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②孫たち

。・△

・・△孫たち

CL。_

余▲.怠.

図11初ヨビの座席 飯の用意が綺麗にされてい

て︑先ほどとほぼ同じ座順で

くが︑夕食が始まって

しぽらくすると︑会社が終わ

た︑長女の夫や

男も加わって︑最終的には

図11のように並んだ︒ただし

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四、芋くらべ祭の周辺

婦と嫁は︑食事の運び下ろしに忙しく︑また三女はもっぼら子ども

務め︑ほとんど席につくことはない︒また六時過ぎ︑今日来

られなかった妻の実家に︑料理のお裾分けを自動車で運んでいったの

も︑三女であった︒こうして当日八時過ぎまで︑初ヨビの宴は続けら

れ︑散会となったのは午後九時頃であった︒

③ 周辺農村の野神祭

  基

中山の芋くらべ祭も︑中山周辺の農村一般で行われてい

  のがみまつりる︑野神祭と称される行事と同種の農耕儀礼である︒このことは︑例

えば祭場のある山を野神山と呼ぶこと︑また周囲の農村の野神祭と比

較した場合︑行われる時期や神撰︑また儀礼等が極めて類似している

ことからも︑ある程度断定できよう︒すなわち中山における野神祭が

芋くらべ祭であって︑映像記録に際しては︑その相対化の意味で︑隣

る集落である上三十坪の野神祭と︑また東西中山の分村であると

伝える徳谷の野神祭も︑併せて記録した︒

 ここでは一九八八年に行われた︑その二つの野神祭を︑特別な解釈

加えず︑儀礼の過程に沿って︑その行程を中心的に記述し︑またそ

こで得られた必要最小限の情報のみを加えるだけとした︒さらに第三

節として︑今回映像には時期的な関係で記録できなかったが︑芋くら

祭と関連の深い︑一月三日に行われる山の神起こしの行事も併せて

し︑芋くらべ祭の根源的な意味を浮彫りにするための︑資料に供

したいと考える︒

       かみみ モ つ  ①上三十坪の野神禁

 日野駅から中山に向かう道の途中にある上三十坪では︑毎年八月二

三日が野神祭の祭日である︒この上三十坪で行われる野神祭は︑ズイ

祭とも呼ぽれ︑祭礼当日︑野神に奉納する鳥居を︑里芋の茎すなわ

イキで作るところに︑その特徴がある︒

  上 三 十坪の野神は︑集落内に三ヵ所祀られており︑野神講と称し︑

講中が別に組織されている︒各講中はそれぞれカ︑ミ︵上村︶

講中︑ナカ︵中村︶の講中︑クボ︵久保︶の講中と呼ばれているが︑

これは集落内を内部区分する地域的呼称のうちの三つと重なっており︑

講中は近隣を規準に地域的に構成されているといってよい︒八月二三

日当日の朝から準備が始まり︑午前中それぞれ別個に野神祭が行われ

るが︑午後は三つの講中が一同に会して︑会所で合同の直会が行われ

る︒以下は三つのうちナカの講中を中心に追って観察した︑昭和六三

年の祭礼当日の︑朝の準備からの行事次第である︒

 ︹祭の準備︺

時より祭場づくりが始まる︒ナカの講中は一四軒で構成され

るが︑今年の当屋とその手伝い一人を除く︑一二人が祭場の準備

行う︒各戸から一人ずつ戸主が出るが︑代わりに女が出ても構わな

い︒ まずは前年の竹ヤライを片付け︑野神境内の草を刈り︑これを脇の

す一方︑竹割りを行って︑新しい竹のヤライで神域を囲っ

り︑のちに供え物を載せる竹の神膳をこしらえたりする︒しばらく

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近江中山の芋くらべ祭

するとズイキの鳥居づくりが始まる︒高さ一メートル強の鳥居が二本

作られるが︑後述する理由で本来鳥居は一本だけでよかったという︒

もい︵横木︶の部分に二本のズイキを用い︑竹の柱をこれに挿して

作るが︑これに初穂を三ヵ所下のかもいの部分に逆さに挿して︑二本

木の前に立て掛ける︒また御神木の一方の松の上方に飾ってあ

前年の御幣を外し︑これを燃やせぽ︑ほぼ祭場の準備は終わり︑

一同脇にある倉庫で休憩となる︒

 これと並行して︑当屋の家では御神木に飾る︑新しい御幣づくりが

行 わ

れる︒一メートルほどの孟宗竹に︑幣束を切り︑洗米をくくり付

けてこしらえる︒この竹や芋のズイキを採ってくるのも当屋の役目で

ある︒また台所では神撰づくりが行われるが︑餅・塩・洗米・しん粉

団子が供えられる︒しん粉の団子を供えるのは︑野神が牛の神様で

もあるからだという︒

 ︹祭礼︺

  午後一一時過ぎ︑当屋から御幣を先頭にして︑行列が祭場に向かう︒

は︑昔は草履を脱いで︑はだしで行ったものだったとい

う︒

  祭 場 着くと︑まずは二本ある御神木のうち︑左の方の松の上方に︑

御幣をくくり付け︑続いて二本の御神木の根元に︑先ほど作った竹の

膳に神殿を載せて︑それぞれに供える︒このあと︑二本の御神木の

根 元

撒き︑倒れて根だけが残る古い御神木の跡にも酒を撒いた

ち︑当屋の音頭で一同柏手を打って︑三回礼をした後︑各自で参拝

する︒ほどなくして︑供物を下げ︑御神酒を飲み回し︑余った御酒を

木に振り撒けば︑一同祭場から退場する︒

 このように祭の儀式自体は︑至って簡素なものであり︑到着から退

場までに要した時間は︑わずか五分ぐらいであった︒戦前は参拝の後︑

子どもたちの奉納相撲があり︑また直会もこの祭場で行われたという︒

戦 後 奉 納 相

撲は︑子どもたちの綱引きに変わったが︑この日は地蔵盆

とも重なっているので︑一九六五年ぐらいから︑次第に現行の大人だ

形式に変わっていったという︒また御神木が二つあるのは︑以前

木であった松の老大樹が︑一九五五年頃台風で倒れてしまったた

め︑そうしたことへの予備として︑二本植樹したことによるだけだと

される︒ ︹直会︺

  祭 場 ら退場すると︑一同︑上三十坪の会所︵公会堂︶に移動し︑

午から三つの講中合同の直会となる︒このような合同で直会をやる

ようになったのは︑ここ一〇年来のことというが︑直会の前に区長の

挨拶があり︑また区の担当の役職者から道普請や草刈り︑麦刈り等の

連 絡 事 項

あって︑一つの村寄合いの意味も有している︒こうした区

連 絡

協議が小一時間ほどあって︑ようやく区長がもう一度︑今年

講も無事済んだことに対する挨拶を行ったのち︑その音頭で乾

杯し︑飲食が開始された︒

 なお︑三つある野神のうち︑クボの講中の野神には石碑が建ってい

るが︑そこには農乃神という字が刻まれており︑カミの講中の野神は︑

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四、芋くらべ祭の周辺

大きな檸の老樹が御神木になっている︒また各講中は︑正月にも惣年

前に︑野神へ参拝に行くが︑これは昔は山の神様まで行っていた

事の︑その代わりだと言っている︒

② 徳谷の野神祭   東

西中山の分村であるといわれる徳谷では︑野神祭は九月一〇日に

れる︒一九七〇年までは中山でも︑この日を芋くらべ祭の祭日と

していたように︑上三十坪の野神祭に比べて徳谷の儀礼には︑中山の

芋くらべ祭と類似した要素が極めて多い︒もちろんそれは︑伝承の通

り分村だとすれば︑母村の儀礼を引き継いで始められたものであろう

ら︑むしろ類似していることは当然である︒が︑一方異なる部分も

また多く︑ここではこうした要素の共通や相違に注意しながら︑以下︑

八 年

月一〇日に行われた徳谷の野神祭を︑その準備から順次

していこう︒

 ︹ホコモトの紙集め︺

祭日当日の午前五時ちょうど︑徳谷の集落のほぼ中央にある会所前

に︑小学校一年生以上中学校一年生までの男子が全員︑ホコモトの紙

集めのために集合する︒区長も来てその様子を覗くが︑男子全員とい

もわずか八名である︒

 まだ暗闇のなか︑五時三分︑全員で会所前を出発︑南側の家から一

軒ずつ回り︑各戸の玄関先で﹁ホコモトの紙おくんな﹂と皆で斉唱し

て︑お金と和紙や半紙を集めていく︒わずか二〇余戸の集落であるか

ら︑会所に戻ってきたのは︑五時三〇分少し過ぎた頃︑全戸回るのに

三〇分とかからない︒このあと会所の一室で︑一番の年長の子︵中一︶

配で︑参加した子どもたち全員にお金と紙が分配されるが︑年長

者の取り分の方が多く︑均等ではない︒この年︑最年長の中学一年生

四︑三〇〇円︑二番目の同級生が四︑一〇〇円︑小学校五年生の三

番目になると二︑三〇〇円︑八番目の一年生は八〇〇円であった︒こ

れも五時五〇分には配り終えたが︑山分けが終わると直ぐに解散とな

る︒子どもたちは家に戻って︑その後︑この年は日曜日であったが︑

平日であれぽ学校に行く︵徳谷の子どもたちだけ︑午前中までで早退

る︶︒

 ︹祭礼の準備︺

 当屋である神主の家では︑当日も︑芋のくくり付けや神撰の煮炊き

など︑祭儀の準備で早朝から忙しい︒この祭が終われば神主に昇格す

る︑相当︵アイドウ︶あるいは相役︵アイヤク︶と呼ばれる副神主も︑

夫婦で手伝う習わしであるが︑それだけでは足りず親類縁者の協力も

仰いで︑準備が行われる︒

 もちろん祭礼の準備は︑その前から徐々に行われている︒祭日一〇

日前の九月一日から︑神主と相当の二人で︑祭場の清掃がはじめられ︑

八日には祭祀で使用する神の膳︑芋竹︑定尺などの祭具づくりが行わ

れる︒定尺と笏は︑前日までにムラヤブ︵村藪︶から︑ネムノキを採

きて︵中山では樫の木︶︑三〇センチメートルに切った木を二本︑

二        2        13割りにして乾燥させておく︒笏にする一本はこの八日に︑片方に

カデ︑片方はマムシの絵を墨書きし︑もう一本の定尺の方は何も書

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