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『宗教研究』158号(32巻3輯)

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(1)

――目次――

1,

神秘主義における神の理念, フリードリツヒ・ハイラー, The Idea of God within Mysticism, Friedrich

HEILER, pp.1-23.

2,

背景的研究と形態学的研究, 仏教学研究の新課題について, 山田龍城, A New Approach to Buddhist

Study, Ry

ūjō YAMADA, pp.24-33.

3,

マリノウスキーの呪術と宗教の機能説について, 阿部重夫, Malinowski’s Functional Theory of Magic

and Religion, Shigeo ABE, pp.34-63.

4,

アリストテレスの純粋観想(θεωρία)についての聖トマスの解釈(下), 東光寛英, St. Thomas’

Interpretation of “

θεωρία” in Aristotle, Kan’ei TŌKŌ, pp.64-77.

5,

米国宗教学の展望(上), 北川三夫, A View of the Science of Religion in America, J. Mitsuo

KITAGAWA, pp.78-109.

(2)

神秘主義における 神の理念 っ そ の 満 て て の で た 切 こ

外 内 は

さ り の

界 な な れ 抜 危

る く た

げ 機

な 体 " 洸 よ な

体 験 個 惚

験を人体と学

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神 秘 人

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心し 認家

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上体

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神し

返 な 験 と 派 聖 助 る

な え 生 な げ

彼的

な で ら な 雲 珠 ィ あ が も に め エ イ 237 Ⅰ おそらくは人間の排除、非難となり、かくて 遂 に 、限界 づ げられ 得 ざる神の限界 づ げによって 、 ぬ @ 学,は -EnE の の局 0 口 学問となってしまうであろう。 神学と云 う ものは、すべて一種のジレンマの 或いは神の業について組織的な方法で表現し、 れた理念から区別する事が神学の課題である。 ろで、しかしながら神の本質は無限なるものな が 生じる。第一に 、 神はこ生では卑小化され、

フリードリ

ツヒ

ハイラー

中にある。神学とは、神についての学問的な研 究 である。神の本質、 かくして神についての真の理念を誤まった 、あ いまいな、ゆがめら あるドイツの神学者は﹁神学の本質は限定にあ る ﹂と定義した。とこ のである。かくして、この限定と排除とから 神 学 にとって二つの危険 せ ばめられ、歪められるであろう。第二に、 諸概 食や諸理念の排除は 、

神秘主義における神の理

(3)

ザヤ が神殿において見知し 、 雲の上から﹁これは 我が愛する 子 ﹂という父の声をイエスが聞き、 又 キリスト教の聖者達 2 がさま

Ⅰな形で神やキリストや聖母を見た 、 と 云 う ようなすべてのこれらの体験においては、 決して外界において 怒 なされた観察が問題とされているのではないの である。それらは、外界的な感覚と等しいと 思 われる程に強烈な 、内 なる眼の見た光景であり、内なる耳の聴いた 声 なのである。多くの神秘 家 達も又幻視と幻聴を 知っている。しかし、 これらは、単に彼らの体験の世界の境界線にす ぎない。彼らにとって、これらすべての幻にまさ って、はるかに重要 なのは至高なる神についての霊的な瞑想 せ安 0 ぃ ユのコ のの︵ け巴ざ であり、さらにそれよりも又、無 限なる神との魂の底に おける合一の体験口ロ いつ目せの ︵ @0 曲なのである。 この究極的な 、 全く直接的な神の体験は、しか しながら、長い真摯な求道と苦闘の準備の後に初 めて与えられる。 うつろい行く世から自己を断絶する ゎ 0 目の︵の サ 0 ﹁ 目 心しにつ ビ いて、外界からの組織的な分離と き 難の克服の道 つぎ 口目 圏 ︵ 円 せ りロ 浄罪の道しがあり、さらに黙想と祈祷 による、 唯 真にして善なるもののみへの心の集注 の道 ぺ ia 二三日トロの 申 せ % 庶 萌の遵がある。かくて道は つ ぎ岸田︵ 円 4 曲二教 の 導に通じるのである。突如として神にとら , ぇ られ召された予言者 達 と同様に、神秘家にとってもまた神は知的反 省の結果ではなく、彼らの生命の事実、彼らの 体 験の事実なのである。 然り、 唯単 仁体験の事実であるのみならず、 彼 らの苦難の事実ですらある。神秘 家 たちは神を 知る事を学ぶのみなら ず、 神を苦しむ事をも学ぶのである。 きて & ヒ 0 ヒ モ Q もふ 寸酊ざシ ネ木 しゴぬ吏ひ ⅠⅡ a も 航ヘ ㌫ 周 弟子となる ぱ かりでなく苦難も又しと ディオニシウス・アレオパ キタ ロ口 @0

旨 0 の︵ずの 尼 B ゥ も % 汀 。新約聖書に見える一世紀のギリシャ 人 、彼の 名を借りた 新 プラト ソ 派 的 キリスト教神秘主義の偽書が六世紀に書かれた口は その 師ヒ ェロ テ オスについての舌口葉の中で述べ ている。神秘主義は 、 多くの場合﹁苦難神秘主義﹂であり、受難の神 秘 主義である。それはキリスト教ばかりのこと ではなく、イスラム教 においても、ヒソ ヅ| 教においてもまたそうな のである。神秘 家 達は 、 単に聖化の最初の段階に おいてのみではな く 、そのょり高 い 段階においても、 又 合一を得 た 後においてさえも、 尚 内なる苦しみを 持 つ。 な ぜなら、神に満たさ

(4)

念ン

・ルーミー

ロ の巳の∼・

巳隼

・キイ

刃巾ヨ

@

・一二

0

セ三

、ペルシャ神秘主義詩人

U

、ユダヤ教における

。ハリストロ木が

ヴび巴

@ の ︵・

とハ

シディーム

G

ず ハ

%

目ョ

・ユダヤ教敬虔派、パリ

派の先駆とも言われる

u

援方

キリスト教におけるディオニシウス・

レオパ

ギタ

と﹁

らしい神学者﹂シメオソロの

ゼョ

00

九四九

@

0

二、東口

おマ

帝国のキリスト教神秘思想家、﹁

らしい神学者

﹂と呼ぼれ

中世ドイッにおけるマイスター・

クハルト口言

臼降轄已め柑

されるが、しかし

九五

二三六六、

ェッ 尚

より

クハ

れた 洸惚 たる一瞬には、直ちに最も恐ろしい虚血 い の段階が

・﹁乾燥﹂ @ 暗夜﹂﹁断念﹂一心の捕 囚 ﹂﹁神秘なる 死 ﹂﹁ 瞬 時の地獄﹂の時が

; 続くのである。これらは すべて、キリスト教神秘主義の用語である。 神秘家の神は体験されたる神である。神は神学 者の神の如き、反省と考察の産物ではなく、知的 抽象の結果でもな

ドの 見者達によつてのの︵ せ 斡の湘の曲︵ せがヨ ︵真実の真 実 ︶と呼ばれ、ブラ トソ に よ つて円も憶 斉 0 ∼ ま ︵真の存在 て 中世の ス コラ神学者によってはの臣のⅡの p-@ のの片目年 5 ︵ 至 現実 なる実在︶と呼ばれ た 。神秘的に体験されたこの神は、どの民族、国 民 、宗教においても同じである。シナの道教に お Ⅱ リイ Ⅰ 、ブ ミノフマニ スム 、仏教、ヒンツー 教 、ユダヤ教、イスラム 教 、キリスト教において、そしてもちろんまた 、シリア、 ェ ジプト、 ギリシャ、ラテン、ケルト、ゲルマン、スラヴ 等の全ての民族のキリスト教においても、常に同 じなのである。神秘 的な体験として、それは常に同一であり、それ 故 に 救済の神秘的な道も又常に同じである。神秘主 義の用語と象徴が 、 到る所、常に同一であるのは、この理由に よ る 。神の神秘的な理念も又、それ故に同ぜである。 たしかに神秘主義は 異なった型や変容を有している。しかしそれら は、 いろ

ノ な 民族や国民の申でお互いに共存し ている。たとえば ヒ ンゾ ーにおけるシャンカラ いコ Fpqp. セ八八 @ 1人 二 OYU とうーマーヌジャロ 鰍 ョ田 自ざ ・ 一 0 五五 l 1一一三七ロイスラム におけるイブン・アル・アラビロ

生声奉ま ,一 一六五 l 1丁一四 0 、イスラムスフィズ ム の神秘 家 しと ゲラル・エド・ディ

(5)

高い綜合において両者は結ばれる。非人格的 神 秘 主義は人格的神秘主義をその第一歩と見放して いるし、一方全ての 人格的神秘主義は神における人格的要素をどこ か 不適切なものと見ている。同様に神秘主義の素 朴実践的な型と反省 的 理論的な型、霊的な神秘主義と知的な神秘主 義 とは、イソグロ ミ @ 三

貫穿

迂ず 目も、一八六 0 | 一九五四、イギリス 国教会の神学

がそのキリスト教神秘主義につ いての書の中で言っている 丈う に 、 全ての高等 ゐ 示教において区別され ていると共にまた結びつげられてもいる。 神秘家の神の理念の最もいちじるしい特徴は 、 彼らが真剣に神の謎

せの︵ 辞 ざを問題にしている 事である。神秘主 義 ︵ 絹ぜの ︵片色のじ と

、諸官

鴇 ︵の︵しの語源は同じ ものである。 ざかぎ Ⅱ︵ 0 争三 -

︵ い の bvToq よ憶 ㍉Ⅱ ヰ 。の す目 ︵ 0 目 。の づ。 @ 岸仔ず一

は 絶対の秘密である。人間の一切の思考も言葉 も 神については不充分 である。神は㍉き良 づ駄ノ宵づ oE ︵とらえ難い︶また 要ぜ つつ oE 釜叩り 難い︶であり ぎ no 日つ ︵のずの口の い す∼ - の痒 ぎの用 いす 牲の︵舷 灯し を 言葉でとらえ得ると信じるのは、神を げ が す らず﹂とは シナ の最古の神秘的な書﹁老子道徳 難く言い難い︶であり、すでに シナ の賢者老子 のであり、﹁不可解なるもの﹂、﹁不可測な 、絶 神について語り、神に祈る最もふさわしい道は 事ではないでしょう か ? ﹂。沈黙こそ、神秘家に 経 ﹂の言葉である。 又 、現代の一女性詩人はこ 射的に不可測な名前なきもの﹂なのである。 に @ ニ ロ われているよさに﹁決して名づげられ得 さ 沈黙である。﹁道を語る者はそれを知らず、 道 ぅ 祈っている、﹁あなた る 隠されたる﹂あるも とっては最高の説教 知る者はそれを 語 であり、祈りなのである。 ふ 忘失 ノ駄さ え 鰍て 下問 P ぎ 者、沈黙の中に拝せ らる ュ者よ ︶。神秘家は偉大なる沈黙の人である 。彼らは常に沈黙を修練する。彼らの禁欲的 沈黙は黙想的沈黙、 教 理 的、哲学的、神学的沈黙となり、最後にほ 形而上学的沈黙となる。 神 的流出の霊智的な流 れの発端に 、 我々は や途 0 の と q ミふ 深淵と沈黙を見出す。生涯 の 沈黙を誓い、弟子達との会話にも合図しか 使 わないインドの禁欲 主 義者︵ 約 ロロでの ぎ ︶がある。究極の神秘について の 最も首尾 ィ質 した沈黙は、初期の仏教に見られ る 。それほ神秘的な (240) 4

(6)

神秘主義における 神の理念

秘 本

リて

はかの

そ 形 そ

を 八

5 (241)

(7)

1

神秘的表現の最も重要な定式は否定である。

それは、しば二重否定に

高められる。

主義はぎの

0 一 0

め ぎ

309a

︵ 写曲

である。老子はすでに神聖なる﹁

否定的な表現によって描いている。神聖なる

トマ

・フラフマ

Ⅰ梵我一如

口は

、ヴェーダのウパニシャッド群の見

生有にとっては

臣 生口

﹁そうで

ない、そ

ではない﹂であり、

﹁この否定の外には如何なる表現も不可能なので

ある﹂。神は﹁言葉によって

= ロ われ得ず﹂、﹁

思惟によっては考え

られ得ず﹂、﹁眼によっては見られ得ない﹂。初期

仏教においては、同じような方法で三ミリ

口 pn

浬 巣口について語られて

いる。大乗仏教においては、絶対的実在は﹁

対空﹂︵

囲臣せ

ぎととして性格

げられる。神秘的

否定は

特に新プラ

トソ

派に

く見出だされる。それは、おそらく

五世紀の単性論の教父セ

ブヱ

ルス

G

のくの

㌢四六

? |

@

五三八、

アソテ

ト教新

プラト

主義者によって最も崇高に展開

されている。彼の寮

ら宙セへふ

㍉㍉

色や良

﹁︵送ふ︵否定補

︶は多くの非常に

独創的な用語を我々にもたらしている。それら

マイスター・エックハルトによってドイツ語に

つされた。この

ミニカ

の修道

にとって神は﹁定義なく、

なく﹂、﹁

なく、すがたなき﹂ものでありつの

@ 臣

z の

。 臣

。佳コ

毎胃

0 ︵のの

-0 ののの,︶

﹁、これでもそれでもないもの﹂Ⅰ

毛舖

- 色舘

三のず︵

田窃

。 串 目口ののめの︵。。︶であり、﹁

が神について考える

全てのもの、丈人が神に与えるすべての名前・

これらの全ては神ではない﹂のである。かくて

神は、まったくの﹁

存在﹂、﹁

非精ぬい

﹂、﹁非人格﹂、﹁

非神

﹂、﹁

﹂、﹁

Z ざア

︵毛のの

e 口 ,。

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ゲルス・シレジウス﹁

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、本質的には

ヱッ

クハルトの

教説

の 赴

文化であ

凸と

言われる

% 的

短詩集﹁ケルビムの巡礼﹂

孟 茂した﹂が神秘主義

観念の全ての集約を含むと思われるその﹁

ルビ

の巡礼﹂の中

で、次のように歌

う時

、我々は彼を

レオパ

タと

エックハルトの道に位置づ

得るであろう。

﹁神とは何か

誰も知らない。

( ぬ 2) 6

(8)

神秘主義における 神の理念 神は私とあなたがそうであるもの、 しかも決して被造物なる人間ではない。 x 、神郷自身ですらない。 決して知られず、 又 知られ得ないからなのであ る 。﹂ しかし、この神秘的否定は 、 実は肯定的な表現 なのである。しば誤解されている仏教のニル ヴア ナという観念 ほ ついて、特にこの事は言われなければならな い 。それを﹁ニヒリズム﹂と説明するのは、全く の 誤解である。無を その究極の目標とするが如き宗教が、アジアの 半ばを征服する事が出来よう筈はない。ニルヴァ ナの 、この肯定的な 性格は 、 次のようなゴータマ・ ブ " ダの壮厳 な @ @ の中にはっきりと強調されている。﹁生れず、 成長せず、 づ くられ ず 、構成 力 から生じたのでもないものがある。 かュる、 生れず、成長せず、 づ くられず、構成 力から生じたのでもな いものが存しないとすれば、生れたもの、 づ く られたものから出づる道、構成力から生じる道は 存しないであろう・ 一 。 神秘主義者にとって、否定はた ビ も 経つモ Q ヒづ 00 薄 い こ ﹁絶対他者性﹂、 聖 アウグスティヌスの 一 吉日 ぅ 如き 巴ぎ 仁田∼ EL 春田の学∼の︵ ヰの 0 日 リョ 荘あ ︵﹁これらすべてのもの と 異なるもの、全く異なるものとの表現にすぎ ない。かくして、 否 定は神についての最高の表現となる。なぜな

ア イ オニシウス・アレオパ ギタ の言う如く﹁ 神 によって 、 我々は神は何であるかと云 う 事を認 裁 する﹂ C ∼㏄ 甘モ 心皮 ち q0 むの Ⅱ コの め ヒ 。 か ・ コの b ocR 守 神は光ではない、心でもない。 真理、一致でもない。 又 、あなたが、 神と思いなすそのものでもない 0 知恵、理性でもなく、やさしさ、愛、心のおも いでもない。 何ものでもないもの、又、無、これこそ神であ る 。情緒の産み出す一切のものでもない。

(9)

も 小さく、最も大きなものよりも大きい﹂。同じ よ う に アソ ゲルス・シレ シウス も歌っている。 ﹁ あ Ⅰ 、 神は何と大きいことか、 あュ、 神は何と小さいことか、 最も小さいものよりも小さく、

における矛盾の結合の表現である。神秘家の神 はゎ 0 日怯めメぃ 。 イ オニシウス・アレオパ ギタ の言う如く﹁光り 輝く暗黒﹂の マンは﹁内在にして超越、言い得て言い得ず 、発 見されて 発 して不動、遠くして近く 、 全てのものに内在し て 全てを 超,ぇ 。 ヌス も又神を﹁の︵申す∼ -@ の 票田 00 日つ ﹁の ザ 窪の子安 ダ @ 日日月︵ 笛ヴヱぢ 。 のの ヨ ㌧ 締 傭の目の。お 5 つ 繍由仁 ︶の︵岸の﹂

変にして会得 し 難く 、 動か く ::常に 肋らきつュ 常に静かなり︶と呼んで いる 0 カータ 0 で㌧ 0% ︵ 0ru 邑 。 no ぎ 0 日の三 ぎ 0 せつ 0 の︵︵ oru ヨ である。 神は デ 中に住む。ウパニシャッドによれば、アトマ ソ ・ブラフ 見されず、意識にして無意識、現実忙して非現 実 、動に ている﹂のである。インドの見者と同じく 聖ア ウグステ ロ 由 ︵ 笛已 。日日 p 。三目石窟目口 0 づロダ ヨ目 ち ua 日 ﹁の -u の: ずして万物を動かし、決して 斬 らしくなく決し て 古くな 力 ・ ウパ ニシャ, ド によれば、神は最も小さな ものより 2 、神についての神秘的表現の第二の重要な道 は 矛盾である。ルドルフ・ オ ,トーの言 う ところ の ﹁矛盾の調和﹂

&% 怯 むのである。こうして無知 と無 認識とは、 最高の知、最高の認識となるのである。すでに ウパニシャッドの め る 神秘詩人は﹁認識者によって知られず、認識 せざる者によって知られる﹂と語っている。ディ オニシウス・アレオ ハギタ は﹁無知によって知られる﹂神の最も聖 なる知識について語っている哀辞 S コ汁 心づ 00% の 00 また 鱗 q ︵ づ ㏄Ⅱ 羽セ Ⅰ G. q ヘ Q づ せき 0q 沫 0 モぎ さ 。 聖 アウグスティヌスも又 ﹁日色ぎのを︵ ur しの 拐臣 のの ゑ の口ロ 0 ﹂︵神は無知に よってより良く知られ る ︶ と言 3 時アレオパ ギタと 一致しており、 二 コラウス・ クサヌ スロ 之ず 三八ド の えの 由ゅダ 一四 0 一 l ・ @ 六四、ドイツの神学者、 哲学者、新プラト ソ 派の神秘思想を受け継ぐしも 聖ア ウグスティ ヌス にしたがって 隼 oc ︵の何 % 。 S 三寸 ロ 無知の知日という卓越 した用語を見出だしている。 (244) 8

(10)

神秘主義における

神の理念

( さ と ( の か 誠 喜 サ て

" 0 まもま は っ

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神 れ

よ ノ 隻 。 ホ, Ⅰ る る る

れ 勺 々 て 沫 に イ圭

笘 ㏄( く匡

日 日

9@ (245)

(11)

笘の @-so 汀 ヨ % 邑 ︵汝のあるところのものは 我な り ︶ 、 q もさち 笘レ きへんぺ シ q も︵汝は我 な り、 我は汝なり︶ 、 q も ミぞ ㏄ 憶ぎ卜 ︵汝は我のあるところのものなり 肖 目巳 。 オ aq 由 ︵我は神なり、フサイン・アル・ハラ

、 私の存在が神である ︵ジェノヴァのカタリナ︶ ロいいチ S 目 ohO 廿らギ 一四 四セ ・・・ l 。・一五一 0 イタリアの神秘 家 、聖女 UO キリス ト教 神秘 家 達は、この 同一性を本性において得られたものとして ビ は なく、聖なる恩寵の賜物として述べている。﹁ 新 らしい神学者﹂シメ オ ソ はこう言っている。﹁私は本性によっては人間 であるが、恩寵によって神である 二 ③も う 03 有才 の 首 ︵やもⅠ よ 。もめ レり萌 め Ⅰへへ百こマイス ヵ ノー・ ェ " カノ ハル 八 Ⅰハり舌口も同じで ある イ 神が本性によって神であるのに対し、我々 は 恩寵によって神と なるべぎである﹂。しかし多くの神秘家において は、ナ ﹂の同一性の定型は、内在の定型へと容易に押 し 進められる。すで に 聖パウロはこう言っている。﹁生きているのは 、もはやわたしではない、キリストが私のうち に 生きておられるの である﹂︵ガラテヤ二三 0 ︶。ヨハネ福音書におい て、 我々は同じような言葉をイェスの口から 聞 く 。﹁あなたたちは 私 におり、私もあなたたちにおる﹁︵ヨハネ一四二 ⑤。救済 神 クリシュナも又同じように バガ バッド ギ ーターにおいてそ の 弟子達に語っている︵九二こ 0 キリスト教の神 秘宗達は﹁ 汝 、我にいまし、 我 、汝におる﹂と い う 祈りの定型をく りかえし用いている。神秘 家は、 神と 魂 とのこ の 交りの中に、又、いと小さき人間の心に永遠の 神の住み 結う このこ とに、彼らの最高の歓喜を見出すのである。 人間の心に住むこの同じ神は、 又 同時に万物の

に 変容する。一切 の 感覚的なものから自己を救い、外界に対して その扉をとざした魂に、多種多様な全自然が回帰 して 釆る 。しかもそ れは、もはや神から離れ、孤立してではなく、 神から溢れ出で、神から放射して彼に回帰して 来 るのである。世界の 過程 は 、神秘家にとっては、一つの流出であり 、放射なのである。神秘家は万物の中に反映され た 聖なる自己を認め る 。ウパニシャッドは語っている。﹁我において 彼は宇宙を認識する﹂、﹁万象を彼は我と 見傲す 一 、﹁ちょうど小さな 火花が火からあらわれるよさに、この我から 生 きとし生ける全ての 霊 、一切世界、一切諸神、 一 切生類が出で来る﹂。 (246) Ⅰ 0

(12)

リウゲナコ

0 オコ

の no*0

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のコ

八一

0l@

八七

:スコット

ラソド

学者

ロの

言によれば、﹁万物は

見ゆるものも

見えざるものも、全て神の顕現である﹂。すでに

旧約外典の賢者の言

の中に

我々は﹁宇宙、それが神である﹂すか

ぎぬ

q

﹁ ら Ⅰ自守

・︶

es.

組プお

" 。︶という大たんな

一節を見出すのであ

0

この感嘆に文字通り対応しているのは、

ーソド

グヤ

ウパニシャッドの中の次の言である

。﹁げに、宇宙はこの

ブラフマソロ

しなり﹂

宮麓ぺづ

の 日

オア

ま田ゅヨプ

1合修道女

の次のような言にも見られる。﹁神は

﹁ ゅア

日色。エジプトの母神イシスに対して、ある

全てのものにおいて全て

ある﹂口の

0 ︵ -

かめ

︵ ヒ

すし

り 目的︵巨の目

0 戸ロ︶

目顕

0 コ

︶。

礼拝者はこう呼びか

げている﹁三村圭

9

。日田

p-p

の p H

の @ ﹂︵

一にして万物なる者

l

イポイマンドルの祈祷

ジプトヘレニズム

0

所謂神秘的書物の仮空の人物︶もこの方法でな

q

円らⅠ

下手巾

い -q

イら

コめ寸

Ⅱ か良め寸

㏄丁の

vo

で。

q

つアて

柁めヒ転

荒亡

0 ヒ ﹂︵

油供は

宇宙なり、汝にあらざるものなし、汝は存在する

一切のもの、

存在せ

ざる一切のものなりて神と現象的世界とのこの

同一視は

ョ日

三の已

目絹

のし毬の﹂︵万物は神なり

︶という

ェりウゲナ

のみならず、素朴な祈祷

マグ

ブルグの

メヒテ

ルトロ

ec

仁田

ユぬ

0h

睾ぃ

㏄伍のすけ

、一二一二

i

八二

亙において我々は

最もいちじるしい

顕現

思想に出会う。しかもそれは合理的反省にではな

、神秘的合一の

たる宇宙的体験に根ざすものなのである。

私家にとって、宇宙は

オスではない、宇宙は調

によっ圭織﹁神は世界を時間性において創造したの

義的

思想・は

、アソ

ゲルス・シレジ

ウス

(13)

宇宙は永遠 よ りある。それは明らかな事だ。 神は今なお創造する。 それは奇妙な事だと思 うか 7 神にとっては、我々が こ 生でもつような以前も なく、以後もないのだ﹂。 このように、神秘家は神の意識によってのみな らず、宇宙の意識によっても貫かれているのであ る 。﹁我は神なり﹂と い う 歓喜には﹁我はげに、この一切なり﹂ 守ま ヨ 臼の出Ⅰの呂のの∼ ヰの日諺且 ︶という叫びがつ ビく 。この意識から、 自 然 に対する神秘家の偉大な 愛 、特に全ての動物 、人間以下の生物への愛は説明され得るであろう 。神秘家の愛は全て の 生物を包含する。五世紀の東方の神秘 家 シリ アの イサク ロ ︵の aac ︵ ダ 0 ぜ 由ぃ 巳は﹁憐れみ深 き 心と は 何か﹂と問い、 そ してこ う 答えている。﹁全ての生きもの、全ての 人々、 鳥 、動物、然り、悪鬼に対してすら燃える 魂 、存在する全ての ものに対して燃える魂である﹂。フランドルの神 桃家ヨハン・ルイスブルック ニ 0 アリゴ憶の串 0 の 拝 紬正きダ 一二九三ー i 一 三八Ⅰオランダの神秘 家 口は神秘 家の ﹁全てを 包 合 する 愛 ﹂について語っている。キリスト教の ゆ 漠の修道 僧 、 アイ ルラソド 、スコットランドの修道 僧 、アシ ジ の 聖 フランシス 3 ヰ 巾 rpn 目の 0 ︵下劣 ざデ

一一八二二

三上八ロ と リオ二の幸Ⅲ押マ ナ 4 達 ズインリヒ・ ゾイゼ 、シュヴァ l ベソ の ブ ラ ンシスカン 達 、彼らはすべて、この全てを包含 する愛の最も ぃちじる しい実例である。しかしてこの愛は 、たビ 人間以 下の生物を包含するのみではなく、人間であれ、 動 物であれ彼に敵対す る 存在をも包含するのである。敵に対する愛は 、 キリスト教においてと同様に、シナの道教、イン ドの ブラナマニズム、 仏教、ヒンツー 教 、モスレムのスフィズムロ ミ 。 ム の目の。かの 日 ・イスラム教の神秘主義、八世紀頃に始ま る 0 の 曲 かの V 七ロ 宙憶 。 ra 戸戸 汀口リ ア∼ U 、ユダヤ教の ハ シディ ム においても、 最 も重要な倫理の標準規則なのである。野獣にお いても、敵対する人間 においても、等しく我々は神性それ自体を愛す べきなのである。 超越と内在は、神秘家においては一つの偉大な の Q 日の片Ⅰの 口 ︵ ぃ p o づ 遷の @ ︵ oqE 日の中に共存する。神は 空無であると同時 (243)@ 12

(14)

のに併呑される。 これらの自然からのイメージと並んで、我々は 、 人間の生活の領域から取られたイメージをも 見 出 だす。神は 、王 であり、 主 ︵まま 亀 。︵ 之窩 pn 自在天 ど、 救い主、 X 、母、友、愛する人、花婿である。この最後 の 二つのイメージは 、 歓喜に溢れる 岸圧 。 ヨせ の∼ @ca と同時に 、 神の不 在の悲しみの段階にも関連して好んで用いられ る 。この世の性的な 愛 は 、この世ならざる神秘的 愛の イメージとなる。 神秘主義においては、 大 ていの場合、正常住性 褒め イメ l シが比倫 的 表現に用いられるのであるが、ペルシ ャ の イスラム神秘主義においては、同性愛の比 倫 的 表現がよく見られる。。 へ ル シ ャ では、それは不道徳なものとは晃敏され ていないのである。ヘルメス・トリス プギ ストス 、仏陀、ヴィシュヌ 念 ・ナーラーヤーナ、クリシュナ 、 ヤハウェ 、 アラー、子なるキリスト、苦難の人キリスト、 復活のキリスト等いろい ぬ ろな宗教の人格的な神の姿が神秘家にとっ て 神性のイメージとなる。これらの外にも我々は 、 大いなる母なるな 神ィ にっビ いてキリスト教の聖母等をも見出すのであ る 。 お 自然や人間の生から取られたこれらのイメージ と 並んで、我々は礼拝 と聖 礼典の領域から取ら れたものをも見出

描す

。神秘家は全て何らかの精神的な方法で 神を想起しており、彼らの中のある人々は徹底し た 精神主義者である。 し 嗣 かし、他の神秘 家 達は 、 神の臨在の彼らの 体験の意味として、神像のような感覚的な象徴 や 、礼典的な象徴を m いる 13@ (249.) 内奥の原因であるが故に、神秘家にとって感覚 に 認知され得るものは全て無限なる神の象徴とな るのである。一方で は神秘 家 達は 、 最も大たんぽ抽象を進めると 同 時に他方、彼等はその体験した秘密を讐 喰 的に 図 示する事を決して 蔑 規 したりはしない。彼等は 、 神についての象徴 を 好んで自然から取る。 火 、光、太陽、山、海、 泉 、井戸、 樹 、バラ 、 円 、それらと共に 又 、暗黒、深淵、孤独、沙漠 導 これら全ては神の無限さ、その広大さ、その 先 命の力、その美しさ に 対する象形なのである。終りあるものは全て 終りなきものから発しそこへと帰り、限りあるも のは全て限りなぎも に豊移 であり、最も単純なものであると同時に 、 最も多様なものなのである。神は万物の中に存 し 、万物の存在の最

(15)

事を決して蔑視してはいない。

インドの

タ、、、

|かめ洸惚

的な神秘主義の詩人ヴァーサガルは

くり返しシヴァ

の神殿における神像の瞑想に心を燃やされてい

。また、ギリシャ教会の画像礼拝の弁護者達は

次の二つの論点を

特に持ち出している。㈲、霊的人間はこの世の

型から聖なる原型へと昇り行くと云

プラト

ソ 的なイデアについて

理論、②、不可視なる神が

見ゆる姿を取り、

そのような姿の中に今も尚入り続

け結うと

キリスト教の受肉に

ついての教理、がそれである。

しかしながら、全てのイメージも

全ての社会

的形体も、一切の神の名も、皆、単なる道具であ

、象徴であるに

すぎない。神秘

家は、ェ

"

クハルトによれば﹁

象徴から立ち去り﹂

0 口ロ二年の目方。日日の色、﹁

愉から踏み出し、

屈の隼の日

0

二の

0 ず

三の

ぽ の﹁

斡痒の

- ﹁の

ト の コ

︶、﹁全ての曲言

ゆを打ちくだ﹂守二のの

@

。 す

三の

" の

。 E す

。の臼の口﹂

かねばならない。

0

人格的概念すら、一つの初歩的なものにすぎ

ない。それは、

たビ

単に人間に向げられた神の人

的な顔、人間に拡

げられた神の人間的な手を示すにすぎないので

ある。神秘

はしかしながら、超人格的な神へと

進まねばならない。

偉大なイソ

の哲学者シャ

ソカラ

は、人格的な

神への信仰を﹁下知﹂

-"a

︵ 簿づゃ

Ⅰ せ

こと

敬した

。しかしながらそれ

彼にとって決して価値のないものではないの

みならず必要なものですらあった。たしかに﹁

自在神としての

認 し の

である﹂。フィ

ロソ

にとってもまた、人格的に

されたロゴスは

質を持たない永遠の神への

第一歩にすぎない。

同じように、キリスト教神秘主義は人間イェス

、 受肉の神子から永遠の神ロゴスへと

向う

。オリ

ゲ不ス

nO

由 ge

口 。一八

(16)

神秘主義における 神の理念

あ の 言 れ

の ,

清麗

ニ憶鰻嚢瞬あ

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と信じ へと高

あ な れ

た て め 拠 る い ら な

るがこ

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と る れ の ウ " 神

"

単秘

ころ

しいあ

て で Ⅰ 5 (251)

ャムピオソ の 目標は、神化︵

たる教父アタナシウス

宰へ tq

口曳

np-@0 姦描 ︶である。

。毬花㌧Ⅰ

五|

二五四、アレクサ ソ ドリアのフラト ソ 主義的キリ スト 教 神学者しもまた、 聖 アウグスティヌス と同 じく口ミ ア 。 日 ぎの 日 Chri の︵日日方 申 山口の粒 し笘

日害

由の ︵耳目︵人間キリ ストを通って汝は神なるキリストに達しつ ュあ る ︶という原理に従 っていた。 ゾイセ はキリストの口から次のような 言葉を聞いている。﹁もしあなたが私の純粋な 神性に真に至ろ うと 願 う なら、あなたは私の蒙もっている人間性を 破らなければならない﹂。イェス、その受難、聖 体 秘跡をその主な対 象 とする比倫 的 具体的な神秘主義は無限の神秘 主義の第一歩にすぎない。人格的な神の上に。

たビ 受肉の神のみな らず、三位一体の神をも超えて我々は ェ " クハルト

呉に

、 永 遠の神性 ち 0 ︵ チの ∼Ⅰ︶を見る のである。キリスト の 瞑想、キリストのまねび、そしてキリストの 愛は キリストとの一致へと至る。全てのクリスト 者は、古代の教父 達 がくり返し強調しているよ う に、キリストとな り、 神の子となるべきなのである。﹁すべての 人 は 、自分自身の内に おいてキリトスとなるべきである﹂︵の ぃ口 苛性 ぎア e Ⅱ ぎ円 e づ ・の 0 すの 0-@ 毛 。の。 目曲戸 ︶ ず @ のの - すの @e ト ロ ハリ アⅠⅠ の ︵ ヒ ㏄︶とマグ デ ブルグ

(17)

ニシャッ

群はすでに、﹁至福の世界への日々の

婦人﹂について語っている。真の神秘宗

は、し

かし、この分離に決㎎

してと

まりはしない。彼はこの世界へ立ち帰

。彼は変容の奇跡を体験したタ

ホル

の山の高み

から、日常生活の低

駿

へとおりて来る

口 マタイ一七

%@

等ロ

。真の神

桃家は神との一致において与えられる歓喜を自分

げに

とビ

めておか

、それを彼の友なる人々や文なる生物遠に分

ひろげる。﹁

らしい神学者﹂シメ

オソ

、彼

﹁満たされ、そして

後に全ての人にそれを伝え得るように﹂と祈っ

ている

a

︶んて㍉

ギ黛もめ

して

而 ﹁

R

、のむⅠ師の

づ Q

あ ノ

。㌔

甘釦

吟ら︶。フラ

ンドルの神学者

ハン,ルイスフルクはこう

っている。﹁さて、愛の絆に結ばれて後、人は聖

との一致にとどま

、啓発された知識と溢れ出る

とによって

地へ出で行

::真の寛容をもって万物を神の

によって豊かにす

るであろう:⋮

啓発されたる人は

真に

やさしくその

なる人々に光を与えるであろう。

彼は

、 彼らを立て、

き、彼らに奉仕するであろう。彼は全てを包含

する愛を有しているからである。それ故、彼は

神と全ての人との仲保

なのである﹂。人々を豊かにするこのような

きは、すでに神秘家運によって、仏教徒に

ょっ

ても、実践されて

たところの全てを包容するとりなしなのである。

真の神秘主義は、

4P

pS

も -p

︵ ざ八

瞑想の生︶

丘宙ま

目の︵活動の

︶との一致である。それはキリスト教神秘主

によって、レア

とラ

ケル、マルタとマリヤの

姉妹達の象徴的な姿の

もとで表現されている

口創

七九章以下、ル力

0

亡 一

<l

当参照

L

。神秘家運には瞑想的な生活と活

動的な生活とのたえ

交替がある。それは人間の心臓のの

ゼ の︵

0 こと

隼 ia

の︵

0 一の︵収縮と拡張Ⅰ肺の宕ロら

0 のと

倖礒

もら。

︵正忌

と異息

︶の

動的な動ぎに較べられよ

。キナスト

神秘

の中には、

アウグスティヌス

、聖

ベルナルド

めのⅠ

目 すりⅡ

0 円の

一 0 戸

ぺの仁

Ⅹ・

、フラノンス

ソス

の神秘的修道女﹂第の偉大な活動家がい

。彼らはすべて世を捨てる事と世にあって活動

する事とを調和ある

(18)

神秘主義における 置 ッ あ タ い ク る l て

い か エ る ト ス ツ が、 と @ ク 同 プ ハ し じ を ル か く 求 ト も 初 め の

仏 朝

質 業

も 仏 者 で ,

や 教 が あ

る り ま づ が ミ た た ら

平 の 弘 司

静事

は じ と 念 面 ェ 現 」 ち ッ

0

曲 タ は

状 目シ

行 の

で土

。 l あ に ェ に 17 (2 品 )

さまよ

遊行﹂は

一つの道程にすぎない

。それは人類への、また一切の生あるものへの

広い付きかげの過程なので

ある。﹁私は憐れみよりも断絶を賞讃する﹂

︵ 田 。

ゴ一

0 ヴ

0 %

円のキす

内のののず円の宙の臣ず臼︵

む すのⅠ

目 い の

Ⅱ 日ゴの

rz

握ガの

@ ︵︶

とは

マイス

道 において最大限に結びつげている。しかして また、我々は瞑想と活動とのこの一致を偉大な 非 キリスト教神秘家に おいても見出す事が出来る。たとえば老子は﹁ 俺 @ 為 ﹂と云 う その神秘的な生理念の上に、社会と国 家についての全哲学 な 形成し、神秘主義を政治の原理に体ならぬも のたらしめている。ゴータマ・ブッダはこの世 か らの完全な断絶にと どまるという誘惑を、万物に対する彼の慈悲に よって克服した。なぜなら、彼は人々が彼の説教 なしには救いを見出 すことは出来ない事を認めたからである。それ 故 彼は自分自身この世を歩むとともに、また弟子

達を占い仏教の

言葉によれば﹁衆生の救いのために、衆生の安 楽 のために、世間への慈悲のために、神々と人々 の 歓喜と救いと恵み のために﹂守の ダニ a 尽 田田︵ 鱗ぜ p, ㌢ きち寒由痔はぽ ・ a, ∼ 0 オリコ 廷村 駐ヨ づ 馳せ a. 曲 二ず 自ま欝 - ず ヱリ せヂと村 牙山 せ笛 宙 のくの・∼目の目 こ のの山口 曲コこ 使者としてつかわしたのである。ゴータマ ・ブッダのこの決意から、大乗仏教における慈悲 深 き 菩薩の理想は成 長した。菩薩は衆生の重荷と悲しみを己が身に 負い、彼らの代りに苦しみ、あがないとして自身 を 犠牲にし、愛によ って衆生の中に光明をともすことを誓 う のである 。最もよく読まれているインドの瞑想的神秘主 義の集約とも高 5 べ 釜 スカバット ギ ーターは神秘的な心術である ョ ガと 神への誠実なる愛であるす は の ォ ︵ @ ﹁敬信とに もとづいて、活動と 井手の 率 直な倫理を展開している。それ故、神 秘 主義は決して救済の個人主義的なエゴイズムを 示すものではない。 もっとはっきり言えば、この世と人々からとの 一見利己的な断絶と 孤離 、古代の仏教の言葉にあ るところの﹁無住に

(19)

る 。神秘家の神の理念において我々の認めたあ の 同じ 00 ぎ 。 ま窪守 0 篭 9 ぎ 。 きヨ がその生活にお いても繰り返されて M いるのである。神秘 家

自身がその神の如く

に 同時に おヨづ繍お 0 臣の。 おヨづ % モ あ - 笛の ︵常に 肋 らぎつつ常に狂 静止している︶のである。神の神秘的理念は 、 現代人の宗教思想にとって非常に重要なものであ る 0 コペルニクス や ガリレイよりもはるか以前に神秘 家 達は無限性 と ム大さについてのその体験によって、天文学者 達 によって示された 現代の宇宙の体系を先取しているのである。 現 代の天文学者は、いわばすでにギリシャの哲学 者 へ う クレートスに 見 られる千店 ぞ ot ︵無限︶ と 云 う 神秘的な理念を 厳密に展開したのである。太陽や星が照明装置 と して固定されている 大空に覆われた小さな地球に 伐 って 、 我々は 、 我々の小さな地球からも、またお互いにも何十万 光年と離れた無数の 天体を有する巨大な宇宙、銀河、星や星雲の体 糸を見出す。偉大な神秘的哲学者、エリウゲナ 、 二 コミノス・ クザヌス、 ブルーノ達は神についての現代の神秘的意識の 在 なる神が 、 我らの内にあって祈っている。﹁ わ き 手となっているのである。 たしたちはど う 祈ったらよいかわからないが、 御霊みずから、言葉 この量り知れざる神は、原始人 や、 多くの高等 ゐ 示教のいろいろな表現における擬人的理解によっ て、 単なる一個の 人格とされてしまうには余りに大きい。人格的 な 要素は 、 神の無限性を充分に述べうくす事は決 して出来ない。たし かに神秘家にとっても、神は人格なのである。 預 言者の表現においてと同様に人格的神秘主義の 表現においても、 神 0 本質と、この人格的要素とは結びついている。 彼らの考えにょれば、神は愛である。神は人間 の魂の愛と憧れの 対 象 であるにとどまらず、 神 自身が 、 与え、赦す 、謙抑な、犠牲的な 変 なのである。神が一つの 人 格 であり、﹁ 汝 ﹂であ るが故に、人間は普段の社会関係におけるのと 同じ方法で祈りの中で彼に呼びかけ得るのである 。神のこの﹁ 汝 ﹂ な る 事は、神秘家が体験した如く、無限の聖なる 存 在 が我々に内在し 、 我々の魂の根拠であり、また ラテンの ぺ ンテコ ス テの 讃美歌の一節を借りて言えば作三 0 ∼のす 0 の で のの の伍 ぎ鰍 ︵魂のやさしぎ客人︶であるが故に可能 なのである。この内 にあらぬせない切なる うぬ きをもって、わたし たちのためにとりなして下さる L 官マ 凡主 ハ ︶ とあ る 通りである。バス

(20)

神秘主義における 神の理念 な 一 神 力 言 の め

ュ 神 く め 汝 と こ 神 着 た は

ら 、 て 。 し 使 び ね い い る

信 声

た く る し は で と た の

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高 神 か

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敬 っ 力、 虔 た な で

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が る す ま の

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の と よ 元

5@ 5 19@ <255)

(21)

﹁言い難く 、 量り難 き光 ﹂︵ 巨パ 中言ぎ ヴ Ⅱ - 一の里ぎ 0 0 日展 簿 当の い す い捷 Ⅹ﹁言い難き威光﹂ 公 p の 曲 申す いロい の 8 曲 い のの︵ の の︶、﹁至高な 却 る 充満﹂︵のけ日日曲 っざロト ︵ 乱 0 ︶のように語る。 我 々のドイッ語で云 う ﹁ 神 ﹂も、もともとは男性 名詞ではなく、中性 名 ㈹ 詞 であったのである。 この量り知れざる神は絶対なる神秘であり続 け る 。それは、たどいと深 き 崇敬と平伏において 拝 せられるのみであ って 、 決して我々の知性によっては量られ得ない 。神秘 家は 一切の独断的定理や、神学的教理が 神に対しては不適切 である事を認識している。神秘主義は我人を 、 あらゆる宗教の正統派がその信者達を縛って来た 文字の圧政から救い 出す。﹁文字は人を殺し、霊は人を生かす﹂︵第一 一 コリント三六︶新約聖書のこの言葉は 、長 い間 キリスト 教 神学 者達によって無視され、或いは忘れられていた 。あるドイツの神学者が﹁キリスト教は信条にも とづく﹂と言い得た のもそのためである。現代においては、独断的 正力 は、ョ ー p : ハ 就中ドイッの神学において、 我々を過去数十年 ょ りも尚一層激しく圧迫している。オランダの 偉 大な神学者、故 G. ファソ・デル・レオは カ| ル ・バルトを﹁ バ @ セ ルの暴君﹂と呼んでいた。歴史批評もそうで あろうが、神秘主義もまた、あらゆる﹁信条崇拝 ﹂に対する強烈な 均 待物なのである。信条がそれに対しては、たど 遠くからの徴しであるにすぎないところの聖なる ぎの内申す いロ の︵言い難さ もの︶を、信条そのものと混同する者は、その 神の可視的な形像を神自身と混同している異教の 偶像崇拝者と、なん ら 異なるところはないのである。 ロ の屈の三 co 日召 臼の臣のざ臣の黛 田簗斗田の ︵量り難く 、 言い難 き神 ︶こそ、一切の真の 神学のアルパにしてオメガなのである。 スト教相互のみならず、全世界の諸宗教の間に 其の ヱ キュメニズムロ教会合同運動口を打ち建てる のである 0 キリスト 神の神秘的理念はまた、諸教会、諸宗教、相互 の 関係にとっても非常に重要な意味をもつている 。それは単にキリ 教会の神秘宗達 志 、すべての偉大な諸宗教の神 私家運 も、 同じ一つの聖なる神秘を体験している のである。 数千年来、神秘家の理念もイメ @ シも、その用 圧 拍も祈りも変ってはいない。伝達手段の法則に従 って神秘主義は 、

(22)

神秘主義における

神の理念

て そ い れ 「

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拝 な 。 真 さ た 想 牛 場 、 と も っ

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づしにれとと

たこ讃の

性合

スじ

同 21 ( あ 7)

(23)

一歩

ぬげ

出ている事を示している。﹁天のいた

ど き迄

いけば、もう梯子はいらない﹂のである。

神の神秘的理念は、宇宙的な広がりのものであ

る 。しかしながら、それはただ一つの点において

制限と一面性とを

有している。神秘

家は、

神の啓示を自然の中に

見、一人の人の魂の中に見、また全ての人の魂の

中に見るが、しかし

たど

一つ、歴史の中にのみは見ていない。完成

の 究極の目標へと同

3

歴史の事件の導ぎの中には

見ないのである。

済は、

限りあり、終りある世界のかなたに存す

る 。あの

浬 盤の不可入の領域に、そこから万物が

溢れ出して来るとこ

ろの根源存在への回帰の中に存するのである。

, しの点においては、預言者宗教は、はるかに広い

視野を有している。

﹂守も

ミ桶濤

q

へ しを告げている︵マタイ

三衣一九

廿 八︶。これらはすべて神秘的救済宗教

のような、彼岸の々

ぬ であるのみならず、終末論的宗教なのである。

彼らの最高の理想は、不動の薄日日

E

日す

。戸戸

ではなく全世界に

%

げ ろ

ダイナミックな神の国であり、真理と正

義 と愛の王国の建設なのである。一切の悪魔の

カ が

征服しっくされた

後に、﹁

斬 らしき

天と地

﹂は起るであろう︵第二

ぺ テ

ワ三三︶。しかし、神の神秘的理念と、この

終末論的観点とは

して相互に排除し合

う ものではない。その

ょう

な 綜合の最もよい例は

オリゲ不ス

とヵ

パドキヤ

の 教父

おも

口 " 口 o

。 @ めコ

Ⅱ ぃ ︵ ず

0%

。小アジア東部の

ロマ

の一県、ナチ

アソツ

の グ

レゴリウス、ニッサのグレゴリウス

ヘ バシリウス等の教

俗巳

である。彼らは

神秘家であったのみならず、﹁万物の回復﹂⑧

目 。 木羽

づ臥

q ぎ

Ⅰ ち

㌔ 目 鮨桶

ミ ︶を教えている限り、同時

にまた、終末論的思想

家であった。

聖 アウグスティヌスでさえ、別な

方法によってではあったが、

新 プラト

ん 派的な神

秘 主義と聖書的な預

言 主義とを調和的に結びつけている、彼は

、そ

の母モニカについての言葉の中で、神秘的告白の

頂点に、まったく

フラト

ソ 派的な永生の概念を記している。しかも

同じアウグスティヌスが、偉大な歴史的、神学

的 作品、﹁神の国﹂を

いるように、義と愛の勝利によって終るのであ

る 。宇宙の神、唯一つの魂の神は、同時に歴史の

中に

肋 らぎ、その

(2S8) 22

(24)

神秘主義における 神の理念 文 申、

は 原 著 者 の

訳 者 註 であ ま

訳 註 よ @ ] 月支

限 に め ま -@0 % ト

宮 訳

極の目標を歴史の中に実現する神であり、最後 に、 全ての造られたる霊をその御旨の下に支配す る神 なのである。神 に ついての神秘的理念と終末論的理念との調和は 、 我々が 古 教会の同じ正典の中に見出だされる 一 一つの言を綜合して 見 る 時に明らかとなる。一つはギリシャ語の旧約 聖書の賢者シラクの子イエス︵四三千よの言で あ 二リ。﹁ 能ドめ蝶 ㌦ q づ ︵ ヒ Q 串簿 ﹁ 彼 ︵ 神 ︶は宇宙である﹂。しかし、この @ @ はそれだけ見れば相対的で不充分である。なぜ なら、それは悪の力 はどこから 来 たのか、またそれは何のためか、 という問いに答えを与え得ないからである。神秘 家は ヤコブ・ べ|メ nJ 曲ガ 0 す ロ琴 日 e. 一五 セ五 lli 一六二四、ルーテル派の ドイツ神秘思想家、哲学者しがなした如く 、 悪の起 源を世界の根 低 にも とめるか、或いは単なる﹁非存在﹂ぞ手 ぎ ︶ 、 ﹁ 最高存在からの逸脱﹂在留日日 0 の幼のよⅠの - い り︵∼⑧ 、 単なる 口 ﹁∼ 4 曲︵ @o ︵ 欠 如 ︶ 、 隼の︵の c ︵仁の︵障碍︶ 、 a ヴ のの 臣

ぎ木

在 ︶ と見傲 すかしなければならなくなる。悪の本質について 、これらの答えでは 不充分と見 倣す 者は、神は今はまだ、全てでは ないが、やがて﹁全てにおいて全て﹂となり 結う であろうと信じて、 終末の時を見つめるのみなのである。それこそ 、イェス と 原始キリスト教団の中に行きわたっ ているところの信仰 であり、聖書のもう一つの個所に、宇宙につい ても触れながら、もっとも壮大な表現において 示 されている信仰であ る 。即ち、使徒パウロの言葉にこ う ある︵第一 コリント一五 甘こ 。﹁神が 、 全てにおいて全てと なり 結う ために ! ﹂ ︵ⅡⅠ 寮め ㏄も 小 ひの 目 八寸Ⅰ Q% Ⅰ㍉ 簿 q ヰ Ⅰ︶。 23 (259@

(25)

ちよう げん かぶきの勧進帳でひろく世に知られている東大 寺の大仏鋳造にあたって、大勧進 職 に任ぜられ た 俊乗房重源二 一

ハと 宋に渡り、次のとし栄西とともに帰国して いる。重源はその後 も 再三 宋に 行ったらしい︵玉葉三八巻、寿永二年正 月 二四日の下﹁渡唐三 箇度 ﹂という記述を見る︶が 、 かの地から彼が将来 したと伝えられる袈裟は、現在京都の知恩院の 宝物となっている。 数年まえのこと筆者は﹁ 勅修 の御仁﹂などと 共 にそれを見せてもら 3 機会にめぐまれたが、その 袈裟の模様には 須 弥山中心の世界 説 が図案化されていたことを 記 臆 している。ところで、その世界図は四洲をあら わしたものの よう で あったが、一般に倶舎論などで親しまれている 四洲の配置とはやや異なるよ う に見受けられた。 倶舎論などに知られている須弥山 説は 、イソ ド 以来シナ・日本でも仏教者の間では常識となって いたと思われるの に 、その模様が別な配置となっているのは、 何 か 意味があってのことかも知れないが、その理由 のよって来るところ は 不明である。そこで当時シナではこの模様に 見られるような配置が普通に行なわれていたなど と 速断することは 早 計 にすぎるであろう。とはいえ、仏教文化が広 い 地域にわたって受けいれられた経過を考える 一 コマとして、由緒 正

-a. 月、

:

究と

形態学的研究

教学研究の新課題について

i

( 升田 @@@ 24

(26)

背は

ジャータカを問題とし、ジャー

タヵ

に 関

係 ある彫刻、美術を取り上げて研究をはじめたの

は 干潟博士くらいのもの

と 形態学的研究 た は で, 、 と あ こ こ る れ ろ う ら で

かのこ

。 資れ

こ 料 ら れ や が ま

@

究 外

の の な ィム

教 果 仏

の、

散文

突 こ よ の ま り 方 で 以

内 仏 外

を 教 の

見 学

も る や の に 仏 で

しいこのような資料が含んでいるものを、些細 な 問題だからといって等閑 に 附してよいわげはな -2- 日本には、シナに伝えられないで、幸にもわが 国 に 伝えられた貴重な文献として、 惰 大業主の浄土 詩 をもっているの であるが、このような特殊な場合を別にしても、 日本の古刹に保存せられている貴重な資料は少 なくないであろう。 そこで、その時代が限定されているような場合 、とくにその価値は高い。 -3- もし広くアジア地域に眼を転じるならば、シナ の 大同や竜門の石窟の紹介・研究、近くほ 麦積 山の発見、居庸関の -5- 研究などは重要な資料を提供した。またすでに -4- 多 くの学者に よ り発表され、なお今も発表されっ っ ある中亜の資料をは -7-

どの資料が多く世に出されていることは周知の如 くである。さらに イ ンド におけるバールフト、サーン チ

Ⅰアマラ

ブ ティⅠ ナ ーガールジュニーコー ソダ などの 写 真 ・紹介・研究など も 、ここ数十年このかたその業績はつぎに公表 されているが、マーシャルによるタキシラの発掘 に関する報告の如き は 完壁に近いといえよ う 。 これらの 内 、なお研究の中途にあるものも多く 、 見方に ょ ればすべてがそうだともいえるが、 外 に 研究の資料とし て 発表されていないものも 少 くないであろう。 しかし、ひろくアジアの大陸と南海にわたって 存 する古跡の紹介や研 究 において、今日まで積み上げられた偉大な業 績は 、世紀の驚異といってもさしつかえあるまい

(27)

︵Ⅰ︶重源上人の研究、南都仏教研究会編、昭和三 0 午 セ月 。この内には柴田夫氏はじめ一五氏の研究論文を 掲載しているが、重源 の 入宋についての研究は見られない 0 ︵ 2 ︶ 晴 大業主浄土 詩 の 如 ぎはその例である。岩井大 慧 ﹁聖武天皇 良 紛雑 集 に見える 晴 大業主浄土 話に ついて ﹂。日文仏教史論 放 、 第一部一、一 | 九四頁。昭和三二年五月、東洋文庫,﹁ 広 法事讃を通して再び聖武天皇 哀翰 浄土詩を論ず﹂。前掲 九 五|一 三六頁。 武内義雄、﹁聖武天皇長齢雅美晴大業主浄土 詩と 往生 礼 讃 ﹂。文化 三 一・六昭和三二年一一月、九 |二 0 頁 。 ︵ 3 ︶麦積山石窟、鄭振鐸 序 、図版一六一。文化部社会 文化事業管理局編 印 、一九五四北京。 名取洋之助、麦積山石窟昌已ん 三 ・色目の笘のの一毛 ハ頁、鄭振鐸序文邦訳 一 0 九| 一二 0 頁 、岩波書店一九 五七年四月 0 ︵ 4 ︶村田次郎編著居庸関第一巻昭和三三年三月 。村田治郎藤枝昆編著同第二巻昭和三 0 年三月 座 石室刊行会。 ︵ 5 ︶西域文化研究第一。 |敦煙 仏教資料 | 二六九頁 づゃ ・ ミ ・昭和三三年三月西域文化研究会京都法蔵 館 。 ︵ 6 ︶ ン ・の 壮毘 &. べ ・の乱銭 b, ︶・ 由 ac ガぎ 田のの下卑五三︵ かの 巾 0 ぢ臣甘 五ロのの年のめ凶日 申笘ヲ 下せの ゎ Ⅰ e の 目 0to の ハ 山主︵ ざロコ の コ のの 汗 さ ビ 下知 三 ㌧ 0 年 @ ニ ・ づ 0 日のⅠ︵・ トゆ時 ㏄ ト由 Pn ニ臣 - 之 0p せの年 8 オ ec 馬 Ⅱ斗のの中 おゴか 0 ロ 0 ぬ 5 ロの の 浮い 沖 目白 りコ ・ づ 0 日 eHH ︵・ ト ゆめ 9 へ 本ミ 歪 0 叫卜 いり鮨もれ ぬ 卜リホ ∼ふ的㏄∼∼ 0 ぉ レコ いかぬⅠ∼もめ 心 悪いⅡ きぉハミ ㏄ en レトめ卜ぁぉ ∼ り ∼ an ︵ 7 ︶ 龍 山草真南方仏教の様態昭和 一セ年 一二月。 この内﹁主要文献目録﹂︵ 一| 二六頁︶に南方の美術 関係の書目が見られ る 。台湾総督 府 外事部調査第一三 セ ︵文化部門 弟ら東 印度の仏教文化昭和一九年二月。附録文献目録︵ 一| 一八頁︶ 欧文和文の諸文献をあげる。 26 で、 故 小野玄妙博士の後、仏教美術を仏教発達 の 歴史に結びつけようとする学者は一般に見られ なかった。 フ一 シェの労作﹁ガンダーラのグレコ・ プッデ イソク ﹂の如きは、すでに数十年前に出されたも のであるが、 惜

み賊

なく写真挿絵をもって実例を示した深切な書で ある。仏教を専門としない著者ではあったが、 仏 伝 に関係してすぐれ た 創見を示し、学界の称讃を得たものである。 そ の後の仏教研究者は フ一 シェの説を取入れたが 、著者が紹介した 種 々の彫刻絵画を 、 多くの仏教聖典の解明に役立 た せよ う とする如き試みは絶えてなかった。

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背が

、仏教美術の成果が 、 ひろく仏教研究者 に 取り入れられる段階には至っていないようであ る 。 27 究 れだけ、その研究に役立てたかを知らない。 研

、この ょ 3 な実証的な資料に眼をむける傾向はよ ろ こぶべ き ことである 凝

形態学的研究

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