筆者は﹁ 勅修 の御仁﹂などと 共 にそれを見せてもら 3 機会にめぐまれたが、その 袈裟の模様には 須 弥山中心の世界 説 が図案化されていたことを 記 臆 している。ところで、その世界図は四洲をあら わしたものの よう で あったが、一般に倶舎論などで親しまれている 四洲の配置とはやや異なるよ う に見受けられた。 倶舎論などに知られている須弥山 説は 、イソ ド 以来シナ・日本でも仏教者の間では常識となって いたと思われるの に 、その模様が別な配置となっているのは、 何 か 意味があってのことかも知れないが、その理由 のよって来るところ は 不明である。そこで当時シナではこの模様に 見られるような配置が普通に行なわれていたなど と 速断することは 早 計 にすぎるであろう。とはいえ、仏教文化が広 い 地域にわたって受けいれられた経過を考える 一 コマとして、由緒 正
背
-a. 月、的
:
研
究と
形態学的研究
,
佛
教学研究の新課題について
i
山
田
城
( 升田 @@@ 24
背は
ジャータカを問題とし、ジャー
タヵ
に 関
係 ある彫刻、美術を取り上げて研究をはじめたの
は 干潟博士くらいのもの
恭
と 形態学的研究 た は で, 、 と あ こ こ る れ ろ う ら でかのこ
。 資れ
こ 料 ら れ や が ま所
伊@
で究 外
の の な ィム成
く教 果 仏
学
の、
を
散文研
ど化
突 こ よ の ま り 方 で 以内 仏 外
を 教 の見 学
も る や の に 仏 でしいこのような資料が含んでいるものを、些細 な 問題だからといって等閑 に 附してよいわげはな -2- 日本には、シナに伝えられないで、幸にもわが 国 に 伝えられた貴重な文献として、 惰 大業主の浄土 詩 をもっているの であるが、このような特殊な場合を別にしても、 日本の古刹に保存せられている貴重な資料は少 なくないであろう。 そこで、その時代が限定されているような場合 、とくにその価値は高い。 -3- もし広くアジア地域に眼を転じるならば、シナ の 大同や竜門の石窟の紹介・研究、近くほ 麦積 山の発見、居庸関の -5- 研究などは重要な資料を提供した。またすでに -4- 多 くの学者に よ り発表され、なお今も発表されっ っ ある中亜の資料をは -7-
どの資料が多く世に出されていることは周知の如 くである。さらに イ ンド におけるバールフト、サーン チ
Ⅰアマラ
ブ ティⅠ ナ ーガールジュニーコー ソダ などの 写 真 ・紹介・研究など も 、ここ数十年このかたその業績はつぎに公表 されているが、マーシャルによるタキシラの発掘 に関する報告の如き は 完壁に近いといえよ う 。 これらの 内 、なお研究の中途にあるものも多く 、 見方に ょ ればすべてがそうだともいえるが、 外 に 研究の資料とし て 発表されていないものも 少 くないであろう。 しかし、ひろくアジアの大陸と南海にわたって 存 する古跡の紹介や研 究 において、今日まで積み上げられた偉大な業 績は 、世紀の驚異といってもさしつかえあるまい︵Ⅰ︶重源上人の研究、南都仏教研究会編、昭和三 0 午 セ月 。この内には柴田夫氏はじめ一五氏の研究論文を 掲載しているが、重源 の 入宋についての研究は見られない 0 ︵ 2 ︶ 晴 大業主浄土 詩 の 如 ぎはその例である。岩井大 慧 ﹁聖武天皇 良 紛雑 集 に見える 晴 大業主浄土 話に ついて ﹂。日文仏教史論 放 、 第一部一、一 | 九四頁。昭和三二年五月、東洋文庫,﹁ 広 法事讃を通して再び聖武天皇 哀翰 浄土詩を論ず﹂。前掲 九 五|一 三六頁。 武内義雄、﹁聖武天皇長齢雅美晴大業主浄土 詩と 往生 礼 讃 ﹂。文化 三 一・六昭和三二年一一月、九 |二 0 頁 。 ︵ 3 ︶麦積山石窟、鄭振鐸 序 、図版一六一。文化部社会 文化事業管理局編 印 、一九五四北京。 名取洋之助、麦積山石窟昌已ん 三 ・色目の笘のの一毛 ハ頁、鄭振鐸序文邦訳 一 0 九| 一二 0 頁 、岩波書店一九 五七年四月 0 ︵ 4 ︶村田次郎編著居庸関第一巻昭和三三年三月 。村田治郎藤枝昆編著同第二巻昭和三 0 年三月 座 石室刊行会。 ︵ 5 ︶西域文化研究第一。 |敦煙 仏教資料 | 二六九頁 づゃ ・ ミ ・昭和三三年三月西域文化研究会京都法蔵 館 。 ︵ 6 ︶ ン ・の 壮毘 &. べ ・の乱銭 b, ︶・ 由 ac ガぎ 田のの下卑五三︵ かの 巾 0 ぢ臣甘 五ロのの年のめ凶日 申笘ヲ 下せの ゎ Ⅰ e の 目 0to の ハ 山主︵ ざロコ の コ のの 汗 さ ビ 下知 三 ㌧ 0 年 @ ニ ・ づ 0 日のⅠ︵・ トゆ時 ㏄ ト由 Pn ニ臣 - 之 0p せの年 8 オ ec 馬 Ⅱ斗のの中 おゴか 0 ロ 0 ぬ 5 ロの の 浮い 沖 目白 りコ ・ づ 0 日 eHH ︵・ ト ゆめ 9 へ 本ミ 歪 0 叫卜 いり鮨もれ ぬ 卜リホ ∼ふ的㏄∼∼ 0 ぉ レコ いかぬⅠ∼もめ 心 悪いⅡ きぉハミ ㏄ en レトめ卜ぁぉ ∼ り ∼ an ︵ 7 ︶ 龍 山草真南方仏教の様態昭和 一セ年 一二月。 この内﹁主要文献目録﹂︵ 一| 二六頁︶に南方の美術 関係の書目が見られ る 。台湾総督 府 外事部調査第一三 セ ︵文化部門 弟ら東 印度の仏教文化昭和一九年二月。附録文献目録︵ 一| 一八頁︶ 欧文和文の諸文献をあげる。 26 で、 故 小野玄妙博士の後、仏教美術を仏教発達 の 歴史に結びつけようとする学者は一般に見られ なかった。 フ一 シェの労作﹁ガンダーラのグレコ・ プッデ イソク ﹂の如きは、すでに数十年前に出されたも のであるが、 惜
み賊
なく写真挿絵をもって実例を示した深切な書で ある。仏教を専門としない著者ではあったが、 仏 伝 に関係してすぐれ た 創見を示し、学界の称讃を得たものである。 そ の後の仏教研究者は フ一 シェの説を取入れたが 、著者が紹介した 種 々の彫刻絵画を 、 多くの仏教聖典の解明に役立 た せよ う とする如き試みは絶えてなかった。