第 3 章 情報収集モデルと内発的動機 49
3.2 基本モデル
雇用者があるプロジェクトを抱えている状況を考える。このプロジェクトを実行すれば収益S > 0が見込 めるものとする。しかし、どれだけの実行費用がかかるのかは実行してみなければ分からない。そこで、この プロジェクトの実行費用に関する情報を労働者に集めさせる。情報を集める業務は専門性が高い業務であると し、それを雇用者が行うと管理者としての他の仕事の時間が奪われるなど多大な機会費用が発生してしまうこ とから、労働者にしかできないものとする。なお、労働者が情報を集めたか否かを、雇用者は観察することが できない。労働者は情報を集める努力コストとしてc >0を負担し、このプロジェクトの実行費用に関するシ グナルとして確率θ∈(0,1)でσG、確率1−θでσBを得る。これらのシグナルは、労働者によってのみ観察 可能である。したがって、情報を集めたか否かだけでなく、シグナルの内容もまた労働者の私的情報である。
雇用者は労働者にシグナルを報告させ、そのシグナルの内容に応じてこのプロジェクトを実行するか、あるい は、中止するかを決める。
プロジェクトが実行される場合、プロジェクト実行費用として、高い費用Cあるいは低い費用Cが実現す る(C > C)。CあるいはCは、労働者が得たシグナルの内容によって実現する確率がそれぞれ異なる。σGを 得ている場合、βG ∈(0,1)の確率でCが実現し、1−βGの確率でCが実現する。一方、σBを得ている場 合、βB ∈(0,1)の確率でCが実現し、1−βBの確率でCが実現する。ここで、1> βG> βB >0とする。
これより、σGのときにプロジェクトを実行する方が、より高い確率で低いプロジェクト実行費用であるCと なることが分かる。上の意味において、σGはグッドニュースと呼び、σBはバッドニュースと呼ぶ。なお、プ ロジェクト実行費用は雇用者と労働者に観察可能な形で実現し、これらのプロジェクトを実施するための費用 はプロジェクトを実行した雇用者側が負担するものとする。
雇用者から労働者への報酬は両者にとって観察が可能なプロジェクトの実行費用(CかC)によって決定す
る。プロジェクトが実行されCが実現すれば¯t、Cが実現すればtが支払われる。プロジェクトが中止された 場合には、t˙が支払われるとする*2。企業内における雇用者と労働者という状況を想定していることを考慮し、
報酬は非負であると仮定する(有限責任制約)*3。これにより、負の報酬、すなわち、労働者から雇用者に罰 金を支払うなどの可能性を除外することができる。また、労働者の留保効用はゼロとする。
本論文では、上記で説明した雇用者から労働者への報酬以外に、労働者は自らの所属する組織に対して利他 的であるとし、プロジェクトの費用削減が成功することによって内発的な効用a(≥0)を得るものとする。こ の内発的効用は、プロジェクトの費用削減が成功しCが実現した場合にのみ労働者が得るものである*4。な
お、Makris (2009)のように、内発的効用の程度の大きさは共有知識であるとし、双方に観察可能であるが立
証不可能であると仮定する*5。
次に、プロジェクトの収益Sは次の範囲を満たすものと仮定する。
max
½
βGC+ (1−βG)C+βB+θ(2−θ)(βG−βB)
θ2(1−θ)(βG−βB) c−βGa, βGC+ (1−βG)C+c+ (1−θ)βBa θ
¾
< S
< θ[βGC+ (1−βG)C] + (1−θ)[βBC+ (1−βB)C]
この仮定の右側の項は、労働者を雇わずにプロジェクトを行った場合の雇用者が負担する期待費用の方がプ
*2本モデルでは、雇用者は十分な初期資産を有しているとする。よって、プロジェクトを中止する際には収益はゼロであるが、労働 者への報酬はその初期資産から支払われると考える。
*3Makris (2009)で考えられた管理制約(administrative constraint)のように、本章でも仮に、情報収集にかかる努力コストcを 業務上必要な費用として考えるならば、企業は報酬からこの費用を差し引いた額を保障しなければならないだろう。しかし、本モ デルにおいては情報収集にかかる努力コストcは、仕事に時間や労力を費やすことにより余暇が失われてしまうといった機会費用 が不効用の形で労働者に負担されるものと考える。したがって、通常の有限責任制約、すなわち企業は報酬が非負となる制約を考 えればよい。これにより、内発的動機が最適報酬に与える影響に焦点を当てて分析することができる。
*4Makris (2009)では公共部門(病院や学校など)のエージェンシー問題が考察されており、そこで雇用されるエージェントは利他
的で、使命志向型(mission-driven)であると仮定される。公共部門では、サービスの供給そのものに労働者は使命感を感じてお り、そのサービスを供給する組織に対して利他性を持つ。よって、その組織が公共サービスを供給することで収益を上げることか ら内発的効用を獲得する。一方、本モデルでは公共部門ではなく、営利的な企業を考察している。企業の最優先の目的は利潤を最 大化することである。このことから、企業内における利他的な労働者は、収益ではなく自分が携わったプロジェクトから企業が得 る利潤が最大化したときに、貢献感や達成感を通じて内発的効用を獲得するものとする。したがって本モデルでは、費用削減が失 敗に終わり、Cが実現し利潤が最大化しない場合や、プロジェクトそのものが中止され利潤がゼロの場合には内発的効用を得るこ とはない。
*5Benabou and Tirole (2003)ではプリンシパルがエージェントが行うタスクに関する情報を予め持っている状況が想定されたが、
本モデルにおいても同じように、雇用者はこれまで同様のプロジェクトに自ら携わり、また多くの労働者を見てきた経験から、こ こでは内発的動機の程度の大きさを予測できるため共有知識と考える。また、内発的効用の程度の大きさを定量化することは現実 的な観点から難しいため立証することはできないが、共有知識であるため報酬契約として互いに合意することができる。
ロジェクトの収益よりも大きいことを意味している。これにより、雇用者はこのプロジェクトを行う際、労 働者を雇用し情報を集めさせるという状況を考察することができる。ここで、この右側の項から、C > Cと βG > βBの仮定より、S < θ[βGC+ (1−βG)C] + (1−θ)[βBC+ (1−βB)C]< βBC+ (1−βB)Cが成り 立つ。これより、以下の式を求めることができる。
S−βBC−(1−βB)C <0. (3.1)
式(3.1)は、バッドニュースσBのときにプロジェクトを行うと期待利得が負となるほどにはこのプロジェク
トの収益Sが小さいのに対して費用Cが大きいこと、また、σB時の費用削減の成功確率βBが低いことを意 味している。
また、仮定の左側の項は、最適契約のもとで実現する雇用者の期待利得が正となる条件である。プロジェク トの収益Sは十分大きいとし、実行するに値するプロジェクトであることを保障している。なお、これらの左 側の項は非対称情報のケースにおける最大化問題を解いた結果として導出されており、この最大化問題は次節 で考察する。
最後に、ゲームの意思決定のタイミングは以下の通りである。
1. 契約提示:雇用者が労働者に契約を提示する。労働者が契約を拒否すれば、ゲームは終了し雇用者と労 働者の利得はゼロとなる。契約が受け入れられれば、次の段階へ進む。
2. 情報収集:労働者がコストcを負担して情報を収集するか否かを決定する。情報収集をした場合には、
グッドニュースσGかバッドニュースσBを獲得する。情報収集をしない場合には、何も情報を得るこ とができない。
3. 報告:労働者は雇用者に対して、情報収集の内容(シグナル)を報告する。情報収集をしていない場合 にも、グッドニュースかバッドニュースのいずれかを報告しなければならない。
4. プロジェクト実行判断:雇用者は報告内容に応じて、プロジェクトを実行するか、あるいは、中止する かの判断をする。プロジェクトを中止する場合、契約にしたがって報酬が支払われる。プロジェクトが 実行される場合、次の段階に進む。
5. 契約履行:プロジェクトが実行され、プロジェクトの実行費用(CあるいはC)が実現し、契約にした がって報酬が支払われる。