トップPDF 《Spiralの会》の歩み―ボランティア活動15年の記録― 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

《Spiralの会》の歩み―ボランティア活動15年の記録― 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

《Spiralの会》の歩み―ボランティア活動15年の記録― 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

 地震がもたらした大きな影響は、わたし研究姿勢見直しという形でも現れた。それまで 自分が行ってきた文学作品批評は、単なる言葉上で操作にすぎなかったことに気づかされ ることになった。それは、上記したように、地震直後我が家リビングルームから見えていた 光景 ― 次々とビルディングをのみこんでいく火の手、そして長田町を焼き尽くした、猛威 を振るい続けた火事 ― がきっかけとなっている。それまでにわたしは、ある中国系アメリカ 人作家作品に関してステレオタイプ問題を考察する論文において、新しい世界観に到達す るためには過去因習から解放される必要があるとし、その作品に用いられていた図書館が焼 け落ちる場面に着目し、その重要性を強調していた。それは比喩表現にしかすぎなかったとは いえ、現実に目前に火事で多く人々いのちが奪われていくのに、何もすることができな い自分無力さを強く感じ、自分取り組み方について再考を迫られることになった。そして、 その延長線上に、絵本・児童文学実際的な効果を基本とした今日研究姿勢がある。  スパイラルで扱う作品が児童文学へと方向変換し始めたころは、題材選択傾向が変わ ったことに戸惑われた参加者もおられた。しかし、最近では、児童文学を再発見し、その魅力 に取り付かれている方々も少なくない。孫と対話に役立つと声も聞く。別方からは、大 学生お嬢さんと同じ本を読み話し合う機会が持てて幸せです、と聞かせて頂いた。病気が私 を変え、まわり人たちにも変化をもたらしていることが実感される。題材選択に対する責任 を感じ、身ひきしまる思いがする。
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《スパイラルの会》の歩み ― ボランティア活動20年の記録 ― 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

《スパイラルの会》の歩み ― ボランティア活動20年の記録 ― 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

、いつも泊りがけで静岡まで同行する母健康状態がそれを許さなくなり、厳しいスケ ジュールで私が日帰りで行うしかないことになってしまった。また、受講してくださる方々 中でも、親や身近な方々介護、あるいはご本人病気ため、出席が困難となってしまわれ た方も少しずつ増えてきていた。そのため、これ以上続けることは困難と考え、震災から 20 を機にスパイラルを 2015 3 月 28 日に閉会することとし、65 回目をもって終了した。  この 20 年間、のべ 1,300 人参加者と英語で書かれた文学作品をとおしていろいろなことを 考えさせていただいた。また、その時々にサポートを必要とされる団体や個人方々を微力な がらも支援し続けることもできた。これもすべてスパイラルを支えてくださった静岡市民 方々おかげである。振り返れば、こので扱ってきた題材は、その時々自分研究を映 す作品選択となっており、講義準備段階や、また参加者とディスカッションから生まれて くるアイデアも多くあり、私研究生活を大いに豊かにしてくれていたことがわかる。心から
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中国語と近代─ 東アジアの言語環境における思考─ 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

中国語と近代─ 東アジアの言語環境における思考─ 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

言」から東アジア優勢言語へと成り上がったである。日本語変化は、江戸時代以来、西 洋新知識を受け入れてきた結果であるが、その過程で漢字による新語・訳語が決定的な役割 を果たした。  言語は知識受容と伝達媒体であり、社会生活と密接に相互作用を及ぼす関係にある。西 洋新知識導入は、中国近代化へ変化を促進し、同時に中国社会種々近代的変化 が中国によって記録された。また、漢字文化圏存在により、中国近代化は中国内だ けにとどまらず、東アジア全域に拡大した。中国と中国近代が分かち難い関係にあると 同様、漢字漢文は東アジア近代化と密接な関係にある。西学東漸という大きな流れ中で、 中国は漢字文化圏言語に大きな影響を及ぼす一方、漢字文化圏言語からも影響 を受けた。特に日本語影響は非常に大きかったが、中でも最も重要なことは、漢字を利用し て西洋新概念を受け入れるという問題における「共創、共享」である。漢字文化圏内では、 多く抽象や時代キーワードが同形(または同音)という形式で存在しているが、これ は地域内言語接触、語彙交流結果であることは疑問余地がない。一方、各言語における 同形(同音意味、用法上相異は、それぞれ国や地域が西洋新知識や新概念を受 容した過程を反映したものである。近代新知識受容と表出には新しい語彙と表現様式が必要 である。厳復翻訳が最終的に中国社会に受け入れられなかったことは言語面において社会 要望を満たせなかったからであるといえるだろう。新しい語彙と表現様式、特に専門分野に おけるキーワードや基本用語形成は、近代学問体系が成り立つため基盤である。キーワ ードや基本用語歴史は、往々にしてその学科形成史であり、言語近代化に関する研究は、 「近代」と冠するその他研究分野基礎である。
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ビセンテ・ウイドブロ『北極の詩』(抄) 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

ビセンテ・ウイドブロ『北極の詩』(抄) 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

し長く、7 月から 9 月にかけてほぼ三ヶ月に渡っている 3) 。  一時的にせよウイドブロがフランス都を離れたは、パリに迫りつつあった第一次世界大 戦戦火を避けるためで、マドリードにたどり着く前には、トゥール近郊に所在するボーリウ・ プレ・デ・ロッシュで過ごしている。この時、避難生活を共に過ごしたが、リトアニア出身 彫刻家ジャック・リプシッツとスペイン出身画家フアン・グリスで、その僻村で彼らと家 族ぐるみ付き合いを持った。『北極歌』冒頭に載る二人友人へ献辞は、その時思い 出に寄せたものである。
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オズボーンの復讐 ヘンリー・ジェイムズ 著 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

オズボーンの復讐 ヘンリー・ジェイムズ 著 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

良心に対する彼任務負担は軽くなったように感じられた。理屈上では彼女は不愉快だっ た。しかし現実には、もし彼女ことを嫌うつもりがなければ、彼女に好意を抱くはとても 楽しいことであっただろう。彼見解によると、肉体と血偶然出会いによって彼女は親し い存在になったである。オズボーンは自ら怒りを決してあきらめるつもりはなかった。彼 記憶中で、気の毒なグラハム亡霊は険しい表情でまっすぐ座り、明滅する炎に力を与え ていた。しかし、復讐対象である女性と、砂浜でちょっとした事件女性とを和解させ、 害ない女性を報復色に染めるは少し困難な仕事であった。いろんな事が次から次へと起 こり、計画を実行に移すことができず彼はむしろ上機嫌だった。彼はいろんなところから招待 を受け、ぶらぶらと時を過ごしては海水浴をしたり、おしゃべりをしたり煙草を楽しんだり、 乗馬に出かけたり外で食事をしたりして、際限なく新しい人に会い、表向き服装は快活な半 喪服に変えてしまった。しかしこういったことをしていても、グラハムに対して不誠実な気持 ちにはならなかった。奇妙なことだが、グラハムが死んでしまった今ほど、こんなにも彼が生 きているように感じられることはなかった。肉体をともなっているとき、彼には半分生命力 しかなかった。グラハム精神は非常にやる気にあふれていた。しかし、肉体は致命的に脆弱 だった。彼は困惑しがっかりしていた。元気で活発だったは気持ちであり、愛情であり、思 いやりであり、理解力だった。オズボーンには、それらを唯一受け継ぐは自分であることが 分かっていた。遺産大きさに対する健全な感覚で胸が一杯になるを彼は感じていた。そし て、グラハムを暗い片隅に呼び出し、寂しい場所で彼死を悼む気持ちが日に日に薄れていく ことを意識していた。取り消すことできない厳粛なたった一つ切望をもって、自分屈強 な身体と活発な精神を友人美徳命ずるがままにしておいた。自分旅行が休暇へと変化す ることを感じながら、彼は長い手足を伸ばし、かすかにあくびをしながらアーメン 4 4 4 4
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アディナ ヘンリー・ジェイムズ 著 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

アディナ ヘンリー・ジェイムズ 著 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

 目に見える影響を暗くて古い町に与えるローマ初春空気は、ご存知とおり不思議な魅 力があるけれども、どちらかというと外国体にはしばしば辛いことがある。北アフリカか ら熱風が二週間途切れることなく続いたあと、ワディントン夫人活発だった気分が落ち込 んだ。彼女は「熱病」にかかるではないかと心配し、急いで医者と相談した。医者は、何も 心配することはなく彼女に必要なは単なる気分転換だと言った。そして、一ヵ月ほどアルバ ーノに行くことを勧めた。というわけで、二人女性はスクロープ付き添いもとアルバー ノに行くことになった。ワディントン夫人は親切にも私も一緒に来るよう誘ってくれた。しか し、親戚者がローマにやって来ることになっていて、私は彼らためにガイド役を引き受け ることになっていたので、ローマに残っていなければならなかった。機会があればアルバーノ を訪れると約束だけはしておいた。私叔父とその三人娘は申し分ない観光客で、私には 次から次へとすることがあった。しかし、週末にはやっと約束を果たすことができた。私は宿 に泊まっている彼らを発見し、二人女性が、汚れた石造り床としわ寄った黄色いテーブ ルクロスについて意識を、窓から見える霧かかった海ように広大なローマ平原について 恍惚とした黙考に溶け込ませているを見た。景観は別として、彼らは楽しい日々を過ごし ていた。その地域美しさと山間見慣れない古い町美しい近郊を思い出していただきたい。 その地方は早咲き草花が咲き誇っており、私友人たちは野外空気中で暮らしていた。 ワディントン夫人は水彩画スケッチをし、アディナは野生花々を摘んでいた。スクロープ は満足気に二人間を行ったり来たりして、時折、ワディントン夫人絵の具使い方やアデ ィナスイセンとシクラメン組み合わせについて歯に衣をきせない酷評をしていた。みんな とても幸せそうで、嫌味ではなく私はもう少しで、神々からもっとも望ましい贈り物とは、 自身欠点なさに対する終始変わらない確信ではないかと思うところだった。しかも、心に やましいところある恋人でさえ、アディナ・ワディントンような自分人生における予想 もしない愛らしさ存在によって、当然報いというものが存在することが信じられなくなる ということがあるかもしれない。
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ファーゴー教授 ヘンリー・ジェイムズ 著 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

ファーゴー教授 ヘンリー・ジェイムズ 著 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

るさびれた裏通り入口にいた。むさ苦しい家屋が私たち前に並んでいた。アイルランド人 浮浪児が家入口と溝間で六人ばかり私たち足もとで寝そべっていた。 「分かった!分か った!」彼は叫んだ。「分かりました ― 分かりました!」「何が分かったですか?」という 問いに対して、彼は次ように答えた。 「科学が長年にわたって探し求めてきたものです ― 測 り知れないものに対する解答です!おそらく、私運命でもあります。間違いなく私永遠 生命です!急いで、急いで!消え失せてしまう前に書きとめなければなりません」そして彼 薄汚い宿に私を急がせた。戸口で彼は立ち止まった。 「今は話すことができません」と彼は叫ん だ。 「まず書きとめなければならないです。しかし、今晩公演を聞きにきて下さい。最初ひ らめきがやってきたとき、私は一気にお話しすることができると思います」公演には必ず行く と約束した。そのとき、大佐部屋窓から不吉なファーゴー教授顔が見えた。それまで私 は大佐情熱で興奮していたが、教授出現で体からさっと熱が引いた。大佐突然ひらめ きは素晴らしいものであったかもしれないが、自分宿屋根下で同僚に会ったというショ ックせいで、せっかくひらめきをつかみ損なうではないかと心配した。一瞬彼をそのま ま姿勢にしておくため口実を見つけ、教授姿が見えなくなってしまうを待った。次 瞬間扉が開き教授が入ってきた。彼は急いで帽子をかぶっただろう。ふんぞり返った彼い つもの歩き方究極ように勢いよく一方に傾いていた。エクセルシオール・ホールと きよりも明らかに彼は上機嫌だった。しかし、教授微笑もしかめ面も正直者それではなか った。大佐と私に極めて寛容な微笑を向け、反対方向に帽子を傾け、前をとおり過ぎようと した。しかし、彼は突然思い直して立ち止まり、ポケットから黄色い小さなチケットを取り出 して私によこした。エクセルシオール・ホール入場券だった。
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吉田健一と英文学 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

吉田健一と英文学 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

れば「良い生活」が可能だと知った父は、一週間うち六日は「酒は一切飲まない」など、 厳格な生活規律を確立し、まことに勤勉な人生を送った。(吉田暁子 282)  若き日吉田健一は、激動する世界情勢なかで政治家として天寿を全うした実父・吉田茂 とは異なり、「言葉世界」で生きて行くことを決意し、実際その初志を貫き通したことを、吉 田健一娘・吉田暁子は読者に伝えてくれる。そしてその吉田健一は、「ただ生きるだけでな く、人生与えてくれる良いものを楽しむこと」にも重きを置いたとことである。学問や芸 術全般を己実人生と密に絡めて追究していこうとするその好事家的生き方は、若き日英国 留学薫陶たまものであったと思われる。吉田健一人生に対する態度には英国精神真髄 が感取できるからである。現に晩年 1974 に吉田健一は、『英國に就て』と題する著書を刊 行しているが、そのなか「英国文化流れ」章で、文学と実人生と関係について持論 を展開している。そして彼はその持論を実際に己人生において実践したである。その際、 彼人生観根幹には、吉田暁子が言うところ「強靭な精神」があっただ。「勤勉な人生」 を基調とした吉田健一理想的ともいえるホリスティックな文筆活動豊かな実りを通して、 後代私たち現代人、特に筆者ような日本で英米文学を専攻する者は今、先達・吉田健一が 遺した卓抜な人文学的知性を感受し、体得しうるである。人文学領域、とりわけ英米文学研 究界にとって停滞・沈滞という過酷な状況下にある現代私たちは、吉田健一が後世に伝えた 偉大な足跡再評価を通して、生き直すことができるだ。よって吉田健一は、われらが救世 主たりうる存在だと、筆者は確信している。なぜなら第二次世界大戦後、少なくとも大学を中 心とした日本アカデミズム世界では人文科学分野も自然科学分野と同様だと考えられる風 潮が強まり、学問研究なるものはおしなべて客観的・実証的態度に徹するべきで個人感情等 を吐露してはいけないだという、まことしやかな教義が主流を占め、現に大学に籍を置く英 米文学研究者ほとんどは己個人的感情等は封印し、権威ある学会というアカデミズム世 界にひたすら閉じ籠るようになってしまったからだ。英米文学研究者は、己が属する学会や大 学を中心としたアカデミズム尺度・基準によって下される業績評価に一喜一憂する傾向が強 まった。しかしこれはひとつ間違えば、現実社会から逃避になりかねないと思う。言わば、 大学や学会という閉じた組織・機関へ引き籠り現象である。こうした風潮に敢然と逆らい、 警鐘を鳴らしたが『太平洋戦争と英文学者』(研究社、1999 )著者・宮崎芳三である。宮 崎芳三は、「学問研究」という名美辞麗句に守られているがために実質的には脆弱なものとな ってしまった日本英文学研究界実態を、しんから憂え、活性化ため処方箋を模索した
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北村 裕先生との四半世紀 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

北村 裕先生との四半世紀 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

竹 内   理  我々が敬愛する北村 裕先生が、65 歳定年を迎え、本学をご退職になられる。言葉では言 い表せない、強い寂しさを感じずにはいられない。  北村先生とは、お互い前任校時代から数えて、もう 25 を越えるおつきあいとなる。私が まだ 20 代後半、先生が 40 代前半時であった。学会でお会いしたが初めてであったが、そ 素晴らしい英語力には感服するしかない、と印象を覚えた。その後、先生が長期留学経 験を一切持たず、日本でのみ英語を学んできたという話を聞き、ふたたび驚いた次第である。 また、ご研究面でも、パソコンという言葉がまだ一般化していない時代に UNIX ワークス テーションを駆使して、まさに外国教育工学という言葉にふさわしい業績を打ち立てられて いた。その後も、ベルギー著名な心理学者 G. d’Ydewalle 先生と共著で眼球運動に関する認 知心理学的研究を行われたり、米国 CNN 社と契約して英語教育教材を開発されたりと、常に フロントランナーとして、面目躍如たる活躍を続けられていた。これらに加えて、恩師大西 昭男先生(関西大学元学長・理事長)薫陶を十分に受け、幅広い分野で深い教養をお持ちで もあった(更にフルート名手でもある)。このように、私からすれば、北村先生は真に仰ぎ見 るような存在であった。その先生と、国際研究大会実行委員メンバーとして、またその後 は、(先生が愛してやまない)関西大学同僚としてご一緒させていただき、間近に接する機会 が持てたことは、後研究者・教育者として人生に大きな影響を与えたことは言うまで もない。
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有余年の大学生活を振り返って 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

有余年の大学生活を振り返って 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

27 30 有余大学生活を振り返って 福 井 七 子  関西大学時間は、学問を中心として私生活に彩りを添えてくださった人々おかげで、 非常に恵まれた期間だった。30 有余にわたって、まったく波風がたたなかった時期がなかっ たとは言えない。ルース・ベネディクトという複雑な女性を研究テーマ中心にしたことで、 彼女思想・文化捉え方、また彼女異文化理解に迫ろうともがき続けた年月であった。  研究性質から、私は常に一次資料を求めようとした。資料集めがうまくいき、というより 納得いくまでやり続けたというべきかもしれないが、そして多く人々に助けられ、これまで あまり研究がなされていなかった分野を少しは明らかにできたではないかと思っている。  アメリカには 6 回ほど調査旅行をした。第一回目調査旅行は実に不安な気持でいっぱいで あった。プキプシーにあるベネディクト・コレクションを中心に、エール大学や議会図書館に も出かけた。ニューヨーク図書館では思いもかけなかった資料を得ることができた。結果的 に私心配は杞憂に終わっただが、資料収集だけでは何も発信できない。収集以上に努力が 求められるは、それを読み解き、まるでジグゾーパズルように時間軸を中心に埋め込んで いかねばならない。
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福井先生との翻訳の仕事 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

福井先生との翻訳の仕事 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

21 ペンを走らせている。「…後は何て言った?」そこでやっと私に聞く。福井先生がペンを走ら せるスピードは並大抵ものではない。しかも、乱れた字ではなく、後からでもちゃんと読め る。その上、私が訳した内容を確認しながら書いている。神業である。お互いにかなり集中 力を用いる作業なので、途中で何度か息抜きを入れる。訳し終わった箇所について話し合うこ とが多い。訳し終わった部分を今度は福井先生が家でコンピューターに打ち込む。打ち込みな がらさらに日本語調整をする。次週に会うと前回翻訳した箇所で先生が書き直したところ、 わかりにくかったところなどについて話し合う。そしてまた次箇所を訳す作業に入る。これ 繰り返しである。2013 外国学部紀要』第 9 号からほぼ毎号で翻訳した部分にコメン トをつけて掲載している。その校正際にさらに翻訳内容に修正を入れ、訳を磨いている。  1959 に出版された Anthropologist at Work をなぜ今さら翻訳しているか疑問に思う人 も多いかもしれない。文化人類学分野はその後発展を遂げているし、1959 から世の中は大 きく変わっているだから、1930 年代から 1940 年代にベネディクトが書いたことなど現代社 にはあまり意味を持たないではないかと思う人もいるだろう。もしそうだったら、私もこ 翻訳作業に加わらなかったと思う。また、この本がベネディクト研究者にのみ重要な資料で あるとしたら、これまでベネディクトとは関わりを持ったことがない私がこの翻訳をすること にはならなかったと思う。なぜ今この本を訳しているか。それは、この本に書かれたことが 今社会に通じるところがあるからである。そして、ベネディクトが生きた社会中でベネデ ィクト、あるいは彼女師であるフランツ・ボアズが学者として貫いた姿勢を心から尊敬し、 私もこの本を訳すことによって彼らと同じように今社会に一石投じたいと思うからである。 これは、私と福井先生共通思いだ。
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トーマス・ロッカー絵本の整理と展望 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

トーマス・ロッカー絵本の整理と展望 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

  ’ , illustrated by Thomas Locker, written by Keith Strand. New York: Harcourt Brace & Company, 1999.  クリスマスにガチョウ木彫りを木に飾るという自分家族に特有習慣由来について、 作者が自分おじいさんから直接聞いた話である。1886 、おじいさん両親はイリノイから コロラドに移住し生活を始めた。その冬、大雪に襲われ、父は最後に残ったとうひ木を切ろ うとするが、母はその木の下に二羽ガチョウ(一羽はけがをしている)を見つけ、せめてク リスマスまでは木を切らないよう頼む。この頃、夫婦に赤ん坊(作者おじいさん)が生まれ る。クリスマス後は天候も回復し、木は切らなくても済む。のち、春になり、ガチョウにも雛 が生まれ家族ができる。二度目クリスマスには(おじいさん)妹が生まれ、家族幸せが 増す。父は、ガチョウ家族木彫りを作り、このとうひ木に飾った。この行為が、今も作 者家族によって続けられているということである。コロラド秋・冬・春景色を捉えたロ ッカー写実性が、この感動的な実話にリアリティーとドラマ性を与えている。
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国際交流におけるコンフリクトの解決スキル 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

国際交流におけるコンフリクトの解決スキル 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

Key words international collaboration, conflict resolution, facilitation skills 1 .ASEP 教育効果  毎年 12 月最終週、中華民国高雄市において、AJET (Advanced Joint English Tele commu- nication)と WYMC (World Youth Meeting Committee)が主催し、高雄市政府、國立中山大学、 高雄高級中学、他後援により ASEP (Asian Student Exchange Program)が開催されている。 そこでは、アジア各国(台湾、日本、韓国、インドネシア、マレーシア)から中学・高校・大 学生が集い、ICT を活用した事前交流、2 カ国協同英語プレゼンテーション、対面交流を通じ た国際交流活動が行われている。(昨年度で 11 回目:[http://www.kageto.jp/asep/2010/]参照)  この ASEP による教育効果とは、一言でいうと「実践による学び奥深さ」である。このこ とは、ネイティブ・アメリカンが遙か昔に気づいており、次ような諺として先祖代々語り継 がれている:
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社会科学の目的と「自由」に関する考察 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

社会科学の目的と「自由」に関する考察 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

 文化人類学者は自分社会よりもなるべく違う社会を研究しようとするため、様々な集団 データを持っている。そして西洋文明影響範囲からはずれたところで発展したシンプルな社 を特に研究する。文化人類学者はある集団が特定価値観に基づいて実現した方略を研究す ることができる。その価値観とは自由という価値観なか、社会統一という価値観なか、権 力に屈するという価値観なかを研究することができる。文化人類学者にとって部族役割は、 科学者が細菌生死を研究する実験室役割と同じなである。文化人類学者実験室は研究 者が自分で設定するではない。それは原住民が何世代にもわたって、何千もかけて生き方 詳細にいたるまで設定したものである。しかしフィールド・ワーカーはその部族なかに存 在する私たち時事問題を、たとえそれが違った姿であったとしても認識することができる。  フィールド・ワーカーが研究している裸プリミティブ・ピープルはもちろん社会保障条 例について話すわけではない。しかし彼らは老人や飢えた人をどのように扱うべきかはっきり している。年寄りや飢えた人を守る部族もあれば、守らない部族もいる。そして文化人類学者 はそれがもたらす帰結を研究することができる。原住民は黄金率について語らないが、オース トラリア原住民からカラハリ砂漠原住民にいたるまで、黄金率が働いていることは見受け られる。たとえば、「他人に施しを与えなければ、誰が自分に施しを与えてくれるだろう」、「他 人を敬わなければ誰が自分を敬ってくれるだろう」といった教訓は、若者頭にたたきこまれ、 南洋島々人からティエラ・デ・フィエゴ冷たい霧にすむ人に至るまで、それを実践して いる。同時にこのような黄金率がまったくない原始社会があり、文化人類学者は黄金率が存在 する結果と、しない結果を研究することができる。黄金率は人を支配するだろうか?プリミ ティブ・ピープルなかで黄金率に縛られた人間関係しか知らない人もいれば、相手を強いる 状況に立たされたことがないプリミティブ・ピープルもいる。
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at Workにみるルース・ベネディクトの肖像 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

at Workにみるルース・ベネディクトの肖像 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

2 章   は第 1 部から第 6 部で構成されている。この本構成方法につい てミードは次ように書いている。 「これは推理小説ではない。どこから読み始めてもよい。も うすでに終わった人生というは、その人生なか様々な出来事を同時に見ることができる。 そのなか一つひとつが後ことを照らすこともあれば、前ことを照らすこともあり得る。 ……私は、この本で読者様々な好みに合うようにアレンジした。最後ページを先に読みた い人もいるだろうし、他解釈を読む前に、自分で生資料をもとに解釈することを望む 人もいるだろう。資料はいくつかかたまりで提示されている。伝記によくあるように、途中で 切られた文章や詩断片などは折り混ぜられてはいない。なぜなら、ベネディクトも私もある 程度かたまりで資料が提示されなければ、パターンや流れがわからないと信じていたからで ある。」( 2)従って資料と詩とかかわりも、ミードコメントと必ずしも一致するも ではない。ミード自身も章と詩関係は、彼女がひらめいた場合にのみ一緒に提示している。 1 部ではベネディクトと文化人類学と出会いを、マーガレット・ミード解説をもとに書か れている。年代は 1920 から 30 年代ものが中心となっている。この章には言語学者である エドワード・サピアとベネディクトと 1922 から 1923 にかけて往復書簡やベネディク ト自身日記も含まれており、初期ベネディクト想いを知る上で重要な箇所となっている。  1 部ベネディクトが文化人類学を始めた頃論文「平原インディアン幻視」を翻訳して いて感じたことは、論理的、科学的、そして明確に説明するという態度は感じられるが、その 表現からはそのスキルはまだ確立されたとは言い難い点が感じ取れる。表現はどちらかという と古めかしく、客観的にそしてアカデミックに書こうとする試みは理解できるが、彼女自身 スタイルは未だ形成されたとは言い難く、読み手にとって理解を複雑化させていると感じられ る。
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岐路に立つルクセンブルクの3言語主義 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

岐路に立つルクセンブルクの3言語主義 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

ンスを保つべくルクセンブルク会話力がこれまで以上に求められることになろう。  一方、国語であるルクセンブルクが、ルクセンブルク国内でしか使われない言語であり、 学問をするにも十分でないという状況が、ルクセンブルク教育強化に踏み込めない理由に なっている。外国統合に国語を利用できないルクセンブルクは、3 言語間バランスを調 整することでアイデンティティを守る他ない。そのために、ルクセンブルク在住ポルトガル 人やイタリア人は、自分母語以外に 3 言語を学ばねばならなず、これに英語も加えると学ぶ べき言語が 5 つになってしまう。そもそもルクセンブルクは、欧州主要言語であるフランス とドイツによる言語インフラを整備することで、EU 中心的な都市として発展してきた。 ルクセンブルクが国際都市として繁栄し続けるためには、この言語インフラは不可欠だ。現在 枠組みでは、ルクセンブルク在住外国人はインフラを提供する側、通勤者はインフラを利 用する側に組み込まれているといえる。こう考えると、ロマンス系言語を母語とする外国人は、 ロマンス系言語をベースとする複言語能力を身につけることで、ルクセンブルク人とは異なる 言語インフラを提供できるようになり、ルクセンブルク言語インフラを豊かにする潜在力を 持っていると考えられるだろう。国家権限を吸収しながら深化する EU 都市機能と、国家 に基盤を置くアイデンティティー保持という必ずしも相容れない要求を満足するは難しいが、 前者を損ねない形で緩やかな 3 言語主義にシフトしていくが現実的な方向であろう。
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「ボアズの片腕としての歳月」に見るミードの想い 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

「ボアズの片腕としての歳月」に見るミードの想い 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

 その間、年月はボアズにとって厳しいものとなった。1925 10 月、二番目娘が小児麻痺 で亡くなり、二番目息子は交通事故で亡くなり、ボアズ夫人は 1930 12 月に車に轢かれて 亡くなった。その時、ボアズはシカゴ大学社会科学学舎落成式ためシカゴに行っており、 ボアズ夫人が埋葬される前一晩だけしか彼女側で過ごすことができなかった。シカゴから ニューヨークまで長い列車つらい時間をボアズはサピアともに過ごした。1931 と 1932 、ボアズは深刻な病いを患っていた。そうした時、すべてことがベネディクト双肩にか かってきた。ボアズがもう原稿を見ることさえしなくなり、様々な課題に取り組むことがなく、 色々なことから退くと思われるようになり、手紙はベネディクトに宛てられるようになった。  その頃ヒットラーが政治的成功をおさめた。それはボアズが生涯戦ってきたすべてものを 象徴するようなこととなり、普遍的な人間価値観と自由を否定することと結びついた。生涯 最期何ヶ月か間に、ボアズは非常に大きな怒りによって奮い立たされ、世界とまた関わ るようになった。文化人類学仕事にも復帰し、人種テーマのみならず、反ナチ軍事的活 動、書物、そして地下組織資料を収集したり、追放された人たちために活動するようにな った。疲れも厭わず、ボアズは一度なくなりかけた力を、彼が第一次大戦でドイツ系アメリカ 人として直面した戦いとは逆戦いに注ぎ始めた。
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外国語教育における「翻訳」の再考 ― メタ言語能力としての翻訳規範 ― 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

外国語教育における「翻訳」の再考 ― メタ言語能力としての翻訳規範 ― 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

3 . 7  歴史まとめ  ここまで言語学習教授法歴史を主に Richards & Rogers(2001)および Cook(2010)に 沿って概観してきたわけだが、文法訳読法から CLT まで変遷中で、幾つか 2 項対立的な キーワードを巡って振り子が動いているが分かる。1 つは、形式 vs. 意味である。文法訳読法 や直接教授法では形式を重視するに対して、CLT では意味重視になる。もう 1 つは、無意識 的 vs. 意識的振り子である。直接教授法から CLT 一部まで、無意識下で学習がおこなわれ ていると考える傾向は強いようであるが、フォーカス・オン・フォームでもみたように、最近 では学習者に意識的な気づきを促したり、注意を向けさせることが必要であると考えられてい るようだ。無論、この議論は本来チョムスキー言語学から受け継がれる議論であり、言語知識 はほか人間技能とは異なり教育影響を受ける度合が小さい、という第二言語習得論命 題と深く関係するものではあるだが、本稿目的はこの是非を論じるものではい。むしろ、 特筆すべきは、これまで見てきた歴史中で揺れ動く二項対立軸に対して、フォーカス・オ ン・フォームように近年アプローチは、そのどちら極に振れようというものではなく、 その中間に収まろうというような傾向が見られるということであろう。そうであるならば、言 学習に大切なは、形式か意味どちらかではなく、形式も意味も、両方ともが大事なので ある。つまりその両方を、言語「機能」と「コミュニカティブ」であることを考慮して、意 識的であろうと無意識であろうと、それはあまり問題とせずに達成できるであれば、言語学 習目標は当面は果たせると考えるわけである。この立場に立てば、後述する翻訳(規範)を 基軸とした翻訳教育は、現在外国教育教授法が目指す目的と真っ向から対立するもので はないと考えられるだ。
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想い出すことども 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

想い出すことども 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

 けれども、腐らずにやっているうちに、京都外大大会で優勝者が出た。経済学部 3 生だ った大浦公一君が、関大生初偉業をなしとげてくれたである。  彼は、のちに三和銀行(現東京三菱 UFJ 銀行)に就職し、マドリードやバルセロナ支店長 を勤めることになった。マドリード駐在頃は、ちょうどわたしが在外研究員としてアルカラ 大学に派遣されたときと重なった。おかげで、ありがたいことに、マンション手配、電気や ガス会社と契約などに手を尽くしてくれた。また、バルセロナ時代には、サグラダ・ファミ リア教会正面ファサード「生誕門」彫刻を担当した、外尾悦郎氏、それにのちに助手に なった大竹志歩さんに引きあわせてくれた。何でも、外尾氏から中央三枚門扉(2015 年末 ぶじ完成)を作る費用を日本企業に打診する役を仰せつかったらしいが、そのとき以来知り 合いだということだった。外尾氏とは同じ福岡県出身ということで話が弾んだ。起工以来 144 目、ガウディ没後 100 周に当たる 2026 教会完成が待たれるところである。
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人種偏見のメカニズム 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

人種偏見のメカニズム 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

pologist t Work: 1965: 356 382)を翻訳したものである。  「連帯感」は日付ない原稿であるが、1942 年頃書かれたものであろう。「戦後人種差別」 は未発表原稿で、1947 年頃書かれたものである。最後「戦争自然史」は未出版原稿で あるが、1939 にフランツ・ボアズと間で交わされた書簡からも明白であるように、1939 頃書かれた論文である。これら 4 篇論文は戦前、戦中、戦後とアメリカを取り巻く状況が大 きく変化した時期に書かれたものである。このことから、戦争が及ぼしたベネディクト考え 方向や心情変化を読み解くことは興味深いことである。ベネディクトがこれら論文を執 筆してすでに半世紀以上経過した現在、人種差別に反対する意識は世界中で高まりを見せては いる。しかし、アメリカ合衆国のみならず、世界的にみても人種に対する偏見・差別はベネデ ィクトが執筆してした当時とさしたる変化は見られず、それどころか差別・偏見は複雑化し、 民族問題ともからみ、それらを解決する糸口はいまだ見出せずにいる。偏見・差別は過去問 題ではなく、いまも我々に突きつけられている大きな問題なである。ベネディクトが正面か ら向かい合って取り上げたこれら問題に対する科学的考察を今一度振り返って読み直すこと は、連綿と続いている偏見・差別もつ根深さを考えるめにも意味あることと考える。  ヨーロッパ人にとって戦争は 1939 9 月 1 日、ドイツによるポーランド攻撃で始まった。ア メリカ人にとって事実上戦争が始まるは、その後 2 ほど経過してからことであった。何 に対して戦う価値があるか、そしてまた死ぬ価値があるか、また何を変えるために戦う か考えざるを得なくなっていった。ユダヤ人、黒人、またアジア人に影響を及ぼすかどうかも 含み、ベネディクトはさまざまな人種差別に反対するため活動も増やしていった。それはま た戦争によって基礎を危うくされている学問自由という原則を守るため、人前で話しをする ことが苦手であってもベネディクトはラジオ放送を通して話したりもした。「アメリカにおける 人種偏見」もそうした活動一つであった。
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