時間は存在するか

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ハイデガー『存在と時間』注解(10)

ハイデガー『存在と時間』注解(10)

 「当面の基礎的存在論的な根本的探求、主題的に完璧な現存在存在論を えようと努めるのでもなければ、ましてや具体的な人間学をえようと努める のでもないのだが・・・」(SZ.194)  「現存在存在論的な学的解釈、『気遣い』としてのこの存在者の前存在 論的な自己解釈を、気遣いの実存論的な概念へと一変させた。けれども現存 在の分析論、人間学の存在論的基礎づけというものをめざしているので なく、それ基礎的存在論的な狙いをもっているのである。」(SZ.200)  なお『存在時間』の中で、ハイデガー、「人間学の哲学的・存在論的な 基礎づけ」(茅野良男『哲学的人間学』147頁)と人間の「事実的で実存的な 諸可能態をそれらの主要傾向と諸連関との点で叙述し、それらの実存論的構 造にしたがって解釈する」(同所)ア・プリオリな人間学、「実存論的人間学」 の可能性に触れているが、しかしそれ、あくまで実存的な可能性を扱うの みであって、あくまで本来の基礎的存在論の課題でないのである。  「現存在の分析論、気遣いという現象にまで迫っているわけなのだが、基 礎的存在論的な問題性、つまり、存在一般の意味に対する問いを準備すべき である。これまで獲得されたものから眼差しの向きをかえ、実存論的、ア・ プリオリ的な人間学という特別課題を越え出て、そうした問いを表立ってめ がけるために、主導的な存在問題と最も緊密に連関しているところの、ま さにその諸現象が、振り返ってさらにいっそう徹底的にとらえられねばなら ない。」(SZ.183)
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ハイデガー『存在と時間』注解(9)

ハイデガー『存在と時間』注解(9)

「観念連合主義者、自我を感覚、感情、観念といった意識の諸事実の集合 体に還元するのである。しかし、彼らがこれらの多様な状態のうちに、それ らの名前が表す以上の何も見ないのだとしたら、また、それらの非個人的な 相しか保持しようとしないのであれば、それらの状態を無限に併置すること できるにしても、幻影的自我、空間のなかに投影される自我の影以外のも のを得ることないだろう。もし反対に彼が、これらの心理状態が或る特定 の人物のうちに帯びているような特殊な色合い、しかも他のすべての心理状 態を反映するために、それらの心理状態の一つ一つに姿を見せるような特殊 な色合いとともに、それらを捉えるとしたら、その場合、その人格を再構 成するために多くの意識事実を連合する必要まったくなくなるだろう。そ れらのうち一つを選ぶことさえできれば、そのなかに人格全体が丸ごと存在 するのである。そして、この内的状態の外的現れがまさに自由行為と呼ばれ るものであろう。というの、自我だけがその作者であったし、その外的な 現れ自我全体を表現するからである。」(ベルクソン『時間と自由』中村文 郎訳 岩波文庫 198 頁)
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ハイデガー『存在と時間』注解(4)

ハイデガー『存在と時間』注解(4)

寺 邑  昭  信 119 (なお「ナトルプの立場の解体的考察」については全集第59巻『直観と表現 の現象学』 92頁以下を参照のこと。) 30年代からハイデガーは,非隠敵性としての本来の真理がプラトンにおい て正当性としての真理へと変化し,それが西洋形而上学を主観性の哲学,存 在忘却の歴史へと向かわせたとして,プラトンを厳しく批判することになる が, 『存在と時間』以[r]

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ハイデガー『存在と時間』注解(8)

ハイデガー『存在と時間』注解(8)

もあり,ここでの言及, 『歴史と階級意識』で有名なルカーチを意識しての ものだという見解もある(これについて補足 1 を参照のこと)。 また 1920 年夏学期の講義『直観と表現の現象学』(全集第 59 巻)で,後 半,当時の代表的な哲学が体験,実存に真に迫りうるのが問題とされ,新 カント派のナトルプと生の哲学の代表者ディルタイが批判的解体的検討の対 象とされているが,その中のナトルプの「普遍的再構成の心理学」の批判的 考察において,「意識の事物化」というそのものズバリの表現が一個所(133 頁)登場している。そこから本文の「意識の事物化」への抵抗,ナトルプ を指すという可能性が考えられるが,しかし,ナトルプでのこの言葉の用法 (詳しく「補足 2」を参照)や,『存在時間』への構想が具体化していく 当時のハイデガーの諸講義での発言などを踏まえるかぎり,ここでの「意識 の事物化」の存在論的な不徹底への批判,フッサールの「意識の自然化」 Naturalisierung des Bewußtseins に対する厳しい批判を念頭においていると 考えるのが妥当と思われる。
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スポーツ実践者の存在=時間論試論 : 時間生成文化としてのスポーツ

スポーツ実践者の存在=時間論試論 : 時間生成文化としてのスポーツ

かうなかで,未知なる他者と身体として対峙しつつ未来(身体図式による投企)と出会い, 時間的展望を揺るがされながらも,現在に組み込みつつ,自己の時間的連続性を構成し続け る自己更新の構造を表出する時間生成文化である。こうした人間存在時間的構造を表出さ せるメタ構造をスポーツが有していることが,その自律的な変化,発展の原動力となってい る。 口がスポーツ観戦者の美的体験,生命力と人格性の発露にあるとする所以である。  このように,スポーツ単なる身体的事象でない。ともすれば「遊んでいるだけ」にみ られるスポーツ時間論的に豊かな世界を形成している。スポーツによって自然物として の身体(強いカラダ)を作るだけでなく,スポーツに内在する構造と機能の理論を確立・ 伝達し,スポーツ文化の特殊性を認識しつつ,それぞれのスポーツへの実践へと誘うことが, 生涯スポーツの実践へと導くためにも重要であると筆者考える。生物として産まれた「ヒ トのからだ」を,文化を担った「人間の身体」として,身体面からの人間化をはかる身体教 育,知性・感性・身体性のバランスをはかりつつ,社会的自立を促す教材としてスポーツ を機能させなければならない。
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ハイデガー『存在と時間』注解 (12)

ハイデガー『存在と時間』注解 (12)

のethnos「群、種族、民族」とロゴスからの造語である。ドイツ語で VolkskundeとVölkerkundeを区別しており(VölkerVolk「民族、国民、大 衆」の複数、Kunde「知識」)、前者主として一民族の文化や生活を研究 対象とする学問で、「民俗学」(例えば柳田民俗学、ドイツ民俗学、英語の folklore)を指し、後者主として文化の未発達の諸民族の社会構造や文化を 研究対象とする学問で「民族学」(例えばオセアニア民族学、文化人類学に近 い)を意味しており、Ethnologieほぼ後者の「民族学」に相当する。  ドイツにドイツ民俗学の伝統があり(cf.Ingeborg Weber-Kellermann: Deutsche Volkskunde zwischen Germanistik und Sozialwissenschaften, Sammlung Metzler Nr.79 1969)、この民俗学もちろん未開人でなくゲル マン社会から現代に至るまでの自分たちドイツ人の習俗、習慣を研究対象と している。したがって本文で、もちろんドイツ人の現存在言わす、「未 開人についての知識」とあることから、ここで、「民族学」という訳語の方 が適当であろう。ちくま版、岩波版、河出版も「民俗学」である。(なお中公 クラシックス版の『存在時間I』で、「民族学」と訂正されている。)  また51頁原注の「この根本的探求によって民俗学的研究ethnologische Forschungに、・・・」の箇所も「民族学的研究」の方が適切であろう。  未開社会に関する古典的な研究者、もちろんレヴィ・ブリュール(『未開 社会の思惟』1910年)、M・モース(『贈与論』1925年)、B・マリノフスキー(『未 開社会における犯罪と慣習』1926年)など英仏系の学者にも多いが、ドイツ 語圏での「未開民族」という表現の持つヨーロッパ中心主義的内包について 、以下の文を参照のこと。
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ハイデガー『存在と時間』注解(7)

ハイデガー『存在と時間』注解(7)

ここまでくるといわば従来の範疇という表現の衣が,躍動する体にもはや 合わなくなっていること明かであろう。そして実際にこの講義で,後半 二箇所においてであるが,「実存範疇」という造語が登場することになる。 「それゆえ解釈的に或る動きへと突き進むことが問題である。この動き, 生の本来的動性を形作っており,その中で,またそれによって,生存在す るのであり,したがって生,そこから存在意味に応じてかくかくと規定可 能となるのである。それ,そのような存在者がどのようにして真正に彼の 自由になり,自得する所有の仕方の一つへともたらされうるかを理解できる ものとする。(事実態の問題,キネーシス問題)。それによってカテゴリー的 解釈のために根本意味の取り出しが獲得されるのだが,この意味からすべて の実存範疇 Existentialien が解釈的にそれら自身の,そして関係的な意味を 受け取るのである。」(GA61/117)
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ハイデガー『存在と時間』注解(6)

ハイデガー『存在と時間』注解(6)

寺  邑  昭  信 131 もっともフアン・ブ-レンは,後期ハイデガーに影響を受けたプロテスタ ント神学者でルター研究者のG.エーベリングが「ルターは,スコラ的誤解 に対して「真のアリストテレス」を守っているのである」と論じている旨指 摘している。 (BRp.169)。上の引用にすぐ続く以下のルターの発言もそうし たアリストテレスに対する姿勢がうかがえるように思う。 [r]

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ハイデガー『存在と時間』注解(5)

ハイデガー『存在と時間』注解(5)

三十年代の二人の人間的関係については,例えばオット『マルテイン・ハイ デガー 伝記への途上』の「エドムント・フッサールとマルテイン・ハイデ ガーー人間的・政治的プロフィール」の項 MHB S.167ff.を参照。 またハイデガーが,例えば戟後「フツセ-リア-ナ第四巻」として刊行さ れることになるフッサールの『イデーンⅡ』などの草稿を閲覧することがで きたことは, 『存在[r]

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ハイデガー『存在と時間』注解(2)

ハイデガー『存在と時間』注解(2)

かもそれのみが,つまり「普通の理性の内密の判断」 die geheimen Urteile der gemeinenVernun氏(カント)が,分析論の表立った主題(「哲学者たちの仕事」 derPhilosopher!Gesc旭丑)になるべきであり,あくまでそうであるべきなら, 自明さを,哲学的な根本概念の圏域のうちで,それどころか「存在」という概 念に関して引き合いに[r]

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ハイデガー『存在と時間』注解(1)

ハイデガー『存在と時間』注解(1)

分節されているというようにである。」 (省略は筆者による。) 形式論理学を基盤とする客観的学問においては,結論を前提とすることは, 論点窃取の虚偽,循環論証として誤りとされるし,また一般に研究者の先人見 は,事物の客観的認識を歪めるものとして可能なかぎり排除されなければなら ないとされる。 しかし存在の問いは,何らかの対象を客観的に捉えようとする場合のように 何ものをも[r]

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ハイデガー『存在と時間』注解(3)

ハイデガー『存在と時間』注解(3)

ハイデガーの定義する現象概念 das sich an ihm selbst Zeigendeは,今 のところまだ,あくまで現象の基本構造を示唆する一つの「形式的告知」に すぎない。だからこの示唆,指令に従って,現象の内実の具体化がなされな I ければならないのである。 この箇所でハイデガーは, (存在的と存在論的,あるいは実存的と実存論 的の区別に対応する形で)通俗的な[r]

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生の存在論としての<存在と時間> : マールブルク時代のハイデガーにおける古代哲学解釈

生の存在論としての<存在と時間> : マールブルク時代のハイデガーにおける古代哲学解釈

qbersicht告erdieこHeidegge計ロa矢imHerbertMarcuse・旨cbiくderSt tし ・た uの nで dは Un S在 iと t時 跡間 訂︶ ・ という視点から組み替え、永遠の存在を人間の脱自的時 にa 逆d転 なi くく 、e ︵r存.. bib−iOthekin守ank2まamMain∵n︰加訂註奄r哲邑訂恥﹀ざー.↓こ謡−㌫﹂芸[r]

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エルアイクニスにおいて存在はどうなってしまうのか?

エルアイクニスにおいて存在はどうなってしまうのか?

Geviert (tétrade)〉に関していっそう強くなる。この講演、逃れやすい現象、存在時間を探索するという一貫した努力へと にも角にも私たちを巻き込む。 ここで彼が言うことを、三五年前に『存在時間』で主張したことと比べる と、おそらくどの程度その観点が移動したのを確認できよう:時間 や根本的に人間的実存の投企でない。時間、それによって存在の真理が 示されるところの中間ないし仲介となり、人間の実存その中間に吸収され ている。実存また存在の露呈に奉仕する。このような思索を―ハイデガー の目にそう映ったのだが―17 世紀以来思惟の本質をすべて拒んできた(GA 96)ところのアングロ ‐ サクソン世界が受け入れることが難しいことはた しかに分かる。
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課題発掘のプロセス 何か 問題はありませんか? 何か お困りのことはないでしょうか? 何か お手伝いすることはありませんか? ありません! これ以上先へは 進まない 1 存在に気付いていない 説明できるほど整理できていない 2 存在には気付いているが 重要だとは考えていない 3 知ってはいるが 解決

課題発掘のプロセス 何か 問題はありませんか? 何か お困りのことはないでしょうか? 何か お手伝いすることはありませんか? ありません! これ以上先へは 進まない 1 存在に気付いていない 説明できるほど整理できていない 2 存在には気付いているが 重要だとは考えていない 3 知ってはいるが 解決

ただ、商品企画部でのご利用となると、分析やレポーティング機能が物足りないと 感じられるのでないでしょう 。その当たり、なにか話しをされていました ? お客様: 言われてみれば、そうだなぁ。 まあ、あのとき時間も無くて、そこまで詳しく話さなかったからねぇ。 斎 藤: このままで、使い物にならないなんて、がっかりされるかもしれません。

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本章では、東京の都心をフィールドとしてとりあげ、都心エリアに単身者の生活に適したリソースが存在するのかどうかを検討する

本章では、東京の都心をフィールドとしてとりあげ、都心エリアに単身者の生活に適したリソースが存在するのかどうかを検討する

第一に、都心居住地特有の交通利便性を活かして、盛り場へのアクセスが容易になる。就労単 身者が平日や休日の夕食などに時々選択する④盛り場飲食店コミュニケーション型の食事形態で 、食事を取る目的に加えて友人・恋人などと会いコミュニケーションを取ることが重要な要素とな っている。そのため、単身者友人などの都合に合わせるために渋谷や新宿などのターミナル型 の大規模な盛り場を利用する傾向があり、それら往々にして自宅や職場から遠く離れた場所で あることが多い。しかし、都心に住むことによって、地下鉄やタクシーなどを利用し、郊外に居住す るより各盛り場へのアクセスが容易になる。そのことによって、この食事形態選択時の時間的、場 所選択的な側面において、自由度が広がると考えられる。
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デカルト哲学における《Ego Sum.》 (私は存在する) について

デカルト哲学における《Ego Sum.》 (私は存在する) について

づくものである。その客観的実在性神の観念の客観的実在性に由来するものである。  第二のもの、精神と身体とがそれによって絶対的に限界づけられる「何ものでも ないもの」 (現在の一点、しかし《 ens 》である)の存在の原因の探求である。この「何 ものでもないもの」一切の本質的なものが絶対的に限界づけられるところに、従っ て一切の本質的なものが脱落するところに見い出されたものであるから、この「何も のでもないもの」一切の本質を含まないものであり、勿論自分で自分を存在させる 力も持たないものであり、また両親や天使もすでに否定されているのであるからそれ らにも依存しないものである。従って必然的に存在する神によってのみ創造され保存 されることによって、この「何ものでもないもの」 (《 ens 》、被造物の本質的規定・限界) その存在を確保できるものである。精神や身体が落ちてあとに残ったこの「何もの でもないもの」の存在の原因、ただ実在する神である。即ち「なぜならば、生涯の 全時間、おのおののものが他のものに決して依存しない無数の部分に分かつことが できるので、少し前に存在したということから、今私が存在しなければならないとい うこと、他の原因が私をいわばこの瞬間に創造するのでなければ、つまり私を保存 するのでなければ、帰結しないのである。すなわち時間の本性に注目するならば、ど んなものでも持続している何らかの各瞬間において保存されるべきであるために、 仮に存在していない場合から新たに創造されるべきである場合とまったく同じ力と働 きを必要とすること明らかである。その結果、保存ただ方法( ratio )によって 創造から区別されること、自然の光によってまた明らかであることのうちの一つで ある。」 26 )
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心理学者は反応時間をどう分析するか

心理学者は反応時間をどう分析するか

代表値の分析 典型的な反応時間の分析,個人ごとの代表値を算出 したのちに,それらの代表値を使った統計的検定に向か うことが多い。しかし,反応時間データの場合に,こ こで考慮すべき事柄がある。それ,典型的な反応時間 の実験で,個人ごとに同一の条件について複数の試行 のデータが存在することである。このように実験を設計 することの理由として,反応時間という指標の不安定 さがある。ひとつに個人ごとの変動が大きいこと,さ らに,要求する課題によって誤答が発生することで ある。誤答試行の反応時間,通常,代表値の分析から 除外される。正答の場合と異なる心的過程を反映す るデータであると考えられるためである。で,ひとり につき,条件ごとに複数の反応時間データがある(しか も,誤答が存在する場合にその個数も異なる)といっ た状況からどのように分析を行うのだろう。反応時間 の実験を行ったことのない人であれば戸惑うの無理も ないだろう。こんなとき,多くの心理学者先輩あるい 教師として,これら“同じ”条件の試行を平均して代 表値を計算すればよいのだと教示しているのでないだ ろう。確かに,一般的にそのような分析方法が用い られている。しかし,そのような方法に疑問の余地が ある。
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ヘブライ語聖書に、なぜユーモアが存在するのか?

ヘブライ語聖書に、なぜユーモアが存在するのか?

,彼女が身籠ったとの報せを受けます。その子が彼のものであること明白 でした。彼何とか理屈をつけて彼女の夫ウリヤを戦場から連れ戻し,御馳走 をふるまい,彼を妻の待つ家へ帰らせます。ダビデの目論見勿論ウリヤが妻 と寝て,それによって妊娠問題を解決してくれることにありました。ダビデに とって恐怖となり,そして多分万事を監視してそれをダビデに細大漏らさ ず報告していた宮廷雀にとって愉快な見物となったと思われますが,なんと ウリヤ帰宅せず,主君の家臣達と共に眠ったのです。何故〔帰宅しなかった の〕説明するようダビデに求められた時,ウリヤ一見単なる忠実な兵士と して話しているように見えます。「私の仲間達戦場で戦っているのに,どう して私だけが自宅の安楽を求めたり出来るでしょう?」と 13 。しかし,彼 本当にただの戦士なのでしょう。ウリヤが彼の言葉の最後に「おまけに,私 の妻と寝る,などということが」 14 と付け加えた時,ダビデ何を感じたので しょう。ウリヤ何が進行中知っていて,ダビデの駆け引きに乗ることを きっぱりと拒絶しているのでしょう。あるいは彼本当に何も知っておら ず,戦友達への高度に発達した義務感を持つ騙されやすい兵士に過ぎないので しょう。ダビデに知ることが出来ないし,私達読者にも知る術ありませ ん。なりふり構わぬダビデウリヤをもう一晩留め,彼を酔わせ,再び家に帰 らせます。しかし酒を飲もうと飲むまいと,ウリヤ今度もまた主君の家臣達 と共に眠りました。今やダビデ他に選択肢がなくなり,ウリヤが知っていよ うといるまいと,別の解決が必要とされました。そして悲劇的なことに,ダビ デ〔彼を〕不法に殺すという選択をします。さらなるアイロニーとして,ウ リヤ自らの運命を記した封書を,彼の死を巧みに工作することになる軍の司 令官ヨアブへと届けるのです。この話が実際〔の本文で〕物語られる手法単 純でも,中立的でも,客観的記述でもありません。ウリヤの不可解な振る舞い によって高じるダビデのフラストレーションの詳述の中に紛れも無くユー
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